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第一章 姫城主
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ここは立花山に築かれた、山城で、立花城、または立花山城と呼ばれている。立花山があるのは、筑前国糟屋郡で、博多湾に臨む標高百丈ほどの小山だ。山肌には楠が密生し、他にはない、立花山の特徴となっている。
博多湾を見下ろす高台に位置するため、軍略上も極めて重要な拠点となっている。
古くはこの時点から二百年前、元徳年間に、大友氏が城を築き、立花氏を名乗った。
以来、大友、毛利、尼子の戦いの焦点となり、立花山城を支配する権利を巡って、戦いが絶え間なかった。
誾千代の父、道雪──歴史では立花道雪と記される。が、道雪自身は、一度も立花姓を名乗った記録はなく、戸次の姓を使っていた──が毛利方より、立花山城を奪還した元亀二年に、大友氏より褒章として、立花山城を贈られている。
渡り廊下を、自室へ急ぐ誾千代も、後代では立花誾千代と記されるが、誾千代自身、その名前を名乗った事実はなかった。
廊下を歩く誾千代の周囲に、次々と城に住まう侍女が近づき、素早い動きで誾千代の着替えを始めた。小袖を脱がせ、袴を下ろし、内掛けを背後から着せ掛ける。
額や、背中に流れた汗を手早く拭い、背中で束ねた髪の毛を解き、あっという間に、誾千代は立花山城主に相応しい、姫姿となった。
そう、誾千代は、この立花城主だった。女の身で城主になった例は、日本の歴史でも稀であろう。
父の道雪に、男子の実子がなく、養子を採る話もあったのだが、結局、実現せず、そのために唯一の実子である誾千代を後継として指名し、正式な立花城主とした。
侍女たちの世話に、誾千代は一切、表情を変えず、耐えている。本当は「皆下がれ! 世話を焼くな!」と叫びたいのだが、父の道雪から、「立花山城の城主として相応しい行動をとれ」と厳命されているから、必死に自分を抑えている。
世話を焼く侍女の一人が、誾千代に向かって、鏡を差し出した。
誾千代は、差し出された鏡を覗き込んだ。
ふっくらとした頬の、十四歳相当の娘の顔が、自分を見返してくる。濃い眉は真っ直ぐで、両の瞳はきらきらと輝き、内面の熱情を映し出しているようだった。
髪の毛はかなりの癖毛で、侍女たちが丹念に、真っ直ぐにしようと櫛を当てるのだが、侍女たちの努力を嘲笑うように、いつもくるくると巻き毛に戻ってしまう。
だが誾千代の髪で、特に印象に残るのは、額近くから伸びている、一筋の白髪だった。
なぜか、誾千代の髪の毛には、一筋、真っ白な白髪が混じっていた。白髪は生まれた時から存在して、誾千代の癖毛もあって、細かな波を打ち、まるで真っ黒な闇に走る、稲妻のようだった。
父親の道雪は、娘の髪にきらきらと輝く白髪を一目見て「誾千代と名付ける」と宣言した。なぜか、道雪には、娘の白髪に何か、心当たりがあったようだった。
誾──慎んで他人の言葉を聞く──奇妙な命名である。なぜ、この字を選んだのであろうか?
門構えに「言」の字が入っている。まるで湧き上がる言葉を、門で押さえている、そんな印象がある文字ではないか?
「お髪はいかが、致しましょう?」
侍女が顔を近づけ、囁いた。暗に、誾千代の白髪を、黒く染めようと提案している。
誾千代は軽く顔を左右に振り、煩そうに答えた。
「このままで、良い」
侍女の顔に、がっかりとした表情が、ありありと浮かんだ。侍女たちは口々に、誾千代の髪の毛に走る一筋の白髪を「玉に瑕だ」と騒ぐ。髪を染めれば、どんな殿方でも虜にする美貌を、誾千代は持ち合わせているのに、勿体ないと嘆くのが、常だった。
誾千代には、殿方がどう考えようが、一切、興味がなかった。それより、剣術の稽古をしている時間が、なにより面白いと思う。自分が女として、どれほどの魅力があるかなど、関心は一欠片も存在しなかった。
侍女たちの世話焼きに、そろそろ忍耐の糸が切れかけた頃、誾千代の耳は、近づく足音を捉えていた。
音の方向に、誾千代が顔を向けると、侍女たちの顔に、怖れに似た表情が浮かんだ。侍女たちも、近づく足音の主が判別したらしい。
早々と侍女たちは誾千代に向かって、頭を下げ、次々と部屋を出て行く。入れ替わりに、どすどすと、板張りの廊下を踏み締め、一人の老人が、ぬっと姿を現した。
「誾千代、喜べ! 吉報じゃぞ!」
つるりとした禿頭に、真っ白な揉み上げを伸ばし、太い眉の下には、炯々とした良く光る目をした、胆力の塊、といった印象の老人だった。
どすんっ、と足を踏み締め、踊るような足取りで、老人は部屋に入り込むと、どっかりと誾千代の正面に座を取った。
顔つきは怒っているように険しいが、これが老人の特別な笑顔であるとは、誾千代は経験上、悟っていた。
「父上、吉報とは?」
老人は誾千代の父親、戸次道雪であった。
戸次道雪、永正十(一五一三)年生まれの、六十九歳。後に「戦国時代」と称されるこの時代の人間としては、別格ともいえる、長寿を誇っている。
道雪は、ぐっと顔を突き出し、吠え立てるように誾千代に話し掛けた。
「お前の聟が決まった! 来月、聟殿が、この立花山城へ登城なさる。これで我が、戸次家も安泰じゃ!」
一息に喋ると、天井を仰ぎ、呵呵大笑した。
博多湾を見下ろす高台に位置するため、軍略上も極めて重要な拠点となっている。
古くはこの時点から二百年前、元徳年間に、大友氏が城を築き、立花氏を名乗った。
以来、大友、毛利、尼子の戦いの焦点となり、立花山城を支配する権利を巡って、戦いが絶え間なかった。
誾千代の父、道雪──歴史では立花道雪と記される。が、道雪自身は、一度も立花姓を名乗った記録はなく、戸次の姓を使っていた──が毛利方より、立花山城を奪還した元亀二年に、大友氏より褒章として、立花山城を贈られている。
渡り廊下を、自室へ急ぐ誾千代も、後代では立花誾千代と記されるが、誾千代自身、その名前を名乗った事実はなかった。
廊下を歩く誾千代の周囲に、次々と城に住まう侍女が近づき、素早い動きで誾千代の着替えを始めた。小袖を脱がせ、袴を下ろし、内掛けを背後から着せ掛ける。
額や、背中に流れた汗を手早く拭い、背中で束ねた髪の毛を解き、あっという間に、誾千代は立花山城主に相応しい、姫姿となった。
そう、誾千代は、この立花城主だった。女の身で城主になった例は、日本の歴史でも稀であろう。
父の道雪に、男子の実子がなく、養子を採る話もあったのだが、結局、実現せず、そのために唯一の実子である誾千代を後継として指名し、正式な立花城主とした。
侍女たちの世話に、誾千代は一切、表情を変えず、耐えている。本当は「皆下がれ! 世話を焼くな!」と叫びたいのだが、父の道雪から、「立花山城の城主として相応しい行動をとれ」と厳命されているから、必死に自分を抑えている。
世話を焼く侍女の一人が、誾千代に向かって、鏡を差し出した。
誾千代は、差し出された鏡を覗き込んだ。
ふっくらとした頬の、十四歳相当の娘の顔が、自分を見返してくる。濃い眉は真っ直ぐで、両の瞳はきらきらと輝き、内面の熱情を映し出しているようだった。
髪の毛はかなりの癖毛で、侍女たちが丹念に、真っ直ぐにしようと櫛を当てるのだが、侍女たちの努力を嘲笑うように、いつもくるくると巻き毛に戻ってしまう。
だが誾千代の髪で、特に印象に残るのは、額近くから伸びている、一筋の白髪だった。
なぜか、誾千代の髪の毛には、一筋、真っ白な白髪が混じっていた。白髪は生まれた時から存在して、誾千代の癖毛もあって、細かな波を打ち、まるで真っ黒な闇に走る、稲妻のようだった。
父親の道雪は、娘の髪にきらきらと輝く白髪を一目見て「誾千代と名付ける」と宣言した。なぜか、道雪には、娘の白髪に何か、心当たりがあったようだった。
誾──慎んで他人の言葉を聞く──奇妙な命名である。なぜ、この字を選んだのであろうか?
門構えに「言」の字が入っている。まるで湧き上がる言葉を、門で押さえている、そんな印象がある文字ではないか?
「お髪はいかが、致しましょう?」
侍女が顔を近づけ、囁いた。暗に、誾千代の白髪を、黒く染めようと提案している。
誾千代は軽く顔を左右に振り、煩そうに答えた。
「このままで、良い」
侍女の顔に、がっかりとした表情が、ありありと浮かんだ。侍女たちは口々に、誾千代の髪の毛に走る一筋の白髪を「玉に瑕だ」と騒ぐ。髪を染めれば、どんな殿方でも虜にする美貌を、誾千代は持ち合わせているのに、勿体ないと嘆くのが、常だった。
誾千代には、殿方がどう考えようが、一切、興味がなかった。それより、剣術の稽古をしている時間が、なにより面白いと思う。自分が女として、どれほどの魅力があるかなど、関心は一欠片も存在しなかった。
侍女たちの世話焼きに、そろそろ忍耐の糸が切れかけた頃、誾千代の耳は、近づく足音を捉えていた。
音の方向に、誾千代が顔を向けると、侍女たちの顔に、怖れに似た表情が浮かんだ。侍女たちも、近づく足音の主が判別したらしい。
早々と侍女たちは誾千代に向かって、頭を下げ、次々と部屋を出て行く。入れ替わりに、どすどすと、板張りの廊下を踏み締め、一人の老人が、ぬっと姿を現した。
「誾千代、喜べ! 吉報じゃぞ!」
つるりとした禿頭に、真っ白な揉み上げを伸ばし、太い眉の下には、炯々とした良く光る目をした、胆力の塊、といった印象の老人だった。
どすんっ、と足を踏み締め、踊るような足取りで、老人は部屋に入り込むと、どっかりと誾千代の正面に座を取った。
顔つきは怒っているように険しいが、これが老人の特別な笑顔であるとは、誾千代は経験上、悟っていた。
「父上、吉報とは?」
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道雪は、ぐっと顔を突き出し、吠え立てるように誾千代に話し掛けた。
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