廻り捲りし戀華の暦

日蔭 スミレ

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第弍章 闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる

弍之伍

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 修繕作業終了から早い事、一週間以上が過ぎ去った。
 梅雨真っ只中──飽きもせずに雨は連日ジトジトと降り続けていた。希に晴れ間もあるものだが、それは束の間。どんよりとした暗雲は幾度も現れ同じ天気を繰り返していた。

 梅雨も初めて経験する季節だった。こうも連日空模様が優れないだけで気分が滅入ってしまう……そんな風に思って、季音は雨空を見上げてほぅと一つ溜息を吐き出した。
 それにしても蒸し暑い。否や蒸し暑すぎるだろう。まして、麓の方角から蛙が喧しく鳴く声が昼夜問わずに響いており不快指数ばかり上がる一方だった。

「暑い……」

 梅雨到来から、季音は殆どこれしか言っていない。縁側で仰向けになった彼女は手扇子で自分を仰いで、ごろりと寝返りを打った。その都度、喧しい程に床が鳴るが、今の季音は床の音よりもこの蒸し暑さの方が気になって仕方なかった。
 だが、こうして寝返りを打てば、体温が移っていない僅かに冷たい場所に当たるもので……それが心地良くて季音は心地良さに目を細める。

 この湿気の所為で夜の寝付きは著しく悪かった。ましてやあの部屋は完全密室だ。湿気は籠もりに籠もって寛ぐ気なんか起きやしなかった。
 季音は瞼を伏せて度々寝返りを打つ。すると、徐々に身に纏わり付く不快は薄れ、自然と眠気が迫り来る。そのまま寝落ちする……その瀬戸際だった。

「……おい、こんな場所で寝るな」

 低く平らな声に促されて季は慌てて瞼を開いた。
 唇が触れあいそうな程の至近距離だった。そんな間近に龍志の顔がある。季音は『ひゃっ』と、悲鳴にも似た奇声を上げて目を白黒とさせた。

女子おなごだろ、行儀が悪い。あとな、そこで転がられたら床が鳴るから喧しくて仕方ない」

 釣り上がった黒曜石の瞳をジトリと目を細めて彼は言った。 
 呆れている反面で怒ってはいるのだろう。彼の眉が少しばかり釣り上がっている事からそれを悟り、季音の狐の耳はたちまち下方に落ちる。

「す、すみません……」

 平謝りしか出来なかった。だが、そんな様子が面白かったのだろうか。龍志の瞳にはたちまち嗜虐の色が差し込み彼は薄い唇に弧を描いた。

「暑い暑いって次そこで転がってたら、着物と襦袢じゅばんをひん剥いて俺の部屋で寝かせる恥ずかしい仕置きでもするか……お前の部屋より幾分か風通しも良いし、俺の目の保養にもなる」

「……な、な…っ」

 ──なんでそうなるのだろう。鬼だ。そんな風に思って季音は唇をあわあわと動かした。
 彼なら本当にやりかねないような気もするが内容が流石に危う過ぎる。冗談だろう……と、それを悟って、季音はジットリと藤色の瞳を細めて彼を射貫いた。
 そんな反応がさぞ面白かったのだろう。龍志はたちまち噴き出すように笑い始めた。
 だが、それだけで『やっぱり冗談だった』と季音が安堵した矢先だった。

「しかし、お前の部屋は風通しが悪いからな。夜も寝づらいようだし俺の部屋で寝るか?」

 今度はあっさりとした口調で龍志は言った。一方、季音はぽかんと口を開けてしまう。
 いつだか似た事を言われただろう。それでも、そのような事を言われる事には耐性は未だ微塵も無いもので季音は更に顔を赤々と染めた。

「さぁて添い寝だけで済むか……貞操の危機に身も冷えるな」

 彼の顔は真顔だった。ましてや、淡々とした調子だから今度は本気か嘘かも見抜けない。
 それに、未だ組み敷かれて顔を覗き込まれた体勢のまま。季音は目を白黒とさせて首をぶんぶんと横に振るう。

「だから、そんなにあからさまな拒否させると俺も流石に傷付く」

 わざとらしく妙に落ち込んだ声色で龍志は言った。そこでようやく季音は安堵した。
 やはり冗談だったのだろう。だが、未だその面が限りなく真顔に近いのだから、やはりどちらかは分からなかった。
 嫌な程に鼓動が高鳴ったままだった。これじゃあまるで、少し前に蘢の言ったように『雌として愛されている』と思ってしまう。

 けれど、そんな筈は無いだろうと季音は直ぐに思った。
 何せ、物事をはっきりと言う彼が直接的に言いやしないのだから……。
 そんな考えに至れば、次第に頬に昇った熱は緩やかに下がり始めるもので季音は彼の胸板を押して身を起こし上げた。

「龍志様、神に通じる力をお持ちですよね。一応は神様にお遣えする神職者ですよね……」

「だからなんだ」

 彼はしれっと即答した。
 しかし、こうも度々ちょっかいをかけようとも、そこに深い好意があるのかは季音は未だに分からない。そう思うと、少しだけ悲しい反面で苦しいとさえ思えてしまった。

「……龍志様は爛れてます。私の事を雌として見てくれているのは知ってますけど、別に──」

『私の事を好きではないし愛してはいない』なんて言葉は続ける事も出来なかった。
 そのまま季音が黙り込んで俯いてしまうと、彼は一つ息を溢した。

「輪廻する前から堪らなく愛しいと思ってる……なんて言っても信じてくれやしないだろうな」

 ぽつりと彼が溢した言葉に、俯いたままの季音はたちまち目を瞠る。

「どういう……」

 恐る恐る季音は顔を上げた。すると、目の前にしゃがみ込んだ彼は手を伸ばして季音の低く二つに結われた白々とした髪を掬い上げて毛先の接吻くちづけを落とした。

「どうもこうもない。俺は女としてお前が好きなだけだ。何か問題があるか?」

 そんな所作をしたにも関わらず、相変わらずにしれっとした調子だった。その面だって、先程と変わらず真顔で瞳には嗜虐の色も差していない。

 ────事実なのだろう。

 あまりに真面目な物言いに真実を悟ると、季音の頬には瞬く間に夥しい熱が攻め寄せた。
 しかし、それと同時に胸の奥に滞りを感じてしまい、熱は一瞬にして冷めてしまう。

 自分の前世は間違いなくただの狐だ。しかし、逃走を失敗した際に蘢の口から聞いて思い起こした龍志によく似た『詠龍』が輪廻前の彼だとすれば、彼は人に違いないだろう。
 人が獣を愛しいだなんて常識的におかしいだろう。と、率直に思ってしまった。
 そもそも、この場所にはありとあらゆる潜在的意識の断片が沢山散らばっていた。自分だって、それを手繰り寄せようとするのも何故か苦しいのだ。間違いなく彼に面識が間違いなくあるのだろうとはもう分かっている。ましてや先程の言葉で確信となった。
 だが、自ら記憶を手繰り寄せる事自体が禁忌のようにさえ思える節がある。

 蘢が詠龍の名を出しただけで彼は激怒したのだ。
 保護して貰っておいて関係に亀裂が入るのだって嫌だった。もう山に帰る事が出来ないと分かっているからこそ穏便に過ごしたいとは思っていた。季音はもどかしさに、懐にしまいこんだ簪をきゅっと握りしめた。

「信じる信じないはお前の勝手だがな」

 サラリとした口ぶりで告げて龍志は身を引いた。同時に髪を触っていた無骨な手が離れるが、それがどこか名残惜しげに映ってしまう。その所為だろうか。まるで呪いにでもかけられたかのように季音は微動たりとも出来なかった。
 何か言わないと流石に気まずい……と思うが返事は何も浮かばなかった。
 顔だってすっかり強ばってしまっている自覚はある。しかし、それは貼り付いたように剥がれやしない。季音はジッと彼を射貫くと、再び彼は無骨な手を伸ばした。
 彼の指が行き届いた先は季音の眉間だった。そこを突くと彼はニヤリと唇に弧を描く。

「阿呆が難しい事考えると不細工になるぞ」

 言われて、季音はきょとんとしてしまった。

「え?」

「あんぽんたんが難しい事考えると不細工になる」

 ──もっと酷くなっている。愚図で間抜けに自覚あるが阿呆もあんぽんたんもないだろう。

「ひどいです! 私は少しお間抜けなだけです!」

 思わず季音が捲し立ててしまうと龍志は噴き出すように笑い、たちまち破顔した。
 それから一頻り笑った後、彼は未だ肩をぷるぷると震わせながら季音の方を向く。

「……お間抜けは怒っても不細工になるから、もう笑っておけ」

 戻ってきた言葉はまたしても意地の悪いものだった。季音はむっと頬を膨らませて彼を睨むが、龍志は瞳を細めて今度は柔らかく笑んだ。

「話は変わるが、今夜は一時的に雨も止む。梅雨の晴れ間だし蛍でも見に出かけないか?」

 ──また夜遊びでもしようぜ。なんて僅かに狡猾に笑んで、彼は自室へ戻って行った。
 一人縁側に残された季音は、彼の部屋の方を見つめたまま一つ溜息を吐き出した。
 とんでもない意地悪を好きになってしまった、果たして彼の前世もこうだったのだろうか……と、季音一つ溜息を吐き出して、再び曇天を見上げた。
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