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六、さあ召し上がれ?
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天上から地表に近づくほどに白んで見える春の空が、一面を塗りたくったような天色の夏空に変われば、緑の小麦畑もまた黄金色に粧いを変える。その実りの尊さを謳うように輝いて。
「聖杯の欠けた光が戻りはじめました。神力の注入を始めてから十年になりますが、近年は監視対象の成長も著しく、現状を維持できれば今上国王の統治下に、器を満たす事が叶うでしょう」
王国民の腹を満たす穀粒の収穫を終えて、麦わらの絨毯を敷き詰めたようになる秋の畑の様子も良い。風に揺れていた麦穂が残らず刈り取られ、うら寂しいはずの風景さえ愛しいのだから、四季折々の姿の全てを愛でずにはいられない。
小麦は王国の食を支える生命線で、その成長の健やかなる様は王国の健やかなる様。好ましく思うのは当然なのかもしれない。
「一度消えかけた光がまた満ちだしたならば、加護の威力も回復しているのか?建国時の水準にまで?」
「当時の効力を測定する術は有りませんが、おそらく匹敵しつつあるかと」
古に、初代王たちが国を興したミッドグラン。幸運な始祖が神々の加護を得たのみならず、ミッドグランの大地がその懐に根を下ろすを許し、小麦の実りを恵み与えてはじめて、百万にまで膨れ上がる民の命を、王国が支えるに足り得たのだから。
「出来過ぎなくらいだな。この件は暫く内密にせよ」
「賜りました」
今となっては神々との約束こそ遠い伝説となり、大地の恵みが民草の心の支えであるのは皮肉な事だ。直系王族にのみ宿る約束の証、七色に揺らぐ宝石眼。これを持つ自分達だけが、鏡を見る度に思い出すのだ。
神々の偉業を。
「学園での様子はどうか」
「監視対象は相変わらず素行が良いとはいえません。神力を込めた菓子作りも続けています」
寵愛とその奇跡を。
「食した者の依存度は如何程なのか?」
「個人差が出るようです。見識ある者の目でなければ見逃される恐れが高いでしょう」
百年ぶりに現れた聖女の権能を。
「甚だチートよな。神殿の連中の態度が近頃とみに大きいのもそのせいか。過去に学ぶ頭もないと見える」
窓ガラスに映る虚像から目を背けて、論議の中心を見やると今度は実体を伴う宝石眼がこちらを向く。
「フィリップ、お前は大丈夫か?」
「勿論です」
直系王族の証を細めた国王陛下が、束の間覗かせた"父の顔"は、王太子の返事を聞けば直ぐさま引っ込んだ。
「ならば良い」
小麦の実りが豊かであるのは喜ばしい。しかし、多過ぎてもならない。値が崩れて市場に混乱を招けば、他国の商人にいいように買い叩かれる。貨幣価値は容易に揺らぐ。
時に私人の歓びには公人としての愁いが錯綜する。
逆もまた然り。
夕刻、学園内王太子執務室に戻ったフィリップは、力無く椅子に沈んだ。窓の外は雨。目を閉じて、ガラスを叩く無数の水滴の恨み節を聞く。
「マリエル以外、通すな」
やっとそれだけ指示して沈黙した主人を、カイルは壁際から気の毒そうに窺う。その視線さえ煩わしく酷く倦怠な気分のフィリップは、忍び寄る睡魔に逆らわず意識を手放した。
けれど、浅い眠りは幾らもしない内に妨げられる。
「——やっと休まれたところなので、」
「だから、私が来たからもう平気ですから」
遠慮気味に発せられる声と、反抗する無遠慮な声のアンサンブルがフィリップを現実に引き戻した。場面は、命令遵守と主人の健康との間に揺れる忠義な側近が、今まさに押し切られようとするところだった。
「フィリップ殿下!お茶に致しましょう?今日もフィリップ様のお好きな胡桃とチョコレートのクッキーを、私が焼いてきましたよ」
カイルを押し除けたマリエルは、クロードにダイニングカートを押させてフィリップの元へ近寄ると、クロッシュを手ずから開いて見せる。中には白磁の皿と素朴な手焼きのクッキー。
「さあ召し上がれ?」
フィリップは、さっきまでのやつれた様子が嘘のように笑顔を綻ばせる。
「ありがとうマリエル。僕はもうこれ無しでは生きていけないよ。このクッキーを食べるために働いていると言っても過言では無い。1日の嫌な事はみんな吹っ飛ぶし、すごく楽しい気分になるんだ。無敵になったようだ。このクッキーのためなら、なんだって出来るよ」
ミッドグランに育つ小麦は秋のうちに作付けられ、まだ頼りない若葉のままに長い冬を迎える。
「えへへ、本当ですか?そんなに褒められると、ちょっとテレちゃいます~。欲しくなったらいつでも言ってくださいね!そうだ、クロード卿とカイル卿もいかがです?」
「ダメだマリエル!彼らには勿体ない。全部僕に食べさせてほしい」
越冬に必要な葉と茎を芽差しただけの未熟な小麦は、大平原を分厚く覆う雪の下で、
「やだ~フィリップ様ったら!うふふ、勿論です。全部フィリップ様のものですよ」
「うん」
命を脅かす寒さと、呼吸を妨げる締り雪に耐えながら、
「ねえ、フィリップ様?私、困っている事があるんです。相談に乗って下さいませんか」
そっと耳を澄まして、
「どんなこと?」
「はい。あの、エヴェリーナ様の事なんです……」
雪解を待つのだ。
「聖杯の欠けた光が戻りはじめました。神力の注入を始めてから十年になりますが、近年は監視対象の成長も著しく、現状を維持できれば今上国王の統治下に、器を満たす事が叶うでしょう」
王国民の腹を満たす穀粒の収穫を終えて、麦わらの絨毯を敷き詰めたようになる秋の畑の様子も良い。風に揺れていた麦穂が残らず刈り取られ、うら寂しいはずの風景さえ愛しいのだから、四季折々の姿の全てを愛でずにはいられない。
小麦は王国の食を支える生命線で、その成長の健やかなる様は王国の健やかなる様。好ましく思うのは当然なのかもしれない。
「一度消えかけた光がまた満ちだしたならば、加護の威力も回復しているのか?建国時の水準にまで?」
「当時の効力を測定する術は有りませんが、おそらく匹敵しつつあるかと」
古に、初代王たちが国を興したミッドグラン。幸運な始祖が神々の加護を得たのみならず、ミッドグランの大地がその懐に根を下ろすを許し、小麦の実りを恵み与えてはじめて、百万にまで膨れ上がる民の命を、王国が支えるに足り得たのだから。
「出来過ぎなくらいだな。この件は暫く内密にせよ」
「賜りました」
今となっては神々との約束こそ遠い伝説となり、大地の恵みが民草の心の支えであるのは皮肉な事だ。直系王族にのみ宿る約束の証、七色に揺らぐ宝石眼。これを持つ自分達だけが、鏡を見る度に思い出すのだ。
神々の偉業を。
「学園での様子はどうか」
「監視対象は相変わらず素行が良いとはいえません。神力を込めた菓子作りも続けています」
寵愛とその奇跡を。
「食した者の依存度は如何程なのか?」
「個人差が出るようです。見識ある者の目でなければ見逃される恐れが高いでしょう」
百年ぶりに現れた聖女の権能を。
「甚だチートよな。神殿の連中の態度が近頃とみに大きいのもそのせいか。過去に学ぶ頭もないと見える」
窓ガラスに映る虚像から目を背けて、論議の中心を見やると今度は実体を伴う宝石眼がこちらを向く。
「フィリップ、お前は大丈夫か?」
「勿論です」
直系王族の証を細めた国王陛下が、束の間覗かせた"父の顔"は、王太子の返事を聞けば直ぐさま引っ込んだ。
「ならば良い」
小麦の実りが豊かであるのは喜ばしい。しかし、多過ぎてもならない。値が崩れて市場に混乱を招けば、他国の商人にいいように買い叩かれる。貨幣価値は容易に揺らぐ。
時に私人の歓びには公人としての愁いが錯綜する。
逆もまた然り。
夕刻、学園内王太子執務室に戻ったフィリップは、力無く椅子に沈んだ。窓の外は雨。目を閉じて、ガラスを叩く無数の水滴の恨み節を聞く。
「マリエル以外、通すな」
やっとそれだけ指示して沈黙した主人を、カイルは壁際から気の毒そうに窺う。その視線さえ煩わしく酷く倦怠な気分のフィリップは、忍び寄る睡魔に逆らわず意識を手放した。
けれど、浅い眠りは幾らもしない内に妨げられる。
「——やっと休まれたところなので、」
「だから、私が来たからもう平気ですから」
遠慮気味に発せられる声と、反抗する無遠慮な声のアンサンブルがフィリップを現実に引き戻した。場面は、命令遵守と主人の健康との間に揺れる忠義な側近が、今まさに押し切られようとするところだった。
「フィリップ殿下!お茶に致しましょう?今日もフィリップ様のお好きな胡桃とチョコレートのクッキーを、私が焼いてきましたよ」
カイルを押し除けたマリエルは、クロードにダイニングカートを押させてフィリップの元へ近寄ると、クロッシュを手ずから開いて見せる。中には白磁の皿と素朴な手焼きのクッキー。
「さあ召し上がれ?」
フィリップは、さっきまでのやつれた様子が嘘のように笑顔を綻ばせる。
「ありがとうマリエル。僕はもうこれ無しでは生きていけないよ。このクッキーを食べるために働いていると言っても過言では無い。1日の嫌な事はみんな吹っ飛ぶし、すごく楽しい気分になるんだ。無敵になったようだ。このクッキーのためなら、なんだって出来るよ」
ミッドグランに育つ小麦は秋のうちに作付けられ、まだ頼りない若葉のままに長い冬を迎える。
「えへへ、本当ですか?そんなに褒められると、ちょっとテレちゃいます~。欲しくなったらいつでも言ってくださいね!そうだ、クロード卿とカイル卿もいかがです?」
「ダメだマリエル!彼らには勿体ない。全部僕に食べさせてほしい」
越冬に必要な葉と茎を芽差しただけの未熟な小麦は、大平原を分厚く覆う雪の下で、
「やだ~フィリップ様ったら!うふふ、勿論です。全部フィリップ様のものですよ」
「うん」
命を脅かす寒さと、呼吸を妨げる締り雪に耐えながら、
「ねえ、フィリップ様?私、困っている事があるんです。相談に乗って下さいませんか」
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