センチネルバースの証文

無花果

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挿話

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西日ばかりが差し込む独居用の角部屋。中等教育に上がってからずっと生活している寄宿舎のぼんやりと燻んだ光に沈む一室が、生まれて初めて手に入れたレイの城だ。
作り付けの本棚と書机、簡素なベッド。以前には知り得なかった約束された安息の地で、背凭れに減り込むよう腰掛け、重ねた足を机に投げ出すレイは、両手を腹部で重ね合わせた。瞼を閉じれば今もまだ夢に結んだ腹の音が鮮明に耳を聾する。

レイは、夢の中では明け透けに己のかつえを訴える自分自身に苦笑した。

ずっと口をつぐみ知らないふりをして来た。欲しがっていると知られる事も、ほしいものを貰えない自分を憐れむ事もタブーだった。いい子にするから捨てないでと、いつも気張って生きていたが、そんな日々に疲れて少し休みたいと思い始めた11の頃、とうとう責任は果たしたと放り出された。母はレイが恐ろしいのだと言っていた。

母がレイを怖がるようになったのは、いつからだろうか。

父が家に帰らなくなった時?——幼すぎて記憶にない。
狭い部屋に丸一日放置されても泣きもしなかった時?——本当は少し泣いたのだが……。
ぬいぐるみを取り上げられて怒り狂ったとき?——俺の家族だったんだ。
面識もない母の恋人の不貞を告げた時?——だけど他にどうすれば良かった?

レイでは駄目だったけれど、もし自分がショーンのような息子だったら、母も子の存在を喜んだのだろう。——あんな風にありのままで人を和ませ安らぎを与える人間であったなら。
彼は幼い自分が、かくありたいと想い描いた理想そのものだ。嫉妬するのも滑稽なほどに。

たとえば、最も有名な芸術作品のひとつに数えられるダビデ像を目の当たりにすれば、誰しもその威容に感銘を受ける事だろう。そしてその姿を心に残し、ただその尊さに納得して来た道を戻るのだ。

だが、『愛された人』ダビデが台座から地上へ降り立ち、自分の手を取って微笑んだらどうか。

憧憬の対象だったショーンが、あんな風に向こうから近づいてレイの琴線に触れたのだ。どうしようもなく離れ難くなってしまった。共にありたいと欲してしまった。

ブルーグレーの瞳の青年は、レイに触れる時に少し心拍を早める。精緻な目鼻立ちを惜しげなく崩すと急に子供っぽい雰囲気に変わる面差は、嬉しそうに微笑んでいた。その唇に我が名を象られ、歓喜に痺れた。

彼は何気ない表情一つで、レイが母と訣別して思いがけず手にした平穏を、容易に破壊してしまう。


センチネルは異端だ。
その能力と付随する地位を持て囃されては居るが、所詮は利用価値のある内だけ粛清を逃れる異分子である。
人は自分と異なるものを恐れ、取り除こうと働く。衝動に逆らう理由を知らない平凡な人間ほど、自己保存の本能の忠実な僕に成り下がる。

——小さい頃、身体が弱く良く熱を出したレイは、家を空けがちな母親を待たず微熱に汗ばむ体で布団に包まり浅い眠りを行き来していた。夜半目が覚めると、帰宅した母がキッチンでボソボソと話す声がした。誰かと電話をしているのだろうと思考と言える程でも無く脳が働く。すると不思議とその母の声が耳元で聞こえ始めた。
「………ぅ……ぇも……あたし、こんなんでも母親だし………」
「……ぅ……な……ぁはおや、なんてなまえの生き物はいないよ?君は君だよ?僕の可愛い恋人さん」
続けて聞こえるはずもない受話口越しの通話相手の男の声まで聞き取ってしまう。
「……うん。ありがとう」
母は聞いた事もない甘ったるい声で応えた。

嫌な夢だな、と思った。そんな夢を見た翌日は大抵体調が悪化した。

それが夢ではないと気がつく迄に然程時間は必要なかった。母親に放逐される頃には、頭痛と引き換えに自分の意思で聴きたい音を聞けるようにも成っていた。その結果、知りたくなかった事実を知る事も多かったし、代償に体に掛かる負荷も容赦なくレイを苛んだ。心身を同時に蝕まれ、まだ幾らか平凡だったレイが異質な存在に変貌を遂げる自分自身を恐れ慄いたのは、ある意味では正常な反応だったろう。まして、本人さえ許容し難い自分を、赤の他人に受け入れられる期待を捨ててしまったとしても、何ら不思議はなかったのだ。

自分がセンチネルであるらしい事はレイにとっては思ってもない事態だったが、ショーンと出会った今となっては納得するしかないし、寄る辺ない身の自分にも仲間と言える存在があると示されて心は慰められた。ショーンのおかげで貧弱な変わり者でしか無かった自分の正体を理解して、不安だらけの将来に光明がさした。他ならぬショーンという導き手を得た幸運は、これまで我知らず吝嗇してきた運の全てを注ぎ込んで引き寄せた運命かもしれないなどと少女趣味な空想を瞬刻いだいた。

ショーンの能力はレイに対して絶大な効力を振い。慣れ親しんだ孤独が一瞬で遠ざかって、これまでふたつに分たれていた半身に巡り逢ったかのようだった。

だが、お人好しなショーンは皆んなのアイドルで、彼は皆に好かれ皆に平等に好意を返す事に慣れた人間だ。ショーンがレイという存在を喜んでくれるとしても、自分だけが特別ではない。特別になりたいと願えば二人の認識の掛け違えには取り返しの付かない齟齬が生じるだろう。レイとショーンは余りに違う。

彼を欲すれば、沈黙の誓いを破って腹の裂け目が再び口を開き、頭では慎ましくありたいと願っても、この腹の口は欲しい欲しいと呻くだろう。「愛されたい」と叫び出すだろう。愛されたいと喚くこの口は、一度獲物に食らいついたら骨までしゃぶり尽さんと欲するのだろう。

———だってこんなにも彼が欲しい。

ショーンと契約したいと渇望する自分と、誰かに依存する事を忌避する自分がレイの内で暴れ回る。

今はまだ良い。薬の効かない偏頭痛を抱えて居るだけだ。だけどこの先センチネルとして覚醒して能力を行使する事になったら、ガイドのケアは欠かせなくなるだろう。そうなれば完全にガイドに頼って生きる事になる。

インターネットを少し浚えば センチネルとガイドにまつわる真偽不明の膨大な逸話がすなどられる。どの話にしても一貫して読み取れるのは、センチネルの持つガイドへの執着の深さ。

母の決定的な拒絶がレイを傷つけたのは事実だが、涙は出てこなかった。胸に刺さった言葉の一字一句が今も色褪せないのは未練だろうが、既に覚悟は出来ていたのだ。母親の言動に一喜一憂する年頃ではなかったし、当然母親と生涯を共にするつもりもなかったから。

———だからショーンは駄目だ。

怒りでも悲しみでもない透明な涙がレイの頬を伝う。

———今なら諦められる。

密かに憧れていた同級生と少しだけ仲良くなった。悩みを解決する方法を教えてもらった。とても幸福な体験だった。だからこのまま額縁に収めて仕舞っておこう。

———そうしなければ。

レイがショーンを望んでも倫理に背く事はない。
センチネルがガイドを独占したいと望めば実現可能な力が彼らに持たされている。
だとしたら、

———自分以外に何が自分を止められる?


事務的な関係いられるならば良い。だが自分は、唯一の相手に成りたいと願わずにいられるのか?

彼を束縛して、心から愛されたいと、願わずにいられるのか?

また重荷だったと言われてしまったなら、今度は正気でいられるか?

獰猛な欲望と支配力を手にしながら、獲物の自由を許してやる事が出来るのか?



頬をくすぐる涙の滴もそのままに、斜陽がつくる薄闇を吸い込むように大きく胸を律動したレイは、その闇に溶けるように思考を停止した。
自問する程に反証の立たない命題と対峙するうちに、痛む事を思い出したらしい反抗的なクソ頭がいつも以上に憎らしかった。


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