電脳遊客

万卜人

文字の大きさ
上 下
29 / 68
第五回 鞍家二郎三郎江戸城へ登城するの巻

しおりを挟む
 紅葉山文庫は、実際の江戸では、歴代将軍や、老中、その他、江戸を統治するための様々な役職の者が閲覧できるよう、資料を保管するための図書館であった。記録は膨大で、今で言う国会図書館にあたる。
 書物奉行は、文庫を管理する役職であるため、識見に優れた優秀な人材が就く。同心もまた、奉行の手足となって働くため、優秀な人材が抜擢された。「甘藷考」を著した、青木昆陽は、有名な書物奉行である。
 建物の内部に入ると、紙の匂いが籠もっているのを感じる。天井にまで達する、巨大な書架がずらりと並び、冊子、巻物などが、箱詰めされ、所狭しと置かれている。反古の類も、大事に保管され、あちこちでは、古い記録を筆写する同心の姿が見られた。
 うろうろしていると、俺たちを案内した吉川という同心が「この素人め!」と言いたそうな、目つきになる。
「ここは、お上の記録を主に保管して御座る。御両所の所望される、《遊客》の記録は、また別の場所で御座る」
 吉川の声は、囁き声だ。文庫は、しん、と静まり返って、針を一本、床に落とした程度でも、筆写する同心たちに睨みつけられそうだ。
 俺は玄之介の顔を見て、ちょっと驚いた。
 玄之介の奴、文庫に足を踏み入れた時から、まるで夢を見ているような、ふわふわとした顔つきになっている。
「素晴らしい……。ここに、江戸の総ての記録が収められているんですねえ……。ああ、この記録を総て閲覧できたら……!」
 口調は完全に侍から、現代人になっている。
「だって、お前さん。別の江戸で暮らしていたんじゃないのか? そっちの江戸でも、文庫は、あったはずだが?」
 玄之介は首を振った。残念そうな表情を浮かべている。
「そうなんですが、あっちの江戸じゃ、私ごときが、江戸城に参るなど、夢も夢……。何しろ、与力の役職すら、与えてもらえなかったんです。あちらでは、私は、ただの農民でしてね……。侍になるには、厳しい試験が待っているのですよ」
「そりゃ、初耳だ! どんな試験だい?」
「四書五経を修めているのはもちろん、剣道は少なくとも初段の腕前は必要ですし、家系を調べて、実際に江戸時代に侍の祖先がいると証明できないと、侍の身分は与えられなかったのです。私は調べに調べたのですが、とうとう、侍の先祖を確認できませんでした」
 俺はあまりの馬鹿馬鹿しさに、呆れ果てていた。何という硬直した仕組みだろう。
 思わず、大声を上げていたらしく、あちこちから「しーっ!」「この慮外者!」という叱り声が響く。
 吉川は大慌てに俺たちを手招きする。俺と玄之介は、ちょこちょこと盗っ人のような足取りになって、その場を通り過ぎた。吉川の顔は、怒りのため、真っ赤になっていた。
 一言「お静かに!」と囁いただけで、あとは唇を固く引き結び、顎をぐっと上げて歩き出す。
 むろん、足音は立てない。俺たちも、神妙に従った。
 狭い廊下を歩き、俺たちは《遊客》専用の、資料室に入った。
「では、お調べなされよ! 御両所のお調べが終われば、その壁の……」と、指さす。吉川の指差した方向には、天井から紐が一本、垂らしてあった。
「紐を引けば、拙者に伝わり申す。それでは、よしなに……」
 部屋はごく普通の日本家屋であるが、こちらでは小仏関所にあったのと同じ、書見台を模したディスプレイが並んでいる。
 触筆タッチ・ペンを取り上げ、軽く表面に触れると、いくつもの項目が、ずらずらと並んだ。
 江戸に入府する《遊客》たちは、最初、必ず関所を通過しなければならない。その際、人定調査を受けるから、データは直接、電脳空間を介して、文庫に届けられる。そのデータが、示されるのだ。
 玄之介は早くも、背中を曲げ、食い入るようにしてディスプレイに見入っている。
 俺は、江戸城に登城する前、晶と交わした、短い会話を思い出していた。
「あのう……頼まれて欲しいんだ!」
 晶は、もじもじとして、言い難そうに俺の顔を見上げる。瞳に、必死の色が浮かんでいた。
「何だよ? 言ってみろよ」
「できたら、大工原激{だいくばらげき}っていう名前の《遊客》が、こっちに来ているかどうか、調べて欲しいんだ……」
 俺は拍子抜けした。
「それが、お前の頼みってのか? 名前を調べれば良いのか? 他にはないのか」
 晶は「ないわ!」と首を振る。晶の表情は、俺に断られたらどうしようと、思い悩んでいた。俺は頷いてやった。
「そりゃ、いいが……。そいつは誰だ? お前の、これか?」
 親指を立ててやったら、見る見る晶の顔は真っ赤に染まった。地団太を踏んで、怒りの声を上げる。
「そんなんじゃ、ないったら! あたしのお兄ちゃんなんだ!」
 俺は益々、驚いた。
「お前の兄? どういう事情があるんだ?」
 しかし晶は、俺の問い掛けには一切、答えようとはしなかった。
 いったい、晶はなぜ、調べて欲しいと言い出したのだろう。兄というなら、直接、現実世界で聞き質せば良いのに。それができないのは、どんなわけがあるのやら……。
 まあいい。名前を調べるのは簡単だ。
 俺は索引を呼び出し「大工原」という苗字の《遊客》のデータを参照し始めた。
 と、俺の触筆の動きが止まる。
 隣でディスプレイを見詰める玄之介が、軽い呻き声を上げていた。
「何たる事態だ! 訳が判らん……」
 玄之介の呟きに含まれた感情は、完全な戸惑いであった。俺もまた、同じ感情を味わっている。
 俺と玄之介の目が合った。俺は口を開いた。
「お前さんもか? 信じられないが、お互い、同じ考えらしいな」
 玄之介はゆっくり頷き、返事をした。
「そのようで御座る。拙者の考えが確かなら、紅葉山文庫の《遊客》に対する総ての資料が、何者かの手によって、全面的に削除されております!」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ARIA(アリア)

残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

紺坂紫乃短編集-short storys-

紺坂紫乃
大衆娯楽
2014年から2018年のSS、短編作品を纏めました。 「東京狂乱JOKERS」や「BROTHERFOOD」など、完結済み長編の登場人物が初出した作品及び未公開作品も収録。

処理中です...