ネクロマン・サイカ

アフ郎

文字の大きさ
上 下
1 / 83
アジ助編

ログイン

しおりを挟む
               中島なかじま 康太こうた 二十一歳 



 ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込み、拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。

 これは儀式だ。心を落ち着かせて集中力を高めるための儀式。意識して呼吸を整えながら、落ち着いた頭で考える。

 世界が終わるということの意味を。

 と……いうことはだ、来年……オリンピックはない。俺は……今の俺のまま死ぬことになる。

「……くそっ」

 思い出す。

 それは小学二年生のときだった。

 その頃の俺は特撮ヒーローが大好きだった。五人組のヒーローが一人の怪人を倒すやつじゃなくて、ヒーローと悪役がサシで戦うやつが好きだった。

 ヒーローごっこもやった。父さんが仕事から帰ってくると悪役をやってもらって、ほとんど毎日のようにやっていた。でもそれは所詮ごっこ遊び。父さんがわざと大げさに負けてくれるのが、いつの頃からか気に食わないと思うようになった。

 それで俺は本当に強くなりたいと考えた。ヒーローがやっていた空手が習いたくて、思い立ったその日のうちに父さんにお願いした。しかし近所には空手の道場がなくて、結局俺は柔道を習うことになった。

 それが俺と柔道の出会いだった。

 柔道は楽しかった。自分より大きい相手を投げたり、押さえ込んだりと、どんどん夢中になっていった。それでも小学五年生になるまで、俺は道場に遊びに通っていた。

 柔道に対する意識に変化が訪れたのは、小学五年生のときに見たオリンピックの影響だった。それまで三年間柔道をやっていたが、柔道をテレビで見るのはそれが初めての機会だった。

 衝撃的だったのは軽量級の工藤竜司くどうりゅうじ選手。初戦から決勝戦まで全て背負い投げで一本勝ち。このとき工藤選手は二大会連続の金メダルだった。

 めちゃくちゃかっこいいと思った。大好きだった特撮ヒーローよりもずっとかっこよかった。その日から俺のヒーローは工藤選手になった。そして俺は柔道でオリンピックを目指すことを決めた。

 それからずっと俺は人生の全てを柔道に捧げてきた。

 初めて大会で優勝したのは小学五年生の十一月、地元で行われる食品メーカーの名を冠した小さな大会だった。それから俺は十八歳まで、出場した大会で一度も負けたことはなかった。インターハイ、国体はもちろん、年齢制限のない選抜選手権や世界大会であるワールドカップでも優勝した。高校三年生のときには憧れであった工藤選手とも二度対戦し、二度とも一本勝ちで勝利した。

 それも二度目の試合はオリンピックの選手選考に大きく影響する、選抜選手権の決勝戦だった。

 その試合、開始まもなく組み手を取ったところで、俺は先にポイントを奪われた。工藤選手の戦い方は柔道をかじったことのある者なら誰だって知っていた。彼はひたすらに背負い投げにこだわりを持っていた。もちろん足技も使う。しかしそれは牽制や相手の体勢を崩すためのものか、背負いにつなげるための予備動作でしかなかった。もし相手を背負いで投げて、それが技ありだったなら、彼は寝技を避け、次の背負いで一本を狙っていった。彼が求めるのはただ一つ、背負い投げによる一本勝ちだけだった。誰もが彼の背負いを警戒していた。それでも背負いで投げてしまうのが彼の強みだった。その工藤選手が開始直後の組み手争いの中、足技の小内巻き込みでポイントをとりにきたのだ。俺は完全に虚を突かれ、背中こそつかなかったが倒されてしまった。判定は有効。その後、工藤選手はいつも避けていた寝技で押さえ込みまで狙ってきた。試合は結局内股で俺の一本勝ちだったが、工藤選手は巴投げまでやってきた。必死さこそ伝わってきたが、正直いつものスタイルのほうが恐さがあった。

 そして俺はオリンピックの軽量級代表として選ばれた。三大会連続優勝中、三十二歳の工藤竜司選手ではなく、十八歳で高校生の俺がオリンピックの日本代表に選出されたのだ。

 それは日本中を騒がす大きなニュースになった。工藤選手は国民的ヒーローだったから。

 柔道をよく知っている人たちは俺の選出を好意的に受け止めてくれた。しかしオリンピックくらいでしか柔道を見ないような人たちの中には俺を否定する者が多かった。

 経験が足りないとか若すぎるとか……俺のことを何も知らないような奴らが、口々に俺を否定した。

 だから俺は取材に対して言ったんだ。

 俺は試合で負けたことがない。世界大会で優勝するより工藤選手に勝つほうが難しい。工藤選手に勝てた時点で金メダルは貰ったようなもんだ。だからぐだぐだ文句を言ってないで安心してくれと。

 この発言で俺はまた叩かれた。ビッグマウスだとか天狗になっているだとか、いろいろ言われた。

 それでも俺は全く気にしなかった。オリンピックで優勝して黙らせてやればいい。そう思っていた。

 そしてオリンピック。

 初戦だった。相手はデンマーク代表のクリスティアン・エリクセン選手。以前に一度対戦したことのある相手だった。軽量級の割には背が高く力が強い。四肢も長くやりにくい相手ではあるが、恐れるような一発を持っているわけではない。

 俺は畳の上で彼と対峙した。

 ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込みながら拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。相手を真っ直ぐに見据えて、審判の合図で礼をする。

 そして試合が始まった。

「せい!」

 声を出して組み手争いのために手を構える。

 この試合でまず俺を否定する奴を黙らせてやる。一分以内、いや一撃で倒す。そんなことを考えていた。

 俺は組み手争いも強い。開始数秒で俺は自分の組み手を取った。そして相手の呼吸に合わせて、軽くこちらに引き寄せる。相手はそれに反発する。そこに一歩踏み込んで足技に行くそぶりを見せる。またそれに合わせて相手の重心が移動する。

 そこに内股を仕掛けた。

 完璧だった。相手はおもしろいくらい簡単に浮き上がる。俺は自分ごと回転し相手を投げ飛ばした。少し勢いがつきすぎたため相手の背中は畳についていないかもしれない。それでも完全に投げ飛ばした。スーパー一本で問題ないだろう。

 そんなふうに考えながら、投げ飛ばした姿勢のままで審判を見上げた。審判の手は水平に上げられていた。技ありだ。目を疑って電光掲示板を見る。技ありが点滅していた。

 そのとき視界から電光掲示板が消えた。

 あ、やばい……

 そう思ったときには、すでに押さえ込まれていた。一本と技ありの違いもわからないヘボ審判が押さえ込みを宣言する。

 二十秒で逃げなければ、俺は負ける。

 完全な形で押さえ込まれていた。それでも負けるわけにはいかない。必死にブリッジして体を回転させようともがいた。

 やばい、やばい、やばい……頭の中がその言葉だけで埋め尽くされていく。焦りが募る。それでも俺は必死に暴れ、押さえ込みから逃れようとした。

 そしてやっと逃げ出した。

 そう思ったそのとき……相手は座ったまま両拳を天へと突き上げて、歓喜の声を上げていた。そして審判が一本を宣言した……

 俺は負けたのだ。相手の選手が次の試合で敗れたため、敗者復活戦もなく一回戦敗退。

 帰国するとバッシングの嵐だった。八年間公式戦で負けたことのなかったこの俺が、たった一敗しただけで……これまでどれだけ過酷な練習を重ね、どれだけ多くのものを諦めて俺が柔道だけに取り組んできたのかを知りもしない奴らに、負け犬のレッテルをはられて嘲笑の的にされた。

 それでも言い訳は出来なかった。審判の誤審で無理やり負けにされたわけじゃない。あそこで気を抜かなければ、問題なく勝てた試合だったのだ。そもそもあのときの俺は相手選手と対峙しながら、別のものと戦おうとしていた。俺は負けるべくして負けたのだ。

 それからの俺は今まで以上に柔道に全てを捧げた。絶望に浸っている暇なんてなかった。全てが終わってしまったわけではない。俺にはまだ四年後があった。次のオリンピックでこの汚名を返上したかった。

 そのためだけに生きてきた。毎日、毎日、吐くまで練習した。どれだけ練習しても、次ぎ勝てる確信が持てなくてひたすらに練習を続けた。食事にも気を使い、好物だったチョコレートなどの甘いものも、あの敗戦以来一度も口にしてはいない。

 どれだけ勝利を重ねても、どんな大会で優勝しても、オリンピックでの汚名はオリンピックでしか晴らすことが出来なかった。

 そのオリンピックが来年だった。すでに選考は始まっている。来月には選考に影響する大会も控えていた。その大会には工藤選手も出場する。

 それなのに……それなのにだ。

 世界が終わる。オリンピックの前に終わってしまう。俺は負け犬のまま、この人生を終える。汚名を返上するチャンスは訪れなかった。

「ふざけんなよ……」

 そんなの許されない……そんなことがあっていいわけがない……

 心の中で様々な感情が入り乱れていた。後悔、怒り、悲しみ、絶望……様々な負の感情が溢れ出してくる。その溢れる思いを吐き出そうと、叫び声を上げようとしたそのとき、電話が鳴った。携帯ではなく、家の電話だ。

 家の電話なので誰からかはわからないが、俺はつい反射的に電話をとってしまった。

「俺だ……」

 それはよく知った声だった。

「新手の詐欺かなんかですか? どうしたんです? 工藤さん。こんなときに」

 工藤選手だった。

「はっ、残念だったな。オリンピックどころじゃなくなっちまったな」

 少し笑いながら、工藤選手はそう言った。

「ですね……これ、ドッキリとかじゃ、ないんですよね?」

「ああ……もうすぐ世界が滅びるんだってよ。本当……ありえねえよな」

「俺は……俺なんか、大口叩いてたのに、オリンピックで一回戦負けの、負け犬野郎のままエンディングですよ……」

「そうだな……まぁ、でも、俺が知っているさ。お前は誰よりも強いって……」

 そう言ってまた少し笑った後、ため息まじりに工藤選手は言葉を続けた。

「俺はな、オリンピックで三回も金メダルを取ってるんだぜ。それなのに、お前には一度も勝てなかった。オリンピック前に二回、後に二回。四戦とも一本負けだ。お前はいっつも、自分は誰よりも練習してるって言うけど、お前はまだ二十一だろ。俺は三十五だ。総合的な練習量じゃあ、圧倒的に俺のほうが多いからな。その俺が十八だったときのお前にすら、手も足も出なかった。どんだけくやしかったかわかってんのか? 俺はもともと前回のオリンピックの後、引退するつもりだったんだ。それなのにまだ続けてるのはな、一度だけでもお前に勝ちたかったからだ。あーー! くっそ! 来月の試合楽しみだったのにな。対お前用の必殺技を用意してたんだぞ。そうだな……お前、ちょっと今から一試合やらねえか? 今どこにいるよ?」

「奈良です」

「くそっ……遠いな。無理か。あー! ちくしょう。もし、あれだぞ。天国みたいなのがあったらそこで勝負すんぞ。勝ち逃げなんて絶対に許さねえからな」

「はは……わかりました。やりましょう。天国で天使が審判なら、あんなヘボい判定しないでしょうしね」

「おい……ちょっと待てよ。あれじゃねえか? 天国だったら俺、全盛期の状態でやれるんじゃねえ?」

「それでも返り討ちにしてやりますよ」

 なんだろう……少し楽しくなってきた。

 工藤選手と話していたら、負の感情は全部どっかに行ってしまった。やっぱり工藤選手はかっこいい。俺と違って他人の目なんて気にしていなかった。きっと、ただ自分のやりたいようにやっているだけなんだ。

 そうだ。俺だって汚名なんて気にする必要なんてない。俺は強い。俺は柔道が大好きだ。

 試合がしたくてたまらなくなってきた。

 もういい。はやく世界なんて滅びてしまえ。そして俺は天国で工藤選手と戦うんだ。必殺技とやらがどんな技なのか楽しみでしかたがない。工藤選手が必殺技だというくらいだから凄い技に違いない。それでも俺は負けない。絶対に勝つ。

 なんせ俺は最強だからな。

 誰がなんと言おうと俺はそう信じている。

 それで、それだけで充分だったんだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

グライフトゥルム戦記~微笑みの軍師マティアスの救国戦略~

愛山雄町
ファンタジー
 エンデラント大陸最古の王国、グライフトゥルム王国の英雄の一人である、マティアス・フォン・ラウシェンバッハは転生者である。  彼は類い稀なる知力と予知能力を持つと言われるほどの先見性から、“知将マティアス”や“千里眼のマティアス”と呼ばれることになる。  彼は大陸最強の軍事国家ゾルダート帝国や狂信的な宗教国家レヒト法国の侵略に対し、優柔不断な国王や獅子身中の虫である大貴族の有形無形の妨害にあいながらも、旧態依然とした王国軍の近代化を図りつつ、敵国に対して謀略を仕掛け、危機的な状況を回避する。  しかし、宿敵である帝国には軍事と政治の天才が生まれ、更に謎の暗殺者集団“夜(ナハト)”や目的のためなら手段を選ばぬ魔導師集団“真理の探究者”など一筋縄ではいかぬ敵たちが次々と現れる。  そんな敵たちとの死闘に際しても、絶対の自信の表れとも言える余裕の笑みを浮かべながら策を献じたことから、“微笑みの軍師”とも呼ばれていた。  しかし、マティアスは日本での記憶を持った一般人に過ぎなかった。彼は情報分析とプレゼンテーション能力こそ、この世界の人間より優れていたものの、軍事に関する知識は小説や映画などから得たレベルのものしか持っていなかった。  更に彼は生まれつき身体が弱く、武術も魔導の才もないというハンディキャップを抱えていた。また、日本で得た知識を使った技術革新も、世界を崩壊させる危険な技術として封じられてしまう。  彼の代名詞である“微笑み”も単に苦し紛れの策に対する苦笑に過ぎなかった。  マティアスは愛する家族や仲間を守るため、大賢者とその配下の凄腕間者集団の力を借りつつ、優秀な友人たちと力を合わせて強大な敵と戦うことを決意する。  彼は情報の重要性を誰よりも重視し、巧みに情報を利用した謀略で敵を混乱させ、更に戦場では敵の意表を突く戦術を駆使して勝利に貢献していく……。 ■■■  あらすじにある通り、主人公にあるのは日本で得た中途半端な知識のみで、チートに類する卓越した能力はありません。基本的には政略・謀略・軍略といったシリアスな話が主となる予定で、恋愛要素は少なめ、ハーレム要素はもちろんありません。前半は裏方に徹して情報収集や情報操作を行うため、主人公が出てくる戦闘シーンはほとんどありません。 ■■■  小説家になろう、カクヨム、ノベルアップ+でも掲載しております。

異世界ゆるり紀行 ~子育てしながら冒険者します~

水無月 静琉
ファンタジー
神様のミスによって命を落とし、転生した茅野巧。様々なスキルを授かり異世界に送られると、そこは魔物が蠢く危険な森の中だった。タクミはその森で双子と思しき幼い男女の子供を発見し、アレン、エレナと名づけて保護する。格闘術で魔物を楽々倒す二人に驚きながらも、街に辿り着いたタクミは生計を立てるために冒険者ギルドに登録。アレンとエレナの成長を見守りながらの、のんびり冒険者生活がスタート! ***この度アルファポリス様から書籍化しました! 詳しくは近況ボードにて!

月が導く異世界道中

あずみ 圭
ファンタジー
 月読尊とある女神の手によって癖のある異世界に送られた高校生、深澄真。  真は商売をしながら少しずつ世界を見聞していく。  彼の他に召喚された二人の勇者、竜や亜人、そしてヒューマンと魔族の戦争、次々に真は事件に関わっていく。  これはそんな真と、彼を慕う(基本人外の)者達の異世界道中物語。  漫遊編始めました。  外伝的何かとして「月が導く異世界道中extra」も投稿しています。

【ヤベェ】異世界転移したった【助けてwww】

一樹
ファンタジー
色々あって、転移後追放されてしまった主人公。 追放後に、持ち物がチート化していることに気づく。 無事、元の世界と連絡をとる事に成功する。 そして、始まったのは、どこかで見た事のある、【あるある展開】のオンパレード! 異世界転移珍道中、掲示板実況始まり始まり。 【諸注意】 以前投稿した同名の短編の連載版になります。 連載は不定期。むしろ途中で止まる可能性、エタる可能性がとても高いです。 なんでも大丈夫な方向けです。 小説の形をしていないので、読む人を選びます。 以上の内容を踏まえた上で閲覧をお願いします。 disりに見えてしまう表現があります。 以上の点から気分を害されても責任は負えません。 閲覧は自己責任でお願いします。 小説家になろう、pixivでも投稿しています。

「元」面倒くさがりの異世界無双

空里
ファンタジー
死んでもっと努力すればと後悔していた俺は妖精みたいなやつに転生させられた。話しているうちに名前を忘れてしまったことに気付き、その妖精みたいなやつに名付けられた。 「カイ=マールス」と。 よく分からないまま取りあえず強くなれとのことで訓練を始めるのだった。

処理中です...