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無縁坂
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父と母は運命の番らしいけれども、幼少期の俺から見ても不仲だった。
孤児で後ろ盾もない男Ωの母を、運命だからと無理矢理襲っておきながら子供を産んだらもうΩとして見られないと別の女Ωと番った、見た目だけが美しい父。
父を誑かした金目当てのブスな淫売だと、見当違いな責めをする祖母。
それでも母は、気丈だった。
父の地元はそこそこ坂の多い街で、その中でも祖母の家の前の坂が一等険しかった。
ただでさえ祖母からの嫌がらせや罵倒で疲弊しているのに、長い長い坂を登らなくてはいけなくて。
それでも母は幼い俺の手を引いて、俺が疲れた時には俺を抱き上げて坂を登ってくれていた。
母は病弱とまではいかないが、それでもか弱い人だった。
そんな彼にとって、あの坂そのものが鬼門だというのに、それでも母はいつも溜息を吐くだけに留めていた。
『後ろは見ちゃダメだ。後ろを見たら辛くなるだけ。前を見なさい。』
どこまで登れたのか振り向こうとする俺に、母は優しく諭すようにそう言って笑った。
母は美しい訳でも、可愛い訳でもない。
かといって、醜い訳でもない。
ともすればβと見間違えることもあろう程に、至って平凡な容姿であったが、俺にとっては一等美しく、愛らしい人だった。
『辛いなら、溜息を吐きなさい。それで済むから。』
母は俺の手を引きながら、いつもそう言って笑った。
果たして本当にそうなのだろうかと、俺は未だに疑問に思う。
運が悪かったとしか言いようのない母の人生は、溜息一つで済むような、そんなささやかなものでは無い筈なのに。
「………母さん。」
棺に眠る母の美しく白い手を取る。
幼い頃は大きく感じていた手は、今冷たく、そして小さかった。
母が亡くなったことは、父には報せていない。
やっと解放されたのに、死後も煩わしい思いをさせたくなかったから。
否、それは俺の独断だ。
母はきっと、呼んで欲しかったろうと思う。
晩年、母の意識が緩やかに死の森に迷い込む時間が増えていく中で荷物を整理した際、数冊の母の手帳を見付けた。
それは母がまだ父と出逢う前から、もはやペンも持てなくなるその瞬間までが記された、母の人生そのものであった。
さぞや恨み辛みが刻まれているであろうそこにあったのは、ささやかで、それでいて温かな愛ばかりだった。
特に父と出逢ってからの手帳には、溢れんばかりの父への愛が刻まれていた。
あんなにも理不尽な目に遭わされていたというのに。
他のΩとも番ったような最低のαなのに。
そのΩからも嫌がらせをされ続けたというのに。
それでも母は、きっと最期まで、父を愛し続けたのだろう。
なんと愚かで、健気なΩか。
数ある手帳の中で、俺は一冊だけを棺の中に入れた。
それは父が僅かでも母に愛を返していた頃の、短い期間の記録達だった。
母は今から独りで黄泉路へと経つのだ。
ならば伴とするものは、柔らかくも温かい、刹那の幻だけで良い。
孤児で後ろ盾もない男Ωの母を、運命だからと無理矢理襲っておきながら子供を産んだらもうΩとして見られないと別の女Ωと番った、見た目だけが美しい父。
父を誑かした金目当てのブスな淫売だと、見当違いな責めをする祖母。
それでも母は、気丈だった。
父の地元はそこそこ坂の多い街で、その中でも祖母の家の前の坂が一等険しかった。
ただでさえ祖母からの嫌がらせや罵倒で疲弊しているのに、長い長い坂を登らなくてはいけなくて。
それでも母は幼い俺の手を引いて、俺が疲れた時には俺を抱き上げて坂を登ってくれていた。
母は病弱とまではいかないが、それでもか弱い人だった。
そんな彼にとって、あの坂そのものが鬼門だというのに、それでも母はいつも溜息を吐くだけに留めていた。
『後ろは見ちゃダメだ。後ろを見たら辛くなるだけ。前を見なさい。』
どこまで登れたのか振り向こうとする俺に、母は優しく諭すようにそう言って笑った。
母は美しい訳でも、可愛い訳でもない。
かといって、醜い訳でもない。
ともすればβと見間違えることもあろう程に、至って平凡な容姿であったが、俺にとっては一等美しく、愛らしい人だった。
『辛いなら、溜息を吐きなさい。それで済むから。』
母は俺の手を引きながら、いつもそう言って笑った。
果たして本当にそうなのだろうかと、俺は未だに疑問に思う。
運が悪かったとしか言いようのない母の人生は、溜息一つで済むような、そんなささやかなものでは無い筈なのに。
「………母さん。」
棺に眠る母の美しく白い手を取る。
幼い頃は大きく感じていた手は、今冷たく、そして小さかった。
母が亡くなったことは、父には報せていない。
やっと解放されたのに、死後も煩わしい思いをさせたくなかったから。
否、それは俺の独断だ。
母はきっと、呼んで欲しかったろうと思う。
晩年、母の意識が緩やかに死の森に迷い込む時間が増えていく中で荷物を整理した際、数冊の母の手帳を見付けた。
それは母がまだ父と出逢う前から、もはやペンも持てなくなるその瞬間までが記された、母の人生そのものであった。
さぞや恨み辛みが刻まれているであろうそこにあったのは、ささやかで、それでいて温かな愛ばかりだった。
特に父と出逢ってからの手帳には、溢れんばかりの父への愛が刻まれていた。
あんなにも理不尽な目に遭わされていたというのに。
他のΩとも番ったような最低のαなのに。
そのΩからも嫌がらせをされ続けたというのに。
それでも母は、きっと最期まで、父を愛し続けたのだろう。
なんと愚かで、健気なΩか。
数ある手帳の中で、俺は一冊だけを棺の中に入れた。
それは父が僅かでも母に愛を返していた頃の、短い期間の記録達だった。
母は今から独りで黄泉路へと経つのだ。
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