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46.二人の自分
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翌日、僕はアーネスト様にクッキーを渡した。
アーネスト様はとっても喜んでくれて、生徒会室でお茶を飲もうと誘われる。誘われると言っても、実質拒否権なんてないに等しいから、僕は戸惑いながらもついていくしかない。
生徒会室には他に誰もいなくて、アーネスト様は僕のためにお茶を淹れて下さった。僕が淹れますと止めたんだけど、気にするなとアーネスト様はさっさとポットにお湯を注いでしまったんだ。
出されたお茶は美味しくて、僕はアーネスト様は何でもできるなあと、妙に関心してしまった。
こんな完璧な人に僕がしてあげられることなんて、いよいよなさそうに思える。
アーネスト様は僕があげたクッキーを嬉しそうに齧った。
ジュリエッタちゃんが焼いたクッキーって、そんなに美味しいのかな。王太子のアーネスト様の舌を唸らせるなんて、普通に凄いと思う。
もしお世辞じゃないなら、占いよりお菓子屋さんをやった方がいい。
僕の目線がクッキーに向いていることに気付いて、アーネスト様は少し笑ってクッキーを勧めてくれた。
一度人にあげたものを欲しがるなんてはしたないけど、アーネスト様が一枚取って嬉しそうに笑うから、僕はおずおずと手を伸ばす。
「い、いただきます」
僕はアーネスト様から受け取ったクッキーを食べた。一口齧ると、サクッとした食感と、バターの香りが広がる。甘さは控えめで、確かに美味しい。
紅茶と一緒に飲み込み、余韻に浸ったその時だった。
自分の中で、何かが湧き上がってくるのを感じる。なに?これ。
「どうした?マリク」
アーネスト様が不思議そうに僕に問いかけた。
僕は何だか訳もなく胸が高鳴って、不躾なほどまっすぐにアーネスト様を見てしまう。
訝しむように僕を見るアーネスト様の表情、仕草のひとつひとつを少しも見落とすまいとするように、僕はただ黙ってアーネスト様を熱く見つめた。
それをどう解釈したのか、アーネスト様はふっと優しく微笑う。その姿は、やけにキラキラして見えた。いつもならチラつくはずのウィルフレッド様の存在も、今は何故か気にならない。
きっと、これが恋なんだ。身分差とか、周囲の反応とか、今後の後先とかそんなことはどうでもよくなって、ただこの人に見つめられたい、触れてもらいたい、小指の先ほどでもいいから愛して貰いたいという衝動が湧き上がる。
理由はよくわからないけど、これはきっと以前の僕がアーネスト様に対して抱いていた恋心で、僕はそれを思い出すことができたのだろう。今なら、理解できなかった昔の僕の行動にも頷ける。
今見つめてくれているアーネスト様の瞳が僕を映さなくなったなら、僕はきっと悲しくて泣き暮らしてしまうだろう。
一瞬、ウィルフレッド様ではなくレニオール様の顔が頭をよぎったけれど、それすらも僕の気持ちを後押しする材料にしかならなかった。
お口は悪いけど、優しくて不器用なレニオール様。これはそのレニオール様のお望みでもあるんだから。
勿論レニオール様が望んでいるからと言って、昔からの婚約者、しかも公爵令息から王太子を奪うなんて、きっと許されないし、色んな人に責められるのはわかってる。それこそ、今受けてるいじめなんか甘いマフィンみたいに思えるぐらい酷い嫌がらせを受けるかもしれないし、陰口や嘲笑の対象にされるのも簡単に想像がついた。
だけど、今ならそれが何ほどのことかと思える。この離れがたい自分の半分みたいな存在を切り取られる苦痛と喪失感に比べたら、そんなことは些細なことだ。アーネスト様に望まれて隣に居られることの代償がそれだというのなら、どんなものでも持てる全てを差し出すし、どんな苦痛だって受けよう。
だって僕は元々、自分のことなんかどうだってよかったじゃないか。
少しだけ自分のことを思いだせた安堵は、余計に僕にこの恋を正当化させた。
全てを思い出した時、僕という存在がどうなってしまうのかはわからない。それでも、欠けた物が元に戻ることは正しいはずなのだ。きっと今の僕に優しくしてくれる全ての人が、それを望んでいるんだから。
「アーネスト様、僕、思い出しました。アーネスト様を心からお慕いしていたこと」
僕がそう言うと、アーネスト様は少し驚いて、それから嬉しそうに破顔した。ぎゅっと抱きしめて、二度と離すまいとするように腕の中に閉じ込められる。
「そうか…良かった。お前が離れて行ったらどうしようかと、そう考えるだけで私は恐ろしかった」
その気持ちは、僕にもよくわかる。今、もしもアーネスト様が僕を忘れてしまうかもと思ったら、とても怖い。まして、他の方に気持ちを移されてしまったら、きっとこの世界なんかなくていいって思っちゃいそう。愛された記憶があるぶん、それを理不尽に奪われた時の衝撃は計り知れない。
僕はウィルフレッド様と食事をしたり、少しでも心を揺らしたりしていたことを後悔した。アーネスト様は、どれだけ傷付いたことだろう。もう、あんなことはしない。大好きな人を不安にさせるようなことは、したくない。
「忘れていたとはいえ、不安な思いをさせて申し訳ありません。あの、僕、全部を思い出したわけじゃないんです。ただ、アーネスト様に恋をしているこの気持ちを思い出せただけで、役立たずのままで」
「それでもいい。いや、それだけ思い出してくれたなら、もう充分だ。私がお前に望むことは、お前が私を愛し、ずっと傍に居てくれること。ただそれだけなのだから」
思い出はまた、二人で築いていけばいい。そう言って貰えて、僕は心底ほっとした。
今のままの自分でいることを許された安堵感。この腕の中にいれば、きっとももう怖いことはない。
「ずっとお傍にいさせてください」
僕達は暫くの間抱擁し合って、その後また二人でお茶を飲んだ。
何だか恥ずかしかったけど、お互いにクッキーを食べさせ合ったり、美味しい紅茶を飲みながら二人が出逢った時の話を聞いたりして、とても楽しい時間を過ごす。
想いはすっかり元通りに深くなり、生徒会室を出る時は名残惜しくてたまらなかった。
ジュリエッタちゃんには感謝しないといけないな。ああ見えて、ものすごい占い師さんなのかも。
アドバイス通りにクッキーを渡して、本当に良かった。こんなにもあっさり悩みが解決してしまうなんて。
アーネスト様は、夏休み前のダンスパーティーで、レニオール様との婚約破棄を発表するつもりだと僕だけに教えてくれた。
僕は、何もそんな公衆の面前でレニオール様に恥を掻かせることはないんじゃないかと言ったんだけど、レニオール様との婚約はやっぱり強固なもので、沢山の証人がいる中で公表しないと、結局有耶無耶にされて、そのうちだまし討ちのように結婚させられてしまう可能性が高いらしい。
そんなことはレニオール様も絶対に嫌がるだろうし、男爵令息の僕なんかとの仲を公表することで、レニオール様には同情の声が集まり、あくまでも王家側の一方的な暴挙として捉えられるだろうと説明されて、結果的にレニオール様の良いようになるのならと僕は頷いた。
レニオール様は恩人だもの。それなら僕は、皆の目に少しでも嫌なやつに見えるようにしよう。僕らのすることはきっと色んな人を苦しませてしまうだろうけど、アーネスト様とお別れしたくない以上、誰から石を投げられても、やるしかないんだから。
僕は少し不安になる自分を奮い立たせながら、寮への道を辿った。
ベンチで本を読んでいるウィルフレッド様のお姿をお見かけした時はちょっと動揺したけど、自分を強く持てば大丈夫と言い聞かせる。
アーネスト様への愛に目覚めた今、ここできちんとしておかなきゃだめなんだ。
「こんにちは、ウィルフレッド様」
僕が挨拶すると、ウィルフレッド様は開いていた本を閉じて笑顔を向けた。
罪悪感を感じなかったわけじゃないけど、それはそれ、これはこれと思える。今までよりずっと穏やかに話ができそうで、僕はちょっと安心した。
「ああ、マリク。君の顔が見たくて待っていた。放課後、君の姿が見えなかったから」
「アーネスト様とお会いしていたんです。探させてしまったみたいですみません。僕に、何か用でしたか?」
いつにない僕の話し方に、ウィルフレッド様は疑問を抱かれたようだった。
だけど、それは必ずしも不快に思われた反応ではなくて、逆に僕は戸惑う。
「―――――君は、何か思い出したのか?」
どうしてわかるんだろう。僕は正直に頷いて、少しだけ、と答えた。
「詳しいことは、まだわかりません。具体的な記憶も、持ってたスキルも、思い出せないままです。だけど、アーネスト様をお慕いしていた気持ちだけは、はっきりと取り戻せました」
「気持ちだけ?記憶もなしで、何故そう言える?一体、この短い時間にアーネスト様との間で何があった」
ウィルフレッド様が問い詰める口調になるのも、無理はない。僕にだって、何がどうなったのかわからないんだから。少なくとも、三人で昼食を共にした時までは、僕にはなんの兆候もなかった。
だけど、今僕がアーネスト様に心を奪われているのは紛れもない事実で、その理由を過去の自分に求めること以外、説明なんてつかなかった。
自分でもよくよく把握しかねていることを他人に話したところで、きっと誰にも理解してもらえない。そんなのは勘違いだと言われるだろう。
僕はもうこれ以上、誰かに間違っていると言われたくなかった。
「お話したくありません。僕と、アーネスト様の問題ですから。先輩には色々良くして頂いて、こんなこと言うのは失礼だとわかってます。だけど、もう先輩とは会えません」
「そう言えと、アーネスト様に言われたのか」
「違います!……僕の意思です。僕はもう、アーネスト様を不安な気持ちにさせたくない。愛してるんです」
何故だか目頭が熱くなり、ぽろぽろと涙が溢れた。なんでだろ。悲しいことなんてないのに。前の僕だって、これで満足しているはず。一体、僕は誰のために泣いてるんだろう。
「アーネスト様は、僕に傍に居て欲しいと望まれています。近々、レニオール様との関係を清算して、改めて僕を正式に婚約者に据えるつもりだそうです」
「バカなことを。どうなるかわかっているのか」
「わかってます。きっと僕には、アーネスト様のお気持ち以外、なんにも残らないでしょう。家族とは会えなくなるし、社交界ではどんな目に遭わされるかわからない。だけど、それでもいいんです。それでアーネスト様が幸せなら、僕は何だって捧げる」
僕は切実な想いで先輩に胸の内を明かした。だって、偽物の僕にはなんにもないから。唯一持ってるものにしがみ付く以外、どうしたらいいのかわからない。
「―――――君は、結局そうなのか。記憶を失っても、魂は変わらない。いつだって他人の幸福を優先して、自分のことなどまるで考えない。それで君を想う人間がどれだけ傷付くか、理解しようとすらしない」
僕はカッとなって先輩の頬を打った。先輩は絶対に避けられたはずなのに避けず、むしろあえて受け入れたように見える。
思わず手を上げたことを一瞬だけ後悔したけど、そんな後悔は溢れる激情に流されて行った。
「あなたにだけは言われたくない。僕が自己犠牲に走ってるように見えるなら、それはあなたが僕を見てないからだ。昔の僕は、きっとそういう人だったんでしょう。あなたはそれを忘れられない。あなたは僕に話し掛けながら、いつだって僕の奥にいる昔の僕を見ていた。それがどれだけ僕を寂しい気持ちにさせるかなんて考えもしないで、ずっと」
「それは……」
「あなたには、僕を好きだと言う資格なんかない。アーネスト様は、僕が好きだと言ったんだ。今のままの僕でいいって、受け入れてくれた。それがどれだけ嬉しいことだったか、あなたにわかりますか!?」
自分の声が大きくなって、周りの生徒たちがこっちに注目し始めたのがわかったけど、もう止められなかった。
ただのちょっと親しい先輩に、なんで僕はこんなに怒ってるんだろ。片隅に居る冷静な僕がそう思ったけど、口はまるで自分の物じゃないみたいに滑らかに動いて、罵倒を吐き出していた。
「僕だって幸せになりたい!!そのために犠牲が必要なら、どんなものだって払う。多かれ少なかれ、誰だってきっとそうしてるはずです。あなたは恵まれすぎて、それが理解できないだけなんだ」
僕は、まるで自分の身体が何か別のものに乗っ取られてるような感覚に陥った。
この怒りは、僕のものじゃない。こんな言葉を選べるほど、『僕』は先輩のことなんか知らない。
得体のしれない恐怖に、体が震える。
「マリク、君は」
先輩の言葉も聞かず、僕は走り出した。ここに居ちゃダメだ。この人といたら、僕は僕じゃなくなってしまう。
それが何でなのかなんて、わからない。わからないことが、本当に恐ろしかった。
あと10日。明日からのテストが終わって、結果が出たら夏休みになる。
そうしたら、アーネスト様を頼ってどこか誰にも見つからないところで過ごしたい。どうせ、婚約破棄の騒動で、まともな休みなんて過ごせそうにないんだから。
家族に迷惑をかけてしまう、そのことだけは心苦しかったけど、今の僕にはそうすることしか思い付かなかった。
アーネスト様はとっても喜んでくれて、生徒会室でお茶を飲もうと誘われる。誘われると言っても、実質拒否権なんてないに等しいから、僕は戸惑いながらもついていくしかない。
生徒会室には他に誰もいなくて、アーネスト様は僕のためにお茶を淹れて下さった。僕が淹れますと止めたんだけど、気にするなとアーネスト様はさっさとポットにお湯を注いでしまったんだ。
出されたお茶は美味しくて、僕はアーネスト様は何でもできるなあと、妙に関心してしまった。
こんな完璧な人に僕がしてあげられることなんて、いよいよなさそうに思える。
アーネスト様は僕があげたクッキーを嬉しそうに齧った。
ジュリエッタちゃんが焼いたクッキーって、そんなに美味しいのかな。王太子のアーネスト様の舌を唸らせるなんて、普通に凄いと思う。
もしお世辞じゃないなら、占いよりお菓子屋さんをやった方がいい。
僕の目線がクッキーに向いていることに気付いて、アーネスト様は少し笑ってクッキーを勧めてくれた。
一度人にあげたものを欲しがるなんてはしたないけど、アーネスト様が一枚取って嬉しそうに笑うから、僕はおずおずと手を伸ばす。
「い、いただきます」
僕はアーネスト様から受け取ったクッキーを食べた。一口齧ると、サクッとした食感と、バターの香りが広がる。甘さは控えめで、確かに美味しい。
紅茶と一緒に飲み込み、余韻に浸ったその時だった。
自分の中で、何かが湧き上がってくるのを感じる。なに?これ。
「どうした?マリク」
アーネスト様が不思議そうに僕に問いかけた。
僕は何だか訳もなく胸が高鳴って、不躾なほどまっすぐにアーネスト様を見てしまう。
訝しむように僕を見るアーネスト様の表情、仕草のひとつひとつを少しも見落とすまいとするように、僕はただ黙ってアーネスト様を熱く見つめた。
それをどう解釈したのか、アーネスト様はふっと優しく微笑う。その姿は、やけにキラキラして見えた。いつもならチラつくはずのウィルフレッド様の存在も、今は何故か気にならない。
きっと、これが恋なんだ。身分差とか、周囲の反応とか、今後の後先とかそんなことはどうでもよくなって、ただこの人に見つめられたい、触れてもらいたい、小指の先ほどでもいいから愛して貰いたいという衝動が湧き上がる。
理由はよくわからないけど、これはきっと以前の僕がアーネスト様に対して抱いていた恋心で、僕はそれを思い出すことができたのだろう。今なら、理解できなかった昔の僕の行動にも頷ける。
今見つめてくれているアーネスト様の瞳が僕を映さなくなったなら、僕はきっと悲しくて泣き暮らしてしまうだろう。
一瞬、ウィルフレッド様ではなくレニオール様の顔が頭をよぎったけれど、それすらも僕の気持ちを後押しする材料にしかならなかった。
お口は悪いけど、優しくて不器用なレニオール様。これはそのレニオール様のお望みでもあるんだから。
勿論レニオール様が望んでいるからと言って、昔からの婚約者、しかも公爵令息から王太子を奪うなんて、きっと許されないし、色んな人に責められるのはわかってる。それこそ、今受けてるいじめなんか甘いマフィンみたいに思えるぐらい酷い嫌がらせを受けるかもしれないし、陰口や嘲笑の対象にされるのも簡単に想像がついた。
だけど、今ならそれが何ほどのことかと思える。この離れがたい自分の半分みたいな存在を切り取られる苦痛と喪失感に比べたら、そんなことは些細なことだ。アーネスト様に望まれて隣に居られることの代償がそれだというのなら、どんなものでも持てる全てを差し出すし、どんな苦痛だって受けよう。
だって僕は元々、自分のことなんかどうだってよかったじゃないか。
少しだけ自分のことを思いだせた安堵は、余計に僕にこの恋を正当化させた。
全てを思い出した時、僕という存在がどうなってしまうのかはわからない。それでも、欠けた物が元に戻ることは正しいはずなのだ。きっと今の僕に優しくしてくれる全ての人が、それを望んでいるんだから。
「アーネスト様、僕、思い出しました。アーネスト様を心からお慕いしていたこと」
僕がそう言うと、アーネスト様は少し驚いて、それから嬉しそうに破顔した。ぎゅっと抱きしめて、二度と離すまいとするように腕の中に閉じ込められる。
「そうか…良かった。お前が離れて行ったらどうしようかと、そう考えるだけで私は恐ろしかった」
その気持ちは、僕にもよくわかる。今、もしもアーネスト様が僕を忘れてしまうかもと思ったら、とても怖い。まして、他の方に気持ちを移されてしまったら、きっとこの世界なんかなくていいって思っちゃいそう。愛された記憶があるぶん、それを理不尽に奪われた時の衝撃は計り知れない。
僕はウィルフレッド様と食事をしたり、少しでも心を揺らしたりしていたことを後悔した。アーネスト様は、どれだけ傷付いたことだろう。もう、あんなことはしない。大好きな人を不安にさせるようなことは、したくない。
「忘れていたとはいえ、不安な思いをさせて申し訳ありません。あの、僕、全部を思い出したわけじゃないんです。ただ、アーネスト様に恋をしているこの気持ちを思い出せただけで、役立たずのままで」
「それでもいい。いや、それだけ思い出してくれたなら、もう充分だ。私がお前に望むことは、お前が私を愛し、ずっと傍に居てくれること。ただそれだけなのだから」
思い出はまた、二人で築いていけばいい。そう言って貰えて、僕は心底ほっとした。
今のままの自分でいることを許された安堵感。この腕の中にいれば、きっとももう怖いことはない。
「ずっとお傍にいさせてください」
僕達は暫くの間抱擁し合って、その後また二人でお茶を飲んだ。
何だか恥ずかしかったけど、お互いにクッキーを食べさせ合ったり、美味しい紅茶を飲みながら二人が出逢った時の話を聞いたりして、とても楽しい時間を過ごす。
想いはすっかり元通りに深くなり、生徒会室を出る時は名残惜しくてたまらなかった。
ジュリエッタちゃんには感謝しないといけないな。ああ見えて、ものすごい占い師さんなのかも。
アドバイス通りにクッキーを渡して、本当に良かった。こんなにもあっさり悩みが解決してしまうなんて。
アーネスト様は、夏休み前のダンスパーティーで、レニオール様との婚約破棄を発表するつもりだと僕だけに教えてくれた。
僕は、何もそんな公衆の面前でレニオール様に恥を掻かせることはないんじゃないかと言ったんだけど、レニオール様との婚約はやっぱり強固なもので、沢山の証人がいる中で公表しないと、結局有耶無耶にされて、そのうちだまし討ちのように結婚させられてしまう可能性が高いらしい。
そんなことはレニオール様も絶対に嫌がるだろうし、男爵令息の僕なんかとの仲を公表することで、レニオール様には同情の声が集まり、あくまでも王家側の一方的な暴挙として捉えられるだろうと説明されて、結果的にレニオール様の良いようになるのならと僕は頷いた。
レニオール様は恩人だもの。それなら僕は、皆の目に少しでも嫌なやつに見えるようにしよう。僕らのすることはきっと色んな人を苦しませてしまうだろうけど、アーネスト様とお別れしたくない以上、誰から石を投げられても、やるしかないんだから。
僕は少し不安になる自分を奮い立たせながら、寮への道を辿った。
ベンチで本を読んでいるウィルフレッド様のお姿をお見かけした時はちょっと動揺したけど、自分を強く持てば大丈夫と言い聞かせる。
アーネスト様への愛に目覚めた今、ここできちんとしておかなきゃだめなんだ。
「こんにちは、ウィルフレッド様」
僕が挨拶すると、ウィルフレッド様は開いていた本を閉じて笑顔を向けた。
罪悪感を感じなかったわけじゃないけど、それはそれ、これはこれと思える。今までよりずっと穏やかに話ができそうで、僕はちょっと安心した。
「ああ、マリク。君の顔が見たくて待っていた。放課後、君の姿が見えなかったから」
「アーネスト様とお会いしていたんです。探させてしまったみたいですみません。僕に、何か用でしたか?」
いつにない僕の話し方に、ウィルフレッド様は疑問を抱かれたようだった。
だけど、それは必ずしも不快に思われた反応ではなくて、逆に僕は戸惑う。
「―――――君は、何か思い出したのか?」
どうしてわかるんだろう。僕は正直に頷いて、少しだけ、と答えた。
「詳しいことは、まだわかりません。具体的な記憶も、持ってたスキルも、思い出せないままです。だけど、アーネスト様をお慕いしていた気持ちだけは、はっきりと取り戻せました」
「気持ちだけ?記憶もなしで、何故そう言える?一体、この短い時間にアーネスト様との間で何があった」
ウィルフレッド様が問い詰める口調になるのも、無理はない。僕にだって、何がどうなったのかわからないんだから。少なくとも、三人で昼食を共にした時までは、僕にはなんの兆候もなかった。
だけど、今僕がアーネスト様に心を奪われているのは紛れもない事実で、その理由を過去の自分に求めること以外、説明なんてつかなかった。
自分でもよくよく把握しかねていることを他人に話したところで、きっと誰にも理解してもらえない。そんなのは勘違いだと言われるだろう。
僕はもうこれ以上、誰かに間違っていると言われたくなかった。
「お話したくありません。僕と、アーネスト様の問題ですから。先輩には色々良くして頂いて、こんなこと言うのは失礼だとわかってます。だけど、もう先輩とは会えません」
「そう言えと、アーネスト様に言われたのか」
「違います!……僕の意思です。僕はもう、アーネスト様を不安な気持ちにさせたくない。愛してるんです」
何故だか目頭が熱くなり、ぽろぽろと涙が溢れた。なんでだろ。悲しいことなんてないのに。前の僕だって、これで満足しているはず。一体、僕は誰のために泣いてるんだろう。
「アーネスト様は、僕に傍に居て欲しいと望まれています。近々、レニオール様との関係を清算して、改めて僕を正式に婚約者に据えるつもりだそうです」
「バカなことを。どうなるかわかっているのか」
「わかってます。きっと僕には、アーネスト様のお気持ち以外、なんにも残らないでしょう。家族とは会えなくなるし、社交界ではどんな目に遭わされるかわからない。だけど、それでもいいんです。それでアーネスト様が幸せなら、僕は何だって捧げる」
僕は切実な想いで先輩に胸の内を明かした。だって、偽物の僕にはなんにもないから。唯一持ってるものにしがみ付く以外、どうしたらいいのかわからない。
「―――――君は、結局そうなのか。記憶を失っても、魂は変わらない。いつだって他人の幸福を優先して、自分のことなどまるで考えない。それで君を想う人間がどれだけ傷付くか、理解しようとすらしない」
僕はカッとなって先輩の頬を打った。先輩は絶対に避けられたはずなのに避けず、むしろあえて受け入れたように見える。
思わず手を上げたことを一瞬だけ後悔したけど、そんな後悔は溢れる激情に流されて行った。
「あなたにだけは言われたくない。僕が自己犠牲に走ってるように見えるなら、それはあなたが僕を見てないからだ。昔の僕は、きっとそういう人だったんでしょう。あなたはそれを忘れられない。あなたは僕に話し掛けながら、いつだって僕の奥にいる昔の僕を見ていた。それがどれだけ僕を寂しい気持ちにさせるかなんて考えもしないで、ずっと」
「それは……」
「あなたには、僕を好きだと言う資格なんかない。アーネスト様は、僕が好きだと言ったんだ。今のままの僕でいいって、受け入れてくれた。それがどれだけ嬉しいことだったか、あなたにわかりますか!?」
自分の声が大きくなって、周りの生徒たちがこっちに注目し始めたのがわかったけど、もう止められなかった。
ただのちょっと親しい先輩に、なんで僕はこんなに怒ってるんだろ。片隅に居る冷静な僕がそう思ったけど、口はまるで自分の物じゃないみたいに滑らかに動いて、罵倒を吐き出していた。
「僕だって幸せになりたい!!そのために犠牲が必要なら、どんなものだって払う。多かれ少なかれ、誰だってきっとそうしてるはずです。あなたは恵まれすぎて、それが理解できないだけなんだ」
僕は、まるで自分の身体が何か別のものに乗っ取られてるような感覚に陥った。
この怒りは、僕のものじゃない。こんな言葉を選べるほど、『僕』は先輩のことなんか知らない。
得体のしれない恐怖に、体が震える。
「マリク、君は」
先輩の言葉も聞かず、僕は走り出した。ここに居ちゃダメだ。この人といたら、僕は僕じゃなくなってしまう。
それが何でなのかなんて、わからない。わからないことが、本当に恐ろしかった。
あと10日。明日からのテストが終わって、結果が出たら夏休みになる。
そうしたら、アーネスト様を頼ってどこか誰にも見つからないところで過ごしたい。どうせ、婚約破棄の騒動で、まともな休みなんて過ごせそうにないんだから。
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