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第壱章 紫だちたる雲の細くたなびきたる
壱之伍
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ボロ屋に戻ったキネは自分に当てられた奥部屋で姿勢良く座り続けていた。
強制帰還から恐らく一時間以上が経過するだろう。陽はとっくに西に傾き始めていた。未だ薄暗くもなっていないが、奥部屋は格子のついた丸窓が一つしか無い所為で差し込む西日はあまりに頼りないものだった。
極度の緊張状態の中とは言え、足はいい加減に痺れて今すぐにでも崩したくて仕方が無い。しかし、自分の目と鼻の先には狗が対面して威圧的に立ち塞がっている。
少しでも姿勢を崩せば、即座に喉笛を切られる事もありえなくもないだろう。その証拠に、刃を鞘に納めてはいるものの彼は右手にしっかりと短刀を握りしめていたからだ。
キネは恐怖と痺れに悶えながら、ただ静謐な時が過ぎゆくのを待っていた。時より目を瞑り考える事は、勝手にここから出て行った言い訳だった。
──急用を思い出した。そんないい加減なものは間違いなく通じる筈もない。あらゆる嘘を考えるが、どれもこれも間違いなく簡単に見抜けてしまうだろう。そんな考えの果てに『いい加減に帰らなくてはいけない』と、この事実だけは確と伝える事を思った。
そもそも、自分は人と関わろうともしていない。即ち、悪事も働いていた覚えもやましい事をした覚えも無いのだ。近しい事は、彼にも昨晩言ったばかりだ。だからきっと、大丈夫だろう、話くらいは分かってくれるのではないか──僅かな希望を胸にキネは意を固めたと同時だった。玄関の引き戸を開く音を響いたのである。
足音はやがて、隣の部屋に向かう。そうして、襖を開くと同時に現れた龍志は、唖然と唇を半月型に開いた。
「ただいま……と、逃げたかやっぱり」
一拍置いた後、さっぱりとした口調で彼が言う。すると、立ち塞がる狗の瞳には暖かい光が射した。
「おかえりなさいませ。使命は確と守りました!」
……先程までの威圧はいったい何処に行ったのだろうか。
狗は高らかに行って、戻ってきた龍志の方を振り向いた。
キネの目の前には彼のモフモフとした尻尾が映る。それはまるで、飼い主が帰ってきた飼い犬のよう。ブンブンと振り乱し彼はうずうずと落ち着かない様子を見せた。
あまりの変貌に、張り詰めた緊張の糸がプツリと切れてしまった。キネはへたりと畳に尻を付けて唇をぽかりと開く。
「はいはい、いい子だ。”イヌタデ”はえらかった」
単調な調子で龍志は褒める。ワシャワシャと髪を撫でるその様はどこからどう見たって、飼い主と犬のようにしか見えやしない。しかし、どこかこの光景は既視感があった。キネはへたりと座り込んだまま、不思議そうに龍志とイヌタデと呼ばれる狗を交互に見上げた。
その視線に気付いたのだろうか。
彼はイヌタデを撫でるのを止めて、仕切り直すように唇を開く。
「しかしな。お前はやりすぎだ。従順はありがたいがクソ真面目は大概にしろ。怯えているだろう。今のこいつは何も悪さなんぞ出来ない」
淡々とした平らな口調で言った途端に、イヌタデの尾はシュンと萎んだ。
「ですが……」
「ですがもクソもない」
龍志はイヌタデに小刀をしまうように顎で示唆した。
「晩にあんな事しちまったし、逃げたくもなるのは想定していた。何も言わずに出て行ったなら仕置きに明日は一日中草取りさせる事も考えたが、ここまで怯えさせたじゃ気の毒過ぎて何も言えねぇわ」
──悪かった。と、彼は付け足すようにキネに詫びた。
まさか詫びられるなど思ってもいなかった。もはや色々と見当違いである。
イヌタデから龍志は妖を祓う者だと聞かされていた。自分は、間違いなく戻ってきた彼に摂関をされるか、知ってしまったからには殺される事を考えていた。それに、殺される事を免れる為に、言いたい事を全て一から整理していたというのに、それは見事一瞬にして何処かに吹き飛んでいってしまったのだ。
「……わ、私を、殺さないのですか?」
キネは思った事を告げたと同時に、龍志は切れの長い目を瞠る。それから一拍も立たぬうちに、隣に立つ頭一つ分低いイヌタデの頭にゴチンとげんこつを落とす。
たちまち響く悲鳴は『きゃん』と子犬のような鳴き声だった。畳の上でお座りのような姿勢を取ってイヌタデは頭を抱えて蹲る。
「こいつが色々吹き込んだみたいだが……悪さしようも無いお前を殺すなんて気は更々無い」
「は……はぁ」
もはや、キネは何と答えて良いかも分からなかった。ただ安堵の一言だけである。
「ただな。この際告白するが、お前を山に返す気は無かった。妖力を持たぬお前は、狐の耳と尻尾が生えた面白可笑しな姿の人の娘と何ら変わらない。だから陰陽師の端くれの俺の監視下に置いておく事が…………」
「ですが私の事をきっと心配している友人が居ます。山に戻らないと……」
龍志の言葉を挟み、キネはきっぱりと事実を告げた。すると、彼は少し困ったように眉を寄せてジッとキネを射貫いた。
「そうか。だが、お前はひと月以上は俺と共に居る。間違いなく人の匂いが染みついてしまった。それは身体を洗おうが簡単に取れやしない。それで山に帰ったとしよう。さて、妖が人をどう思ってるかが問題だ」
静かに問われて、キネは眉を顰めた。
「……人は恐れるべき存在です」
訊かれた事に、はっきりとキネは答えた。
「だよな。故に均衡が崩れる恐れもある」
きっぱりとした口ぶりで言われて、キネはハッと目を見張った。
つまりは、人の匂いを纏う自分が災いの火種となり、山の妖達から攻撃を受ける事も考えられるものだと。即ち、彼は助けた以上は護る為に理由を付けて留まらせたのだと言いたいのだろうか。その髄を悟り、キネは唇を震わせた。
「ましてや、お前の友人とやらが獣の妖だと仮定すれば、妖気はなくともお前の匂いを辿る事は出来る筈だ。つまり、大凡の居場所はとっくに把握しているに違いない。あとは分かるな?」
散り散りになったものが全て結び付いた。理解出来た途端にキネは堪らず俯いてしまう。
──つまり、自分が何処に居るかも人に助けられた事もタキは把握していたのだと。そこを救い出しに来れば人の匂いが自分にも染み入ってしまう。それは、山の妖を全て敵に回す恐れがあり助けに来る事も出来ないのだと……。
全て理解出来てしまうと、落胆する他無かった。だが、こうなってしまった上で、自分を救ってくれた彼を咎める事など出来る筈は無い。確かに嗜虐的に危うい面は見せられたものだが、龍志は自分に良くしてくれた。全ては自分が悪い……愚鈍さが招いた事だ。
それを思えば思う程、眦は熱くなり、自分を責める他無かった。
今にも泣き出しそうな事を悟ったのだろう。龍志はキネの前にしゃがみ込んだ。
「今更自分を責めるな。起きてしまった事をいちいち悔やむな。それで泣かれても俺は困る」
言葉は予想以上に冷たかった。それなのに、彼は直ぐに無骨な手を伸ばしてキネの髪を優しく撫で始める。彼の手は言葉に反して温かく優しいもので、直ぐに心の内がほの暖かくなりキネはしっかりと顔を上げた。
確かに彼の言う通りだろう。と、素直にそう思えたから。
「俺がお前を助けたのは、大怪我を負って行き倒れた奴を放っておけなかったからだ。何せ寝覚めが悪いからな。だから、帰れぬ事に不満があるだろう事においてはいくらでも詫びる。お前を助けた事にはおいては俺に責任が全てある」
淡々とした口調で彼は語るが、その言葉に裏は無い事は直ぐにキネは射抜けた。真っ直ぐに見つめた彼の瞳があまりに真摯で強い意志が宿っていたからだろう。そんな言葉と毅然とした態度から、キネの脳裏には自然と浮かぶ少女の姿と龍志が重なり合った。
そう。彼はタキの言った言葉と全く同じ言葉を言ったのだから。
「これも縁だ。だから、俺が死ぬ迄……」
龍志が全て言い切る前だった。
「詠龍様は!」
大人しく畳みの上に座していた筈のイヌタデが途端に吠えるように彼に向けて叫んだのだ。
彼の名は「龍志」の筈。何故違う名を叫んだのかは分からない。
──詠龍。それは、彼の名ではない。だが、明らかに聞き覚えのあるものだった。
たちまちキネは目を瞠る。途端に脳裏に朧気に浮かび上がる姿は、龍志と瓜二つの青年の姿だった。違うところと言えば、結い上げる程に長い髪。それから、神に仕える者らしきしっかりとした礼装で……だが、それ以上は何も思い出せやしなかった。
キネは直ぐに現に戻り、龍志に再び視線を向けた。
彼の表情──それは例えるのであれば静かな怒りだった。釣り上がった瞳は尚に釣り上がり、鋭い眼光と凄みのある気迫でただそこに静かに彼は座っていた。
それはどこか鬼を彷彿させる程──それから二拍三拍と置いた後、彼は唇を拉げて開く
「……使役される分際を弁えろ」
低く凄みのある声色だった。それはまるで、命じる事に慣れた厳かなものだった。
彼は、懐から真っ新な短冊をイヌタデに向かって突きつける。すると、イヌタデはたちまち朱色の煙になり短冊に吸い寄せられて消失した。
真っ新だった筈の紙には、歪な朱色の紋様の囲い。その中心に『蘢』と、何とも達筆に書かれた文字が浮かび上がっていた。
妖や怨霊を祓う者が使役する式──言われた言葉を改めて思い出して、キネは息を飲む。
龍志はキネの方は見ずに、その紙切れ懐に再びしまい込んだ。
「……取り乱して悪かった。気にするな、忘れてくれ」
視線を合わせる事もなく龍志は短くにキネに詫びた。
強制帰還から恐らく一時間以上が経過するだろう。陽はとっくに西に傾き始めていた。未だ薄暗くもなっていないが、奥部屋は格子のついた丸窓が一つしか無い所為で差し込む西日はあまりに頼りないものだった。
極度の緊張状態の中とは言え、足はいい加減に痺れて今すぐにでも崩したくて仕方が無い。しかし、自分の目と鼻の先には狗が対面して威圧的に立ち塞がっている。
少しでも姿勢を崩せば、即座に喉笛を切られる事もありえなくもないだろう。その証拠に、刃を鞘に納めてはいるものの彼は右手にしっかりと短刀を握りしめていたからだ。
キネは恐怖と痺れに悶えながら、ただ静謐な時が過ぎゆくのを待っていた。時より目を瞑り考える事は、勝手にここから出て行った言い訳だった。
──急用を思い出した。そんないい加減なものは間違いなく通じる筈もない。あらゆる嘘を考えるが、どれもこれも間違いなく簡単に見抜けてしまうだろう。そんな考えの果てに『いい加減に帰らなくてはいけない』と、この事実だけは確と伝える事を思った。
そもそも、自分は人と関わろうともしていない。即ち、悪事も働いていた覚えもやましい事をした覚えも無いのだ。近しい事は、彼にも昨晩言ったばかりだ。だからきっと、大丈夫だろう、話くらいは分かってくれるのではないか──僅かな希望を胸にキネは意を固めたと同時だった。玄関の引き戸を開く音を響いたのである。
足音はやがて、隣の部屋に向かう。そうして、襖を開くと同時に現れた龍志は、唖然と唇を半月型に開いた。
「ただいま……と、逃げたかやっぱり」
一拍置いた後、さっぱりとした口調で彼が言う。すると、立ち塞がる狗の瞳には暖かい光が射した。
「おかえりなさいませ。使命は確と守りました!」
……先程までの威圧はいったい何処に行ったのだろうか。
狗は高らかに行って、戻ってきた龍志の方を振り向いた。
キネの目の前には彼のモフモフとした尻尾が映る。それはまるで、飼い主が帰ってきた飼い犬のよう。ブンブンと振り乱し彼はうずうずと落ち着かない様子を見せた。
あまりの変貌に、張り詰めた緊張の糸がプツリと切れてしまった。キネはへたりと畳に尻を付けて唇をぽかりと開く。
「はいはい、いい子だ。”イヌタデ”はえらかった」
単調な調子で龍志は褒める。ワシャワシャと髪を撫でるその様はどこからどう見たって、飼い主と犬のようにしか見えやしない。しかし、どこかこの光景は既視感があった。キネはへたりと座り込んだまま、不思議そうに龍志とイヌタデと呼ばれる狗を交互に見上げた。
その視線に気付いたのだろうか。
彼はイヌタデを撫でるのを止めて、仕切り直すように唇を開く。
「しかしな。お前はやりすぎだ。従順はありがたいがクソ真面目は大概にしろ。怯えているだろう。今のこいつは何も悪さなんぞ出来ない」
淡々とした平らな口調で言った途端に、イヌタデの尾はシュンと萎んだ。
「ですが……」
「ですがもクソもない」
龍志はイヌタデに小刀をしまうように顎で示唆した。
「晩にあんな事しちまったし、逃げたくもなるのは想定していた。何も言わずに出て行ったなら仕置きに明日は一日中草取りさせる事も考えたが、ここまで怯えさせたじゃ気の毒過ぎて何も言えねぇわ」
──悪かった。と、彼は付け足すようにキネに詫びた。
まさか詫びられるなど思ってもいなかった。もはや色々と見当違いである。
イヌタデから龍志は妖を祓う者だと聞かされていた。自分は、間違いなく戻ってきた彼に摂関をされるか、知ってしまったからには殺される事を考えていた。それに、殺される事を免れる為に、言いたい事を全て一から整理していたというのに、それは見事一瞬にして何処かに吹き飛んでいってしまったのだ。
「……わ、私を、殺さないのですか?」
キネは思った事を告げたと同時に、龍志は切れの長い目を瞠る。それから一拍も立たぬうちに、隣に立つ頭一つ分低いイヌタデの頭にゴチンとげんこつを落とす。
たちまち響く悲鳴は『きゃん』と子犬のような鳴き声だった。畳の上でお座りのような姿勢を取ってイヌタデは頭を抱えて蹲る。
「こいつが色々吹き込んだみたいだが……悪さしようも無いお前を殺すなんて気は更々無い」
「は……はぁ」
もはや、キネは何と答えて良いかも分からなかった。ただ安堵の一言だけである。
「ただな。この際告白するが、お前を山に返す気は無かった。妖力を持たぬお前は、狐の耳と尻尾が生えた面白可笑しな姿の人の娘と何ら変わらない。だから陰陽師の端くれの俺の監視下に置いておく事が…………」
「ですが私の事をきっと心配している友人が居ます。山に戻らないと……」
龍志の言葉を挟み、キネはきっぱりと事実を告げた。すると、彼は少し困ったように眉を寄せてジッとキネを射貫いた。
「そうか。だが、お前はひと月以上は俺と共に居る。間違いなく人の匂いが染みついてしまった。それは身体を洗おうが簡単に取れやしない。それで山に帰ったとしよう。さて、妖が人をどう思ってるかが問題だ」
静かに問われて、キネは眉を顰めた。
「……人は恐れるべき存在です」
訊かれた事に、はっきりとキネは答えた。
「だよな。故に均衡が崩れる恐れもある」
きっぱりとした口ぶりで言われて、キネはハッと目を見張った。
つまりは、人の匂いを纏う自分が災いの火種となり、山の妖達から攻撃を受ける事も考えられるものだと。即ち、彼は助けた以上は護る為に理由を付けて留まらせたのだと言いたいのだろうか。その髄を悟り、キネは唇を震わせた。
「ましてや、お前の友人とやらが獣の妖だと仮定すれば、妖気はなくともお前の匂いを辿る事は出来る筈だ。つまり、大凡の居場所はとっくに把握しているに違いない。あとは分かるな?」
散り散りになったものが全て結び付いた。理解出来た途端にキネは堪らず俯いてしまう。
──つまり、自分が何処に居るかも人に助けられた事もタキは把握していたのだと。そこを救い出しに来れば人の匂いが自分にも染み入ってしまう。それは、山の妖を全て敵に回す恐れがあり助けに来る事も出来ないのだと……。
全て理解出来てしまうと、落胆する他無かった。だが、こうなってしまった上で、自分を救ってくれた彼を咎める事など出来る筈は無い。確かに嗜虐的に危うい面は見せられたものだが、龍志は自分に良くしてくれた。全ては自分が悪い……愚鈍さが招いた事だ。
それを思えば思う程、眦は熱くなり、自分を責める他無かった。
今にも泣き出しそうな事を悟ったのだろう。龍志はキネの前にしゃがみ込んだ。
「今更自分を責めるな。起きてしまった事をいちいち悔やむな。それで泣かれても俺は困る」
言葉は予想以上に冷たかった。それなのに、彼は直ぐに無骨な手を伸ばしてキネの髪を優しく撫で始める。彼の手は言葉に反して温かく優しいもので、直ぐに心の内がほの暖かくなりキネはしっかりと顔を上げた。
確かに彼の言う通りだろう。と、素直にそう思えたから。
「俺がお前を助けたのは、大怪我を負って行き倒れた奴を放っておけなかったからだ。何せ寝覚めが悪いからな。だから、帰れぬ事に不満があるだろう事においてはいくらでも詫びる。お前を助けた事にはおいては俺に責任が全てある」
淡々とした口調で彼は語るが、その言葉に裏は無い事は直ぐにキネは射抜けた。真っ直ぐに見つめた彼の瞳があまりに真摯で強い意志が宿っていたからだろう。そんな言葉と毅然とした態度から、キネの脳裏には自然と浮かぶ少女の姿と龍志が重なり合った。
そう。彼はタキの言った言葉と全く同じ言葉を言ったのだから。
「これも縁だ。だから、俺が死ぬ迄……」
龍志が全て言い切る前だった。
「詠龍様は!」
大人しく畳みの上に座していた筈のイヌタデが途端に吠えるように彼に向けて叫んだのだ。
彼の名は「龍志」の筈。何故違う名を叫んだのかは分からない。
──詠龍。それは、彼の名ではない。だが、明らかに聞き覚えのあるものだった。
たちまちキネは目を瞠る。途端に脳裏に朧気に浮かび上がる姿は、龍志と瓜二つの青年の姿だった。違うところと言えば、結い上げる程に長い髪。それから、神に仕える者らしきしっかりとした礼装で……だが、それ以上は何も思い出せやしなかった。
キネは直ぐに現に戻り、龍志に再び視線を向けた。
彼の表情──それは例えるのであれば静かな怒りだった。釣り上がった瞳は尚に釣り上がり、鋭い眼光と凄みのある気迫でただそこに静かに彼は座っていた。
それはどこか鬼を彷彿させる程──それから二拍三拍と置いた後、彼は唇を拉げて開く
「……使役される分際を弁えろ」
低く凄みのある声色だった。それはまるで、命じる事に慣れた厳かなものだった。
彼は、懐から真っ新な短冊をイヌタデに向かって突きつける。すると、イヌタデはたちまち朱色の煙になり短冊に吸い寄せられて消失した。
真っ新だった筈の紙には、歪な朱色の紋様の囲い。その中心に『蘢』と、何とも達筆に書かれた文字が浮かび上がっていた。
妖や怨霊を祓う者が使役する式──言われた言葉を改めて思い出して、キネは息を飲む。
龍志はキネの方は見ずに、その紙切れ懐に再びしまい込んだ。
「……取り乱して悪かった。気にするな、忘れてくれ」
視線を合わせる事もなく龍志は短くにキネに詫びた。
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