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第参章 風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず
参之陸
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※※※
山の上には入道雲。
燦々した日差しも弱まり、カナカナと蜩の鳴く境内では活気溢れる怒声が二つ響いていた。
刀を振るうタキを相手に朧は素手で立ち向かう。この手合わせの光景はここ最近、夕刻の日常となりつつあった。季音は蘢と境内の石段に腰掛けて、その様子を傍観していた。
「気温も高いのによくやりますよ……毎日毎日」
──見てて暑苦しくて堪ったもんじゃないですよ。なんて付け添えて。蘢は赤々とした目を細めた。確かに蘢の言う通りだろう。飽きもせず毎日毎日チャンバラごっこをこうして繰り返しているのだ。
「ですね、よく飽きないですね……」
手扇子で熱気を払いながら季音が切り返す。すると、『騒がしいのは迷惑だが、賑やかな事は悪くない』と、蘢が目を細めたまま口角を緩めるのだから、季音も笑みを浮かべて手合わせする二匹の方に再度視線を向けた。
……多分あの宴会の後からだろう。朧とタキはすっかり意気投合して仲良くなった。
妖同士という事もあるが、きっと根本的な性質が似ている部分もあるからこそ、仲良くなったのだと憶測は容易い。
しかし、何故に手合わせなのだろう……と不思議に思った。だが、蘢が『多分タキ殿も脳みそは筋肉』なんて言うものだから、これには妙に納得してしまった。
負かされた事が余程悔しかったのだろう。そんな憶測は出来る。タキの性格を考えると、この手合わせはきっとタキから持ちかけたのだろうと推測は容易い。
しかし、こうも急激にタキと朧が仲良くなるなんて思ってもいなかったものだ。大親友を取られてしまったような気がして季音はほんの少し寂しい気はした。
しかし、それは言えたようなものではない。
夫婦になる事を合意してからは、自分は龍志の傍に居る事が圧倒的に多いのだ。自分の事を棚に上げてしまう……だから、そんな事は言えたものではなかった。
ましてや自分が人間だった事を含めて季音は彼女に一切語っていなかった。それを話したところでこの関係がぎくしゃくとしてしまう事が怖かったのだ。
しかし、タキがこの社に来てから心に広い距離が生じたなんて思えやしなかった。まるで何事も無かったかのように、彼女とは今まで通りなのだから。
そんな物思いに更け入っている時だった。
「おい。おキネ」
突然、タキに呼ばれた事に吃驚してしまい、季音は裏返った返事をする。
──もう今日のチャンバラは終わったのだろうか。
彼女はすっかり刀をしまい、手ぬぐいで汗を拭いながら季音の方に歩み寄ってきた。
「何だよ、嗜虐癖の事でも考えてたのか」
「え?」
嗜虐癖──それが龍志を示すしていると分かり、季音は目を丸く瞠った。
すると、タキは露草色の瞳をジトリと細めて一つ溜息を吐き出した後──。
「……馬鹿。お前は顔に出やすすぎて分かるわ」
なんて、フンと鼻を鳴らして突っ撥ねた。
「なぁに、呼んだりして」
否定も肯定もせず、季音は平然を装って訊き返した。先程まで汗が滲む程に暑かったが一瞬にして背筋が冷たくなった気がした。何もかも見通しているのだろうか。そんな気がしてしまい、彼女をジッと見つめていればタキはまた一つ大きな溜息を溢した。
「何だかお前が寂しそうな顔をしてたから止めにした。そんで声かけた」
──少し裏で話しないか? と、付け足したと同時にタキは袖を掴んで季音を無理矢理立ち上がらせた。
「お、おタキちゃん……?」
あまりに急展開だ。それも、寂しい顔だなんて……。自分がどんな顔でタキを見ていたかなんて分からないが、龍志の事を出した時点で何か嫌な予感さえもした。
思わず助け船を求めるように蘢に視線を送るが、彼は我関せずといった具合に自分の方に視線など向けてはいかなかった。そういえば、そういう神獣だった──彼はかなりの人見知りだ。未だ彼とタキの間には心の距離感はきっとあるのだろう
季音はそのままズルズルと、境内の裏手側へと連れて行かれた。
裏戸に伸びる石段の上にどかりと腰掛けて、タキは季音の方にジッと視線を向ける。
きっと、自分が言わなかった事を全て吐かされるのだろうか……そんな風に思って、思わず俯いてしまうとタキは優しい声で季音の名を呼んだ。
「なぁ、今日あいつ夕飯何にするって言ってたか?」
思いがけない質問だった。季音は顔を上げるも吃驚してしまい、唇をあわあわと動かした。
「え、ああ……え。畑でお茄子をとってたからお茄子の料理じゃないかしら」
ふと龍志が早朝に畑で茄子の収穫をしていた事を思い出してそんな事を言うと、たちまちタキは唇を尖らせる。
「おキネ。お前、魚が食いたいとか言ってこいよ」
「え……え、え」
宴会の席で出されてから焼き魚が余程気に入ったのだろうか。まるで子供のように催促するものだから、季音は眉根を下げて困却すれば、タキは噴き出すように笑い始めた。
「冗談だ。出されたものは何だって食う。約束したしな」
悔しいが、あいつの出す飯は何だって旨いから……なんて言って、彼女はまるで少年のような無邪気な笑顔を咲かせた。とりあえず、他愛も無い普段通りの会話でよかったなんて思えてしまった。安堵に季音が旨を撫で下ろした途端だった。
「さておき、おキネ。お前、あいつの事が好きか?」
それを問いかけた口調は、先程とは変わらない平坦なものだった。彼女の言った言葉を頭で確と認識して季音は息を飲む。
──返答次第では怒らせてしまうかもしれない。絶縁されてしまうかも知れない。真実を話せば、確実に嫌われてしまうかも知れない。そんな恐怖心に季音の身はたちまち戦慄いた。
「素直に言え」
少しばかり棘のある言い方だった。もはやそれは示唆とも受け取れる程──季音はタキの方を向くと彼女は青く萌える露草色の瞳で鋭く季音を射貫いていた。
それだけで背筋が凍り付いた。だが、ここまで責められれば事実を言わねばいけないだろう。
「……龍志様が好きよ」
幾拍か置いて出した答えは震えあがっていた。だが、それを聞いていたタキがたちまち肩を震わせるものだから、本当に怒っているのだと理解した。
当たり前だろう。あってはいけない事なのだから。叱責させる事を覚悟して身を竦めたと同時──タキの様子がおかしいと季音は悟る。僅かに彼女が口角を緩めたかと思えば、いきなり口元を手で覆い、変な笑い声を漏らし始めたのだから。季音は目を点にしてしまった。
「……お、おタキちゃん?」
「ばーか! 見りゃ分かるわそんなん!」
「……怒らないの?」
思わず訊けば、彼女は更に『馬鹿』と突っ撥ねた。
「別に。まずお前らが沢で乳繰り合ってるの見てたし」
「ち、ちちくりあう……」
つまりイチャイチャとふざけていたと。季音は顔を真っ赤にして自分の頬に両手を当てた。
「あと、朧の横流し情報でな」
いったい何を吹き込まれたのか気になってしまうが……蘢の式神契約の件といい、朧の性質を考えると大袈裟に盛った事を言われていそうな気がして仕方ない。
季音は更にぽっと顔を赤く染めると、タキは季音の袖を引っ張り、隣に座るように促した。
「寧ろ、襖を隔てて隣で半年も一緒に居て何も起きない方がおかしいからな。べつにおまえが幸せならそれでいいや。あいつ人にしちゃかなり特殊だし……まぁお前の趣味、良いとは言えないけどな」
思いがけない言葉だった。どこか嬉しく感じてしまうもので、季音は頷き、彼のお陰で自分が人だった手がかりは掴んだ事を彼女に話した。
……会いたかった人は龍志だった。と、その件も告げたが、彼女の反応はとても穏やかなものだった。だが、つい先程のタキの発言に時差式の引っ掛かりを季音は感じてしまった。
「そうだ。待ってよおタキちゃん。私さらっと受け流しちゃったけど、おタキちゃんは襖も何も無い場所じゃない……」
「は?」
タキは眉根に深く皺を寄せて、気の抜けた声を出す。
「朧様や蘢様の事ですが……特に朧様、だって同じ空間で寝てるじゃない」
──それに最近じゃとっても仲良し。と、思ったままを言えば、たちまちタキは唇を震わせて牙が見える程に大口を開けた。
「ば、馬鹿! 蘢はまずねぇわ、あんな貧弱高飛車神獣!」
いくら何でもあまりに酷い言いようではないだろうか。少しばかり、蘢がいたたまれなくなってしまう。それどころか、こんな大声で言ったら境内の表に居る蘢に確実に聞こえてしまうだろう。季音はこんな盛大な悪口が蘢に届いてないかと妙に心配になってしまった。
「──っ。お、朧に関してもなぁ。あいつはただの飲み仲間だ! 同じ妖とは言え種族違うし、強いからこそ尊敬する。それに、おれは頬傷の事なんて気にしてないって何度も言ってるのに、あいつしつこく謝るし! そういう面倒見の良さは……その。おれは、嫌いじゃ無いが」
怒っているのだろうか。タキは随分と早口なだった。だが、語尾に向かう程、彼女の頬がほんのりと薄紅に染まる様を見て季音は驚嘆してしまった。
その面はあまりにも新鮮だったのだから。否や、凜々しい彼女がこんな乙女のような顔を見せた事など、自分の記憶の中ではきっと一度もないだろう。
「え、もしかして、おタキちゃん、朧様が好きな……の?」
思った事をそのまま告げると、彼女はたちまち顔を赤々と染めた。
これは間違いなく図星なのだろう。否や無自覚か。そんな風に思ったと同時、季音の頭にタキのげんこつが落ちてきた。
「痛った!」
別に殴る事ないじゃないか。と季音は視線だけで訴える。だが、未だ彼女は今にも泣きそうな面で拳を握り締めたままプルプルと震えていた。
「──っ! いいか、ああいうのは決まって、乳と尻が出てる背が高い妖艶な雌鬼が守備範囲だ。見てみろ、おれのこの貧相な胸と尻を。というか、おれとあいつは異種! つがいになんか……!」
タキが啖呵を切るように言い切った直後だった。
「俺の趣味かぁ? 貧乳でも尻が出て無くとも、異種族でも一向に構わねぇがな。まぁ、強いて言うなら旨い酒を飲める事が絶対条件で気が合えば良い。それで抱き心地が良さそうなら最高だな」
途端に社の横手から声が響く。タキは『い』に濁点を付けたような濁った短い悲鳴を上げた。
「……なんか僕に対する物凄い暴言聞こえた気がしましたけど」
案の定、蘢と朧だった。彼らは裏手の石段に腰掛けたタキと季音の方へと近付いてきた。
一匹はニヤけて、一匹は明らかに不服そうな顔をしている。
やはり聞こえていたのか。否や聞こえているだろうとは思っていた。蘢に対して何か弁解したいところだが、言ったら言ったで変に拗れてしまうと面倒だとさえ思えてしまう。季音は特に口を挟む事もなく眉根を下げて彼を見る事しか出来なかった。
「そうか~タキは俺が好きなのか。ま、俺の条件には完全に合致してるから、つがいの候補にしてやろう」
──けどな、お前はもう少し肉付きを良くしろ、軽すぎ。なんて、大きな牙を覗かせて彼は優しく笑む。だが、タキは火が着きそうな程に顔を赤々と染めて──
「馬鹿! 酔っ払い! クソ鬼!」
と、金切り声にも等しい罵詈雑言を浴びせた。
その晩、季音はその日の出来事を龍志の手枕の上で話をした。
タキの真っ赤になった顔。朧の嬉しそうな笑顔。ずっとふて腐れていた蘢……そんな話に、彼は肩を震わせて大笑いした。
「騒がしいと思ったらそんな事があったのか。やー見たかった。蘢は気の毒だったな」
まぁ、あいつの機嫌取るのは俺の得意分野だし、大丈夫だろう。なんて笑って、彼は季音の髪を梳くように撫でた。
「でもお前は本当に良い友を持ったな、お前を取り戻そうと命までかけてくれた。そこまで友に思われるなんて、人であれ妖であれ滅多にあるものじゃ無いだろう。こういう出会いって何っていうか分かるか?」
「……運命ですか?」
漠然と出た答えを季音は答える。だが、彼は『そうとも言えるだろうが』と口を挟んだ。
髪を撫でられる心地良さに、段々と眠気さえ漂ってきた。季音はふわふわと『何ですか』と尋ねると、彼は緩やかに唇を綻ばせた。
「奇跡だ」
「奇跡……」
「そう。自然法則さえ超えたもの、神がかりな幸運だ。そうとしか形容出来ないだろう」
「……私、きっとこの世で一番幸せな狐かも知れない」
その言葉だけで堪らなく幸せだと思えてしまった。季音は瞼を伏せて微笑んだ。
「必ずしもあるものではない、大事にしろ。さぁもう、寝よう夜も更ける」
そう言って龍志は季音の耳に唇を落としてた後、裸火を吹き消した。
山の上には入道雲。
燦々した日差しも弱まり、カナカナと蜩の鳴く境内では活気溢れる怒声が二つ響いていた。
刀を振るうタキを相手に朧は素手で立ち向かう。この手合わせの光景はここ最近、夕刻の日常となりつつあった。季音は蘢と境内の石段に腰掛けて、その様子を傍観していた。
「気温も高いのによくやりますよ……毎日毎日」
──見てて暑苦しくて堪ったもんじゃないですよ。なんて付け添えて。蘢は赤々とした目を細めた。確かに蘢の言う通りだろう。飽きもせず毎日毎日チャンバラごっこをこうして繰り返しているのだ。
「ですね、よく飽きないですね……」
手扇子で熱気を払いながら季音が切り返す。すると、『騒がしいのは迷惑だが、賑やかな事は悪くない』と、蘢が目を細めたまま口角を緩めるのだから、季音も笑みを浮かべて手合わせする二匹の方に再度視線を向けた。
……多分あの宴会の後からだろう。朧とタキはすっかり意気投合して仲良くなった。
妖同士という事もあるが、きっと根本的な性質が似ている部分もあるからこそ、仲良くなったのだと憶測は容易い。
しかし、何故に手合わせなのだろう……と不思議に思った。だが、蘢が『多分タキ殿も脳みそは筋肉』なんて言うものだから、これには妙に納得してしまった。
負かされた事が余程悔しかったのだろう。そんな憶測は出来る。タキの性格を考えると、この手合わせはきっとタキから持ちかけたのだろうと推測は容易い。
しかし、こうも急激にタキと朧が仲良くなるなんて思ってもいなかったものだ。大親友を取られてしまったような気がして季音はほんの少し寂しい気はした。
しかし、それは言えたようなものではない。
夫婦になる事を合意してからは、自分は龍志の傍に居る事が圧倒的に多いのだ。自分の事を棚に上げてしまう……だから、そんな事は言えたものではなかった。
ましてや自分が人間だった事を含めて季音は彼女に一切語っていなかった。それを話したところでこの関係がぎくしゃくとしてしまう事が怖かったのだ。
しかし、タキがこの社に来てから心に広い距離が生じたなんて思えやしなかった。まるで何事も無かったかのように、彼女とは今まで通りなのだから。
そんな物思いに更け入っている時だった。
「おい。おキネ」
突然、タキに呼ばれた事に吃驚してしまい、季音は裏返った返事をする。
──もう今日のチャンバラは終わったのだろうか。
彼女はすっかり刀をしまい、手ぬぐいで汗を拭いながら季音の方に歩み寄ってきた。
「何だよ、嗜虐癖の事でも考えてたのか」
「え?」
嗜虐癖──それが龍志を示すしていると分かり、季音は目を丸く瞠った。
すると、タキは露草色の瞳をジトリと細めて一つ溜息を吐き出した後──。
「……馬鹿。お前は顔に出やすすぎて分かるわ」
なんて、フンと鼻を鳴らして突っ撥ねた。
「なぁに、呼んだりして」
否定も肯定もせず、季音は平然を装って訊き返した。先程まで汗が滲む程に暑かったが一瞬にして背筋が冷たくなった気がした。何もかも見通しているのだろうか。そんな気がしてしまい、彼女をジッと見つめていればタキはまた一つ大きな溜息を溢した。
「何だかお前が寂しそうな顔をしてたから止めにした。そんで声かけた」
──少し裏で話しないか? と、付け足したと同時にタキは袖を掴んで季音を無理矢理立ち上がらせた。
「お、おタキちゃん……?」
あまりに急展開だ。それも、寂しい顔だなんて……。自分がどんな顔でタキを見ていたかなんて分からないが、龍志の事を出した時点で何か嫌な予感さえもした。
思わず助け船を求めるように蘢に視線を送るが、彼は我関せずといった具合に自分の方に視線など向けてはいかなかった。そういえば、そういう神獣だった──彼はかなりの人見知りだ。未だ彼とタキの間には心の距離感はきっとあるのだろう
季音はそのままズルズルと、境内の裏手側へと連れて行かれた。
裏戸に伸びる石段の上にどかりと腰掛けて、タキは季音の方にジッと視線を向ける。
きっと、自分が言わなかった事を全て吐かされるのだろうか……そんな風に思って、思わず俯いてしまうとタキは優しい声で季音の名を呼んだ。
「なぁ、今日あいつ夕飯何にするって言ってたか?」
思いがけない質問だった。季音は顔を上げるも吃驚してしまい、唇をあわあわと動かした。
「え、ああ……え。畑でお茄子をとってたからお茄子の料理じゃないかしら」
ふと龍志が早朝に畑で茄子の収穫をしていた事を思い出してそんな事を言うと、たちまちタキは唇を尖らせる。
「おキネ。お前、魚が食いたいとか言ってこいよ」
「え……え、え」
宴会の席で出されてから焼き魚が余程気に入ったのだろうか。まるで子供のように催促するものだから、季音は眉根を下げて困却すれば、タキは噴き出すように笑い始めた。
「冗談だ。出されたものは何だって食う。約束したしな」
悔しいが、あいつの出す飯は何だって旨いから……なんて言って、彼女はまるで少年のような無邪気な笑顔を咲かせた。とりあえず、他愛も無い普段通りの会話でよかったなんて思えてしまった。安堵に季音が旨を撫で下ろした途端だった。
「さておき、おキネ。お前、あいつの事が好きか?」
それを問いかけた口調は、先程とは変わらない平坦なものだった。彼女の言った言葉を頭で確と認識して季音は息を飲む。
──返答次第では怒らせてしまうかもしれない。絶縁されてしまうかも知れない。真実を話せば、確実に嫌われてしまうかも知れない。そんな恐怖心に季音の身はたちまち戦慄いた。
「素直に言え」
少しばかり棘のある言い方だった。もはやそれは示唆とも受け取れる程──季音はタキの方を向くと彼女は青く萌える露草色の瞳で鋭く季音を射貫いていた。
それだけで背筋が凍り付いた。だが、ここまで責められれば事実を言わねばいけないだろう。
「……龍志様が好きよ」
幾拍か置いて出した答えは震えあがっていた。だが、それを聞いていたタキがたちまち肩を震わせるものだから、本当に怒っているのだと理解した。
当たり前だろう。あってはいけない事なのだから。叱責させる事を覚悟して身を竦めたと同時──タキの様子がおかしいと季音は悟る。僅かに彼女が口角を緩めたかと思えば、いきなり口元を手で覆い、変な笑い声を漏らし始めたのだから。季音は目を点にしてしまった。
「……お、おタキちゃん?」
「ばーか! 見りゃ分かるわそんなん!」
「……怒らないの?」
思わず訊けば、彼女は更に『馬鹿』と突っ撥ねた。
「別に。まずお前らが沢で乳繰り合ってるの見てたし」
「ち、ちちくりあう……」
つまりイチャイチャとふざけていたと。季音は顔を真っ赤にして自分の頬に両手を当てた。
「あと、朧の横流し情報でな」
いったい何を吹き込まれたのか気になってしまうが……蘢の式神契約の件といい、朧の性質を考えると大袈裟に盛った事を言われていそうな気がして仕方ない。
季音は更にぽっと顔を赤く染めると、タキは季音の袖を引っ張り、隣に座るように促した。
「寧ろ、襖を隔てて隣で半年も一緒に居て何も起きない方がおかしいからな。べつにおまえが幸せならそれでいいや。あいつ人にしちゃかなり特殊だし……まぁお前の趣味、良いとは言えないけどな」
思いがけない言葉だった。どこか嬉しく感じてしまうもので、季音は頷き、彼のお陰で自分が人だった手がかりは掴んだ事を彼女に話した。
……会いたかった人は龍志だった。と、その件も告げたが、彼女の反応はとても穏やかなものだった。だが、つい先程のタキの発言に時差式の引っ掛かりを季音は感じてしまった。
「そうだ。待ってよおタキちゃん。私さらっと受け流しちゃったけど、おタキちゃんは襖も何も無い場所じゃない……」
「は?」
タキは眉根に深く皺を寄せて、気の抜けた声を出す。
「朧様や蘢様の事ですが……特に朧様、だって同じ空間で寝てるじゃない」
──それに最近じゃとっても仲良し。と、思ったままを言えば、たちまちタキは唇を震わせて牙が見える程に大口を開けた。
「ば、馬鹿! 蘢はまずねぇわ、あんな貧弱高飛車神獣!」
いくら何でもあまりに酷い言いようではないだろうか。少しばかり、蘢がいたたまれなくなってしまう。それどころか、こんな大声で言ったら境内の表に居る蘢に確実に聞こえてしまうだろう。季音はこんな盛大な悪口が蘢に届いてないかと妙に心配になってしまった。
「──っ。お、朧に関してもなぁ。あいつはただの飲み仲間だ! 同じ妖とは言え種族違うし、強いからこそ尊敬する。それに、おれは頬傷の事なんて気にしてないって何度も言ってるのに、あいつしつこく謝るし! そういう面倒見の良さは……その。おれは、嫌いじゃ無いが」
怒っているのだろうか。タキは随分と早口なだった。だが、語尾に向かう程、彼女の頬がほんのりと薄紅に染まる様を見て季音は驚嘆してしまった。
その面はあまりにも新鮮だったのだから。否や、凜々しい彼女がこんな乙女のような顔を見せた事など、自分の記憶の中ではきっと一度もないだろう。
「え、もしかして、おタキちゃん、朧様が好きな……の?」
思った事をそのまま告げると、彼女はたちまち顔を赤々と染めた。
これは間違いなく図星なのだろう。否や無自覚か。そんな風に思ったと同時、季音の頭にタキのげんこつが落ちてきた。
「痛った!」
別に殴る事ないじゃないか。と季音は視線だけで訴える。だが、未だ彼女は今にも泣きそうな面で拳を握り締めたままプルプルと震えていた。
「──っ! いいか、ああいうのは決まって、乳と尻が出てる背が高い妖艶な雌鬼が守備範囲だ。見てみろ、おれのこの貧相な胸と尻を。というか、おれとあいつは異種! つがいになんか……!」
タキが啖呵を切るように言い切った直後だった。
「俺の趣味かぁ? 貧乳でも尻が出て無くとも、異種族でも一向に構わねぇがな。まぁ、強いて言うなら旨い酒を飲める事が絶対条件で気が合えば良い。それで抱き心地が良さそうなら最高だな」
途端に社の横手から声が響く。タキは『い』に濁点を付けたような濁った短い悲鳴を上げた。
「……なんか僕に対する物凄い暴言聞こえた気がしましたけど」
案の定、蘢と朧だった。彼らは裏手の石段に腰掛けたタキと季音の方へと近付いてきた。
一匹はニヤけて、一匹は明らかに不服そうな顔をしている。
やはり聞こえていたのか。否や聞こえているだろうとは思っていた。蘢に対して何か弁解したいところだが、言ったら言ったで変に拗れてしまうと面倒だとさえ思えてしまう。季音は特に口を挟む事もなく眉根を下げて彼を見る事しか出来なかった。
「そうか~タキは俺が好きなのか。ま、俺の条件には完全に合致してるから、つがいの候補にしてやろう」
──けどな、お前はもう少し肉付きを良くしろ、軽すぎ。なんて、大きな牙を覗かせて彼は優しく笑む。だが、タキは火が着きそうな程に顔を赤々と染めて──
「馬鹿! 酔っ払い! クソ鬼!」
と、金切り声にも等しい罵詈雑言を浴びせた。
その晩、季音はその日の出来事を龍志の手枕の上で話をした。
タキの真っ赤になった顔。朧の嬉しそうな笑顔。ずっとふて腐れていた蘢……そんな話に、彼は肩を震わせて大笑いした。
「騒がしいと思ったらそんな事があったのか。やー見たかった。蘢は気の毒だったな」
まぁ、あいつの機嫌取るのは俺の得意分野だし、大丈夫だろう。なんて笑って、彼は季音の髪を梳くように撫でた。
「でもお前は本当に良い友を持ったな、お前を取り戻そうと命までかけてくれた。そこまで友に思われるなんて、人であれ妖であれ滅多にあるものじゃ無いだろう。こういう出会いって何っていうか分かるか?」
「……運命ですか?」
漠然と出た答えを季音は答える。だが、彼は『そうとも言えるだろうが』と口を挟んだ。
髪を撫でられる心地良さに、段々と眠気さえ漂ってきた。季音はふわふわと『何ですか』と尋ねると、彼は緩やかに唇を綻ばせた。
「奇跡だ」
「奇跡……」
「そう。自然法則さえ超えたもの、神がかりな幸運だ。そうとしか形容出来ないだろう」
「……私、きっとこの世で一番幸せな狐かも知れない」
その言葉だけで堪らなく幸せだと思えてしまった。季音は瞼を伏せて微笑んだ。
「必ずしもあるものではない、大事にしろ。さぁもう、寝よう夜も更ける」
そう言って龍志は季音の耳に唇を落としてた後、裸火を吹き消した。
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「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
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田沢みん
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