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第四回 火付盗賊改方与力と、もう一人の《遊客》登場の巻
六
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松戸検校は、不気味な笑いを浮かべ、俺に顔を向けている。
黒眼鏡が、顔の上と下を、くっきりと分けていた。下半分は笑いを浮かべているが、上半分には笑いはない。
俺は、ひやりとした寒気が、背筋を這い登るのを感じていた。
まさか……。俺を狙っている検校とは、こいつなのか? 俺は、ウカウカと敵の罠に、まっしぐらに飛び込んだのか?
密やかな足音が、背後から近づいてくる。俺は、ぎょっとなって上半身を捻じ向け、足音の主を見た。
式台で、俺たちを出迎えた、あの婦人が手に盆を抱え、廊下に膝をついた。
「お暑いでしょうから、甘酒をお持ちしました」
淑やかにお辞儀をすると、手早く俺たちの前に甘酒の入った湯呑みを配る。
俺は喉がからからに渇いていたので、大喜びで飲み干した。飲み干した瞬間「まさか、毒?」と疑念が湧いたが、もう遅い。俺はいつも、考えなしで行動する。
旨い! 甘酒に、生姜をほんの少し効かせている。甘酒は良く冷えていた。
玄之介は自分の前に湯飲みが置かれると、軽く頭を下げ「御造作をお掛けする」と礼儀正しく挨拶する。晶は、湯呑みの中身を一口そっと含むと、旨さにニッコリと微笑んだ。
甘酒は、江戸では夏バテ防止に効能が顕著な、夏の飲み物で、俳句の季語にもなっている。
先ほどの婦人は、検校の前に徳利と、干鱈を持ってきた。検校は干鱈を毟って徳利を傾け、手酌で飲み始めた。とんだ、生臭坊主である。
ぶわはははは……と、検校が爆笑する。
「知らんでか! 儂は、検校という立場上、お上の役人や、大名と付き合いがあるからのぉ。お主は、創業者の一人として、当然、勤めなければならぬ義務から、逃げ回っておるそうじゃの? 老中どもが、こぼしておったぞ! 鞍家二郎三郎は、気楽な浪人暮らしに、どっぷり浸りおって、お城にも顔を出さぬ、とな!」
検校の言葉に、俺は溜めていた息を吐き出した。
驚かせやがって!
晶は甘酒をちびちびと飲んでいる。ちらりと俺を見て、尋ねる。
「あんたの義務って、何よ?」
「それはな」と検校が応じる。晶に一旦、顔を向け、もう一度さっと俺に顔を戻した。
「こやつは、創業者の一人として、老中を勤めねばならぬ義務があるのよ。何でも、創業者たちは、江戸を治めるため、月番で老中に登板せねばならぬと、決まりを作ったそうじゃ。ところが、こ奴は、一度たりとも、その義務を果たしておらん! のうのうと、気楽な浪人暮らしを楽しんでおるのじゃ!」
晶は、何とも言えない表情を浮かべている。
「ふーん……。あんたって、偉いんだ!」
それにしては、口調にはまるっきり尊敬など含まれていない。俺は苦り切り、検校に向かって口を開く。
「俺の義務は、この際、どうでもいい! あんたには関係ない話だ。それより、聞きたいのは……」
「何じゃ?」
検校は顎を上げた。
「弁天丸という、若い男の名前に、心当たりはないか?」
検校の面つきには、何の変化もなかった。眉一つ動かさない。微かに首を傾げ、思い出そうとしているが、やがて首を振った。
「知らぬな。聞いた名前ではない。船の名前ではないのか?」
「へっ? 舟の名前? 何だ、そりゃ!」
俺は検校の真意が判らない。検校は得々と、俺に向かって薀蓄を垂れる。
「昔の話じゃ! 浦賀に、弁天丸という名前の舟が入っておったが、その舟の水主が、遊ぶ金欲しさに、舟の碇を繋ぐ綱を盗んで売り飛ばしてしまい、見つかり、死罪となった有名な事件がある」
「ふーん」
と、俺は不得了な返事をした。後で調べたのだが、本当にそんな事件があったらしい。死罪になった水主は「ねんごろに弔ってくれれば、首から上の病気を癒す神になろう」と申し出、寿光院に祀られたそうだ。妙な知識を披露する検校では、ある。
「そ奴が、何をしたのじゃ? 儂に、どのような関わりがあるのじゃ?」
検校の声には、微塵も動揺は顕れていない。本当に、知らないらしい。
玄之介は無言のまま、俺に合図した。俺から説明しろと促しているのだ。俺は唇を湿し、最初から話し始めた。
俺の水死体が上がり、再登録のため江戸に入府した早々、弁天丸という若い男が尾行して、俺が締め上げたら「検校」という名前が上がった仔細を喋る。検校は、じっと黙ったまま聞いている。
聞き終わり、検校は口をひん曲げ、不服そうな表情になっていた。
「怪しからぬ! 言うに及んで、検校という名前を騙るとは! 弁天丸とか申す、ヤクザ者の黒幕なのか、検校とは?」
喋っているうちに激昂してきたのか、段々剃り上げた頭が紅潮すると、蟀谷に太い血管が浮く。
俺は頷いた。
「おそらくな。だが、なぜ俺に尾行をつけたのか、さっぱり判らねえ!」
玄之介は、ひっそりとした笑い声を上げる。
「多分、そ奴が鞍家殿を殺した相手なら、《遊客》なら再び江戸に舞い戻ると予測したのではないのかな? 舞い戻るには、必ず高輪の大木戸を潜るはずと、弁天丸なる男を差し向けたのでしょう」
「確認するためか!」
俺は、ぽかりと、自分の頭を殴りつけた。
まったく、言われてみれば、馬鹿みたいに簡単な種明かしである。玄之介に指摘されないと、判らないとは、俺は何と間抜けなのだろう。
検校は鼻を鳴らした。
「糞面白くもない! ただ検校という名前が出たから、儂に面会を申し出たのか? まったく、手懸りとしては信じられぬほど、頼りない糸じゃのう……」
俺は、相槌を打っていた。
「まったくだ。あんたに何の関係もないのは、予想できたが、念のためだ。悪く思わないでくれ」
検校はむっつりと、手酌で酒を飲んでいた。返事をするのも、面倒らしい。
さて、これからどうしようかと俺が思い悩んだその時、玄関の方角から、ばたばたという、誰かが駆け込む音が聞こえてくる。
検校が、くいっ、と顔を上げた。
玄関から、誰かの呼び声が聞こえる。
「検校様──っ! 大変だあ! ちょっと助けておくんなせえ!」
口調から推測すると、町人らしい。
検校は急に活き活きとして、素早く立ち上がった。足早に玄関に向かいつつ、吠えるように喚き返す。
「何じゃ、騒がしい!」
俺は立ち上がり、検校の後を追った。背後から、玄之介と、晶が従いてくる。
玄関に辿り着くと、式台に片手をついた、町人らしき若い男が、顔中を口にして喚いていた。
「喧嘩だあっ! 臥煙と、旗本奴の連中が睨み合って、今にも喧嘩をおっ始めそうだ!」
「喧嘩だとおっ?」
怒鳴り返す検校の顔は、喜びに溢れている。
黒眼鏡が、顔の上と下を、くっきりと分けていた。下半分は笑いを浮かべているが、上半分には笑いはない。
俺は、ひやりとした寒気が、背筋を這い登るのを感じていた。
まさか……。俺を狙っている検校とは、こいつなのか? 俺は、ウカウカと敵の罠に、まっしぐらに飛び込んだのか?
密やかな足音が、背後から近づいてくる。俺は、ぎょっとなって上半身を捻じ向け、足音の主を見た。
式台で、俺たちを出迎えた、あの婦人が手に盆を抱え、廊下に膝をついた。
「お暑いでしょうから、甘酒をお持ちしました」
淑やかにお辞儀をすると、手早く俺たちの前に甘酒の入った湯呑みを配る。
俺は喉がからからに渇いていたので、大喜びで飲み干した。飲み干した瞬間「まさか、毒?」と疑念が湧いたが、もう遅い。俺はいつも、考えなしで行動する。
旨い! 甘酒に、生姜をほんの少し効かせている。甘酒は良く冷えていた。
玄之介は自分の前に湯飲みが置かれると、軽く頭を下げ「御造作をお掛けする」と礼儀正しく挨拶する。晶は、湯呑みの中身を一口そっと含むと、旨さにニッコリと微笑んだ。
甘酒は、江戸では夏バテ防止に効能が顕著な、夏の飲み物で、俳句の季語にもなっている。
先ほどの婦人は、検校の前に徳利と、干鱈を持ってきた。検校は干鱈を毟って徳利を傾け、手酌で飲み始めた。とんだ、生臭坊主である。
ぶわはははは……と、検校が爆笑する。
「知らんでか! 儂は、検校という立場上、お上の役人や、大名と付き合いがあるからのぉ。お主は、創業者の一人として、当然、勤めなければならぬ義務から、逃げ回っておるそうじゃの? 老中どもが、こぼしておったぞ! 鞍家二郎三郎は、気楽な浪人暮らしに、どっぷり浸りおって、お城にも顔を出さぬ、とな!」
検校の言葉に、俺は溜めていた息を吐き出した。
驚かせやがって!
晶は甘酒をちびちびと飲んでいる。ちらりと俺を見て、尋ねる。
「あんたの義務って、何よ?」
「それはな」と検校が応じる。晶に一旦、顔を向け、もう一度さっと俺に顔を戻した。
「こやつは、創業者の一人として、老中を勤めねばならぬ義務があるのよ。何でも、創業者たちは、江戸を治めるため、月番で老中に登板せねばならぬと、決まりを作ったそうじゃ。ところが、こ奴は、一度たりとも、その義務を果たしておらん! のうのうと、気楽な浪人暮らしを楽しんでおるのじゃ!」
晶は、何とも言えない表情を浮かべている。
「ふーん……。あんたって、偉いんだ!」
それにしては、口調にはまるっきり尊敬など含まれていない。俺は苦り切り、検校に向かって口を開く。
「俺の義務は、この際、どうでもいい! あんたには関係ない話だ。それより、聞きたいのは……」
「何じゃ?」
検校は顎を上げた。
「弁天丸という、若い男の名前に、心当たりはないか?」
検校の面つきには、何の変化もなかった。眉一つ動かさない。微かに首を傾げ、思い出そうとしているが、やがて首を振った。
「知らぬな。聞いた名前ではない。船の名前ではないのか?」
「へっ? 舟の名前? 何だ、そりゃ!」
俺は検校の真意が判らない。検校は得々と、俺に向かって薀蓄を垂れる。
「昔の話じゃ! 浦賀に、弁天丸という名前の舟が入っておったが、その舟の水主が、遊ぶ金欲しさに、舟の碇を繋ぐ綱を盗んで売り飛ばしてしまい、見つかり、死罪となった有名な事件がある」
「ふーん」
と、俺は不得了な返事をした。後で調べたのだが、本当にそんな事件があったらしい。死罪になった水主は「ねんごろに弔ってくれれば、首から上の病気を癒す神になろう」と申し出、寿光院に祀られたそうだ。妙な知識を披露する検校では、ある。
「そ奴が、何をしたのじゃ? 儂に、どのような関わりがあるのじゃ?」
検校の声には、微塵も動揺は顕れていない。本当に、知らないらしい。
玄之介は無言のまま、俺に合図した。俺から説明しろと促しているのだ。俺は唇を湿し、最初から話し始めた。
俺の水死体が上がり、再登録のため江戸に入府した早々、弁天丸という若い男が尾行して、俺が締め上げたら「検校」という名前が上がった仔細を喋る。検校は、じっと黙ったまま聞いている。
聞き終わり、検校は口をひん曲げ、不服そうな表情になっていた。
「怪しからぬ! 言うに及んで、検校という名前を騙るとは! 弁天丸とか申す、ヤクザ者の黒幕なのか、検校とは?」
喋っているうちに激昂してきたのか、段々剃り上げた頭が紅潮すると、蟀谷に太い血管が浮く。
俺は頷いた。
「おそらくな。だが、なぜ俺に尾行をつけたのか、さっぱり判らねえ!」
玄之介は、ひっそりとした笑い声を上げる。
「多分、そ奴が鞍家殿を殺した相手なら、《遊客》なら再び江戸に舞い戻ると予測したのではないのかな? 舞い戻るには、必ず高輪の大木戸を潜るはずと、弁天丸なる男を差し向けたのでしょう」
「確認するためか!」
俺は、ぽかりと、自分の頭を殴りつけた。
まったく、言われてみれば、馬鹿みたいに簡単な種明かしである。玄之介に指摘されないと、判らないとは、俺は何と間抜けなのだろう。
検校は鼻を鳴らした。
「糞面白くもない! ただ検校という名前が出たから、儂に面会を申し出たのか? まったく、手懸りとしては信じられぬほど、頼りない糸じゃのう……」
俺は、相槌を打っていた。
「まったくだ。あんたに何の関係もないのは、予想できたが、念のためだ。悪く思わないでくれ」
検校はむっつりと、手酌で酒を飲んでいた。返事をするのも、面倒らしい。
さて、これからどうしようかと俺が思い悩んだその時、玄関の方角から、ばたばたという、誰かが駆け込む音が聞こえてくる。
検校が、くいっ、と顔を上げた。
玄関から、誰かの呼び声が聞こえる。
「検校様──っ! 大変だあ! ちょっと助けておくんなせえ!」
口調から推測すると、町人らしい。
検校は急に活き活きとして、素早く立ち上がった。足早に玄関に向かいつつ、吠えるように喚き返す。
「何じゃ、騒がしい!」
俺は立ち上がり、検校の後を追った。背後から、玄之介と、晶が従いてくる。
玄関に辿り着くと、式台に片手をついた、町人らしき若い男が、顔中を口にして喚いていた。
「喧嘩だあっ! 臥煙と、旗本奴の連中が睨み合って、今にも喧嘩をおっ始めそうだ!」
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