廻り捲りし戀華の暦

日蔭 スミレ

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第弍章 闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる

弍之漆

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 ──怪我は無いか。と、覆い被さる龍志に訊かれて季音は無言で頷いた。 
 全くもって無傷だ。確かに吃驚はしたが、咄嗟に龍志が庇ってくれたお陰で刃に当たる事も無かった。寧ろ、よく分かったものだと彼の俊敏さに驚嘆してしまった。
 しかし、季音だって妖気は分かるものだ。それなのに、声を聞くまでタキの気配など微塵も感じもしなかった。それどころか沢に降りて来た時点で妖の気配など一切感じなかったもので今更のように季音は不審に思った。

「妖の気配もしなかった。おタキちゃんの匂いも感じなかったわ……どうして」

「多分天候だ。晴れたとは言え湿気が多い所為もあるだろな。水辺という事も少なからずある。簡単な事だ。妖気を消して上手い事隠れていたのだろう。沢のせせらぎで足音は充分に掻き消せる、風向きを上手く利用したな」

 ──なかなか頭が切れるものだ……なんて付け添えて、龍志は緩やかに季音から身を離した。

「多分、相手は瞬発的に妖術を使った。だから刀はどこから飛んで来たかは分からんが声のした方角から察するに対岸だ」

「対岸……」

 季音は戦慄く身体を緩やかに起こし上げて、静謐に包まれた暗闇の向こうを見た。
 同時に対岸で何かが動いた──そう思ったのも束の間、ザッと黒い塊が迅速に攻め寄せてきたのだ。
 それと同時だった。龍志は空間に何かを描くよう……否や切るように手をサッと動かした。すると、瞬く間に自分達を覆うように白銀の糸を這わせたような防壁が現れた。

 その向こう側には刀を構えて険しい面で睨むタキの姿がある。
 肩口を大きく露出して着物を着崩す姿はいつも通りの装いではあるが、それが以前よりも勇ましく思えてしまった。華奢で細い体躯ではあるが、怒りで毛髪や尾の毛を逆毛立ててる事もあって、彼女の体躯が幾分か大きく見えてしまう。

「馬鹿キネ。お前、一番関わっちゃいけない相手に関わっちまったな。おれも間近で人に接触しちまった。もう山に帰れない、永久追放だ」

 ──どうしてくれる。と、タキは低くがなった。

「ごめんなさい。だけど、どうして……」

「馬鹿な事を訊くな。お前は唯一無二のダチに違いねぇ。お前の居場所は分かってた。命をかけてでも助けに来たに決まってるだろ!」

 言われた言葉に季音はハッと口元を覆う。思いがけもしなかった。きっと自分の事は諦めたに違いないと少なからず思っていたのだから。
 そこまで思ってくれた事は素直に嬉しいとは思えてしまった。だが、彼女が今まさに攻撃対象に睨み付けている龍志だって季音からすれば恩人には違いない。
 このままではまずいだろう。あまりにも誤解が深すぎる無益な争いになってしまう……だが、全ては自分が蒔いた種だからこそ責任が重い。

「この人も、私の恩人よ。崖から転落して大怪我を負って動けないでいたところを助けてくれたの。私は保護されてるだけよ」

 ありのままの事実を季音が述べるが、タキは直ぐに首を横に振った。

「信じられるか。それは人の雄だ。お前が妖気も扱えない事を良いことに慰みか見世物にするのは目の見えて分かってる。騙されるな」

 ──そんな事は無い。と、季音が反論しようとした矢先だった。

「話には聞いてたが、本当に狸らしくないな。いくら何でも血の気が多すぎだろ」

 呆れた調子で龍志はさらりと言った。
 対してタキは『人にしては良い褒め言葉を言うじゃねぇか』としれっとした調子で切り返す。

「別に褒めた訳ではないが……頭は切れだろうし、刀を飛ばす妖術もなかなかのものだな。だが、お前は少しばかり人にしちゃいけない事をやらかしたのは事実だ」

 言って龍志は白銀の糸の防壁を瞬時に裁ち切り、タキの前へと歩み寄った。

「人に害をなす妖にはきつい仕置きが必要だ。お前はどうやら話を聞きそうにないからな。お前、俺を殺す気で来ただろ。闘争を望むようだからそれに乗ってやろう」

「人の割に話が分かるじゃねぇか」

 タキは釣り上がった大きな瞳を更に釣り上げて、龍志を睨み付けた。

「龍志様!」

 ダメだと季音は叫ぶ。だが、彼は振り返る事もなく手だけを向けた。すると瞬く間に足下から白銀の縄が蛇のように季音の身に絡みつき始めた。
 別に痛くもないが、こそばゆくて仕方ない。やがて、這い寄る縄は両手首を拘束すると蠢きが止まった。

「おい……雌の獣を縄で縛り付けるって神の力の使い方は随分悪趣味だな」

 タキは反吐を吐き出すように告げると、龍志は後方の季音を僅かに視線を向けて一つ溜息を吐き出した。

「ただの拘束型の結界だ。対象が狐の雌ってだけで思ったより視覚的に淫靡だったが……ただの人と何ら変わらぬ奴が飛び入れば確実に死ぬ事など目に見えているだろ」

 世間話をするように龍志はさらりと告げたと同時、タキは龍志に向かって刀を突きつけた。

「それが最期の言葉か。他に言い残す事は無いか?」

 今までに見せた事も無い程の凄みだった。牙を剥き出して、瞳孔を絞り上げたタキの瞳はあまりに冷めたい事は暗闇の中でもよく分かった。
 争ってはいけない──それを口にしたいが、言葉は不思議と出てこない。きっと、それもこの拘束の所為だろうか。季音はもどかしさに唇を噛みしめた。

「馬鹿を言え、お前は俺の話を聞かなかったか? これから俺がやるのは人に害をなした妖に一方的に仕置きをするだけだ」

「阿呆が。ひ弱な人如き八つ裂きにしてやる」

 刀を構え直したもタキは、今まさに龍志に斬りかかろうとした矢先だった──彼は懐から呪符を二枚取り出して、早口で尊厳な言の葉を詠う。
 瞬く間に周囲に朱色の煙が漂い、タキと彼の合間を割って二匹の式神が緩やかに姿を現した。

「は?」

 煙が晴れた途端に、気の抜けた声を発したのはタキだった。
 逆毛立った毛髪も尾も一瞬にして萎み、タキは一歩二歩と後ずさりをする。

「どうした?」

「どうしたじゃねぇだろ。汚ねぇだろお前! 鬼もそうだが、神獣なんぞ狸如きの妖が叶う訳ねぇだろ馬鹿か! まず三対一っておかしいだろ!」

「お前はと言っただろ、俺をと言っただろ。お前が本気を出すなら俺も神通力全開で式神を二体呼び寄せただけだが……それに汚いもクソもあるか?」

 龍志は小首を傾げて問う。だが、その唇は明らかな嗜虐が含んでおり、明らかな優勢に立てた事に確実に悦に入っている事は窺えた。

 ただそれだけで季音はどこか安堵してしまった。
 間違いなく龍志は本気ではない。ただ単純に灸を据えるだけであって、殺す気は更々無いことが容易に伺う事が出来た。ならば、タキの気が晴れるまで傍観する他ないだろう。季音はただじっと三匹と一人のやりとりを眺め始めた。

「おい、龍。この状況は何だ。まず、なぜに狐の嬢ちゃんにあんな変態的な拘束をした」

 呼び出されて早々に状況が掴めていないのだろう。朧は季音に向かって指を向けた。
 変態的──自分の姿が今どのような姿かは分からない。だが、ぱっと目の合った蘢が目をかっ開いて口を開いたかと思えば慌てて視線を反らすものだから、季音はたちまち羞恥に追いやられて顔を赤々と染めた。

「ああ、飛び入ったら死ぬだろうからとりあえず縛っておいた」

「……どこから突っ込んでいいか分からないが。それで、こんな小せぇ狸を相手に三対一でやり合う気なのか? それは流石に鬼か変態としか言えないだろ」

「主殿の指示なら仕方あるまいが、気は進まぬな……」

 朧は嘆き、蘢もジットリと目を細めて落胆の溜息を溢していた。
 やはり二匹も気が気ではないそうだ。だが、龍志は即座に首を横に振るう。

「馬鹿を言え! この武士もののふもどきの狸のお嬢は人の俺に危害を与えた。その上、全力の闘争を望んでいるのだから、漢なら手加減無しで”もてなし”をしてやる事が礼儀じゃねぇのか? だからお前ら二体纏めて呼び出たのだが」

 なんて龍志は随分とさっぱりとした口調で切り返す。

「で、やるのか? やらないのか? 流石に怖じ気づいたのか?」

 ──狸は臆病と言うしな。なんて火に油を注ぐような盛大な煽りを入れて、龍志はタキを見下ろして唇に綺麗な弧を描く。
 その煽りが効いたのだろう。タキは再び毛を膨らませて牙を剥き出した。

「やるに決まってるだろ!」

 もはや完全に投げやりでヤケクソのようにさえ思えてしまう程。タキの掠れたがなりが夜の更けた森にキンキンと響き渡った。
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