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48.運命の日
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あれから、先輩は僕の前に姿を見せていない。
本当は、寮に帰った後、とんでもないことをしてしまったと思って震えていたんだけど、先輩が僕を待ち伏せたり、アーネスト様に抗議をしたりすることはなかった。
アーネスト様には、勝手に大変なことを漏らしてしまったことを謝ったけど、アーネスト様は気にするなと慰めてくれただけで、特に問題にした様子も見えない。本当に、大丈夫なんだろうか。
不安を抱えたままテストを終え、気付いたらもう夏季休暇前のパーティーを目前に控えていた。
僕は何だか怖くて、参加せずに待っていようかと思ったんだけど、アーネスト様に衣裳を用意して頂いたら、そういうわけにもいかない。
アーネスト様をガッカリさせたくなくて、僕は請われるまま迎えに来たアーネスト様の馬車へ乗った。
王家の馬車に乗るなんて、普通なら恐れ多くてとてもできないけど、アーネスト様と一緒にいるためと思えば怖くない。これから僕は、アーネスト様の婚約者になるんだから、こんなことぐらいで怖気づいちゃいけないんだ。
さっき教室で見たレニオール様は、僕達のしようとしていることをご存じないのか、何だかとても楽しそうにしていた。夏休みに、何か楽しい予定が入っているのかな。
もしそうだったら、これから騒ぎを起こすのが水を差すようで申し訳ない。
僕は今更ながらにこんな日をわざわざ選ばなくてもいいんじゃないかと思ったけど、すぐに思い直した。
レニオール様は、アーネスト様との婚約破棄を望んでいらっしゃるんだ。そのために、あんな大変な思いをしてまで僕を気遣って下さったんだもの。
夏休み前にそのご希望が叶えば、むしろあの方にとっては最高のプレゼントになる。
レニオール様の本当の望みを知らない周囲は、婚約破棄について口さがないことを言うかもしれないし、学内で噂になるかもしれない。
それも、すぐに長期の休みに入れば少しは落ち着くだろうし、ご実家のノクティス公爵が良い落としどころを見つけて収めて下さるかもしれない。アーネスト様も、悪いようにはしないと仰っていたんだ。
そう思うと、もうこの時しかないというほど絶好のタイミングに思える。
僕はともすれば下がりそうになる眉尻を無理矢理引き締めて、会場へと足を踏み入れた。
********************
会場には既に大勢の生徒が集まっていて、入場してきた僕たちは当然のごとく注目を集めた。
王太子であり、生徒会長でもあるアーネスト様の入場だから当然のことだ。そして、当たり前みたいにくっついてる僕にも、あからさまではないけどあんまり好意的ではない視線が送られる。
一瞬足がすくみそうになったけど、アーネスト様が優しく手を取ってエスコートしてくださったから、僕は平静を取り戻して足を進めることができた。
これから起こることを僕は知っているけど、アーネスト様がどのタイミングで何を話すのかは何も知らされていない。
僕の手を引いたまま壇上へ上がろうとしたアーネスト様に、僕は戸惑いの声を上げたけれど、アーネスト様は問題ないと仰って唇を綻ばせた。
そう言われると、僕はもうアーネスト様を信じるより他ない。初めて上がる壇上はそれなりに高くて、会場が良く見廻せて、不思議とごった返す生徒たちの顔がよくわかった。こんな風に見えてるんだ。
その中に先輩の姿を見つけて、僕は身を固くした。視界の端に入れただけで、胸の奥がざわめくのがわかる。
僕にとって、先輩はなんなんだろう。僕が好きなのはアーネスト様なのに、前の僕だってそうだったに違いないのに、なのにどうしてこんなに胸が騒ぐのか。
僕はそっと先輩から目を晒し、落ち着けと何度も自分に言い聞かせた。
今は、ほんとに大事な時なんだから、この間みたいに訳も分からず騒ぎ立ててしまうようなことになったら困る。
無意識にぎゅっとアーネスト様の腕を掴む手に力が籠り、それを感じ取ったのかアーネスト様はそっと僕を離すと、壇上の生徒に挨拶を始めた。
入学して一期を無事に過ごした生徒へのねぎらいと、長期休暇をどう過ごすべきかという心構え、そして慰労と社交のためのこの催しを楽しんでほしいという言葉で挨拶は締め括られる。
内容としてはそれほど目新しいものではないけど、しっかりと聞かせる力を持っているのは流石だ。
凄いなぁ、なんてぼんやりと暢気に眺めていたら、アーネスト様は徐に言葉を続ける。
「―――――これは私事ではあるが、この場に居合わせた皆にもその証人になってほしい。レニオール・ノクティス!壇上に上がれ」
きた。緊張して汗ばむ僕とは対照的に、レニオール様は平然とした態度で壇上へと上がってきた。その足取りは、いつもより優雅に見える。
そして、アーネスト様の前まで来ると、軽く一礼をした。
「どういった御用でしょうか、アーネスト様」
アーネスト様はそんなレニオール様を見て軽く眉を顰める。
「何故自分が呼ばれたか、お前が一番よくわかっているはずだが」
「さて、一体なんのことでしょうか。見当もつきません」
レニオール様は小首を傾げてアーネスト様を見る。いつもの小動物みたいなレニオール様らしくなく、どことなく含みがある笑みだった。
「自ら罪を認める気はないと言うわけだな」
「その罪とやらに覚えがありませんので」
アーネスト様が短く息を吐き、空を切るように大きく腕を振る。
僕はびっくりしてしまって、思わずアーネスト様に抱き着いた。まさか、レニオール様に暴力を振るうわけではないと思うけど、そんなことになったら困る。そうなったら、身を挺してでもお止めしなきゃ。
「レニオール!お前には心底愛想が尽きた!私の友人であるマリクに対する嫌がらせの数々、目に余る」
「まことに申し訳ございません」
え、嫌がらせ?なんのこと??レニオール様が、僕に??そんなの知らない。
レニオール様は、僕の机を綺麗にして僕を庇ってくれたいい人だ。これは完全な濡れ衣だよ。
僕は慌ててそれは誤解だと言おうとしたんだけど、レニオール様はあっさりと非を認めてしまう。
嘘だ。そんなの嘘だよ。どうしてそんな嘘をつくんですか、レニオール様。
僕のその疑問は、レニオール様を見た瞬間に消えた。
だって、レニオール様の表情は期待に満ち溢れていて、くりくりしたつぶらな瞳は、キラキラ輝いていたから。
きっと、レニオール様はこの状況を好機と思っているんだ。
それなら、僕はせめてレニオール様が周りから悪く思われないよう、略奪者としてふてぶてしい悪女を演じなきゃ。
僕はあからさまにアーネスト様に身をすり寄せ、得意げな顔を作って見せた。
「謝って済むことではない!お前のような穢れた心根の持ち主は私の婚約者としてふさわしくない。よって――――」
いよいよ婚約破棄を言い渡すかと思われたアーネスト様の言葉が、不意に途切れる。
僕は心配になって、アーネスト様の袖を引いた。
「アーネスト様、大丈夫ですか?ご気分でも……」
僕が呼びかけても、アーネスト様は全く反応しない。頭が痛いのか額を抑え、じっと黙っている。
さすがにレニオール様もアーネスト様を気遣い、心配げな様子でアーネスト様に歩み寄られ、そっとその顔を覗きこんだ。
その時だった。アーネスト様は僕の手を振り払い、両手でレニオール様の手を掴み、真っ直ぐにその目を見据えて叫んだ。
「レニたん!!!!!!!!!!!!!!!!」
え、なに。一体、どういうこと????
多分、この会場のアーネスト様以外の全てがそう思っていたと思う。
れにたん??れにたんって、なに??もしかして、レニオール様のこと??でも、『たん』ってなに??
その呼び方と、いつも冷静沈着でやや神経質なアーネスト様のイメージが一致せず、脳が理解を拒んでいる。
呼ばれた当のご本人であるレニオール様さえ、同じように顔を引き攣らせていた。
そんな周囲の反応をものともせず、アーネスト様はものすごい勢いで捲し立てる。
「やっべ実物のレニたんめちゃくちゃカワユす、かおちっちゃ、手ェすべすべ」
慄くレニオール様を無視して、アーネスト様はレニオール様の手を撫でさする。
その尋常でない様子に、僕は慌ててアーネスト様に縋り付いた。
「アーネスト様、どうなさったんですか!?どうか正気に戻ってください!!」
アーネスト様は今気づいたと言うように僕を見る。その目はまるで無価値なものを見るみたいに冷たくて、さっきまで僕に微笑んでくれていたアーネスト様とは別人のようだった。
そして、縋り付いた僕を捨てるように、勢いよく腕を振った。その力はものすごくて、僕はあっさりと壇上の端に投げ捨てられる。
叩きつけられた床の硬さと冷たさ。アーネスト様は僕に一瞥もくれず、レニオール様に夢中になっていた。
なんで?どうして???あんなに僕のこと好きだって、一緒に居たいって言ってくれたのに。
優しく微笑み、僕を失うことを恐れていたあの人は、一体どうしてしまったんだろう。
あまりにも一瞬のことで、僕は何が何だか全くわからなかった。けれど、ただひとつ言えることは、もうアーネスト様は僕を助け起こしてはくれないということだ。
目の前が真っ暗になって、目の奥が燃えるように熱くなった。僕の喉からは知らず叫びのような声が発され、夥しい涙が頬を濡らして行く。
そんな僕に一瞥すら向けず、アーネスト様はレニオール様に愛おしげに頬ずりし、もう二度と離さないと楽しそうに誓いの言葉を囁いている。僕にくれたはずの約束は、いとも簡単にレニオール様のものになった。
悲しいとか、辛いとか、そういう何かを越えた何かが自分を突き動かしているのを、僕は感じていた。
それはとても静かで、なのに底の見えない沼のようにどろどろとしていて、どす黒いそれは胸の奥底から際限なく湧き上がり、ひとつ叫びを上げるごとに心を絶望で塗りつぶしていく。
この世界に、今の僕を必要とする人は一人もいなくなった。
それなら、僕もこんな世界はいらない。僕が消えてしまうのか、それとも世界がなくなってしまうかはわからないけど、今の僕には何もかもどうでもよかった。そんなことを気にして何になる。
「マリク!大丈夫か、マリク」
いつの間にか壇上に上がっていた先輩が僕を助け起こしてくれたけど、僕の心は沼に沈んだままだった。
僕は知っている。この人も、僕を必要としていないことを。この人はただ、僕ではない僕のためにそうしているだけなんだ。この人の手を取れば、きっとまたアーネスト様と同じように僕を振り捨てていくことだろう。もう裏切られるのはごめんだ。
何だろう。何だか背中が熱い。肩甲骨のあたりが疼いて、そこから何かが溢れ出しそうになっているのを感じる。
頭の奥で誰かがやめろと叫んでいるけど、今の僕にはただのノイズと変わらなかった。うっすらときっと昔の僕なんだろうと思うけど、知るもんか。皆に望まれている奴なんかに、僕の気持ちはわからない。止めたければ、僕を押し退けて出てくればいい。
自分の身に何が起こっているのかも知らないくせに、僕はそう思った。これから起こることが僕にとって良くないことで、その結果何があっても構わなかったから。
僕は助け起こしてくれた先輩の腕を振り払って、跳ね起きるように立ち上がった。右足首に痛みが走ったけど、どうしてかあまり気にならない。それよりも、気遣わしげな先輩の視線の方がずっと不快に思える。
その視線から逃れるために、僕はその場から逃げだした。
会場内の好奇の視線の半分は惨めな敗残者である僕に注がれ、誰もが道を開けてくれるかわりに、クスクスという嘲笑が浴びせられる。そのたびに、背中が燃えるように熱くなった。
会場を飛び出して誰もいないテラスに出たところで、後ろから追って来ていた先輩に腕を掴まれる。相変わらずの馬鹿力だ。
「いい気味だと思っているんでしょう?」
僕が唐突に発した言葉に、先輩は一瞬理解しかねたようだった。
「あなたの忠告も聞かないで、一人で勝手に愛だのなんだの大騒ぎして、挙句あっさり捨てられるなんて、さぞ滑稽でしょうね」
「そんなことは思っていない」
「まだ偽善ぶるつもりですか?あんなに大見得を切ってあなたを侮辱した僕に、怒っていたんじゃないんですか?だから、急に顔を見せなくなったんでしょう」
「それは違う!あれは――――君のいうことが、尤もだと思って。君が記憶を失ってから、君に対しての自分の振る舞いを振り返ると、思い当たることばかりだった。本当に申し訳ない」
「は……」
「私は以前の君にも本当に失礼なことばかりしてしまって、いつも怒らせてばかりだったし、そのために記憶を失わせてしまったのだと後悔していた。勿論今もだ。だから、今の君と以前の君を分けて考えることができなくて、知らぬ間に君を追いつめ、悲しませてしまった。私は本当に人の心の機微に疎い男だ。君の心がアーネスト様に傾くのも仕方ない」
先輩は、大真面目な顔で滔々と語り続ける。その顔があまりにも生真面目で、僕は毒気を抜かれてしまう。
この状況で僕がアーネスト様を選んだ話、する?ブン投げられて捨てられた僕に。
「君の言うとおり、私には今の君に愛を囁く資格はないと思い、ここ数日ずっと影ながら君のことを見守っていた。君とアーネスト様が睦まじくイチャイチャベタベ―――ゴホンっ、歓談しているのを、何とか微笑ましく見守らなくてはと思いながらも出来ず、今日こそは二人が結ばれる姿を見届け、祝福した後レニオール様をお助けしようと思い、やって来たのだが」
グサグサグサッ、と物凄い勢いで先輩が言葉の矢を連射する。そんな無遠慮に抉って来ることある!?
なんか、先輩無神経過ぎない!?僕の知ってる先輩とちょっと違うんだけど!!!!先輩ってもっと包容力があって、スマートな人じゃなかった!?
「そうならなくて残念でしたね!どうせ僕はアーネスト様と結ばれませんでしたよ!!」
「いや、むしろ私にとっては僥倖だ。少しも残念に思えず申し訳ない。君がどうしてもアーネスト様のお心を取り戻したいと言うなら、全く歓迎しないが私も微力を尽くそう。そうしている間に君が私を好いてくれないかという打算もある。多少卑怯ではあるが、傷心の時に優しくされると人は落ちやすいと言うし、やはり失恋の傷を癒すのは新しい恋」
「喧嘩売ってるんですかね!?先輩!!!!」
なに、なんなの。ほんとなんなのこの人達!!!!
アーネスト様はいきなり頭おかしくなって僕のことブン投げるし、先輩は超無神経になって人の神経逆撫でしてくるし、おかしくない!?
さっきまで絶望に染まりきって沈んでた感情が、どんどん怒りに塗りつぶされてくよ。ほんと、腹が立って仕方ない!!!
頭の中でプツンと音がする。気付くと、僕は渾身の力で拳を握りしめながら、大声で叫んでいた。
「ほんっっっっといい加減にしてよ!!!!!おかしいでしょ、僕、主人公なのに――――――――!!!!!」
本当は、寮に帰った後、とんでもないことをしてしまったと思って震えていたんだけど、先輩が僕を待ち伏せたり、アーネスト様に抗議をしたりすることはなかった。
アーネスト様には、勝手に大変なことを漏らしてしまったことを謝ったけど、アーネスト様は気にするなと慰めてくれただけで、特に問題にした様子も見えない。本当に、大丈夫なんだろうか。
不安を抱えたままテストを終え、気付いたらもう夏季休暇前のパーティーを目前に控えていた。
僕は何だか怖くて、参加せずに待っていようかと思ったんだけど、アーネスト様に衣裳を用意して頂いたら、そういうわけにもいかない。
アーネスト様をガッカリさせたくなくて、僕は請われるまま迎えに来たアーネスト様の馬車へ乗った。
王家の馬車に乗るなんて、普通なら恐れ多くてとてもできないけど、アーネスト様と一緒にいるためと思えば怖くない。これから僕は、アーネスト様の婚約者になるんだから、こんなことぐらいで怖気づいちゃいけないんだ。
さっき教室で見たレニオール様は、僕達のしようとしていることをご存じないのか、何だかとても楽しそうにしていた。夏休みに、何か楽しい予定が入っているのかな。
もしそうだったら、これから騒ぎを起こすのが水を差すようで申し訳ない。
僕は今更ながらにこんな日をわざわざ選ばなくてもいいんじゃないかと思ったけど、すぐに思い直した。
レニオール様は、アーネスト様との婚約破棄を望んでいらっしゃるんだ。そのために、あんな大変な思いをしてまで僕を気遣って下さったんだもの。
夏休み前にそのご希望が叶えば、むしろあの方にとっては最高のプレゼントになる。
レニオール様の本当の望みを知らない周囲は、婚約破棄について口さがないことを言うかもしれないし、学内で噂になるかもしれない。
それも、すぐに長期の休みに入れば少しは落ち着くだろうし、ご実家のノクティス公爵が良い落としどころを見つけて収めて下さるかもしれない。アーネスト様も、悪いようにはしないと仰っていたんだ。
そう思うと、もうこの時しかないというほど絶好のタイミングに思える。
僕はともすれば下がりそうになる眉尻を無理矢理引き締めて、会場へと足を踏み入れた。
********************
会場には既に大勢の生徒が集まっていて、入場してきた僕たちは当然のごとく注目を集めた。
王太子であり、生徒会長でもあるアーネスト様の入場だから当然のことだ。そして、当たり前みたいにくっついてる僕にも、あからさまではないけどあんまり好意的ではない視線が送られる。
一瞬足がすくみそうになったけど、アーネスト様が優しく手を取ってエスコートしてくださったから、僕は平静を取り戻して足を進めることができた。
これから起こることを僕は知っているけど、アーネスト様がどのタイミングで何を話すのかは何も知らされていない。
僕の手を引いたまま壇上へ上がろうとしたアーネスト様に、僕は戸惑いの声を上げたけれど、アーネスト様は問題ないと仰って唇を綻ばせた。
そう言われると、僕はもうアーネスト様を信じるより他ない。初めて上がる壇上はそれなりに高くて、会場が良く見廻せて、不思議とごった返す生徒たちの顔がよくわかった。こんな風に見えてるんだ。
その中に先輩の姿を見つけて、僕は身を固くした。視界の端に入れただけで、胸の奥がざわめくのがわかる。
僕にとって、先輩はなんなんだろう。僕が好きなのはアーネスト様なのに、前の僕だってそうだったに違いないのに、なのにどうしてこんなに胸が騒ぐのか。
僕はそっと先輩から目を晒し、落ち着けと何度も自分に言い聞かせた。
今は、ほんとに大事な時なんだから、この間みたいに訳も分からず騒ぎ立ててしまうようなことになったら困る。
無意識にぎゅっとアーネスト様の腕を掴む手に力が籠り、それを感じ取ったのかアーネスト様はそっと僕を離すと、壇上の生徒に挨拶を始めた。
入学して一期を無事に過ごした生徒へのねぎらいと、長期休暇をどう過ごすべきかという心構え、そして慰労と社交のためのこの催しを楽しんでほしいという言葉で挨拶は締め括られる。
内容としてはそれほど目新しいものではないけど、しっかりと聞かせる力を持っているのは流石だ。
凄いなぁ、なんてぼんやりと暢気に眺めていたら、アーネスト様は徐に言葉を続ける。
「―――――これは私事ではあるが、この場に居合わせた皆にもその証人になってほしい。レニオール・ノクティス!壇上に上がれ」
きた。緊張して汗ばむ僕とは対照的に、レニオール様は平然とした態度で壇上へと上がってきた。その足取りは、いつもより優雅に見える。
そして、アーネスト様の前まで来ると、軽く一礼をした。
「どういった御用でしょうか、アーネスト様」
アーネスト様はそんなレニオール様を見て軽く眉を顰める。
「何故自分が呼ばれたか、お前が一番よくわかっているはずだが」
「さて、一体なんのことでしょうか。見当もつきません」
レニオール様は小首を傾げてアーネスト様を見る。いつもの小動物みたいなレニオール様らしくなく、どことなく含みがある笑みだった。
「自ら罪を認める気はないと言うわけだな」
「その罪とやらに覚えがありませんので」
アーネスト様が短く息を吐き、空を切るように大きく腕を振る。
僕はびっくりしてしまって、思わずアーネスト様に抱き着いた。まさか、レニオール様に暴力を振るうわけではないと思うけど、そんなことになったら困る。そうなったら、身を挺してでもお止めしなきゃ。
「レニオール!お前には心底愛想が尽きた!私の友人であるマリクに対する嫌がらせの数々、目に余る」
「まことに申し訳ございません」
え、嫌がらせ?なんのこと??レニオール様が、僕に??そんなの知らない。
レニオール様は、僕の机を綺麗にして僕を庇ってくれたいい人だ。これは完全な濡れ衣だよ。
僕は慌ててそれは誤解だと言おうとしたんだけど、レニオール様はあっさりと非を認めてしまう。
嘘だ。そんなの嘘だよ。どうしてそんな嘘をつくんですか、レニオール様。
僕のその疑問は、レニオール様を見た瞬間に消えた。
だって、レニオール様の表情は期待に満ち溢れていて、くりくりしたつぶらな瞳は、キラキラ輝いていたから。
きっと、レニオール様はこの状況を好機と思っているんだ。
それなら、僕はせめてレニオール様が周りから悪く思われないよう、略奪者としてふてぶてしい悪女を演じなきゃ。
僕はあからさまにアーネスト様に身をすり寄せ、得意げな顔を作って見せた。
「謝って済むことではない!お前のような穢れた心根の持ち主は私の婚約者としてふさわしくない。よって――――」
いよいよ婚約破棄を言い渡すかと思われたアーネスト様の言葉が、不意に途切れる。
僕は心配になって、アーネスト様の袖を引いた。
「アーネスト様、大丈夫ですか?ご気分でも……」
僕が呼びかけても、アーネスト様は全く反応しない。頭が痛いのか額を抑え、じっと黙っている。
さすがにレニオール様もアーネスト様を気遣い、心配げな様子でアーネスト様に歩み寄られ、そっとその顔を覗きこんだ。
その時だった。アーネスト様は僕の手を振り払い、両手でレニオール様の手を掴み、真っ直ぐにその目を見据えて叫んだ。
「レニたん!!!!!!!!!!!!!!!!」
え、なに。一体、どういうこと????
多分、この会場のアーネスト様以外の全てがそう思っていたと思う。
れにたん??れにたんって、なに??もしかして、レニオール様のこと??でも、『たん』ってなに??
その呼び方と、いつも冷静沈着でやや神経質なアーネスト様のイメージが一致せず、脳が理解を拒んでいる。
呼ばれた当のご本人であるレニオール様さえ、同じように顔を引き攣らせていた。
そんな周囲の反応をものともせず、アーネスト様はものすごい勢いで捲し立てる。
「やっべ実物のレニたんめちゃくちゃカワユす、かおちっちゃ、手ェすべすべ」
慄くレニオール様を無視して、アーネスト様はレニオール様の手を撫でさする。
その尋常でない様子に、僕は慌ててアーネスト様に縋り付いた。
「アーネスト様、どうなさったんですか!?どうか正気に戻ってください!!」
アーネスト様は今気づいたと言うように僕を見る。その目はまるで無価値なものを見るみたいに冷たくて、さっきまで僕に微笑んでくれていたアーネスト様とは別人のようだった。
そして、縋り付いた僕を捨てるように、勢いよく腕を振った。その力はものすごくて、僕はあっさりと壇上の端に投げ捨てられる。
叩きつけられた床の硬さと冷たさ。アーネスト様は僕に一瞥もくれず、レニオール様に夢中になっていた。
なんで?どうして???あんなに僕のこと好きだって、一緒に居たいって言ってくれたのに。
優しく微笑み、僕を失うことを恐れていたあの人は、一体どうしてしまったんだろう。
あまりにも一瞬のことで、僕は何が何だか全くわからなかった。けれど、ただひとつ言えることは、もうアーネスト様は僕を助け起こしてはくれないということだ。
目の前が真っ暗になって、目の奥が燃えるように熱くなった。僕の喉からは知らず叫びのような声が発され、夥しい涙が頬を濡らして行く。
そんな僕に一瞥すら向けず、アーネスト様はレニオール様に愛おしげに頬ずりし、もう二度と離さないと楽しそうに誓いの言葉を囁いている。僕にくれたはずの約束は、いとも簡単にレニオール様のものになった。
悲しいとか、辛いとか、そういう何かを越えた何かが自分を突き動かしているのを、僕は感じていた。
それはとても静かで、なのに底の見えない沼のようにどろどろとしていて、どす黒いそれは胸の奥底から際限なく湧き上がり、ひとつ叫びを上げるごとに心を絶望で塗りつぶしていく。
この世界に、今の僕を必要とする人は一人もいなくなった。
それなら、僕もこんな世界はいらない。僕が消えてしまうのか、それとも世界がなくなってしまうかはわからないけど、今の僕には何もかもどうでもよかった。そんなことを気にして何になる。
「マリク!大丈夫か、マリク」
いつの間にか壇上に上がっていた先輩が僕を助け起こしてくれたけど、僕の心は沼に沈んだままだった。
僕は知っている。この人も、僕を必要としていないことを。この人はただ、僕ではない僕のためにそうしているだけなんだ。この人の手を取れば、きっとまたアーネスト様と同じように僕を振り捨てていくことだろう。もう裏切られるのはごめんだ。
何だろう。何だか背中が熱い。肩甲骨のあたりが疼いて、そこから何かが溢れ出しそうになっているのを感じる。
頭の奥で誰かがやめろと叫んでいるけど、今の僕にはただのノイズと変わらなかった。うっすらときっと昔の僕なんだろうと思うけど、知るもんか。皆に望まれている奴なんかに、僕の気持ちはわからない。止めたければ、僕を押し退けて出てくればいい。
自分の身に何が起こっているのかも知らないくせに、僕はそう思った。これから起こることが僕にとって良くないことで、その結果何があっても構わなかったから。
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「いい気味だと思っているんでしょう?」
僕が唐突に発した言葉に、先輩は一瞬理解しかねたようだった。
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「そんなことは思っていない」
「まだ偽善ぶるつもりですか?あんなに大見得を切ってあなたを侮辱した僕に、怒っていたんじゃないんですか?だから、急に顔を見せなくなったんでしょう」
「それは違う!あれは――――君のいうことが、尤もだと思って。君が記憶を失ってから、君に対しての自分の振る舞いを振り返ると、思い当たることばかりだった。本当に申し訳ない」
「は……」
「私は以前の君にも本当に失礼なことばかりしてしまって、いつも怒らせてばかりだったし、そのために記憶を失わせてしまったのだと後悔していた。勿論今もだ。だから、今の君と以前の君を分けて考えることができなくて、知らぬ間に君を追いつめ、悲しませてしまった。私は本当に人の心の機微に疎い男だ。君の心がアーネスト様に傾くのも仕方ない」
先輩は、大真面目な顔で滔々と語り続ける。その顔があまりにも生真面目で、僕は毒気を抜かれてしまう。
この状況で僕がアーネスト様を選んだ話、する?ブン投げられて捨てられた僕に。
「君の言うとおり、私には今の君に愛を囁く資格はないと思い、ここ数日ずっと影ながら君のことを見守っていた。君とアーネスト様が睦まじくイチャイチャベタベ―――ゴホンっ、歓談しているのを、何とか微笑ましく見守らなくてはと思いながらも出来ず、今日こそは二人が結ばれる姿を見届け、祝福した後レニオール様をお助けしようと思い、やって来たのだが」
グサグサグサッ、と物凄い勢いで先輩が言葉の矢を連射する。そんな無遠慮に抉って来ることある!?
なんか、先輩無神経過ぎない!?僕の知ってる先輩とちょっと違うんだけど!!!!先輩ってもっと包容力があって、スマートな人じゃなかった!?
「そうならなくて残念でしたね!どうせ僕はアーネスト様と結ばれませんでしたよ!!」
「いや、むしろ私にとっては僥倖だ。少しも残念に思えず申し訳ない。君がどうしてもアーネスト様のお心を取り戻したいと言うなら、全く歓迎しないが私も微力を尽くそう。そうしている間に君が私を好いてくれないかという打算もある。多少卑怯ではあるが、傷心の時に優しくされると人は落ちやすいと言うし、やはり失恋の傷を癒すのは新しい恋」
「喧嘩売ってるんですかね!?先輩!!!!」
なに、なんなの。ほんとなんなのこの人達!!!!
アーネスト様はいきなり頭おかしくなって僕のことブン投げるし、先輩は超無神経になって人の神経逆撫でしてくるし、おかしくない!?
さっきまで絶望に染まりきって沈んでた感情が、どんどん怒りに塗りつぶされてくよ。ほんと、腹が立って仕方ない!!!
頭の中でプツンと音がする。気付くと、僕は渾身の力で拳を握りしめながら、大声で叫んでいた。
「ほんっっっっといい加減にしてよ!!!!!おかしいでしょ、僕、主人公なのに――――――――!!!!!」
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しかしそれには大きな問題が一つあった。リオンは確かにBL漫画の中では攻めだったが、前世のゲイでネコだった記憶を取り戻した今はガタイの良い男に組み敷かれたいという願望しかない。そう、まさに今目の前に跪いている屈強な色男、騎士団長のフィンの様な男がタイプだった。
異世界転生先でアホのふりしてたら執着された俺の話
深山恐竜
BL
俺はよくあるBL魔法学園ゲームの世界に異世界転生したらしい。よりにもよって、役どころは作中最悪の悪役令息だ。何重にも張られた没落エンドフラグをへし折る日々……なんてまっぴらごめんなので、前世のスキル(引きこもり)を最大限活用して平和を勝ち取る! ……はずだったのだが、どういうわけか俺の従者が「坊ちゃんの足すべすべ~」なんて言い出して!?
男装の麗人と呼ばれる俺は正真正銘の男なのだが~双子の姉のせいでややこしい事態になっている~
さいはて旅行社
BL
双子の姉が失踪した。
そのせいで、弟である俺が騎士学校を休学して、姉の通っている貴族学校に姉として通うことになってしまった。
姉は男子の制服を着ていたため、服装に違和感はない。
だが、姉は男装の麗人として女子生徒に恐ろしいほど大人気だった。
その女子生徒たちは今、何も知らずに俺を囲んでいる。
女性に囲まれて嬉しい、わけもなく、彼女たちの理想の王子様像を演技しなければならない上に、男性が女子寮の部屋に一歩入っただけでも騒ぎになる貴族学校。
もしこの事実がバレたら退学ぐらいで済むわけがない。。。
周辺国家の情勢がキナ臭くなっていくなかで、俺は双子の姉が戻って来るまで、協力してくれる仲間たちに笑われながらでも、無事にバレずに女子生徒たちの理想の王子様像を演じ切れるのか?
侯爵家の命令でそんなことまでやらないといけない自分を救ってくれるヒロインでもヒーローでも現れるのか?
【完結】異世界転生して美形になれたんだから全力で好きな事するけど
福の島
BL
もうバンドマンは嫌だ…顔だけで選ぶのやめよう…友達に諭されて戻れるうちに戻った寺内陸はその日のうちに車にひかれて死んだ。
生まれ変わったのは多分どこかの悪役令息
悪役になったのはちょっとガッカリだけど、金も権力もあって、その上、顔…髪…身長…せっかく美形に産まれたなら俺は全力で好きな事をしたい!!!!
とりあえず目指すはクソ婚約者との婚約破棄!!そしてとっとと学園卒業して冒険者になる!!!
平民だけど色々強いクーデレ✖️メンタル強のこの世で1番の美人
強い主人公が友達とかと頑張るお話です
短編なのでパッパと進みます
勢いで書いてるので誤字脱字等ありましたら申し訳ないです…
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