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母の葬式を終えた夜、ずっと父親だと思っていた男に、本当の父は自国の王だと告げられた。
褐色の肌に無骨な体付きをした巌のような大男と自分とは、確かに性格以外に似たところのない父子だと言われてはいたが、血縁を疑ったことはなかった。
「親父……?」
「イザーク様。どうぞ、これよりはバラムとお呼びください」
閉鎖的な鬼人の国で生まれ育ち、父親が鬼人であるからと集落の末席を汚すを許され、母譲りの獣人の特徴を恥じて育った俺を王宮に連れて行くと言い出した男は、もう、赤の他人の顔をしていた。母を亡くすと共に信じていた父親は幻のように消え、鬼人の王が住まう魔窟に拐われるのだと知った俺は、身ひとつで国を逃げ出した。
頼る相手は一人しか思い浮かばなかった。
獣道しか存在しない薮の中を少年は進む。
頭上には高木の枝葉が勢力を競うように拡がって陽光を遮り、眼下では日影を好む雑木が腰元まで生い茂ってチクチクと纏わりつく。逆茂木のように侵入者を阻む枝が着た切りの衣服にあちこち穴が空け、その下の皮膚も掻き切った。
まるで世界がイザークを拒絶しているのだと示すようだった。
何故こんな事になったのか、何かの間違いじゃないのか、今自分は本当にこうして道を失い野を彷徨っているのか、すべては夢なのではないか、目覚めれば不自由でも穏やかな日常に戻るだけで、この間違った現実は浅い眠りに忍び込んだタチの悪い夢ではないか。悪夢ならいい。それならここで涙に溺れて立ち止まってしまってもいい。目が覚めるまでの暫しの間。
国境の森に入って二昼夜が過ぎ、強靭な獣人の肉体には幾分余力があっても、まだ幼さを残す精神は限界に近付いていた。だけどイザークは泣きながらも、森の中を歩いた。過去に時折、それもおそらく彼に物心のつく以前から長らく、イザークの下に現れた不思議な魔女が、寝ぐらを構えると漏らした森の端を目指して歩き続けた。
魔女はイザークが一人の時に限って現れた。
父や母に縁ある者ではないだろうと思ったのは、共に暮らしていた両親について少しも訊かれなかった事に加えて、曽祖父と同じ色だというイザークの瞳を彼女がじっと覗き見るからで、それは、子供心にも何処か居心地の悪さを感じるような深遠な眼差しだった。
それで、まやかしの家族の残像に目眩を起こすイザークの脳裏に、件の魔女が思い浮かんだのだろう。その目の光の強さ以外は殆ど何も知らない相手だったが、イザークには魔女の黒い瞳に映る世界が恐ろしくもあり、また残された最後の希望にも思われたから。
やがて鬱蒼と視界を翳らせて迷い込んだ者を永遠に閉じ込めるやに思われた森に、果てが見え始めた。無限にも思えた薄闇の終わり。境界を引いたように白く輝く光の壁が遥かに瞬いた。這う這うの体で近づくと、国境を辿る結界の向こうに、光差し込む清浄の森が現れた。その美しさに、イザークの内に渦巻く鬱屈が霧散していく。
恐る恐る手を伸ばした光の壁は、けれども壁だった。
薄いガラスで隔てたように魔術的な質量を持って此方と彼方を分断し、干渉の余地もなく完璧に構築された滑らかさで、壁はイザークを拒んだ。手を当てても温度も摩擦も感じない残酷な塊に、イザークは額を打ち付けて全ての活動を投げ出した。世界は期待と裏切りに彩られていた。余りにも意地悪く鋭利にイザークの心を傷つけた。無力感にやり込められて、このまま鼓動を止めてしまいたいと願い、イザークは目を閉ざした。
絶望は姿なく忍び寄り、
——希望は小さな子供の手をしていた。
どのくらいそうしていたのか、暗く狭い産道に閉じ籠る胎児ように沈黙するイザークの、その手にかすかに燈った温もりの正体を、確かめようと思うより先に体は壁に取り込まれていった。
「っわあああぁ!?」
絶叫と共に投げ出され暗闇から光の中に産まれ落ちるイザークを、まだまだ華奢な造りの少年よりも更に小さな手が迎えた。
「いらっしゃい。さがしにきたよ」
大地に転げで天を仰いだイザークの驚きに目を丸くした顔を、近寄って覗き確かめる子供の眦があどけなく下がる。肩越しに見える空は蒼く揺れる青葉は輝いていた。イザークに注がれる瞳は紫の交ざる灰色。裾の広がったスカートを揺らす少女は、真っ白な綿毛のように陽の下で光を乱してひどく眩しかった。
「だいじょぶ?どこか、いためた?」
「いや、……平、気」
戸惑いに瞬きも忘れて見渡せば、辺りは見たこともない植物とそこに踊る木漏れ日に綻んでいる。来し方に見える暗い森は帳の奥に閉じ込めたよう。
空いた口もそのままにして改めて少女に向き直ると、彼女の背後には黒い目の魔女が腕組みしてどっしりと佇んでいたので、イザークの口はもっと広がってしまった。
「来ちまったんなら、仕方ない。もしベルを泣かせたら叩き出すからね」
腹に響く声でそう言った顰めっ面の魔女は、結界を抜けて隣国の森に転がり出たイザークを渋々といった様子ながら受け入れた。先刻承知であったのか知りたいとも思わなかったのか、イザークの事情に一切触れもせず。けれど彼女の反応を見れば、それが弱り切ったイザークへの真っ当な気遣い故ではなさそうだとは容易に汲み取れた。では何故自分を助けるのか、という疑問は、イザークを『さがしにきた』と言った少女の、小さな手に乗る熟れた果実を前に滅した。
「おなかすいた?」
あどけなく真っ直ぐに自分を見つめる可憐な少女の掛け値のない労りの心が、疲弊したイザークの胸を突いた。芽を出したばかりの疑念や逡巡など呆気なく消し飛ぶ。そして花開いた欲望。
「これ、たべる?」
——ああ、欲しい。俺のものだ。
差し出された手を取ろうと捧げた両手に、渡された果実。僅かに触れ合った指の細さと、しっとりと柔らかい感触がやけに鮮烈で忘れられない。物も言えず受け取って齧り付いた果肉は例えようも無く甘美であった。
行き倒れかけていたイザークを保護したいと言い出したのは、当時六歳の魔女の娘——ベルだった。ベルは母子で暮らす森の端の家にイザークを連れ帰る事を望み、一人娘のベルを眼の中に仕舞っておきたいくらいに溺愛していた魔女は、不本意そうにその願いを叶えた。
魔女にとってイザークは家内に紛れ込んだ不届きな捕食者。狼獣人なだけに。それが拾われた子犬の風情で愛娘に世話されているのを良しとできる訳もなく、弁えろと度々噛み付いた。ガキ大将がライバルを威嚇するような具合で「調子に乗るなよ穀潰し」だとか「ベルの一番は私だ」などと年甲斐もなく喚く魔女は中々滑稽だった。『穀潰し』の汚名は早々にギルドの仕事を受けるようになって返上した。
畏怖さえ覚えていた魔女の、しょうもない嫉妬に翻弄される姿や、同じものを愛する仲間意識に、厳格だった養父や見たこともない実父に抱くより余程強い親しみを感じた。時に邪険に扱われても、恋と呼ぶには余りに欲に塗れた想いを抱懐する不埒な獣には正しい対応だとイザーク自身も思った。
なにしろベルが六つも年下なのが辛かった。精通を終えて欲望を持て余すイザークに対し、ベルはまだほんの子供だった。懊悩を押し殺し、イザークはベルを花でも愛でるように優しく優しく扱った。乙女の馨しい香りだけを喫し、やがて果実が結ぶ時を夢想して涎を垂らし、その過程を耐えた。
漣に月明かりを揺らす湖水に、イザークは手淫の穢れを沈める。夜空は澄みきって湖面に対をなすようだ。夜の森の匂いを胸一杯吸い込んでやると、白濁した我が身も少しは綺麗になった気がして、すっかり住み慣れた家へと帰ることにした。
足音を殺して自室へ向かう廊下の途中。この場所に在るのが悪いと、家の構造に責任を転嫁してそっと扉を開く。ベルが眠る部屋の扉を。
夜分にも地熱がこもる季節のこと。カーテンを引かぬままにした窓は薄く開いて、室内に風と月光を招き入れていた。
月影に浮かび上がる白皙。愛くるしい瞳は閉ざされて夢をみている。艶を帯びた唇はゆるりと合わさり、隙に覗く内側を暴きたい衝動を駆り立てた。
だから、不躾な舌先を口内に押し留めた鉄の理性も、ただ重ねるに修めたお行儀の良いキスも、イザークとしては褒めて欲しいくらいだったのに、ベルの唇の甘やかな感触から痺れる思いで顔を上げた彼を待っていたのは、怒れる魔女の睥睨だった。
この時、悲鳴を上げなかった事こそは褒めてもらえるだろうか。
膨れ上がる威圧に、いつしか追い越したはずの魔女と自分の背丈が、また逆転したのかと錯覚した。まるで巨人が迫ってくるようで腰が引けるイザークの頭を、ぐわりと伸びてきた腕が鷲掴む。全くの手加減なしに執られた牛耳ならぬ狼耳が、まだ頭に付いている内に観念するが吉と瞬時に本能が悟った。無抵抗のイザークはそのまま家の中を無様に引き回され、玄関から放り出されて土の上に膝をつく。
「駄犬には去勢が必要なようだな」
一瞬、何を言われたか理解できずにイザークは呆然とした。
「違っ……キス、したかっただけだ。ちゃんとベルが大人になるまで待って結婚する。無責任なことはしない!」
危機的状況である。が、むしろ良い機会かも知れないとイザークは考え直した。共に暮らす内に幾度も季節は巡り、偏屈な魔女もそれなりに懐を開いてくれた。ベルに拘らない限りは。イザークにはそれがどうしてなのか分からなかったが、傲慢にも、精一杯の誠意をもって想いを語ればこの灼けつくような恋心が許されないはずがない、と考えた。
欲望の捌け口などではなく、妻に望んでいるのだからと。
「いいや、お前は責任を履き違えている」
ドクリと脈を打って魔女の目の闇が膨らんだようだった。
「かつて、自らの出生を知らず、王の妃となった稀血の魔女が居た」
急に始まった昔語りに、イザークは眉根を寄せる。
「王と王妃は愛し合っていたが王妃は稀人だ、子を産めぬ。子のない夫婦など珍しくもないが、一国の王の子だ、産めぬでは済まされない」
滔々と話す魔女の表情は、これが見知らぬ誰かの話だと言うには、苦渋に満ち満ちていた。
「子宝に恵まれぬ理由を、知る由もない夫婦は希望を捨てきれず苦しんだ。知っていれば避けられた苦しみだったし、諦めるしかない事もあると知らせてやるべきだった。互いを唯一と意地を張る二人に、誰かが思慮分別を示してやるべきだったが、最後までその役を果たす者は現れなかった。やがて二人が苦渋の日々の末にたどり着いた結末は、無惨だった」
魔女の声は次第に嗄れて、イザークには泣いているように思われたが、
「だから私は、お前に言わなければならない」
見開いた魔女の瞳に浮かんでいたのは涙ではなく、深淵の底に渦巻く業火だった。
「聞け、鬼人の国の王子よ。娘は稀血だ。王族のお前に娘はやれん、諦めろ」
魔女の宣言に様々な思いが去来したが、そのどれひとつとしてイザークは言葉にできなかった。
時は流れ、イザークの生国では市井に見出された神力あらたかなる聖女が、幼少より第一王子と婚約関係にあった公爵令嬢を押し退けて王太子妃に収まらんとし、これに激怒した公爵が王家の転覆を画策。新王朝を樹立せんと暗躍していた。
この国には、魔女の黒い瞳に見た業火が今も渦巻いている。
「イザーク様。お優しいイザーク様」
婚約者を奪われた公爵令嬢は自分こそが聖女だとでも言うように微笑んだ。
「貴方様のその手で因縁を切り捨てるのがお辛いと仰るのならば、僭越ながら私が大鉈を振るいます。シナリオに無い一介の冒険者一人、小さな街の一つ、潰すくらいは造作もございませんもの。お任せ下されば良いのですよ。私ならイザーク様を本来の場所に戻して差し上げられますわ。貴方様に相応しい道に」
約束された王太子妃の座を奪われたモニカ。その屈辱を雪がんと公爵家の威信を賭けて隠された本当の第一王子を探し出した。彼を正当なる継承者として擁立し、現王と王太子を廃した暁にはその傍らに自らが納まる為に。
一夫多妻の鬼人の国に五人いる王子の内、正妃の産んだ王太子が国王の第一子であるとされてきた。しかし王にはいま一人、平民の獣人に密かに産ませた息子があった。それも、王太子より先んじて生した最初の子が、隣国に暮らす冒険者のイザークであると言う。
バルバトスの領都を見下ろす丘の上、巨体を休める臥竜にも見える大邸宅が公爵家のカントリーハウスである。今は更にその頭上を分厚い嵐雲が延々と覆い、激しい風雨で見渡す限りを黒く濡らした。邸内の窓辺から荒れる戸外を睨むイザークの組まれた腕に、白魚のような指先が触れる。
「先代の稀血の魔女はイザーク様に自分の娘を押し付けたのでしょう?亡くなった方を悪く言いたくはないのですけれど、彼女はイザーク様の曽祖父にあたるベルナルド王を裏切った淫婦ですわ。一度ならず二度までも国威に叛き天命さえ歪め、イザーク様に継がれる王統を貶めるつもりだったのです」
モニカの言うシナリオを描いたのが神であれ何であれ、天の配剤だなどと、ひとたび都合主義に傾倒してしまえば人々の熱狂は颯と渦巻き、時流は怒涛となって押し寄せる。巻き込まれる人の営みは抗う術もなく易々と狂わされていく。モニカは自分とイザークもまたその渦潮に飲まれた被害者で、二人は似た者同士だと言うのだろう。しかし——
「それは違う」
イザークにしてみれば魔女とモニカこそが同類である。思慮分別して無惨な結末から演者を護る誰かに、自分自身が成って遣ろうと彼女たちは言う。
甘えるような様子のモニカを一顧だにせず、イザークの目はただ窓の外の世界に注がれたまま。思考はその向こうへと自由に羽ばたく。
不幸にするからベルを諦めろと言われても納得できる筈がなかった。けれど、自分が守ると言えるだけの力もなかった。
普段は忘れがちだったが、やはり彼女は老獪で底知れぬ稀血の魔女で、その本性も言葉の重さも、まだ少年の域を出ないイザークには到底計り知れなかった。本人も半信半疑だったイザークの出生の秘密さえ、魔女には自明の事に過ぎないのだと知れば尚更に。それが長年イザークを見守っていた事にも関わるのだろうと気付いてしまっては、子ができない稀人からどうやってベルが生まれたのだと、食ってかかるのも憚られた。
何より根底にベルへの深い愛があった。
夕刻よりもなお弱い陽の光を切り裂いて、闇を白く染める雷が走る。大粒の雨は地に叩きつけ、見慣れた造形を塗り替えていく。土壌を削り勾配をのたうつ濁流。暴風にしなる樹木から千切れ飛ぶ枝葉。雷鳴は鬨をつくり全ての雑音を掻き消した。
もしも、魔女の言葉を無碍にしてイザークの我を通していたならば、今頃は否応なくこの国の騒乱の渦中に、ベルを巻き込んでいたのだろう。
演者のために描かれたシナリオは、劇場の外側の世界を置き去りにする。
「聖女の神託も魔女の予言も、平凡な一剣士に過ぎない俺は寡聞にして知らない」
一人娘と異界渡の花を愛した稀血の魔女は、稀人と王の物語を無惨としながら、愛娘をベルと名付けた。ベルナルド王の愛称が何であったかは分からずとも、『ベル』の呼称が魔女にとって愛する者に相応しい名であったのは確かなのだ。
可能性を殺すのは物知らぬ愚か者か、それとも誰かの思慮分別か。
「何が慈悲(で、何が傲慢)かは、いずれ結末が証明するのだろう」
褐色の肌に無骨な体付きをした巌のような大男と自分とは、確かに性格以外に似たところのない父子だと言われてはいたが、血縁を疑ったことはなかった。
「親父……?」
「イザーク様。どうぞ、これよりはバラムとお呼びください」
閉鎖的な鬼人の国で生まれ育ち、父親が鬼人であるからと集落の末席を汚すを許され、母譲りの獣人の特徴を恥じて育った俺を王宮に連れて行くと言い出した男は、もう、赤の他人の顔をしていた。母を亡くすと共に信じていた父親は幻のように消え、鬼人の王が住まう魔窟に拐われるのだと知った俺は、身ひとつで国を逃げ出した。
頼る相手は一人しか思い浮かばなかった。
獣道しか存在しない薮の中を少年は進む。
頭上には高木の枝葉が勢力を競うように拡がって陽光を遮り、眼下では日影を好む雑木が腰元まで生い茂ってチクチクと纏わりつく。逆茂木のように侵入者を阻む枝が着た切りの衣服にあちこち穴が空け、その下の皮膚も掻き切った。
まるで世界がイザークを拒絶しているのだと示すようだった。
何故こんな事になったのか、何かの間違いじゃないのか、今自分は本当にこうして道を失い野を彷徨っているのか、すべては夢なのではないか、目覚めれば不自由でも穏やかな日常に戻るだけで、この間違った現実は浅い眠りに忍び込んだタチの悪い夢ではないか。悪夢ならいい。それならここで涙に溺れて立ち止まってしまってもいい。目が覚めるまでの暫しの間。
国境の森に入って二昼夜が過ぎ、強靭な獣人の肉体には幾分余力があっても、まだ幼さを残す精神は限界に近付いていた。だけどイザークは泣きながらも、森の中を歩いた。過去に時折、それもおそらく彼に物心のつく以前から長らく、イザークの下に現れた不思議な魔女が、寝ぐらを構えると漏らした森の端を目指して歩き続けた。
魔女はイザークが一人の時に限って現れた。
父や母に縁ある者ではないだろうと思ったのは、共に暮らしていた両親について少しも訊かれなかった事に加えて、曽祖父と同じ色だというイザークの瞳を彼女がじっと覗き見るからで、それは、子供心にも何処か居心地の悪さを感じるような深遠な眼差しだった。
それで、まやかしの家族の残像に目眩を起こすイザークの脳裏に、件の魔女が思い浮かんだのだろう。その目の光の強さ以外は殆ど何も知らない相手だったが、イザークには魔女の黒い瞳に映る世界が恐ろしくもあり、また残された最後の希望にも思われたから。
やがて鬱蒼と視界を翳らせて迷い込んだ者を永遠に閉じ込めるやに思われた森に、果てが見え始めた。無限にも思えた薄闇の終わり。境界を引いたように白く輝く光の壁が遥かに瞬いた。這う這うの体で近づくと、国境を辿る結界の向こうに、光差し込む清浄の森が現れた。その美しさに、イザークの内に渦巻く鬱屈が霧散していく。
恐る恐る手を伸ばした光の壁は、けれども壁だった。
薄いガラスで隔てたように魔術的な質量を持って此方と彼方を分断し、干渉の余地もなく完璧に構築された滑らかさで、壁はイザークを拒んだ。手を当てても温度も摩擦も感じない残酷な塊に、イザークは額を打ち付けて全ての活動を投げ出した。世界は期待と裏切りに彩られていた。余りにも意地悪く鋭利にイザークの心を傷つけた。無力感にやり込められて、このまま鼓動を止めてしまいたいと願い、イザークは目を閉ざした。
絶望は姿なく忍び寄り、
——希望は小さな子供の手をしていた。
どのくらいそうしていたのか、暗く狭い産道に閉じ籠る胎児ように沈黙するイザークの、その手にかすかに燈った温もりの正体を、確かめようと思うより先に体は壁に取り込まれていった。
「っわあああぁ!?」
絶叫と共に投げ出され暗闇から光の中に産まれ落ちるイザークを、まだまだ華奢な造りの少年よりも更に小さな手が迎えた。
「いらっしゃい。さがしにきたよ」
大地に転げで天を仰いだイザークの驚きに目を丸くした顔を、近寄って覗き確かめる子供の眦があどけなく下がる。肩越しに見える空は蒼く揺れる青葉は輝いていた。イザークに注がれる瞳は紫の交ざる灰色。裾の広がったスカートを揺らす少女は、真っ白な綿毛のように陽の下で光を乱してひどく眩しかった。
「だいじょぶ?どこか、いためた?」
「いや、……平、気」
戸惑いに瞬きも忘れて見渡せば、辺りは見たこともない植物とそこに踊る木漏れ日に綻んでいる。来し方に見える暗い森は帳の奥に閉じ込めたよう。
空いた口もそのままにして改めて少女に向き直ると、彼女の背後には黒い目の魔女が腕組みしてどっしりと佇んでいたので、イザークの口はもっと広がってしまった。
「来ちまったんなら、仕方ない。もしベルを泣かせたら叩き出すからね」
腹に響く声でそう言った顰めっ面の魔女は、結界を抜けて隣国の森に転がり出たイザークを渋々といった様子ながら受け入れた。先刻承知であったのか知りたいとも思わなかったのか、イザークの事情に一切触れもせず。けれど彼女の反応を見れば、それが弱り切ったイザークへの真っ当な気遣い故ではなさそうだとは容易に汲み取れた。では何故自分を助けるのか、という疑問は、イザークを『さがしにきた』と言った少女の、小さな手に乗る熟れた果実を前に滅した。
「おなかすいた?」
あどけなく真っ直ぐに自分を見つめる可憐な少女の掛け値のない労りの心が、疲弊したイザークの胸を突いた。芽を出したばかりの疑念や逡巡など呆気なく消し飛ぶ。そして花開いた欲望。
「これ、たべる?」
——ああ、欲しい。俺のものだ。
差し出された手を取ろうと捧げた両手に、渡された果実。僅かに触れ合った指の細さと、しっとりと柔らかい感触がやけに鮮烈で忘れられない。物も言えず受け取って齧り付いた果肉は例えようも無く甘美であった。
行き倒れかけていたイザークを保護したいと言い出したのは、当時六歳の魔女の娘——ベルだった。ベルは母子で暮らす森の端の家にイザークを連れ帰る事を望み、一人娘のベルを眼の中に仕舞っておきたいくらいに溺愛していた魔女は、不本意そうにその願いを叶えた。
魔女にとってイザークは家内に紛れ込んだ不届きな捕食者。狼獣人なだけに。それが拾われた子犬の風情で愛娘に世話されているのを良しとできる訳もなく、弁えろと度々噛み付いた。ガキ大将がライバルを威嚇するような具合で「調子に乗るなよ穀潰し」だとか「ベルの一番は私だ」などと年甲斐もなく喚く魔女は中々滑稽だった。『穀潰し』の汚名は早々にギルドの仕事を受けるようになって返上した。
畏怖さえ覚えていた魔女の、しょうもない嫉妬に翻弄される姿や、同じものを愛する仲間意識に、厳格だった養父や見たこともない実父に抱くより余程強い親しみを感じた。時に邪険に扱われても、恋と呼ぶには余りに欲に塗れた想いを抱懐する不埒な獣には正しい対応だとイザーク自身も思った。
なにしろベルが六つも年下なのが辛かった。精通を終えて欲望を持て余すイザークに対し、ベルはまだほんの子供だった。懊悩を押し殺し、イザークはベルを花でも愛でるように優しく優しく扱った。乙女の馨しい香りだけを喫し、やがて果実が結ぶ時を夢想して涎を垂らし、その過程を耐えた。
漣に月明かりを揺らす湖水に、イザークは手淫の穢れを沈める。夜空は澄みきって湖面に対をなすようだ。夜の森の匂いを胸一杯吸い込んでやると、白濁した我が身も少しは綺麗になった気がして、すっかり住み慣れた家へと帰ることにした。
足音を殺して自室へ向かう廊下の途中。この場所に在るのが悪いと、家の構造に責任を転嫁してそっと扉を開く。ベルが眠る部屋の扉を。
夜分にも地熱がこもる季節のこと。カーテンを引かぬままにした窓は薄く開いて、室内に風と月光を招き入れていた。
月影に浮かび上がる白皙。愛くるしい瞳は閉ざされて夢をみている。艶を帯びた唇はゆるりと合わさり、隙に覗く内側を暴きたい衝動を駆り立てた。
だから、不躾な舌先を口内に押し留めた鉄の理性も、ただ重ねるに修めたお行儀の良いキスも、イザークとしては褒めて欲しいくらいだったのに、ベルの唇の甘やかな感触から痺れる思いで顔を上げた彼を待っていたのは、怒れる魔女の睥睨だった。
この時、悲鳴を上げなかった事こそは褒めてもらえるだろうか。
膨れ上がる威圧に、いつしか追い越したはずの魔女と自分の背丈が、また逆転したのかと錯覚した。まるで巨人が迫ってくるようで腰が引けるイザークの頭を、ぐわりと伸びてきた腕が鷲掴む。全くの手加減なしに執られた牛耳ならぬ狼耳が、まだ頭に付いている内に観念するが吉と瞬時に本能が悟った。無抵抗のイザークはそのまま家の中を無様に引き回され、玄関から放り出されて土の上に膝をつく。
「駄犬には去勢が必要なようだな」
一瞬、何を言われたか理解できずにイザークは呆然とした。
「違っ……キス、したかっただけだ。ちゃんとベルが大人になるまで待って結婚する。無責任なことはしない!」
危機的状況である。が、むしろ良い機会かも知れないとイザークは考え直した。共に暮らす内に幾度も季節は巡り、偏屈な魔女もそれなりに懐を開いてくれた。ベルに拘らない限りは。イザークにはそれがどうしてなのか分からなかったが、傲慢にも、精一杯の誠意をもって想いを語ればこの灼けつくような恋心が許されないはずがない、と考えた。
欲望の捌け口などではなく、妻に望んでいるのだからと。
「いいや、お前は責任を履き違えている」
ドクリと脈を打って魔女の目の闇が膨らんだようだった。
「かつて、自らの出生を知らず、王の妃となった稀血の魔女が居た」
急に始まった昔語りに、イザークは眉根を寄せる。
「王と王妃は愛し合っていたが王妃は稀人だ、子を産めぬ。子のない夫婦など珍しくもないが、一国の王の子だ、産めぬでは済まされない」
滔々と話す魔女の表情は、これが見知らぬ誰かの話だと言うには、苦渋に満ち満ちていた。
「子宝に恵まれぬ理由を、知る由もない夫婦は希望を捨てきれず苦しんだ。知っていれば避けられた苦しみだったし、諦めるしかない事もあると知らせてやるべきだった。互いを唯一と意地を張る二人に、誰かが思慮分別を示してやるべきだったが、最後までその役を果たす者は現れなかった。やがて二人が苦渋の日々の末にたどり着いた結末は、無惨だった」
魔女の声は次第に嗄れて、イザークには泣いているように思われたが、
「だから私は、お前に言わなければならない」
見開いた魔女の瞳に浮かんでいたのは涙ではなく、深淵の底に渦巻く業火だった。
「聞け、鬼人の国の王子よ。娘は稀血だ。王族のお前に娘はやれん、諦めろ」
魔女の宣言に様々な思いが去来したが、そのどれひとつとしてイザークは言葉にできなかった。
時は流れ、イザークの生国では市井に見出された神力あらたかなる聖女が、幼少より第一王子と婚約関係にあった公爵令嬢を押し退けて王太子妃に収まらんとし、これに激怒した公爵が王家の転覆を画策。新王朝を樹立せんと暗躍していた。
この国には、魔女の黒い瞳に見た業火が今も渦巻いている。
「イザーク様。お優しいイザーク様」
婚約者を奪われた公爵令嬢は自分こそが聖女だとでも言うように微笑んだ。
「貴方様のその手で因縁を切り捨てるのがお辛いと仰るのならば、僭越ながら私が大鉈を振るいます。シナリオに無い一介の冒険者一人、小さな街の一つ、潰すくらいは造作もございませんもの。お任せ下されば良いのですよ。私ならイザーク様を本来の場所に戻して差し上げられますわ。貴方様に相応しい道に」
約束された王太子妃の座を奪われたモニカ。その屈辱を雪がんと公爵家の威信を賭けて隠された本当の第一王子を探し出した。彼を正当なる継承者として擁立し、現王と王太子を廃した暁にはその傍らに自らが納まる為に。
一夫多妻の鬼人の国に五人いる王子の内、正妃の産んだ王太子が国王の第一子であるとされてきた。しかし王にはいま一人、平民の獣人に密かに産ませた息子があった。それも、王太子より先んじて生した最初の子が、隣国に暮らす冒険者のイザークであると言う。
バルバトスの領都を見下ろす丘の上、巨体を休める臥竜にも見える大邸宅が公爵家のカントリーハウスである。今は更にその頭上を分厚い嵐雲が延々と覆い、激しい風雨で見渡す限りを黒く濡らした。邸内の窓辺から荒れる戸外を睨むイザークの組まれた腕に、白魚のような指先が触れる。
「先代の稀血の魔女はイザーク様に自分の娘を押し付けたのでしょう?亡くなった方を悪く言いたくはないのですけれど、彼女はイザーク様の曽祖父にあたるベルナルド王を裏切った淫婦ですわ。一度ならず二度までも国威に叛き天命さえ歪め、イザーク様に継がれる王統を貶めるつもりだったのです」
モニカの言うシナリオを描いたのが神であれ何であれ、天の配剤だなどと、ひとたび都合主義に傾倒してしまえば人々の熱狂は颯と渦巻き、時流は怒涛となって押し寄せる。巻き込まれる人の営みは抗う術もなく易々と狂わされていく。モニカは自分とイザークもまたその渦潮に飲まれた被害者で、二人は似た者同士だと言うのだろう。しかし——
「それは違う」
イザークにしてみれば魔女とモニカこそが同類である。思慮分別して無惨な結末から演者を護る誰かに、自分自身が成って遣ろうと彼女たちは言う。
甘えるような様子のモニカを一顧だにせず、イザークの目はただ窓の外の世界に注がれたまま。思考はその向こうへと自由に羽ばたく。
不幸にするからベルを諦めろと言われても納得できる筈がなかった。けれど、自分が守ると言えるだけの力もなかった。
普段は忘れがちだったが、やはり彼女は老獪で底知れぬ稀血の魔女で、その本性も言葉の重さも、まだ少年の域を出ないイザークには到底計り知れなかった。本人も半信半疑だったイザークの出生の秘密さえ、魔女には自明の事に過ぎないのだと知れば尚更に。それが長年イザークを見守っていた事にも関わるのだろうと気付いてしまっては、子ができない稀人からどうやってベルが生まれたのだと、食ってかかるのも憚られた。
何より根底にベルへの深い愛があった。
夕刻よりもなお弱い陽の光を切り裂いて、闇を白く染める雷が走る。大粒の雨は地に叩きつけ、見慣れた造形を塗り替えていく。土壌を削り勾配をのたうつ濁流。暴風にしなる樹木から千切れ飛ぶ枝葉。雷鳴は鬨をつくり全ての雑音を掻き消した。
もしも、魔女の言葉を無碍にしてイザークの我を通していたならば、今頃は否応なくこの国の騒乱の渦中に、ベルを巻き込んでいたのだろう。
演者のために描かれたシナリオは、劇場の外側の世界を置き去りにする。
「聖女の神託も魔女の予言も、平凡な一剣士に過ぎない俺は寡聞にして知らない」
一人娘と異界渡の花を愛した稀血の魔女は、稀人と王の物語を無惨としながら、愛娘をベルと名付けた。ベルナルド王の愛称が何であったかは分からずとも、『ベル』の呼称が魔女にとって愛する者に相応しい名であったのは確かなのだ。
可能性を殺すのは物知らぬ愚か者か、それとも誰かの思慮分別か。
「何が慈悲(で、何が傲慢)かは、いずれ結末が証明するのだろう」
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