遠のくほどに、愛を知る

リツカ

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後日談など

初恋と罪と愛と 8

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「よかった……」

 ヴィンセントが泣いていた。泣きながら笑って、クロードを見ている。
 わけがわからない。わからないが、いつも無表情だったヴィンセントのめずらしい表情に、クロードはある種の感動さえ覚えた。
 しかし、いったいどうしたのかとヴィンセントに問いかけようとしても、なぜだか口が思い通りに動かない。
 それどころか、クロードの体がクロードの意思を無視して勝手に動き出すものだから、クロードは長い間パニック状態に陥っていた。

 ──そしてその後、クロードは自分が記憶喪失に陥っているという不可解な事実を知らされる。
 そもそもクロード本人からしたら、この状況は記憶喪失などと呼ばれるものではない。
 クロードの意識は変わらずはっきりとあった。ただ、自分の意思では自分の体を動かせない状態になっていたのだ。
 その間、クロードの体は……



「ヴィンセントさん、好き、好きです」
「ク、クロード……」
「もっとセックスしたいです。愛してます。前のクロードよりずっと」



 ──本当に気が狂いそうだった。
 いや、間違いなく発狂していたのだ。クロード・オルティスの体とは引き離された精神の部分では。

 自分の体を乗っ取った別人が、自分の顔で、声で、子犬のようにヴィンセントに甘えていた。かと思えば、夜になると何度も何度もヴィンセントを抱いて、甘ったるく愛を囁く。

 は、クロードができなかったことを簡単にやってのけて、なによりヴィンセントに愛されていた。がヴィンセントに気安く触れること以上に、ヴィンセントがそれを受け入れていることの方がクロードはショックだった。

 確かに、クロードはヴィンセントに愛されたいとイリスの樹に願った。
 ヴィンセントが記憶を失う前のクロードを彼なりに愛していたのだと知れてうれしかった。

 ……けれど、こんなものは望んでいない。
 これなら、あの日死んだほうがずっとましだった。

『殺してやる。殺してやる。どんな手を使っても殺してやる。俺のヴィンセントに触れた。たぶらかした。あんなやつは俺じゃない』

「あなたが傍にいてくれてよかった。あなたを心から愛しています」

『俺と永遠を誓ったのに。俺に純潔を捧げたのに。お前が命懸けで助けたのは俺なのに。俺の方が先に愛してたのに』

「忘れたりしませんよ、ずっと愛しています」

『俺には笑いかけなかったくせに。俺には優しくなんかしてくれなかったくせに』

「クロード」

『ヴィンセント……愛してる。愛してるんだ。この世のなによりも、誰よりも、俺がお前を愛してる。俺が、俺の──……』





「──……クロード様、クロード様」





 柔らかな声が耳に吹き込まれて、クロードはゆっくりと目を開いた。ぼやけた薄暗い視界が、徐々に徐々に鮮明になっていく。
 気遣わしげな表情で、ヴィンセントがクロードの顔を覗き込んでいた。クロードと視線が交わると、その強張った頬は安堵したように緩んでいく。
 これが夢なのか、現実なのか、はたまたあの地獄のような日々の続きなのか──クロードには判別がつかなかった。

「大丈夫ですか? 少しうなされていました」
「…………ああ」

 頷いて、軽く前髪をかき上げる。
 最悪な夢だった。まさしく悪夢だ。

 ヴィンセントから手渡された水を飲んで、クロードは深く息を吐く。やたらと体が重く感じて、まるで沈むように再びベッドへと横になった。

 あの悪夢は、ただの夢ではなかった。
 あれはクロードの過去だ。
 それも、苦く、口惜しい、消してしまいたい過去。

「怖い夢でも見たんですか?」

 隣に寝そべったヴィンセントが、クロードの体を抱き寄せ、優しくクロードの髪を撫でる。
 まるで赤子をあやす時のような仕草だ。それこそ、最近一歳になったウィリアムをあやすときの手つきとそう変わりはない。
 ヴィンセントのそのわかりやすい子ども扱いに、クロードは少し複雑な気持ちになった。けれど、なんだかんだその手を振り払えない。ヴィンセントに甘やかされるのを、心地いいと感じる幼い自分が心の奥底にいる。

「眠り直せそうですか?」
「……わからん」
「なにか温かいものを用意しましょうか。ホットワインでも──」

 体を起こしたヴィンセントがベルで使用人を呼ぼうとするのを、クロードは腕を掴んで制した。
 そして、微かに掠れた声で囁く。

「キスしてくれないか?」
「……はい?」
「お前がおやすみのキスをしてくれたら、眠れる気がする」

 ダメか?と尋ねながら、ヴィンセントの体に手を這わせた。寝衣の合わせ目に手を差し込み、その割れた腹に直接触れる。
 無性にそういう気分だった。
 あの悪夢のせいだろうか。あの見知らぬクロードがヴィンセントに触れていた光景が頭から離れず、苛立ちと独占欲が入り混じった劣情がクロードを駆り立てる。
 ヴィンセントは突然のクロードの言動に目を丸くしながらも、クロードの手を拒むことはなかった。どうやら、まだ甘やかしてくれる気はあるらしい。

「……キスだけで済むんですか?」
「わかるだろ」

 まだ朝は遠い。クロードは目を細め、寝衣越しのヴィンセントの肢体をしげしげと眺めた。その中の鍛えられた美しい肉体を知っているからこそ、一度抱きたいと思ったら我慢ができない。
 ヴィンセントは小さく肩をすくめ、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべながらクロードの髪にキスを落とした。そこから、額、右頬、鼻先にキスをして、最後にそっと唇を啄まれる。
 すぐそこにある紫色の瞳を見つめ、クロードはうっとりと目を細めた。

「ヴィンセント……」
「横になったままでいいですよ。今日は、俺が……」

 ヴィンセントは最後まで言葉を続けなかった。代わりに、そろりと手を伸ばし、クロードの寝衣の腰紐を器用に解く。
 普段は清廉とした男らしいその顔には、艶を帯びた楽しげな笑みが浮かべられていた。
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