遠のくほどに、愛を知る

リツカ

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第5章 手紙

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 鳥の羽ばたきの音で、ヴィンセントは目を覚ました。
 窓の外に目をやると、白い羽が舞い、夜の暗闇の中を一羽の鳩が飛んでいくのが見えた。その後ろ姿をぼんやりと見送ったあと、ヴィンセントは隣で眠るクロードに目をやる。
 すると──

「うっ……」

 眠っていたクロードの眉間に皺がよる。
 小さく呻きながら身じろぎする様は苦しげで、とっさにヴィンセントはその肩を掴んで軽く揺すった。

「クロード、クロード」

 二度呼びかけると、クロードの金色のまつげが震え、うっすらと開かれた瞼から青い瞳が姿を表す。
 クロードはどこか眩しそうにじっとヴィンセントを見ていた。……かと思うと、突然がばりと上体を起こして、信じられないものを見るような目でヴィンセントを見下ろす。

「クロード……?」

 どうしたのかと伸ばしかけた手を、ヴィンセントは途中でぴたりと止める。
 気付いたのだ。クロードの目に怯えの色があることに。その瞳が記憶を失ったばかりのクロードのものによく似ていることに。

「……クロード様」

 自然と言葉がこぼれ落ちる。
 途端にクロードの美しい顔が歪んだ。叫びたいのを堪えようとするように歯を食いしばり、クロードは自身の金髪を掻き乱した。

「最悪だ……っ」

 そう吐き捨て、寝衣姿のクロードはベッドから下りた。ヴィンセントに背を向け、逃げるように自室へと続く扉のほうへと向かっていく。
 ヴィンセントは慌てて寝衣を羽織りながら、その後を追いかけた。引き留めようと手を伸ばし、声をかける。

「クロード様、突然記憶が戻って驚かれているとは思うのですが、俺の話を──」
「っ触るな!!」

 振り向きざまに、伸ばした手を勢いよく振り払われた。
 ヴィンセントと視線を交えたクロードの青い瞳には、激しい怒りがにじんでいる。燃えるようなその眼光に、ヴィンセントは思わず鼻白んだ。
 ──直後、握った拳を震わせたクロードの怒りが爆発する。

「ッ裏切り者! 淫売! 俺以外の男に抱かれて善がってたくせに!!」
「い、いんばい……?」

 ヴィンセントは面食らった。怒鳴りつけられた言葉の意味がわからない。いや、意味はわかるが、なぜクロードが自分に向かってそんなことを叫んだのかはわからなかった。
 けれども、とにかく反論をせねばと、ヴィンセントは静かに口を開く。

「クロード様……誤解があります」
「誤解ッ? なにが誤解なんだ!? 俺はずっと見ていたんだぞ!?」

 ずっと見ていた……ということは、記憶を失っていた間の記憶が、いまのクロードにもしっかりと残っているということだろうか。
 戸惑うヴィンセントに向かって、尚もクロードは畳み掛けるように怒鳴り続ける。

「半年以上も見ず知らずの男に体を乗っ取られて、簡単に妻を寝取られた! よりにもよってあんな軟弱な奴にッ!」
「……とにかく落ち着いてください。一度座って話しましょう」
「うるさいっ! お前と話すことなんてなにもない! 俺以外の男に容易く体を許したくせに!」
「あなた以外に体を許したことはありません」
「あんな奴は俺じゃないッ!!」

 クロードは本気で怒っているのだろうが、ヴィンセントはそのクロードの激昂にさえ懐かしさを覚えていた。この苛烈さは、記憶を失っていた間のクロードにはなかったものだ。
 しみじみと黙り込んだヴィンセントになにを思ったのか、クロードは鋭くヴィンセントを睨め付ける。

「俺には一度も愛してるなんて言わなかったくせに、俺には一度も笑ったりしなかったくせに……!」
「あなたを愛しています」
「取ってつけたように言うな!」

 傍から見ればただの痴話喧嘩に見えるのかもしれないが、クロードの怒りは本物だった。どうやら、本気でヴィンセントが浮気をしたという認識でいるらしい。記憶を失っていた間のクロードと同様に、もうひとりの自分自身に激しく嫉妬しているのだ。

 どうしたものか、とヴィンセントは激昂するクロードを見つめる。
 記憶を失う前までは、クロードの癇癪はよくあることだった。クロードの悪い癖だ。思い込みが激しい上、一度火がつくと止まらない。
 こうなったらもう落ち着くまで手がつけられないことは、一年ともに過ごしたヴィンセントもわかっていた。

「……わかりました。では、詳しい話は明日しましょう。まだ夜中ですし、クロード様には少し考える時間が必要なようなので」
「お前なんか嫌いだ……」

 ヴィンセントの話を聞いているのかいないのか、そう吐き捨てたクロードはヴィンセントに背を向けて扉のほうへと歩いていく。
 そして、扉を開けてすぐ、ぽつりとこんなことを言った。

「……こんな思いをするくらいなら、死んだ方がよかった……」

 驚いたヴィンセントは思わずクロードへ歩み寄ろうとしたが、無情にもその前に扉は閉められてしまう。直後、ガチャンと鍵の閉まる音も聞こえた。
 しばしそこに立ち尽くしてから、ヴィンセントはのろのろとベッドへと戻った。ベッドの縁に腰掛け、項垂れる。

 話したいことがたくさんあったのに、それどころではなくなってしまった。またいつものすれ違いだ。そういった意味では、口下手で唐変木なヴィンセントと、思い込みが激しく苛烈なクロードは、本当に相性が悪い。
 それでも、それでも──

「帰ってきた……」

 ぽつりと独り言がこぼれる。
 じんわりと胸の奥が熱くなって、自然とヴィンセントの口元が緩んだ。

 もう、クロードが記憶を取り戻せなくても良いと思っていた。けれど、いざ懐かしいクロードの振る舞いを目にすると、どうしようもなくうれしい。たとえ、罵倒されて、伝えたいことの半分も伝えられなくても、ただまた言葉を交わせただけでヴィンセントはうれしかった。

 明日になればきっと、クロードも少しは落ち着いているだろう。
 そうしたらちゃんとクロードと向き合って、話をしたい。過去のようになあなあにはぐらかすことなく、ヴィンセントの気持ちを伝えたい。

 ずっと謝りたかった。愛していると伝えたかった。死なないでくれてよかったと抱きしめたかった。
 うまく伝えられるかどうかはわからない。またクロードを怒らせてしまうかもしれない。
 だが、きっとそれでもいいのだ。
 クロードはちゃんと生きてヴィンセントのもとに帰ってきた。
 すれ違っても、間違っても、何度だってふたりはやり直せる。

 それからヴィンセントは、眠ることなく陽が昇るのをベッドの上で待った。
 クロードとまた話ができるのが待ち遠しくてたまらなかった。




 ──しかし、夜が明けても、ヴィンセントとクロードが顔を合わせることはなかった。
 朝になってヴィンセントが隣室を訪ねる頃には、クロードは屋敷から忽然こつぜんと姿を消していたのだ。
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