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第弍章 闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる
弍之参
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──時は、今より三百年以上も昔に遡る。
未だこの社に狗と獅子の護衛が居た時代、この社殿には豊穣の女神が奉られていた。
蘢の話によれば、女神は狐の姿をしたらしい。とても美しい白い毛並みに透き通った藤色の瞳を持つ麗しき獣だったそうだ。
だが、神の位を持つ者は実体が無い魂だけの存在だ。目に見る事が出来るのは、妖や神獣くらいで人はその姿を見る事が出来ない。亡霊を見る事が出来る霊媒師や陰陽師などでも神を見る事は出来ないものだった。
しかし、神という存在は荒神に墜ちてしまうと、まず実体を欲するもので人や獣に乗り移る事がある。この社の女神の場合は、神主に嫁いだ娘に取り憑いた。
娘の名は、藤香。それは、龍志の前世──藍生詠龍の妻だった。
輪廻転生。魂は巡り巡る。龍志がそれをはっきりと理解したのは、物心ついた時だった。
その頃から人には見える筈も無い者がはっきりと目に見えていたし、妖や霊獣と呼ばれる者達を目にする事も多く、話す事だって出来た。
龍志の生家は、山々に囲われた黒羽と呼ばれるこの地より南東に下った松川という地にある。
吉河神社と藍海院。神社と寺の二つが敷地内に在る神社仏閣──海に面した高台に位置するその寺社は松川の地では知る者は居ない程に名が知れていた。
その吉河神社の次男として龍志は生まれた。
追々は、宮司となる兄を支える為の禰宜に成る事が龍志として生まれた時からの宿命だった。だが、兄や父とは違い見えない筈のものが見えてしまう事や、意味の分からない過去の記憶が年々蘇り続ける事に自分が突飛もない異常者と彼は思った。
それが故に、十六歳に成った頃には彼は荒みに荒んでしまった。
社に居る事は希だった。堅苦しい禰宜の装束に袖を通した事は片手で数えられる程度。その粗暴な荒れぶりと言ったら、今思い返せば自分でも引く程──色情狂とでもいった具合に境内に参拝に訪れる女を引っかけ遊び惚けるのは日常茶飯事。街で歌舞伎者に売られた喧嘩は年中無休で買っていたものだった。
『由緒正しき吉河の恥』と父に怒鳴られ母を幾度泣かせたかも分からない。とんでもない、不良神職者だっただろう。
そんな非行を繰り返そうが、藍生詠龍の記憶は流れ込む事は止まらず、龍志は何もかもが馬鹿馬鹿しく思えて自棄に至った。だが、同時に考えた事は、自分が本当に陰陽師、藍生詠龍の生まれ変わりであるなら同じ事が出来るだろうと思えてしまったのだ。
そこで龍志は、手始めに近くの山に住む”オボロ”という鬼に決死の覚悟で喧嘩を売ってみた。
記憶の中の通りやっただけだ。それなのに、いとも簡単に神通力も使えてしまい、輪廻を認めざるを得なかったのだ。そうして式神の法則に則り、鬼に朧と名付けて彼を使役した。
時が経つにつれて更に、鮮明になり始めたのは詠龍の妻、藤香という女性の事だった。
──藤香は詠龍の遣える帝の娘だった。彼女は非常に病弱な娘だった。
薬師さえもさじを投げる程……薬で治らぬ病は妖や魑魅魍魎の仕業と言われていた時代だ。そうなれば陰陽師の出る幕となる。そうして詠龍は彼女の側近となった。それから間もなくして、帝に突然命じられたのは彼女との婚姻だった。だが、彼女の病は魑魅魍魎の仕業でもなくただの病。それでは手の施しようもなく、彼女の容態は悪化を辿り一方で、役に立たぬと詠龍はお役御免となり藤香と共に都を出た。向かった先は詠龍の生家、黒羽の藍生神社だった。
そこに二人で住まうようになり、その冬、藤香は荒神に身体を奪われたのである。
陰陽師は悪霊や妖専門だ。神との対峙などなど専門外だ。 神の魂を滅する事は不可能だった。よって、過去の自分──詠龍は藤香の身もろとも荒神を封じたのである。
だが、その悪夢のような白昼夢で龍志が改めて考え直した事は『己が輪廻した意味』だった。
ふと過ぎった憶測は、詠龍が施した封印が解ける事だった。
そして二年後、龍志は季音に出会ってしまったのである。
雪白毛並みに藤色の瞳──狐そのもの特徴で容姿こそは違うが、愛らしい顔立ちも可憐な声も愚図な性格も何もかもが記憶の中で見た藤香と一致した。
何よりもそれを確定したのは、過去の自分、詠龍が送った藤の細工の施された簪を彼女が持っていたからだった。
『私、幸せになりたい……もっと詠龍様と一緒に色んな季節の景色を見て歩きたい』
大怪我を負って床に伏せて眠る季音を見た途端に浮かんでしまったのは、病床に伏せた藤香がいつも言っていた言葉だった。
いずれ、彼女の内に潜む荒神は表に出てくるには違いない。無論、そうなった時にはなんとしてでも討たねばいけない──詠龍が出来なかった事を成し遂げ、過去の自分を越えるだけの事である。そう。だから季音を藤香として、命がけでも彼女を幸せにしようと思ったのだ。果たせなかった事を果たそうと、それがきっと己が輪廻した意味だと────。
「龍、おい。大丈夫か。顔色が悪いぞ」
近くからぼんやりと朧の声が聞こえて龍志はハッと目を瞠った。長い事考え込んでしまっていたのだろうか。朧は心底心配そうな顔で龍志を覗き込んでいた。
「本当に大丈夫か?」
言われて、龍志は一つ頷いて立ち上がった。
「顔色なんぞ二日酔いのお前より幾分もマシだろ」
いつもの調子で雑言を垂れて、龍志は蘢と季音の向かった本殿の方をぼんやりと眺めた。
未だこの社に狗と獅子の護衛が居た時代、この社殿には豊穣の女神が奉られていた。
蘢の話によれば、女神は狐の姿をしたらしい。とても美しい白い毛並みに透き通った藤色の瞳を持つ麗しき獣だったそうだ。
だが、神の位を持つ者は実体が無い魂だけの存在だ。目に見る事が出来るのは、妖や神獣くらいで人はその姿を見る事が出来ない。亡霊を見る事が出来る霊媒師や陰陽師などでも神を見る事は出来ないものだった。
しかし、神という存在は荒神に墜ちてしまうと、まず実体を欲するもので人や獣に乗り移る事がある。この社の女神の場合は、神主に嫁いだ娘に取り憑いた。
娘の名は、藤香。それは、龍志の前世──藍生詠龍の妻だった。
輪廻転生。魂は巡り巡る。龍志がそれをはっきりと理解したのは、物心ついた時だった。
その頃から人には見える筈も無い者がはっきりと目に見えていたし、妖や霊獣と呼ばれる者達を目にする事も多く、話す事だって出来た。
龍志の生家は、山々に囲われた黒羽と呼ばれるこの地より南東に下った松川という地にある。
吉河神社と藍海院。神社と寺の二つが敷地内に在る神社仏閣──海に面した高台に位置するその寺社は松川の地では知る者は居ない程に名が知れていた。
その吉河神社の次男として龍志は生まれた。
追々は、宮司となる兄を支える為の禰宜に成る事が龍志として生まれた時からの宿命だった。だが、兄や父とは違い見えない筈のものが見えてしまう事や、意味の分からない過去の記憶が年々蘇り続ける事に自分が突飛もない異常者と彼は思った。
それが故に、十六歳に成った頃には彼は荒みに荒んでしまった。
社に居る事は希だった。堅苦しい禰宜の装束に袖を通した事は片手で数えられる程度。その粗暴な荒れぶりと言ったら、今思い返せば自分でも引く程──色情狂とでもいった具合に境内に参拝に訪れる女を引っかけ遊び惚けるのは日常茶飯事。街で歌舞伎者に売られた喧嘩は年中無休で買っていたものだった。
『由緒正しき吉河の恥』と父に怒鳴られ母を幾度泣かせたかも分からない。とんでもない、不良神職者だっただろう。
そんな非行を繰り返そうが、藍生詠龍の記憶は流れ込む事は止まらず、龍志は何もかもが馬鹿馬鹿しく思えて自棄に至った。だが、同時に考えた事は、自分が本当に陰陽師、藍生詠龍の生まれ変わりであるなら同じ事が出来るだろうと思えてしまったのだ。
そこで龍志は、手始めに近くの山に住む”オボロ”という鬼に決死の覚悟で喧嘩を売ってみた。
記憶の中の通りやっただけだ。それなのに、いとも簡単に神通力も使えてしまい、輪廻を認めざるを得なかったのだ。そうして式神の法則に則り、鬼に朧と名付けて彼を使役した。
時が経つにつれて更に、鮮明になり始めたのは詠龍の妻、藤香という女性の事だった。
──藤香は詠龍の遣える帝の娘だった。彼女は非常に病弱な娘だった。
薬師さえもさじを投げる程……薬で治らぬ病は妖や魑魅魍魎の仕業と言われていた時代だ。そうなれば陰陽師の出る幕となる。そうして詠龍は彼女の側近となった。それから間もなくして、帝に突然命じられたのは彼女との婚姻だった。だが、彼女の病は魑魅魍魎の仕業でもなくただの病。それでは手の施しようもなく、彼女の容態は悪化を辿り一方で、役に立たぬと詠龍はお役御免となり藤香と共に都を出た。向かった先は詠龍の生家、黒羽の藍生神社だった。
そこに二人で住まうようになり、その冬、藤香は荒神に身体を奪われたのである。
陰陽師は悪霊や妖専門だ。神との対峙などなど専門外だ。 神の魂を滅する事は不可能だった。よって、過去の自分──詠龍は藤香の身もろとも荒神を封じたのである。
だが、その悪夢のような白昼夢で龍志が改めて考え直した事は『己が輪廻した意味』だった。
ふと過ぎった憶測は、詠龍が施した封印が解ける事だった。
そして二年後、龍志は季音に出会ってしまったのである。
雪白毛並みに藤色の瞳──狐そのもの特徴で容姿こそは違うが、愛らしい顔立ちも可憐な声も愚図な性格も何もかもが記憶の中で見た藤香と一致した。
何よりもそれを確定したのは、過去の自分、詠龍が送った藤の細工の施された簪を彼女が持っていたからだった。
『私、幸せになりたい……もっと詠龍様と一緒に色んな季節の景色を見て歩きたい』
大怪我を負って床に伏せて眠る季音を見た途端に浮かんでしまったのは、病床に伏せた藤香がいつも言っていた言葉だった。
いずれ、彼女の内に潜む荒神は表に出てくるには違いない。無論、そうなった時にはなんとしてでも討たねばいけない──詠龍が出来なかった事を成し遂げ、過去の自分を越えるだけの事である。そう。だから季音を藤香として、命がけでも彼女を幸せにしようと思ったのだ。果たせなかった事を果たそうと、それがきっと己が輪廻した意味だと────。
「龍、おい。大丈夫か。顔色が悪いぞ」
近くからぼんやりと朧の声が聞こえて龍志はハッと目を瞠った。長い事考え込んでしまっていたのだろうか。朧は心底心配そうな顔で龍志を覗き込んでいた。
「本当に大丈夫か?」
言われて、龍志は一つ頷いて立ち上がった。
「顔色なんぞ二日酔いのお前より幾分もマシだろ」
いつもの調子で雑言を垂れて、龍志は蘢と季音の向かった本殿の方をぼんやりと眺めた。
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