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第七回 悪党弁天丸の追跡の巻
一
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雨は朝になっても降り止まず、根気良く江戸の町を濡らしている。
俺のいるのは、二階の六畳ほどの座敷である。二階の欄干から、裏通りがよく見渡せる。
目の下には傘が幾つも開いて、人々が行き交っている。あちこちの家からは、炊ぎの煙が棚引き、子供たちがばたばたと騒々しく走り回っている音が聞こえてくる。
「で、伊呂波の旦那。弁天丸って悪党を、雨で見失ったのかえ? 旦那に似合わぬ、ドジだねえ……!」
背後から「けけけけけ」という、弾けるような笑い声が聞こえ、俺は苦り切って顔を声の主に捻じ向けた。
どっしりとした肉塊が、手持ち無沙汰に、煙草盆に煙管の雁首を叩き付け、灰をぷっと吹き出している。
吉弥である。
俺は、晶と玄之介の二人と共に、吉弥の家へ転がり込んだのである。
吉弥はこう見えても、江戸では中々の顔で、品川と深川に家を持っている。もっとも、元々が《遊客》だから、金はたっぷりあるので、自宅を二軒を持つのも、余裕でできる。
結構、吉弥は江戸では顔が広い。顔が物理的にでかい、というのも含めてだが。
俺はそんな趣味はない。棲家は、品川の〝のたくり長屋〟一つで充分だ。
弁天丸を見失い、探索の拠点として、俺たちは、深川の吉弥の自宅に転がり込んだ。
なぜなら江戸の悪党は、深川や、吉原、浅草など、岡場所や、遊郭のある場所に集中しているからだ。もしかしたら、弁天丸も、この辺りに潜伏している可能性がある。
晶は夜が明けると、どこかへ勝手に出かけてしまった。玄之介は俺と付き合うつもりか、二階からじっと、階下の裏通りを丹念に監視している。
江戸の悪党を「悪党走査」で探っていると、悪党たちはじっとして、動かない。さすがに、朝のうちからせっせと働いているようでは、悪党とは言えないだろう。
雨はようやく、昼前になって降り止み、どんよりと垂れ込めた雲は、驚くほど早々と晴天に席を譲って、あたりは夏の熱気に包まれた。
こちらの江戸には、蚊や南京虫、虱、蚤などの不快生物の類が、一匹すらも存在しないのが助かる。
俺たちは、江戸を再現する際に、吸血性の不快生物を持ち込まない決定を下した。従って、こちらの江戸には、夏の風物詩になる蚊遣りや、蚊張りなどは存在しない。単に、無闇矢鱈と暑いだけだ。
吉弥が「腹が減ったから」と、小女に命じて鮨の出前を頼んだ。
もっとも、吉弥は四六時中、常に腹を空かせているようなものだ。出前の鮨は、巨大な丸盆で運ばれてきた。何と、直径三尺はある!
あまりにでかすぎ、盆は二人掛かりで二階へ運ばれてくる。
吉弥は早速、むんずと両手で数個の鮨を摘み上げると、大きく口を開け、まるで早食い競争の挑戦者のごとく、押し込むように食べ始める。見ているだけで、こちらの胸が胸焼けの胃酸で一杯になって、俺は目を背けた。
「あれは、晶殿では御座らんか?」
玄之介が、身を乗り出すように指さした。
視線を向けると、確かに晶の、三里先からでも歴然と見て取れる、派手な出で立ちが目に飛び込んでくる。
晶は、まだ濡れている路面を、ぴょいぴょいと軽快な動きで走ってくる。
雨が降ると、江戸の道路は泥濘になるが、晶は固い地面を選んで、泥に足を取られぬよう走っていた。どこで見つけたのか、足下は泥を避けるために日和下駄を履いている。
後頭部の馬尻尾髷が、走るたび、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
晶は興奮のためか、顔を真っ赤に染めている。目はキラキラと輝き、口許には笑みすら零れている。
何をあんなに興奮しているのだろう?
晶は俺のいる二階に顔を向け、大声を張り上げた。
「すっごーい! あんたの言ったとおりだわ! 江戸にあんなの、あったなんて。やっぱり、観に行って良かったわあ!」
俺は叫び返した。
「何を観に行ったんだ?」
晶は大きく両手を振り回した。
「アニメよ! ほら、あの江戸写し絵ってのを、観に行ったの!」
俺は、ずるっと、欄干に凭れていた身体をずり落としてしまう。
この娘……! てっきり悪党の探索に出かけたのかと思っていたら、江戸のアニメ──写し絵を見物に行ってたんだとお! つくづく、晶は真性のオタ女だ!
玄之介を見ると、あっちも同じ思いなのか、げっそりとした表情である。
吉弥は「がはははは!」と爆笑し、引っくり返って笑っていた。ばんばん、と大きな手の平で畳を叩き、笑いすぎて涙を流している。
俺は怒りを堪え、立ち上がる。玄之介に顔を向け、声を掛けた。
「行こう! 弁天丸を探す!」
玄之介は眉を開いた。
「で、いずこへ参りますのか? 何か、当てでも御座るのか?」
俺は強く、首を振る。
「そんな当てなんか、欠片もねえ!」
俺の返答に、玄之介は顔を顰めた。
「当てもなく歩き回るとは、いやはや何とも無計画としか言いようが御座らんな!」
俺は無言で二階の座敷から、階下へ降りる階段に向かう。背後で、慌てて玄之介が立ち上がる気配がする。
「鞍家殿、お待ちあれ! 何も、そのようにお腹立ちにならなくとも……」
俺は階段を降りて、見下ろしている玄之介を振り仰いだ。
「腹を立ててなんか、いねえよ! 相手は悪党だ! 悪党は、悪党の仲間ってのが相場だ。だから……」
俺の説明に、玄之介は愁眉を開いた。
「成る程……。それならば、手近の悪党を捕まえて……! それなら、判り申す!」
階段を降りかけた玄之介の背後に、吉弥の巨体がぬっと姿を表す。どすどすと足音を立て降りてくる吉弥に、俺は目で疑問を投げ掛ける。
吉弥は歯をせせりながら、のんびりと声を上げた。
「あちしも付き合うよ! 伊呂波の旦那は、あちしの目の届かない所じゃ、危なっかしいお人だからね!」
俺は、たじたじとなった。
「よ、よせ! それだけは御免蒙る!」
吉弥は、にたーっ、と物凄い笑みを浮かべた。じろりと俺を睨み据えると、もう一度、口を開く。
「従いて行くったら、従いて行くよ!」
玄関からけろけろと、晶が顔を真っ赤にして笑い転げている。
「良いじゃないの! 吉弥姐さんって、何か、とっても頼りになりそうだもん!」
俺はガックリと肩を落とした。
俺のいるのは、二階の六畳ほどの座敷である。二階の欄干から、裏通りがよく見渡せる。
目の下には傘が幾つも開いて、人々が行き交っている。あちこちの家からは、炊ぎの煙が棚引き、子供たちがばたばたと騒々しく走り回っている音が聞こえてくる。
「で、伊呂波の旦那。弁天丸って悪党を、雨で見失ったのかえ? 旦那に似合わぬ、ドジだねえ……!」
背後から「けけけけけ」という、弾けるような笑い声が聞こえ、俺は苦り切って顔を声の主に捻じ向けた。
どっしりとした肉塊が、手持ち無沙汰に、煙草盆に煙管の雁首を叩き付け、灰をぷっと吹き出している。
吉弥である。
俺は、晶と玄之介の二人と共に、吉弥の家へ転がり込んだのである。
吉弥はこう見えても、江戸では中々の顔で、品川と深川に家を持っている。もっとも、元々が《遊客》だから、金はたっぷりあるので、自宅を二軒を持つのも、余裕でできる。
結構、吉弥は江戸では顔が広い。顔が物理的にでかい、というのも含めてだが。
俺はそんな趣味はない。棲家は、品川の〝のたくり長屋〟一つで充分だ。
弁天丸を見失い、探索の拠点として、俺たちは、深川の吉弥の自宅に転がり込んだ。
なぜなら江戸の悪党は、深川や、吉原、浅草など、岡場所や、遊郭のある場所に集中しているからだ。もしかしたら、弁天丸も、この辺りに潜伏している可能性がある。
晶は夜が明けると、どこかへ勝手に出かけてしまった。玄之介は俺と付き合うつもりか、二階からじっと、階下の裏通りを丹念に監視している。
江戸の悪党を「悪党走査」で探っていると、悪党たちはじっとして、動かない。さすがに、朝のうちからせっせと働いているようでは、悪党とは言えないだろう。
雨はようやく、昼前になって降り止み、どんよりと垂れ込めた雲は、驚くほど早々と晴天に席を譲って、あたりは夏の熱気に包まれた。
こちらの江戸には、蚊や南京虫、虱、蚤などの不快生物の類が、一匹すらも存在しないのが助かる。
俺たちは、江戸を再現する際に、吸血性の不快生物を持ち込まない決定を下した。従って、こちらの江戸には、夏の風物詩になる蚊遣りや、蚊張りなどは存在しない。単に、無闇矢鱈と暑いだけだ。
吉弥が「腹が減ったから」と、小女に命じて鮨の出前を頼んだ。
もっとも、吉弥は四六時中、常に腹を空かせているようなものだ。出前の鮨は、巨大な丸盆で運ばれてきた。何と、直径三尺はある!
あまりにでかすぎ、盆は二人掛かりで二階へ運ばれてくる。
吉弥は早速、むんずと両手で数個の鮨を摘み上げると、大きく口を開け、まるで早食い競争の挑戦者のごとく、押し込むように食べ始める。見ているだけで、こちらの胸が胸焼けの胃酸で一杯になって、俺は目を背けた。
「あれは、晶殿では御座らんか?」
玄之介が、身を乗り出すように指さした。
視線を向けると、確かに晶の、三里先からでも歴然と見て取れる、派手な出で立ちが目に飛び込んでくる。
晶は、まだ濡れている路面を、ぴょいぴょいと軽快な動きで走ってくる。
雨が降ると、江戸の道路は泥濘になるが、晶は固い地面を選んで、泥に足を取られぬよう走っていた。どこで見つけたのか、足下は泥を避けるために日和下駄を履いている。
後頭部の馬尻尾髷が、走るたび、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
晶は興奮のためか、顔を真っ赤に染めている。目はキラキラと輝き、口許には笑みすら零れている。
何をあんなに興奮しているのだろう?
晶は俺のいる二階に顔を向け、大声を張り上げた。
「すっごーい! あんたの言ったとおりだわ! 江戸にあんなの、あったなんて。やっぱり、観に行って良かったわあ!」
俺は叫び返した。
「何を観に行ったんだ?」
晶は大きく両手を振り回した。
「アニメよ! ほら、あの江戸写し絵ってのを、観に行ったの!」
俺は、ずるっと、欄干に凭れていた身体をずり落としてしまう。
この娘……! てっきり悪党の探索に出かけたのかと思っていたら、江戸のアニメ──写し絵を見物に行ってたんだとお! つくづく、晶は真性のオタ女だ!
玄之介を見ると、あっちも同じ思いなのか、げっそりとした表情である。
吉弥は「がはははは!」と爆笑し、引っくり返って笑っていた。ばんばん、と大きな手の平で畳を叩き、笑いすぎて涙を流している。
俺は怒りを堪え、立ち上がる。玄之介に顔を向け、声を掛けた。
「行こう! 弁天丸を探す!」
玄之介は眉を開いた。
「で、いずこへ参りますのか? 何か、当てでも御座るのか?」
俺は強く、首を振る。
「そんな当てなんか、欠片もねえ!」
俺の返答に、玄之介は顔を顰めた。
「当てもなく歩き回るとは、いやはや何とも無計画としか言いようが御座らんな!」
俺は無言で二階の座敷から、階下へ降りる階段に向かう。背後で、慌てて玄之介が立ち上がる気配がする。
「鞍家殿、お待ちあれ! 何も、そのようにお腹立ちにならなくとも……」
俺は階段を降りて、見下ろしている玄之介を振り仰いだ。
「腹を立ててなんか、いねえよ! 相手は悪党だ! 悪党は、悪党の仲間ってのが相場だ。だから……」
俺の説明に、玄之介は愁眉を開いた。
「成る程……。それならば、手近の悪党を捕まえて……! それなら、判り申す!」
階段を降りかけた玄之介の背後に、吉弥の巨体がぬっと姿を表す。どすどすと足音を立て降りてくる吉弥に、俺は目で疑問を投げ掛ける。
吉弥は歯をせせりながら、のんびりと声を上げた。
「あちしも付き合うよ! 伊呂波の旦那は、あちしの目の届かない所じゃ、危なっかしいお人だからね!」
俺は、たじたじとなった。
「よ、よせ! それだけは御免蒙る!」
吉弥は、にたーっ、と物凄い笑みを浮かべた。じろりと俺を睨み据えると、もう一度、口を開く。
「従いて行くったら、従いて行くよ!」
玄関からけろけろと、晶が顔を真っ赤にして笑い転げている。
「良いじゃないの! 吉弥姐さんって、何か、とっても頼りになりそうだもん!」
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