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「母さん、イザークはベルの王子様かな」
竈を覗いていた母がゆっくりと此方を向く。黒い服に黒い髪、黒い瞳。唇は紅く、熟した果実のようだった。
「ベル。王子様はお姫様のものだよ。王子様は魔女のベルのものにはならない。イザークはいずれ帰らなければいけないんだ。覚えておいで、一緒にいられるのは、今だけだよ」
幻の禁断の果実は
あんな色かもしれない。
白く清浄な朝の空気に覚醒したベルは、一人では広すぎるベッドの空隙に目をそばめた。今日もイザークはベルが目覚めるより早く朝の鍛錬に出たことを知って、夢の余韻に押し潰されそうになる。あれはまだイザークがこの家に来たばかりの頃に、母がベルに言い聞かせた言葉。娘が傷つかないように授けてくれた訓言。
ベルの祖母は魔界で生きる事を選んだ稀人だった。戦後の混乱の最中にあった故郷より、亡き夫の忘れ形見を宿して迷い込んだ異世界に生きると決めたのだ。ベルは祖母の血を継ぐ孫娘だが、ベルの祖母も母親も稀人の定めに漏れず魔界で子を宿す事は出来なかった。祖母が異界で暮らしていた頃に身ごもった子を魔界に落ちてから出産したように、母がハロウィンの戯れに異界に渡って授かった子がベルである。
揺らめく篝火に、濡れたような鱗を艶々と波打たせて音もなく畝る胴。のっそりと擡げた鎌首が大口を開けて牙を剥き出し喉を震わせたかと思うと、岩をも砕く猛威で突貫する。その毒牙がベルに届くより早く、振り上がる斬撃に蛇頭は狩り飛ばされたが、地に叩きつけられて尚、牙を埋め毒を注ごうと生首が躍る。しかしそれもイザークの剣が眉間を裂いて地面に縫い付けた。
絶命した蛇を尻尾としていた怪鳥が、その死を悼むかのように趾を踏み鳴らし怒号を上げ、地下迷宮は轟音に震撼する。
イザークとベルが対峙するのは巨大な雄鶏と蛇のフリークス。竜種コカトリスである。
コカトリスがメリメリと膨らんだ胸を反らし、嘴の隙間から漏れ出るガスで空気を歪ませながら八方睨みに眼を光らせた。耳が痛くなるような一瞬の静寂が降りる。直後、烈風を巻き上げて伸ばされた翼が空を切り裂き、突き出した顎門に迸るブレスが爆ぜるに合わせ、イザークが電光石火で懐に飛び込む。コカトリスが吐き出す石化の毒霧を、噴射口ごと焼き尽くさんと業火を練り上げるベルは、細腕を天高く突き上げ、迷宮が爆光にひずんだ。
同刻、場違いな訪問者がグロットのギルド受付に現れていた。
自由都市グロットの住人は基本的に平民である。無論グロットのギルドを利用する貴族は限られた存在だ。少ないなりに存在する貴人からの用命も取次には平民を介するからして、見るからにお貴族様然とした人物がやって来れば、それはちょっとした事件なのである。
「狼獣人の冒険者を探している。ここを拠点としているはずだ。名前はイザーク。偽名を使っているかも知れん」
口を開いた男は、口調も人相も眼光も苦み走った激辛風味。威圧感満載の態度に加え、脱ぐ気の微塵もなさそうなフードにあしらわれる桁違いな財力を誇示してやまない刺繍の精緻さなど、安かろう悪かろうが身に馴染んだ庶民の目には痛い程だ。完全にマウントを取られた状態の受付嬢は萎縮してそのまま消えたくなった。
「失礼ですが、人探しのご依頼でしょうか?」
「いいや、ここにいる事は分かっている。今受けている依頼は何で、どこにいるのか教えろ」
横暴な物言いに狼狽える職員を見かねたのか、冒険者の一人が列の後ろから声を上げた。
「おい、旦那。教えろって、そりゃ強引が過ぎるってもんだろ。受け付けのオネェちゃんが気の毒だ」
声を掛けられたフードの男は受付に向いたまま「金なら出す」と不機嫌に宣った。
「あー、いやだいやだ。アンタ貴族だろ。この街じゃ金や権力をひけらかす輩は軽蔑されるよ?ここは自由都市なんだよ」
貴族と思しき男の態度にカチンときたらしい冒険者が軽率に喧嘩を吹っかける。
「なんだと?」
声を低くしたフードの男が振り返った。一触即発の空気に辺りは張り詰めて受付嬢の背後もにわかに騒つく。そこに、思いのほか嫋やかな天の声が下った。
「バラム、およしなさい。その方のおっしゃる通りよ。道理に欠ける行いだったわ。お詫びいたします」
声の主は護衛一人を連れた若い女で、バラムと呼ばれた男と三人揃いの外套を纏って一様に頭を覆っていた。屈強な男を傅かせて憚らない尊大さを嫌味なく湛える彼女は、支配階級の生まれが誰の目にも明らかだった。また、その身分に相応しく美しい容姿をしていた。
「お!お嬢さん、話がわかるね!普通にお願いしてみりゃ、世間話のついでに聞かせてもらえる話しもあるってもんよ?」
自分に対しては手のひらを返してへつらう冒険者に目を丸くした彼女は頬に手を当てて品よく微笑む。
「まあ、それは今からでも間に合うかしら?」
「おう、もちろんよ!」
「お、おい、勝手な事を……」
面倒事が悪化しそうな展開に別の冒険者が止めに入ったが、勢いづいた男の口は止まらない。
「なーに、俺が言わなくても早晩知れる事だろうよ、イザークに限らず、ここらの冒険者は皆んな毎日せっせとダンジョン潜りでおマンマ食ってるんだ。今日も今日とてモグラさんだよ~。さ、分かったら、さっさとソコ退いてくんな」
あっさりと拠点を同じくする仲間を売った男に、ギルド職員から冒険者連中まで皆が白い目を向けた。こんな男と組んで命を預けるのは御免だな、と言うのが居合わせた者たちの立場の垣根を超えた共通の見解だったろう。冒険者の仕事も信用無しには立ち行かない。男がうだつの上がらぬ様子なのはそんな理由からかも知れない。
「バラム、参りましょう」
当然、謎の訪問者も長居は無用と踵を返した。
「おい、お礼の言葉のひとつくらい聞かせてくれても良いんだぜ?」
「調子に乗るな!」
ごつりと鈍い音を立てて、お調子者の頭に鉄拳が落ちる。
「いで!」
拳の持ち主は騒ぎの収拾に担ぎ出された古株職員ダラスであった。一足遅く出番を逃したダラスは、立ち去る役者の姿を目で追う。彼らの衣装には隣国の品の特徴が見られた。警戒中の鬼人の国のそれである。
青空を流れる白い雲の影が、萌木色の大地に落ちて深い緑をたなびかせている。大海を見下ろす崖上の平原には、ぽっかりと口を開けた洞穴に、岩盤から切り出した一枚岩が深々と食い込み門口を構える。地底へ導く階を侵食から守ると同時に、その苔むした威容に漂う悠久の時の趣は踏み入る者の心に言い知れぬ高揚を与えるだろう。
長閑な丘の景色に、地下からの生還者が一人、また一人と紛れ込んだ。鍛え抜かれた肉体の長い手足を伸ばす獣人と、背嚢を担ぎ直して深呼吸する少女。外気の清浄さが二人に染み付いた焦げ臭さを際立たせた。
「ごめんねイザーク。すぐに理髪屋さんに行こう」
「平気だ。焦げたところはベルが切り揃えてくれ。その方がいい」
幾千幾億の冒険者の足に踏み固められた一本道を、名も知らぬ先達が繰り返してきたように二人は麓の村落へと進む。村に降りれば常設ゲートでギルドまでひとっ飛びだ。しかし、その道行を阻む者がある。
すれ違うのがやっとの草原の道に立ちはだかる三つの人影を警戒してイザークがベルの手を取る。他の二人より一歩前へ出て三角の頂点をなす巨躯の持ち主が、上質な光沢を帯びるマントのフードを頭から落とすと、現れたのは一対の角を備える強面。その顔を見たイザークがびくりと身を震わせた。引き寄せられたベルの手が、力加減を忘れたようにキツく握られて軋んだ。
「……親父」
亡霊にでも会ったように狼狽えて掠れ声を絞り出したイザークに、鬼人の男が首を垂れる。
「ご無沙汰しております」
その使い古された慣用句に、再会を喜ぶ心は感じられなかった。それから、背後の人物が前に出る気配に鬼人は半身になって道を譲った。
「ごきげんよう」
黒髪をするりと滑った頭巾が華奢な肩に掛かる。鈴を転がすような声で式礼の辞句を紡ぎながら、貴婦人が上位者にのみ執るという淑女の礼を恭しくして見せる。にっこりと微笑む華麗な顔を晒した女にもまた、鬼人の印が突き出していた。
「こちらはモニカ・バルバストル嬢でいらっしゃる」
「私の母は、貴方のお父様の妹なのです。仲良くしてくださいませ」
イザークに敬愛の眼差しを向ける彼女を見たベルは、「ああ、お姫様が迎えにきたんだ」と思った。
手を繋いだまま困惑に固まるイザークを、そっと見上げる。名乗りを上げず一番後ろで控えたままの三人目が、ベルに厳しい視線を投げているのを、ひしひしと感じた。
場所を変えてじっくり話そうと一行はパブに向かった。同席を遠慮したベルが待つ家に、同居人が帰宅したのは夜更けだった。ベッドが揺れて、冷えた体に抱き寄せられる。「おかえり」と言ってみると「うん」と返され、そのあとは二人の呼吸の音だけが夜のしじまに取り残された。
パブの前でひとり別れて家に向かった時に、鬼人の令嬢がベルに耳打ちした。
「三日後に出国いたします。貴女、そのまま黙ってイザーク様を送り出して下さる?もうお帰りにならないから、そのつもりで」
彼女はとてもいい匂いだった。
それから二日、イザークは冒険者家業を休んでひたすら家事に没頭した。薪割りや家の修繕に黙々と手を動かしながら、瞳は思考の海を揺蕩っていた。これまでベル至上主義に徹してくれていたイザークが悩むということは、ここを去る以外の選択肢は現実的でないのだろうとベルは思った。
モニカ嬢が宣言した三日後を明日に控え、イザークが切り出す。
「生まれた国でやり残した事がある」
「うん」
「少し行ってくる」
少し?とベルが意外そうな顔をする。
「暫く薬師に専念してダンジョンには潜るな。必ず戻って来るから待っていろ」
「え、……でも」
「必ずだ」
分かったとは応えなかったので、怖い顔で睨まれたけれど、そのまま口を噤んでいたら、イザークの大きな体の影の中に閉じ込められた。
頬に触れた手に撫でられ、唇を捲られて舌を差し込まれた。
目を瞑ったら胸が痛んだ。
ベルの閉じた瞼から雫が溢れる。
それを親指で拭って、やはり舐めとればよかったと後悔する。
柔らかな唇と舌の感触を味わい尽くして深呼吸する。シトラスを思わせるベルの体臭を脳に刻み付ける。
つるりと光沢のある肌を暴いて歯形を付ける。甘い胸の先端を舐めしゃぶり、小さい尻を揉みしだく。
何もかもが甘美で離し難く、壊れそうに輝いている。
薄い粘膜を透過して細胞が混ざり合い、この美しい者と一つになれるように、体を押しつけ、擦り合い、混ぜ合わせる。
堅く勃ち上がる快悦の権化を、ぬかるんだ襞の隙間に挿し込む。暖かい柔肉に優しく包まれて、幸福感が神経系を暴れ回る。
興奮が脳を焼き切る。
真白に染まる。
抱き潰された翌朝、ベッドから出られないベルに口付けて一言「行ってくる」と残し、イザークは街を去った。
イザークがいないベッドでは、疲れていてもよく眠れない。それでも日々は呆れるくらい正しく明け暮れる。だからベルはアスフォデルスの秘薬作りに精を出す。年に一度、二つの世界の往来の呼び水に使う特別な薬。今年は得意先の淫魔の店への納品分の他に余剰在庫も用意する。
ハロウィンはもう時期だ。
竈を覗いていた母がゆっくりと此方を向く。黒い服に黒い髪、黒い瞳。唇は紅く、熟した果実のようだった。
「ベル。王子様はお姫様のものだよ。王子様は魔女のベルのものにはならない。イザークはいずれ帰らなければいけないんだ。覚えておいで、一緒にいられるのは、今だけだよ」
幻の禁断の果実は
あんな色かもしれない。
白く清浄な朝の空気に覚醒したベルは、一人では広すぎるベッドの空隙に目をそばめた。今日もイザークはベルが目覚めるより早く朝の鍛錬に出たことを知って、夢の余韻に押し潰されそうになる。あれはまだイザークがこの家に来たばかりの頃に、母がベルに言い聞かせた言葉。娘が傷つかないように授けてくれた訓言。
ベルの祖母は魔界で生きる事を選んだ稀人だった。戦後の混乱の最中にあった故郷より、亡き夫の忘れ形見を宿して迷い込んだ異世界に生きると決めたのだ。ベルは祖母の血を継ぐ孫娘だが、ベルの祖母も母親も稀人の定めに漏れず魔界で子を宿す事は出来なかった。祖母が異界で暮らしていた頃に身ごもった子を魔界に落ちてから出産したように、母がハロウィンの戯れに異界に渡って授かった子がベルである。
揺らめく篝火に、濡れたような鱗を艶々と波打たせて音もなく畝る胴。のっそりと擡げた鎌首が大口を開けて牙を剥き出し喉を震わせたかと思うと、岩をも砕く猛威で突貫する。その毒牙がベルに届くより早く、振り上がる斬撃に蛇頭は狩り飛ばされたが、地に叩きつけられて尚、牙を埋め毒を注ごうと生首が躍る。しかしそれもイザークの剣が眉間を裂いて地面に縫い付けた。
絶命した蛇を尻尾としていた怪鳥が、その死を悼むかのように趾を踏み鳴らし怒号を上げ、地下迷宮は轟音に震撼する。
イザークとベルが対峙するのは巨大な雄鶏と蛇のフリークス。竜種コカトリスである。
コカトリスがメリメリと膨らんだ胸を反らし、嘴の隙間から漏れ出るガスで空気を歪ませながら八方睨みに眼を光らせた。耳が痛くなるような一瞬の静寂が降りる。直後、烈風を巻き上げて伸ばされた翼が空を切り裂き、突き出した顎門に迸るブレスが爆ぜるに合わせ、イザークが電光石火で懐に飛び込む。コカトリスが吐き出す石化の毒霧を、噴射口ごと焼き尽くさんと業火を練り上げるベルは、細腕を天高く突き上げ、迷宮が爆光にひずんだ。
同刻、場違いな訪問者がグロットのギルド受付に現れていた。
自由都市グロットの住人は基本的に平民である。無論グロットのギルドを利用する貴族は限られた存在だ。少ないなりに存在する貴人からの用命も取次には平民を介するからして、見るからにお貴族様然とした人物がやって来れば、それはちょっとした事件なのである。
「狼獣人の冒険者を探している。ここを拠点としているはずだ。名前はイザーク。偽名を使っているかも知れん」
口を開いた男は、口調も人相も眼光も苦み走った激辛風味。威圧感満載の態度に加え、脱ぐ気の微塵もなさそうなフードにあしらわれる桁違いな財力を誇示してやまない刺繍の精緻さなど、安かろう悪かろうが身に馴染んだ庶民の目には痛い程だ。完全にマウントを取られた状態の受付嬢は萎縮してそのまま消えたくなった。
「失礼ですが、人探しのご依頼でしょうか?」
「いいや、ここにいる事は分かっている。今受けている依頼は何で、どこにいるのか教えろ」
横暴な物言いに狼狽える職員を見かねたのか、冒険者の一人が列の後ろから声を上げた。
「おい、旦那。教えろって、そりゃ強引が過ぎるってもんだろ。受け付けのオネェちゃんが気の毒だ」
声を掛けられたフードの男は受付に向いたまま「金なら出す」と不機嫌に宣った。
「あー、いやだいやだ。アンタ貴族だろ。この街じゃ金や権力をひけらかす輩は軽蔑されるよ?ここは自由都市なんだよ」
貴族と思しき男の態度にカチンときたらしい冒険者が軽率に喧嘩を吹っかける。
「なんだと?」
声を低くしたフードの男が振り返った。一触即発の空気に辺りは張り詰めて受付嬢の背後もにわかに騒つく。そこに、思いのほか嫋やかな天の声が下った。
「バラム、およしなさい。その方のおっしゃる通りよ。道理に欠ける行いだったわ。お詫びいたします」
声の主は護衛一人を連れた若い女で、バラムと呼ばれた男と三人揃いの外套を纏って一様に頭を覆っていた。屈強な男を傅かせて憚らない尊大さを嫌味なく湛える彼女は、支配階級の生まれが誰の目にも明らかだった。また、その身分に相応しく美しい容姿をしていた。
「お!お嬢さん、話がわかるね!普通にお願いしてみりゃ、世間話のついでに聞かせてもらえる話しもあるってもんよ?」
自分に対しては手のひらを返してへつらう冒険者に目を丸くした彼女は頬に手を当てて品よく微笑む。
「まあ、それは今からでも間に合うかしら?」
「おう、もちろんよ!」
「お、おい、勝手な事を……」
面倒事が悪化しそうな展開に別の冒険者が止めに入ったが、勢いづいた男の口は止まらない。
「なーに、俺が言わなくても早晩知れる事だろうよ、イザークに限らず、ここらの冒険者は皆んな毎日せっせとダンジョン潜りでおマンマ食ってるんだ。今日も今日とてモグラさんだよ~。さ、分かったら、さっさとソコ退いてくんな」
あっさりと拠点を同じくする仲間を売った男に、ギルド職員から冒険者連中まで皆が白い目を向けた。こんな男と組んで命を預けるのは御免だな、と言うのが居合わせた者たちの立場の垣根を超えた共通の見解だったろう。冒険者の仕事も信用無しには立ち行かない。男がうだつの上がらぬ様子なのはそんな理由からかも知れない。
「バラム、参りましょう」
当然、謎の訪問者も長居は無用と踵を返した。
「おい、お礼の言葉のひとつくらい聞かせてくれても良いんだぜ?」
「調子に乗るな!」
ごつりと鈍い音を立てて、お調子者の頭に鉄拳が落ちる。
「いで!」
拳の持ち主は騒ぎの収拾に担ぎ出された古株職員ダラスであった。一足遅く出番を逃したダラスは、立ち去る役者の姿を目で追う。彼らの衣装には隣国の品の特徴が見られた。警戒中の鬼人の国のそれである。
青空を流れる白い雲の影が、萌木色の大地に落ちて深い緑をたなびかせている。大海を見下ろす崖上の平原には、ぽっかりと口を開けた洞穴に、岩盤から切り出した一枚岩が深々と食い込み門口を構える。地底へ導く階を侵食から守ると同時に、その苔むした威容に漂う悠久の時の趣は踏み入る者の心に言い知れぬ高揚を与えるだろう。
長閑な丘の景色に、地下からの生還者が一人、また一人と紛れ込んだ。鍛え抜かれた肉体の長い手足を伸ばす獣人と、背嚢を担ぎ直して深呼吸する少女。外気の清浄さが二人に染み付いた焦げ臭さを際立たせた。
「ごめんねイザーク。すぐに理髪屋さんに行こう」
「平気だ。焦げたところはベルが切り揃えてくれ。その方がいい」
幾千幾億の冒険者の足に踏み固められた一本道を、名も知らぬ先達が繰り返してきたように二人は麓の村落へと進む。村に降りれば常設ゲートでギルドまでひとっ飛びだ。しかし、その道行を阻む者がある。
すれ違うのがやっとの草原の道に立ちはだかる三つの人影を警戒してイザークがベルの手を取る。他の二人より一歩前へ出て三角の頂点をなす巨躯の持ち主が、上質な光沢を帯びるマントのフードを頭から落とすと、現れたのは一対の角を備える強面。その顔を見たイザークがびくりと身を震わせた。引き寄せられたベルの手が、力加減を忘れたようにキツく握られて軋んだ。
「……親父」
亡霊にでも会ったように狼狽えて掠れ声を絞り出したイザークに、鬼人の男が首を垂れる。
「ご無沙汰しております」
その使い古された慣用句に、再会を喜ぶ心は感じられなかった。それから、背後の人物が前に出る気配に鬼人は半身になって道を譲った。
「ごきげんよう」
黒髪をするりと滑った頭巾が華奢な肩に掛かる。鈴を転がすような声で式礼の辞句を紡ぎながら、貴婦人が上位者にのみ執るという淑女の礼を恭しくして見せる。にっこりと微笑む華麗な顔を晒した女にもまた、鬼人の印が突き出していた。
「こちらはモニカ・バルバストル嬢でいらっしゃる」
「私の母は、貴方のお父様の妹なのです。仲良くしてくださいませ」
イザークに敬愛の眼差しを向ける彼女を見たベルは、「ああ、お姫様が迎えにきたんだ」と思った。
手を繋いだまま困惑に固まるイザークを、そっと見上げる。名乗りを上げず一番後ろで控えたままの三人目が、ベルに厳しい視線を投げているのを、ひしひしと感じた。
場所を変えてじっくり話そうと一行はパブに向かった。同席を遠慮したベルが待つ家に、同居人が帰宅したのは夜更けだった。ベッドが揺れて、冷えた体に抱き寄せられる。「おかえり」と言ってみると「うん」と返され、そのあとは二人の呼吸の音だけが夜のしじまに取り残された。
パブの前でひとり別れて家に向かった時に、鬼人の令嬢がベルに耳打ちした。
「三日後に出国いたします。貴女、そのまま黙ってイザーク様を送り出して下さる?もうお帰りにならないから、そのつもりで」
彼女はとてもいい匂いだった。
それから二日、イザークは冒険者家業を休んでひたすら家事に没頭した。薪割りや家の修繕に黙々と手を動かしながら、瞳は思考の海を揺蕩っていた。これまでベル至上主義に徹してくれていたイザークが悩むということは、ここを去る以外の選択肢は現実的でないのだろうとベルは思った。
モニカ嬢が宣言した三日後を明日に控え、イザークが切り出す。
「生まれた国でやり残した事がある」
「うん」
「少し行ってくる」
少し?とベルが意外そうな顔をする。
「暫く薬師に専念してダンジョンには潜るな。必ず戻って来るから待っていろ」
「え、……でも」
「必ずだ」
分かったとは応えなかったので、怖い顔で睨まれたけれど、そのまま口を噤んでいたら、イザークの大きな体の影の中に閉じ込められた。
頬に触れた手に撫でられ、唇を捲られて舌を差し込まれた。
目を瞑ったら胸が痛んだ。
ベルの閉じた瞼から雫が溢れる。
それを親指で拭って、やはり舐めとればよかったと後悔する。
柔らかな唇と舌の感触を味わい尽くして深呼吸する。シトラスを思わせるベルの体臭を脳に刻み付ける。
つるりと光沢のある肌を暴いて歯形を付ける。甘い胸の先端を舐めしゃぶり、小さい尻を揉みしだく。
何もかもが甘美で離し難く、壊れそうに輝いている。
薄い粘膜を透過して細胞が混ざり合い、この美しい者と一つになれるように、体を押しつけ、擦り合い、混ぜ合わせる。
堅く勃ち上がる快悦の権化を、ぬかるんだ襞の隙間に挿し込む。暖かい柔肉に優しく包まれて、幸福感が神経系を暴れ回る。
興奮が脳を焼き切る。
真白に染まる。
抱き潰された翌朝、ベッドから出られないベルに口付けて一言「行ってくる」と残し、イザークは街を去った。
イザークがいないベッドでは、疲れていてもよく眠れない。それでも日々は呆れるくらい正しく明け暮れる。だからベルはアスフォデルスの秘薬作りに精を出す。年に一度、二つの世界の往来の呼び水に使う特別な薬。今年は得意先の淫魔の店への納品分の他に余剰在庫も用意する。
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