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第1章 お茶会と悲劇と
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しおりを挟む「うれしかったのではないでしょうか。そもそも、ヴィンセント様が思っているほど、クロード様はヴィンセント様のことを煩わしく思っていないように私には見えます」
ヴィンセントの独り言に、ミラは諭すような柔らかな声で答えてくれた。
立ったままのミラを見上げ、ヴィンセントは戸惑った表情を浮かべる。
「あんな形で結婚したのに?」
「政略結婚でも、仲のいいご夫婦はたくさんいらっしゃるじゃないですか。それに、一年も共にいれば情も湧きます。ヴィンセント様だってそうではありませんか?」
「それはそうだが……」
しかし、ヴィンセントとクロードでは何もかもが違う。
確かにヴィンセントにとってクロードは申し分のない夫ではあるが、逆にクロードにとってヴィンセントはそれほど良い妻ではない。それこそ、前の婚約者の方がすべてに置いてヴィンセントよりも優れていたはずだ。
ハァ、とため息を吐いたヴィンセントに向かって、ミラは小さく苦笑していた。そして、穏やかな声で再び諭すように言う。
「とにかく、クロード様が戻られたら、もう一度よくお話になられたほうが良いかと私は思います」
「……そうだな」
ミラが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、ヴィンセントはぼんやりと窓の外を眺める。
まず、謝罪をして、誤解を解こう。
そして、クロードの話を聞いて、ヴィンセントも自分の思いを伝えて、それで、それで本当にうまくいくのだろうか──……
ヴィンセントは遠い目をした。
空はクロードの瞳のように青々と美しいのに、いまいちヴィンセントの心は晴れない。
クロードがもっと嫌な男ならよかった。
そうしたら、ヴィンセントも罪悪感に苛まれることなく、怠惰な日々を甘受できただろう。
しかし、クロードは優しかった。ヴィンセントなんかよりもよっぽど善人だった。
おそらく完璧ではない。だが、ヴィンセントにとって過ぎた夫であることは確かだ。
そんなことを考えていると、窓の外から微かな騒めきが聞こえてきた。悲鳴の入り混じったそれはどんどん大きくなり、屋敷の中へと広がっていく。
「なんだ……?」
ヴィンセントが立ち上がったのと同時に素早く扉がノックされ、返事を待たずにひとりのメイドが部屋の中へと飛び込んでくる。
「ヴィ、ヴィンセント様、ク、ク、クロード様がっ、馬で……っ」
まだ十代のその若いメイドは、青褪めた表情でヴィンセントに何かを伝えようとするが、狼狽しすぎてうまく言葉にならないようだった。
「落ち着いて」
「は、はい……」
ミラがメイドの背をさすると、ようやく少し落ち着いたらしいメイドは大きく息を吸い込んだあと、震える声で言葉を紡ぐ。
「ク、クロード様が落馬されて、いま意識がない状態です……」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
頭の中が真っ白になって、腰から下の力が抜けそうになる。
落馬?
意識がない?
夢で見た、青白い月明かりに照らされたクロードの姿を思い出す。ホッとしたような、柔らかな笑みも。
「ヴィンセント様ッ!」
ミラの静止の声も聞かず、ヴィンセントは部屋を飛び出した。どこに行けばいいのかもわからず、すれ違う使用人たちの声も無視して、ただ走る。
そして、玄関ホールに運び込まれたばかりらしきクロードを見つけて、担架にぐったりと横たわるその姿にヴィンセントは言葉を失った。
血の気を失ったその青白い顔は、先ほどの夢で見た、月明かりに照らされたクロードに少し似ている。
駆け寄ったヴィンセントは膝から崩れ落ちるようにクロードの傍に座り込み、クロードが自室に運ばれるまでの間、じっとその隣に寄り添っていた。
ヴィンセントはただ、クロードの青い瞳を覆い隠した瞼が開くことを無心で祈っていた。
だが、その日も、その次の日も、クロードが目を覚ますことはなかった。
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