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1巻
1-1
しおりを挟む「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「ああ、いってらっしゃい」
友人たちと食事に行くという婚約者――神田誠を玄関まで見送りに行くと、頬に手を添えられ唇にそっとキスをされた。もう何度も繰り返されていることなのに未だに気恥ずかしくて、雅臣の頬はうっすらと赤くなる。
その後、誠は名残惜しそうな顔をしながらも腕時計をちらりと見て、すぐに戻るからと家を出て行った。
この世界には男女の性別の他に、バース性と呼ばれる厄介な第二の性が存在している。
優秀ですべてにおいて能力値が高く、男女関係なくオメガを孕ませることができるアルファ。人口の七割ほどを占める、良くも悪くも普通に分類される中間層のベータ。そして、男女関係なく発情期があり、相手がアルファであれば妊娠可能なオメガ。
悠木雅臣は、そのなかで最底辺と蔑まれることもあるオメガとして生まれた。
三ヶ月に一度の頻度で起こるオメガの発情期は、アルファの発情期を誘発させる。故に、オメガは優秀なアルファの足を引っ張る卑しい存在だと嫌悪されているのだ。
オメガとして生を受けたことで、つらいことや悲しいことは山ほどあった。けれど、雅臣は今とても幸せだ。これまでのつらい出来事も今の幸福を得るために必要なことだったのだと思えば、すべて受け入れられるような気さえした。
こうやって前向きになれたのも、雅臣を受け入れてくれた誠のおかげだ。
誠とは中学生の頃、祖父の言い付けで通っていた剣道道場で出会った。
優しくて、かっこいい、良家の少年。アルファなのに偉そうでも気取ってもいなくて、周りにいるみんなが誠に憧れていた。
そんな誠がなぜ雅臣に興味を持ったのかは、雅臣自身にもよくわからない。
道場で初めて話しかけられたときは驚いた。すごく姿勢が良いね、とかそんなことを言われた気がするが、緊張しすぎてそのときのことはあまりよく覚えていない。
しどろもどろに受け答えをする雅臣にも、誠はキラキラとした笑顔を向けてくれた。たぶん雅臣が恋に落ちたのはそのときだ。
しかし、恋に落ちたからといって雅臣にはどうする気もなかった。オメガのみが通える学校に在籍していた雅臣は、容姿端麗で愛らしい者が多いオメガのなかで大柄な自分はハズレな部類であるとわかっていたし、気も弱く臆病だった。告白する勇気なんてあるはずもない。
そんな雅臣のなにを気に入ったのか、誠は頻繁に雅臣に声をかけてきた。そうして、次第に一緒にいる時間が増え、友人になり、親しげに下の名前で呼び合うようになった高校三年の冬――雅臣は誠から結婚前提の告白をされたのだ。
うれしくて、なぜ自分をと戸惑いつつも頷いたのを、昨日のことのように覚えている。
お互いそこそこ名のある家柄の子であるため、誠の希望で家族にだけ報告して、周りには秘密で三年以上交際を続けた。
そして、祖母の勧めで祖父の所有するマンションで同棲をはじめたのが約三ヶ月前。その頃にようやく誠の許可が出て、雅臣は親しい友人に誠のことを報告できた。雅臣は友人たちに祝福してもらえて、照れくさかったけれどすごくうれしかった。
半年後、誠が大学を卒業したら正式に籍を入れる予定だ。
順風満帆な日々。唯一の不満といえば――雅臣はそっと自身の項に触れた。
雅臣の項は、今も錠付きの黒いチョーカーで覆われている。オメガが望まぬ相手に項を噛まれて無理やり番にされてしまうのを防ぐためのものだ。
婚約して随分たつが、雅臣と誠はまだ番ではなかった。それ以前に、ふたりは体を繋げたことすら一度もない。
番になるのも、体の関係を持つのも、籍を入れたあとにすべきだというのが誠の主張だった。今どきそんなにこだわらなくてもと雅臣と祖父母は言ったが、誠は頑なに譲らなかった。
アルファの恋人がいるのに発情期をひとりで耐えるのは、想像以上につらいことだ。抑制剤の効きが悪い雅臣は助けてくれと誠に泣いて縋ったこともあったが、いつも困ったように微笑む誠に言いくるめられ、ひとり部屋に残されていた。
だが、そんな歯痒い日々もあと数ヶ月で終わる。
ふたりは本当の番に――夫婦になるのだ。将来的にはきっと家族も増えるだろう。誠との子どもなら、絶対に男の子でも女の子でもかわいい。
いつか来る未来を想像するだけで、雅臣の毎日は楽しかった。
ひとりで夕食と家事を一通りすませた雅臣がリビングでくつろいでいると、突然スマートフォンの着信音が鳴り響いた。
画面に表示されているのは知らない番号だ。雅臣は迷ったが、着信が止まらないのでおそるおそる通話ボタンをタップする。
「もしもし……?」
『あっ、もしもし、雅臣さんですか? 俺、誠の友達の佐伯です』
「ああ、佐伯さん」
知っている名前にホッとする。
佐伯は誠の大学の友人で、雅臣も二度ほど顔を合わせたことがある。すこぶる美形の、明るくて人当たりの良い好青年だった。
『突然電話しちゃってすみません。誠が酔い潰れちゃって』
「えっ」
『タクシーに乗せてそのままひとりで帰らそうかとも思ったんだけど、もう歩けそうもない感じなんですよね。申し訳ないんだけど、雅臣さんが連れて帰ってくれないかな? 俺たちまだ飲み足りなくて』
酔い潰れた誠を想像できず、雅臣は少し困惑した。時刻は九時を過ぎたところで、誠が家を出てからまだ二時間ほどしかたっていない。あまりお酒を飲まない誠が歩けないほど泥酔するなど、雅臣には信じ難かった。
だが、婚約者を迎えに来てほしいと頼まれて断る訳にもいかない。佐伯たちへの申し訳なさもあり、雅臣は頷いた。
「ご迷惑おかけしてすみません。すぐ迎えに行きます」
『ありがとうございます! 場所はショートメールで送っときますんで。あ、俺の名前で予約してるんで、店着いて店員に俺の名前言ってくれたらわかると思います』
通話が切れてすぐに、佐伯から店名と地図が送られてくる。
雅臣は仕方なく服を着替え、財布とスマートフォンだけを持って家を出た。
夜の店が立ち並ぶ騒がしい繁華街は、雅臣にとって近寄りがたい場所だ。しかし今回はそうも言っていられず、しつこい客引きをなんとか振り切りながら目的の店へと入った。
誠がいるのはごく普通の居酒屋のようだった。近くの店員に声をかけると、一番奥の座敷にいるとのことだったので足早にそちらへと向かう。
奥の個室の前で見慣れた革靴を見つけ、一呼吸してから閉じられた障子に手を伸ばした。
そのとき――
「そう言えばさぁ、お前んとこの失敗作オメガ最近どうなの?」
「どうって、なにがだよ」
伸ばしかけた手がピタリと止まる。
障子の向こうから聞こえてきた『失敗作オメガ』という言葉と、いつもと雰囲気が違う聞き慣れた声に雅臣の心臓がどきりと跳ねた。
「もう同棲してだいぶたつだろ? さすがにもうセックスした?」
「はあ? 冗談よせよ、気持ち悪い。あんなデカブツとやれる訳ないだろ?」
複数人の下卑た笑い声が障子の向こうに響き渡った。
障子に向かって伸ばしたままの手が小さく震える。雅臣はその場から動けないでいた。
「ていうか失敗作オメガってなに?」
「あれ、結構有名な話なんだけど知らない? こいつの婚約者の悠木雅臣って、オメガなんていらないって五歳くらいのときに親に捨てられて、じいちゃんばあちゃん家の養子になってんのよ」
「あー、もともとは一条家の跡取りのはずだったんだっけ? 確か父親が婿養子に入ってたよな」
「そうそう。まあ悠木家もそこそこの資産家だし、そこはラッキーだったと思うけどね。でも、成長したら今あんなじゃん。え、オメガ要素一切なくね? って」
「それで、オメガとして生まれただけで失敗作なのに、オメガとしても失敗作とか言われてんだろ。悲惨すぎ」
「へー。俺見たことないんだけど、悠木雅臣ってどんななの?」
「オメガなのにガタイ良いんだよ。アルファの誠とほぼ同じサイズ。たぶんお前よりでけーよ」
「うわー、誠かわいそー」
全身から血の気が引いて、雅臣は立っているのがやっとだった。
とてもひどいことを言われているのに、怒りも悲しみも湧いてこない。真っ白になった頭が、考えることを拒否しているのだろうか。
「神田はなんでそんなのと婚約してんだよ」
「んなもん金に決まってんだろ。あの老いぼれ夫婦が死んだら、金も土地も不動産も全部俺のもんだぞ? ちょっと優しくするだけで、アイツ、俺の言いなりだし」
「お前悪魔かよ」
「いやいや、優しいだろ。あんな失敗作と結婚して、気が向いたらオナホ代わりに使ってやろうと思ってんだぞ?」
「オナホとかひどすぎ!」
ギャハハハと下品な笑い声が頭にガンガン響く。
嘘だと思いたかった。でもきっとこれが本当で、今までの幸せが嘘だったのだ。
そう考えると、時折違和感を抱いていた誠の言動にも納得できた。
誠は雅臣のことを愛してはいなかった。祖父母の資産が目当てで、雅臣のことは気色の悪いオメガだとしか思っていなかった。だから番にもしてくれなかったし、抱いてもくれなかった。付き合っているのを何年も秘密にしたのも、その方が誠にはなにかと都合が良かったからなのだろう。
雅臣の前では優しいふりをして、裏ではずっとこうやって笑い者にしていたのだ。
そこでようやく雅臣の胸に悲しみと悔しさが込み上げてきた。
とにかく、もうここにはいたくない――雅臣が踵を返そうとした瞬間、目の前の障子がガラリと開く。
顔を合わせた知らない男は、きょとんとした表情で雅臣を見つめていた。
その向こう、雅臣に気付き顔を青ざめさせた誠とにんまりと笑う佐伯を見つけた途端、雅臣は全速力でその場から逃げ出した。
パニック状態のまま店を出て、雅臣は通りに停まっていたタクシーに飛び乗ろうとする。だが、背後から伸びてきた手に腕を掴まれた。
「雅臣っ、待って、俺の話聞いて! あんなの冗談だから……とにかく一緒に帰ってふたりで話そう? なっ?」
息を切らした誠が、焦った表情のまま手に強く力を入れてくる。
雅臣は口を結んだまま首を横に振る。声を出したらその場で泣き喚いてしまいそうで怖かった。これ以上惨めな思いはしたくない。
すると誠はいっそう焦ったような顔をして、今度は自分ごと雅臣をタクシーに乗せようとグイグイ腕を引っ張ってくる。負けじと雅臣は突っぱねるようにその体を押し返そうとするが、誠に泣きそうな声で「雅臣」と呼ばれると一瞬絆されそうになる弱い自分がいた。
ひどいことを言われた。でも、全部本当のことだ。オメガだから親に捨てられたことも、オメガなのにかわいくないことも。
――俺が悪かったのかもしれない。俺みたいなのが好きになってもらえるはずないのに、期待して、夢を見て、傷付いて。
「……もう、おわりだ」
言った瞬間、目から涙がボロボロと零れ落ちる。
誠は驚いたように目を見開いたが、腕を掴む手の力は緩まなかった。それどころか、さっきより強い力で雅臣を引き寄せて抱き締めようとしてきた。
「やめろよ!」
「雅臣、俺が悪かった……謝るから、話し合おう」
「いやだ……!」
ドンとより強く押し返すと、誠の表情が変わった。胸ぐらを掴まれ、強引に引き寄せられる。
「いいから来い」
頭に血が上ったのか、目が完全に据わっていた。
今日の誠は、雅臣の知らない誠ばかりだ。
そもそも、雅臣は誠のことを本当の意味ではなにも知らなかったのかもしれない。知った気になって、愛した気になっていただけで。
涙を流したまま黙っている雅臣にさらに苛立ったのか、舌打ちした誠はもっと強い力で無理やりタクシーに押し込もうとしてくる。
そのとき、背後からこちらに近付いてくる足音が聞こえた。
「……あの、大丈夫ですか?」
声をかけられた瞬間、雅臣の体を押していた誠の手が離れた。その分、手首を握る手の力は強められたので逃げることはできなかったが、雅臣はできる限り誠から距離を取る。
声をかけてきたのは、帽子を深く被った小柄な男だった。
泣いている顔を見られたくなくて、雅臣はとっさに俯いた。
誠は現状を誤魔化すように外面の良い笑みを浮かべる。
「ああ、お騒がせしてすみません。ちょっと話し合っているだけなので」
「でも、すごく嫌がってるように見えるんですけど」
「……だから、ちょっと話し合ってるって言ってるだろ。俺はこいつの婚約者なんだ。部外者は口挟まないでくれる?」
最初は愛想良く対応していた誠だったが、面倒になったのかすぐに敬語を取っ払い、相手に高圧的な態度を取った。
しかし、相手は臆した様子もなく一歩こちらへと距離を詰めてくる。
「へぇ、あんたが雅臣くんの婚約者なんだ」
突然呼ばれた自身の名に驚き、雅臣は頭ひとつ分低い位置にある男の顔を見つめる。
それとほぼ同時に男は帽子を取り、穏やかな表情で雅臣に微笑みかけた。
「……片桐?」
「うん。久しぶり。まあ今は白鳥だけどね」
「白鳥? 白鳥ってあの……」
男が名乗った瞬間、誠の顔色が変わった。
白鳥家は元華族の家柄で、色々な財閥やその界隈との繋がりが深い。政治家の父を持つ誠にとっては、お近付きにはなりたいが顰蹙は買いたくない相手だろう。
「事情はよくわかんないけど、いったんふたりとも落ち着いた方がいいんじゃない? 雅臣くん泣いちゃってるしさ」
「それはもちろん、落ち着いて話したいとは俺も思ってますけど……」
「じゃあさ、とりあえず雅臣くんは僕に任せてよ。雅臣くんも今は君と一緒にいたくないみたいだし。ね、雅臣くん?」
久しぶりに再会した友人に気遣うように背を撫でられ、雅臣は無意識に何度も頷いていた。
片桐に連れられて到着したバーはこぢんまりとしたオシャレな店で、まだ新しいのか外観がとても綺麗だった。
準備中と書かれた札のかかったドアを開けて店内へ入ると、片桐は破顔してぎゅうっと雅臣に抱きつく。
「ほんと久しぶり! ずっと会いたかったんだ」
片桐雪緒は雅臣の中高の同級生で、雅臣とは正反対のいわゆるオメガらしい綺麗な少年だった。
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それからだ。片桐が音信不通になり、友人の誰も彼と連絡がつかなくなってしまったのは。
数年ぶりの再会に、雅臣は改めて涙ぐむ。
特に変わりはないようで、片桐は少年のような愛らしい容姿のままだった。
懐かしくて、雅臣も思わず片桐を抱き締め返す――と、店の奥の方からガンとなにかがぶつかるような物音がした。
「なにか落ちたのか?」
「……さぁ、なんだろ。まあ気にしなくていいよ。ほら、座って」
促されるまま雅臣が席につくと、カウンター内に回った片桐が「なにか飲む?」とグラスを片手に尋ねてきた。
「お酒もジュースもあるよ。カクテルも大体作れるし」
「ここ片桐……いや、もう白鳥なのか。白鳥が働いてる店なのか?」
「ふふ、片桐でいいよ。働いてるというか、たまに暇潰しに来てる感じかな。ここ、旦那が自分の晩酌用に買った店みたいなもんだから」
「へ、へぇ……」
ただ晩酌をするためにバーを一軒買い取るとは、まさに金持ちの道楽である。
若干引きつつも、片桐の口から気軽に旦那という言葉が出たことが少し意外だった。話を聞いた限り典型的な政略結婚に思えたが、案外うまくいってるのかもしれない。
「旦那さんとは、その……」
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嫉妬深い。そのワードにピンときた雅臣は、まさかと思いながらも問いかけてみた。
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アルファのなかには、強い独占欲から番のオメガを過剰に束縛する者がいる。特に、優秀な個体ほどその傾向が強いのだ。他のアルファに目移りしないよう、ちょっかいをかけられないよう、常に自分の傍に置き、外部との接触を禁じたりするのだという。
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雅臣は差し出された綺麗な青のカクテルを受け取り、同じものを持った片桐と乾杯してからそっと口を付ける。あまりこういう場所には来ないので酒の種類には詳しくないが、スッキリとした甘さで飲みやすかった。
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片桐は時折相槌を打ちながら、静かに話を聞いてくれた。
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一通り話を聞き終えたあと、怒りを堪えきれない様子で片桐が吐き捨てた。
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端麗な顔に作り物の笑みを浮かべながら、男――卯月総真は当然のように雅臣の隣の席に腰を下ろす。
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ククッと笑い声を零し、卯月は身構える雅臣の背中に指を滑らせた。
なんとも言えないゾクリとした感覚に、雅臣はビクッと体を跳ねさせる。
「本当に馬鹿だよなぁ。お前のこと金づるとしか思ってない男になんか引っかかって」
この男に今までの話を聞かれていたということは、雅臣にとって悲劇だった。
卯月総真という男は、いつだって厄介で難解だ。
「まあでも、自業自得だよな――あのとき、大人しく俺のものになってりゃあ、そんな惨めな思いせずにすんだのに」
意志の強そうな大きな瞳が、蛇のような鋭さをもって雅臣を睨みつける。
雅臣と卯月には因縁があった。忘れたくても忘れられない、忘れたふりをし続けることしかできなかった、呪いのような因縁が。
▽ ▽ ▽
卯月総真との出会いは幼少期まで遡る。
オメガであることを理由に両親が雅臣を施設に送ろうとしたとき、祖父母は激怒した。そうして雅臣は祖父母に引き取られ、そこから新しく通うことになった幼稚園に彼はいた。
いわゆる上流階級の子どもが多いその幼稚園のなかでも、卯月は特別だった。
祖父は卯月財閥のトップで、父はその後継者。母は引退した天才女優という家系もさることながら、頭脳明晰で運動神経も良く、整った美貌を持つ卯月は、いつだって集団の中心にいた。
オメガの雅臣にはわからないが、アルファのなかにはアルファ同士にだけわかる序列があり、卯月はそのトップ層に分類される上級のアルファらしい。
そんな特別なアルファである卯月は、特に秀でたところのないオメガである雅臣にとって一生関わるはずのない相手だった。
――しかし、雅臣が転園してしばらくすると、なぜか卯月は雅臣に執拗に絡んでくるようになる。
卯月は美しい顔に反して気の強い暴君で、そんな彼に目を付けられた雅臣の幼少期は散々だった。お気に入りのおもちゃや絵本を奪われるのは日常茶飯事で、逃げたり避けたりするとさらに追いかけ回された。気の弱い雅臣が泣きだすとうれしそうに笑うのも怖かった。他にも、仲が良くもないのに誕生日プレゼントを要求されたり、雅臣が他の子と遊んでいると邪魔をしてきたりと、様々な嫌がらせは小学生になっても続いた。
そして、ふたりが小学六年生になって半年ほどたった頃、雅臣にとってある転機が訪れる。
「お前さぁ、なんでいつも真理亜と一緒にいんの?」
ある日の放課後、靴箱の前でいつものように卯月が絡んできた。どうやら機嫌が悪いようで、理不尽にも雅臣を睨みつけてくる。
真理亜というのは、雅臣と幼稚園の頃から仲のいい女の子のことだ。確かにクラスが同じなので傍にいる時間は長いが、なぜ卯月がそんなことを聞いてくるのかわからない。
雅臣は嫌な予感を覚えながら、ぼそぼそと答えた。
「なんでって……友達だから」
「あいつアルファなんだからあんま近付くなよな」
「……? どうして?」
「どうしてって、俺以外のアルファと仲良くしたらダメに決まってんだろ。お前は俺の番になるんだから」
当然のように告げられた言葉に、雅臣は心底驚かされた。
オメガの項にアルファが噛み付くことで成立する番関係は、アルファとオメガにとって結婚よりも重い魂の契約である。特に、番を一方的に解消できるアルファとは違い、オメガにとって番は生涯で唯一無二の相手だ。
なぜその相手が卯月なのか。というか、なにを勝手なことを言っているのか。
「な、なんで? なんで俺が総真くんの番なの?」
「はぁ? 俺がそう決めたからだけど?」
逆に、なに言ってんだこいつ? といった顔を向けられ、雅臣は言葉を失った。
しかも、その後はズルズルとグラウンドの端っこに連れて行かれ、サッカーをする卯月たちの荷物番をさせられる。自分も一緒にサッカーがしたいと言ったが、お前はどんくさいからダメだと卯月に一蹴された。
確かに雅臣はどんくさいところがある。以前体育の授業で頭をゴールポストにぶつけて怪我をしたこともあったが、あれはもう二年ほど前の話だ。そんな昔のことを理由に仲間外れにされても、雅臣は到底納得できなかった。
そのくせ、自分がゴールを決めたらわざわざ雅臣のところに「今の見てたか⁉」と自慢しに来るのだから、たちが悪い。笑った顔が天使のように煌めいていたとしても、雅臣には卯月が美しい悪魔のようにしか見えなかった。
オメガであることは最大のコンプレックスではあったが、仲睦まじいアルファとオメガの番である祖父母のもとで育った雅臣には番への憧れがあった。だが、それはもちろんお互いを想い愛し合うふたりの姿に惹かれたのであり、誰でもいいから番が欲しいという訳ではない。むしろ、単純な番関係だけを見れば圧倒的にアルファが優位であるその関係は雅臣も恐ろしかった。
今だってなるべく関わりたくないのに、あの卯月と番になるなんて、考えるだけでゾッとする。
そもそも、なぜ卯月が突然雅臣を番にすると言い出したのかもわからない。
アルファとオメガのなかには『運命の番』というものがある。わかりやすく言うと『遺伝的にものすごく相性の良い番相手』のことらしい。大抵の者は出会うことなく生涯を終え、自身の運命に出会える確率はわずか一%未満だという。
卯月の運命の番が雅臣であったなら、雅臣にこだわるのもまだわかる。けれど、決してそういう訳でもない。
運命の番というのは、出会った瞬間に相手が自分の運命の相手だとわかるのだ。相手からとても良い香りがして、ビビッとしたなにかを感じるのだとテレビで専門家が言っていた。
雅臣が卯月と出会ったときにそんな感覚はなかったし、それは卯月も同じはずだ。
つまり、ふたりは絶対に運命の番ではないのだ。
――なのに、なんで俺が総真くんの番なんだろう……
いつか飽きるだろうと耐えていたが、幼稚園から小学校までもう七年以上、卯月からの一方的な接触は続いていた。
この学校は幼稚園から大学までエスカレーター式の一貫校で、このままいけば少なくともあと六年、大学に通うなら十年も雅臣は卯月の傍にいることになる。
思春期に発情期を迎え、もしなんらかの運命のいたずらで本当に卯月と番になってしまったら、この地獄はいつまで続くことになるのか――
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「雅臣、今日はもうお休みしようか。まだ体調も良くないだろう」
「え? ……あ、うん」
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頷いて踵を返そうとするが、雅臣の腕はまだ卯月に掴まれていた。
横目で窺うと、卯月は黙ったまま地面を睨んでいる。悔しそうにも見えたし、泣くのを我慢しているようにも見えた。
なんとか穏便に離してもらおうと、空いている方の手でそっと卯月の手に触れる。
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「え?」
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そっと顔を上げた卯月の目元はほのかに赤らんでいた。眉を寄せ、ばつの悪そうな顔で先ほどよりも少し大きな声で呟く。
「……いきなり怒鳴って、悪かった」
雅臣はぱちぱちと目を瞬かせた。
今まで散々泣かされてきたが、こうもわかりやすく謝られたのは初めてだ。
「うん……バイバイ」
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