スクールドライバー

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第一章 仮“装”世界へようこそ!

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 翌朝、力強く光る太陽の下をしっかり歩いて登校してすら、俺はいまいち現実味を噛み締められないでいた。起きて、汗だくで教室まできて、ホームルームを経てから三つほど授業をうけても、まだ昨夜の出来事が疑わしい。今に至るまで、授業中も休み時間も関係なく、空の雲や天井の継ぎ目の数なんかを無意識に数え、まるで水面に浮かぶかのようにふわふわと思考を漂わせている。
 昨日見た光景が、頭から離れない。確かに記憶に刻まれている。昨夜はこの校舎が、この学校が、全部ごっそり水に浸かっていたのだ。そこはカラフルに煌めいた暖かい南海の底で、服を着ていてもまるで不快感がなく、かつ平気で息をすることもできて……。
 さらには南校の生徒だという連中がいくらか現れ、あろうことか、ゲームなんかをしているのだと述べた。おかしな趣味の衣服を纏って、その有様を仮装パーティーなどと呼びながら、全てはホログラムの仮想現実なのだと、理解に苦しむ説明をしたのだった。
 昨日は周りの雰囲気に乗せられてちょっと信じ込んでしまったが、どう考えてもあれはおかしい。信じ難い。夢であって然るべきだ。
 しかし、あの場で俺自身が見てしまった――聞いてしまった――感じてしまったものたちが、脳にこびりついて消えようとしない。抗いようもなく、あれは現実だと訴えかけてくる。感情の奔流が、抑えきれない。
 加えて、あまり認めたくはないが、あの出来事が幻や嘘の類ではないとする証拠も、実はあったりなんかする。
 今も依然として俺の端末の中にある、謎のアプリケーション。
 それと、優璃だ。
 この二つだけは俺の理性に反した結論を主張し、感情の方を支持している。皮肉にも全てを本当だと受け入れる場合、綺麗に俺の理性以外の矛盾が消え去るのだ。
 確かに、今ならばわかる。優璃は、あのゲームで得られる権利を利用して、銀杏の樹を守れと言うのだ。そうに違いない。到底無理だと思えた話が、この方法でのみ可能になる。優璃はそれを、俺にやらせようとしているのだろう。
 ……はぁ…………。
 もしかして、どんなに真剣に考えたところで、昨夜の件は本当だという結論になるのだろうか。現実についてこられない理性がいくらごねても、感情の方は主張を変えようとしない。なぜなら、おそらくそれが正しいのだろうから。
 でも、理性と感情の乖離はいかにも頭を痛くする。何とも不気味で不可解で、自分が自分でないみたいな気分になるではないか。
 そうやって、俺が非常に難解な思惑に懊悩していると、隣で突然に声がした。
「おーい、馨。どうしたんだ? 朝からずっとボーっとして。間抜けにでもなったのか?」
 間抜け? おい今間抜けって言ったか? そこだけ聞こえたぞ。なんて言い草だ。端から見たらただボーっとしてるようにしか見えなくても、俺はひたすら頭を動かしているんだぞ。
「別に、ボーっとなんか……いや確かに、今日はしてるかもしれないけど。でも、間抜けはひどいな」
「わりわり、眠いだけかと思ったけど、こんな時間まで惚けてるからよ。お前も、まだ夏休みが恋しいのか?」
「そんなことないさ。ちょっと……色々あって」
 どうやら俺が朝から上の空だったのは、こいつには見られていたようだ。まあ、普段なら俺はクラスでも話す方だし、特に今の環境では、こいつは一番仲がいいやつだ。おかしく思われるのも仕方ない。
 今、俺の席の隣で軽薄そうな笑顔を向けている人物。これは辻隆弥という。高校になって、一年のときに親しくなった友人だ。そして二年になった今もこうして同じクラスになり、俺としても悪い気はせず、基本的に学校ではこいつと過ごすことが多い。学食で飯を食ったり、休み時間に不毛な話に花を咲かせたり、そんなことをする相手だ。とにかく明るくていいやつで、まあまあ好感を持っている。
 だがしかし、こやつはいわゆる、馬鹿である。これがどういった種類の馬鹿なのかと言えば、だいたい話題は女のことばかり。つまるところ、どうしようもない人間だ。
「色々って何だよー。あれか? だから実はやっぱり、まだ夏休みが恋しいんだろ? いや、俺もそうでさー。姉貴の友達と海とか花火とか、バーベキューとか行ったんだけど、可愛い子多くてさいっこうでさー。そりゃもうほんっと、至福の時間だったんだぜ。でもさー、お前も誘ってやったのに、こねーんだもんなー。めちゃめちゃ楽しかったんだぜ? それに比べればさあ、学校で授業なんてさあ、退屈だよなー。味気ねーよなー。あー、思い出したらまた顔がにやけて……。姉貴はてんで駄目だけど、まさかあんなにいい子がたくさん友達にいるなんてびっくりだよ。これがよく言うあれだよな。冴えない女には、なぜか意外と可愛い子が友達に多いっていう法則な!」
 うん、予想通り。こいつの持ってくる話は、だいたいいつもこんな感じだ。その九割方が下らないことか、異性のこと。どちらも話半分で聞き流していいという点では共通で、俺からすればカテゴライズの必要もない。長身のバスケ部エースと言えば聞こえはいいし、外見も悪くないから普段からネタには尽きないようだが、如何せん中身が残念なためか、未だに独り身を脱したことはないらしかった。
「冴えないとか言うと、姉貴にどつかれるんじゃないのか? てか、よく姉貴となんて出かけるよな。いくら可愛い子が一緒でも、俺なら絶対パスだけどな」
「どつかれるって……そりゃまあ、お前の姉さんはな。すげー人だしな。むしろ姐さん!みたいな。あんな人を前にして冴えないとか言ったら、そりゃあとんでもないけどさ。でも世の中には、ごく普通の姉もいるわけで」
「何が姐さんだ。姉としては欠陥しか持ち合わせてないような人間だぞ」
「いや、いやいやいやいや! あの人はなんつーか、すげーってかやべーってか、ぱねーんだよ。俺、尊敬してるし!」
 隆弥は手足を騒がしく動かしては、わたわたしながら頭の弱そうな言葉を吐く。意味は半分くらいしかわからないが、やべーだけ同意だ。ぱねーに関しては、内容次第。そもそも三つ上だし、学年も被ってないはずだし、もうあいつは卒業して街にいないのに、なぜこいつが知っているのか。
「頼むから日本語使えよ……。それと、姉貴の話はやめてくれ。不吉だから」
 あいつの噂は厄を招く。俺の平和が逃げる。恐ろしくて仕方がない。その証拠に、微かだった頭痛がみるみる広がる。考えるなと叫んでくる。脳が全部侵されそうだ。
 しかし、俺が頭を抱えていると、さらなる追い打ちをかけるかのごとく、またしても気の進まない話題の展開を促す要素が挙がる。
「あの、隆弥くん、椎名くん。これ、次の数学で使うプリントです」
 一人の女生徒がこちらにきて、二枚の紙切れを俺たちの前に差し出した。そして続けて、忌まわしい単語を一言。
「優璃さんのお話ですか?」
 って、おい。やめろやめるんだ! 平穏が逃げる! 羽が生えた札束のように、手の間をかすめてヒラヒラ逃げるではないか!
「ん? ああ、琴葉か。相変わらず真面目ちゃんだなー」
 隆弥が半身で振り返って、平坦に反応する。
 対して俺は
「朝比奈さんその名を口にしてはいけない。その名前は呪われているんだ」
 と、これ以上の不吉蔓延を防ぐために制止を訴えていた。
 彼女は朝比奈琴葉という。俺と隆弥の属するクラスの委員長だ。俺に恨みはないはずだ。
「呪われているって、優璃さんがですか?」
「だからその名を口にするなと」
「どうしてですか? 椎名優璃さんですよね。この学校、いえ近隣では、知らない人はそういない一角の人物ですよ。私も同じ女子としては、憧れてやまないくらいのお人なのに」
 だーー! 俺の苗字をあいつの名前にひっつけないでくれ。俺の幸運が全部吸い取られそうで怖い。いやマジで。
 さすがに叫びまではしないが、内心鳥肌もので、俺は思い切り机に突っ伏す。ガツンと頭を打ち付け、小気味良い音を鳴らした。
 そんな俺を横に、隆弥が朝比奈さんへ返答する。
「まあでもよ、琴葉。あんな風になりたいんなら、まずお前はその委員長スタイルからどうにかしなきゃだよなー。とりあえずメガネはコンタクトにしてさ。制服も、そんなにきっちり着てなくていいじゃねーか」
 彼女の外見についての、なかなかに遠慮のない物言いだ。
 実はこの二人、それなりに以前から接点があったようで、結構親しい。一見すると失礼な今の隆弥の駄目出しも、その関係ならではのものだろう。
「うるさいですね。隆弥くんはいつまでも、そうやって格好ばかりを気にして。あんまりずっと子供みたいだと、女の子にもてませんよ」
 メガネレンズの向こうで、笑みを作る彼女の目尻が少しだけ釣り上がった。
 だが、隆弥は全くお構いなしだ。
「高校生なんだから外見は大事だろ。琴葉こそそんなに地味だともてないぞ。委員長キャラで釣れるのなんて、今時、先生の評価と成績くらいのもんさ」
 ハハンと見下ろし、明らかに馬鹿にした口調であった。
「怒りますよ」
「琴葉が怒ったって怖くなんかねーさ」
「………………」
「………………」
 両者見つめ合い、ついには互いに無言。まあこの場合、ガンを飛ばし合っていると言った方が適切か。観点を変えれば、仲良く痴話喧嘩。夫婦漫才とも解釈可。
 しかしそこで、目の前のいがみ合いを俺の代わりに仲裁するかのごとく、教室には予鈴が鳴り響いた。授業開始五分前の予鈴だ。
「……二人とも、プリントには目を通しておいてくださいね。それじゃあ」
 朝比奈委員長は目一杯微笑みながら、かつ対称的な不機嫌オーラてんこ盛りボイスで挨拶をすると、プリントを俺の机にヒラリと落として、自分の席に戻っていった。
 あれ、二人ともって……まるで俺まで彼女を怒らせたみたいな言い方……。机で突っ伏していただけなのに、ひどいとばっちりだ。
 聞くところによると、彼女は怒らせると恐い。それはもう、恐い……らしい。実際には朝比奈さんは随分寛容なので、怒ったこところを直接目にしたことはないが。
「ちぇ、なんだよあいつ。俺は健全な男子高校生としてアドバイスしてやったのに」
 たぶん、弁解なら向こうも同じことを言うだろう。
「馨、プリント一枚貰うな。……うげ、式ばっかり」
 隆弥は机上の用紙を一枚ペラリと拾い上げ、そうやって不平を零すと、「じゃあな」と残して自席へと去った。
 確かに、紙面には古来アラビアより伝わる由緒正しい万国共通文字が、窮屈そうに印字されている。数字と数字が押しくら饅頭だ。そして次の授業では、皆がこの狭っ苦しい教室で狭っ苦しい紙面に、さらに数字を書き加えていくわけか。
 あーー……。うん、やめやめ。
 誰が悲しくて、コンクリート校舎の壁の中、昼飯前の空きっ腹と戦いながら、数式を弄くり回さにゃならんのか。閉鎖空間、空腹、退屈の三重苦。なんともまあ犯罪的だ。
 俺は脳内でぐだぐだと下らぬ文言を並べ立てた末、席に着くクラスメイトとは対照的に、プリントを机にしまって席を立った。

 廊下に出た。
 俺は数学の授業は受けない主義だ……とまでは言わないが、今回はパスすることにした。数学ならば、あとから自分で教科書を読んでおけば事足りる。つまりこれは、時間の有効活用だ。賢い選択だと自負している。
 次の数学は午前中の最後の授業だから、一足先に昼休みをとることにして……となれば、まずは混み出す前の購買部に行って、パンをいくつか調達しよう。俺は早々とそう決断した。
 購買部へ行くには、ここから反対側の階段まで廊下を歩き、一階まで降りてから校舎を移すのが一番早い。だがしかし、今これをやってはならない。移動の過程を、授業中の教室から見られては困るのだ。
 もし安易にそんなことをすれば、それはそれは面倒なことになる。教師から「おい授業中だぞ。どうしたんだ」などと尋ねられ「た、体調がすぐれなくて保健室に……」なんて答えることになる。そこまでいったら、考えられる選択肢はさほど多くない。連行されるのが保健室か自分の教室かの二択なのだ。まあぶっちゃけた話、保健室は購買部とは真逆の方向であるからして、この言い訳が既に間違っているとも言えるが。
 というわけで、俺は聡くもルートを変更。近くの階段から一度最上階へと迂回して、目的地まで隠密行動を図るのであった。最上階は多目的ホールや空き部屋ばかり。誰かに見つかる要素は皆無だ。
 ところが、である。階段を目の前にして、手すりを掴んで上方を見上げたとき、誰もいないはずの上階から下る足音が響いた。
 俺が警戒して身構えると、次に視界に入ったのは、普段はあまり目にすることはない、淡系色の薄布だった。
 いや、あまりというか、滅多に、だ。通常ならそれは、鉄壁の防御を誇るスカートという名の究極装備に守られているのだから。
「あ」
 思わず声が漏れる。妥当だろう。無反応は、ちと無理だ。ちなみに水色。
「……? さっき授業が始まったはずだけれど、どうしたの?」
 向こうも俺に気がつくと、立ち止まって声をかけてきた。ただスカートが役目を半分くらい投げ出していることには気づいていないのか、体勢についてはそのままだ。
「あ、いやちょっと、気分が悪くなって」
 おい。だからその言い訳はダメなんだろうが俺。何だ、珍しいものでも見て動揺中か。
「上の階に保健室はないわよ。あら、あなた椎名くんじゃない」
 あ、面が割れた。顔を知られているようだ。
 それがわかると、俺はようやく目線を水色の布から外して、眼前やや上方に立つ人物の顔を見た。おっと可愛らしい女生徒。ってか、顔見知りだった。
「これはこれは副会長じゃないですか。そうです、はい。こちらは椎名馨でございます」
 相対するは生徒会副会長。その名を九条羽望という。才色兼備で人望厚く名家の出身。なんとも素晴らしき境遇と肩書きを持つ女性である。
 しかし、だからこそなおのこと、今はまずい。
「待って椎名くん。体調不良なのかしら。顔色は悪くなさそうだけど」
 回れ右をして立ち去ろうとするが、即座にそれを止められる。視線には、既に疑いの念が含まれている気がした。
「ま、まあ……」
 なんとかして逃げたい。訳あって彼女には、俺の事情が知れているのだ。
「本当? あなたには前科があるから、ちょっとね」
 はい。訳あって九条さんには、時間の有効活用、もといサボリの件が知られています。
 くっ……隙をみて逃げるか。そうだな、たとえば相手が動揺した隙にでも……。
「あ、九条さん。パンツ見えてますよ?」
 よし! このチャンスに――。
「ただの布切れね」
 あれ、動揺なし!? 逃亡の好機、皆無か?
 彼女はまったく恥ずかしがる素振りなど見せなかった。依然として体勢を変えることすらなく、俺の方を鋭くも冷たい瞳で見下している。指摘をされて驚きつつ、スカートを抑えて「きゃっ」なんて想像は論外だったようだ。
「性欲旺盛で、元気そうじゃない。やっぱりサボリなのかしら。じゃあ、ちょっと私と一緒にきて欲しいんだけど」
「いや、だから体調不良で……」
 今この瞬間、それも嘘ではなくなりそうだ。順調に胃が痛くなってきた。
「視姦の罪で、しょっぴいてもいいのだけれどね。私はここで少し声を張るだけで、あとは自動的に事が進展するでしょうし」
「やめてくださいお願いします」
 なんてことを言うんだこの女。視姦て……。全然恥ずかしがってもいないくせに。だいたい、自分で布切れと言った割にはしょっぴくのか。理不尽だろ。
 いや、まあ、確かにあれは、ただの布切れだ。原材料的には。それならこっちだって、あんな布面積と値段が反比例らしいヒラヒラなんかに興味はない。別にその物体であれば売り物でも洗濯物でもいいわけじゃないんだ。羞恥の色なしで一笑に付されたら、面白くもなんともない。
 彼女は結局、低頭の俺に対して酷な行為に及ぶことはやめてくれたのか、静かにコツコツと音を立てて階段を降りてくる。近づくにつれて角度的には水色さんとお別れだが、もうあんなものどうでもいいわ!
 そして見上げていた姿はずっと近くまでやってきて、目の前で立ち止まるかと思いきや、そうではなく、長くまっすぐな黒い髪で俺の頬をくすぐりながらすれ違った。彼女はそのまま歩いて行ってしまうが、すれ違いざま確かにその口を開いていた。
「こっち」
 と、ただそれだけを。
 俺は仕方なく、昼休み前のパン選び放題を諦めてついていったのだった。

 しばらく無言でついていって、校舎内を五分ほど歩いた。途中までは俺がよくたどる道と似ていて「ああ、ここからなら銀杏の樹も近いな」なんて思ったものだ。
 それからまた、あまり使われてない区画を経て少しだけ歩き、どうやら目的の場所に着いたようだった。
「あのさ九条。ここは?」
「資料室。正確には、旧資料室ね」
 取ってに多少のサビがついた銀色の鍵を、彼女は制服のポケットから取り出した。
「授業サボって、こんなところに何の用なんだ?」
「片付けよ。生徒会の仕事で」
 ガラッと音を立てて引戸を開けると、中からはこもった熱と、埃くさい空気が漏れる。ただの物置の癖に窓は大きな南向きでいらっしゃるようで、室内は日光の恩恵を余計なお世話レベルまで享受している。
「それと、私はサボりじゃないわ。今の時間、私のクラスは国語なの。学年主任の先生が担当だけど、今日は出張で自習だから」
「自習だからって、抜け出してたらサボリと一緒だろう」
「許可は取ってあるわよ」
 ちっ。サボり仲間じゃないのかよ。
 俺は扉のサッシを跨ぎながら、わかりやすく舌打ちをした。
 陽射しを乱反射する埃の粒が眩しい。
「当たり前でしょう。だから私が、私とは違ってサボリのあなたを、是非有効活用してあげようということよ」
 有効活用って、要は手伝えってことか。何気に「違って」の部分を強調しやがった。
 授業を抜け出して、俺が時間を有効活用するはずが、知らないうちに俺の方が彼女に有効活用されそうじゃないか。いいのかそんなんで。
 室内に入ると、彼女は窓を開け放って換気を試みる。それからヘアゴムらしきものを取り出して口にくわえつつ、慣れた手つきで長い髪を一本にまとめて縛り、整ったポニーテールを結い上げた。
 窓からは、風がわずかにだけ吹き込み、穏やかに舞っていた埃の浮遊を乱す。
 思い返せば、確か最初もこんな感じだったのだ。九条が俺のサボり癖を知っている理由。彼女との初の邂逅は、まさに今の情景によく重なるものだった。
 いつだったか俺が今日のように数学の授業をサボり、廊下を抜き足差し足していたところで、偶然にも白足おみ足ほっそり足の九条羽望に出くわしたという具合だ。当時、唐突にも呼び止められた俺はもちろん言い訳にしくじって、それからいとも簡単にサボリだと見抜かれて。副会長だと紋所でも出されれば、もはや退路は断たれたも同然だったわけである。ちなみにあのとき連行されたのは、会議準備室とかいう用途不明の部屋だったと記憶している。つまり、埃臭い部屋の片付けは、今日が初めてではないのである。
「暑っ……」
「クーラーなんて効いてるわけないしね」
 彼女は涼しい顔で言った。そしてすぐに狭い部屋を見渡して、何かの目星をつけてから傍の棚に手を伸ばす。
「棚にあるものを、まず床に下ろしてくれるかしら。あとから運ぶから、混ぜこぜにしないように」
 的確な指示が俺に下され、彼女と二人揃っての、人気のないボロ部屋整理の狼煙が上がった。
 ただ率直に言えば、作業自体は大して苦にもならなかった。取り立てて重かったり大きかったりするものがあるわけでもなく、日に晒されて褪せたファイルや多少の文房具が出てくるくらいで、鬱陶しいのは第一印象通り、暑さと埃くらいのもの。片付けは、二人だけでも結構進むものだった。
 開始から数分して、棚が半分くらいもぬけの殻になったところで俺は口を開く。
「なぁ、いつも片付けばっかりしてるのか?」
 思い浮かんだことを、ふと尋ねてみた。
「別に、そんなこともないけれど」
 彼女は手を止めないで答える。
「こんなの雑用だろ? 生徒会副会長がやることなのか?」
「そうね、雑用ね。だからこそよ。むしろ生徒会副会長にこそ、相応しい仕事じゃないの」
「何だよそれ」
「知らなかった? 生徒会役員って書く肩書き、あれ雑用係って読むのよ」
 自虐の調子は見受けられなかったが、しかし酷い言い草だと、俺は思った。あまりに表現が直接的すぎる。似たように感じる人も少なくないだろうが、そこまで思う人もそういまい。
「授業中の時間まで使って雑用とか、やってらんねーって思わないか? そもそもどうしてこんな時間に、生徒会の仕事してんだよ」
「仕事が多いんだもの。先生たちの書類処理も一部引き受けてるし、その分時間がなくなるのだから、言えば自習くらい抜けられるわ」
「じゃあ放課後も普通に仕事があるのか? それで昼間にこうやって掃除か? マジかよ」
「誇り高き生徒会役員は、埃まみれになるのが仕事よ」
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 九条は反応してこちらを一瞥するけれども、すぐに首を回して自分の作業に戻る。
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「あ、てめ! その言い逃れはずるいぞ」
「あら、私はてっきり、罪の意識から自主的に手伝ってくれているのかと」
 罪の意識って、まさか。授業を抜け出すことにわざわざ良心の呵責なんてあるものか。
「私のパンツ見たし」
「そっちかよ!」
「もうお嫁にいけないわー」
 超棒読みだ。微塵もそんなこと思っていやがらないんだろうな。
「自分でただの布切れって言ってたじゃないか」
「自分で言うのと人が言うのでは、違うものよね」
 なんてやつだ。こういうやつがおそらく来年には生徒会会長になるかと思うと、未来の苛政を憂うばかりである。しかも悪びれもせず、常に手を休めないでつらつらと片付けを続けているあたり、俺の発言にも興味関心はあまりないようだ。
 ちぇ、と心の中で響かせる。俺が返答を返さなくなると、また無言でお片づけの再開だった。俺の方から口を開かなければ、基本的に会話の種は花を咲かせないのだ。
 作業をしながらたまに九条を見やれば、こちらの視線には気付いているのかいないのか、特に変化もなく眈々と工程をこなしている。こういったことは非常に慣れているようで、彼女の手際はかなりのものだ。取り立てて急いでいるわけでもなさそうなのに、俺の三倍くらいの効率で作業を進めている。
 九条は成績優秀だが、頭のいいやつはこの辺のやりようも知り得ているのだろうか。その態度と作業効率が相まって、まるでロボットにも例えられそうな身のこなしだ。どうだろう。一家に一台、お片づけロボット九条。言ったら殴られそうか。ともあれ作業進行的には、これ手伝う必要あったのか? 俺いらねぇんじゃねえ? なんて疑問符が浮かんでくるくらいである。
「俺いらねえんじゃねえ?」
 というか既に口から出ていた。思わず出たのがロボットの件の方でなくて幸いだが。
 これにはさすがの九条も手を止めて、振り返って「突然何?」という顔をしていた。
「あ、いや……何でもないです」
 しまった。つい口が滑った。おそらく俺の思考までは読み取られていないだろうが、特に会話のネタもないのに話しかけてしまったことになる。
 何でもないと言いはしたが、だからって九条も、はいそうですかと作業に戻るわけでもない。「何か言いたいことでもあったの?」と彼女の顔が聞いている。
 本当に何でもないんだ。そう断じても良かったのだが、結局俺は、何か言うことはないかと頭の中で考え出していた。気まずい空気になるのも嫌だろう。彼女は毛ほども気にはしないだろうが、ただでさえ物理環境的に空気は良くないのだから、これ以上汚すのは憚られる。
「そういやさ、この部屋は何で片付けるんだ? 何かに使うのか?」
 見たところ、物置にしか使えなさそうな空間だが……物のなくなった物置部屋は、いったい何部屋になるんだろう、なんて考えてしまう。
「さあ、色々あるのよ。学校にも」
 彼女は言葉を濁す。なぜだろうか。
 そこで俺は、一つだけ思い当たっていた事柄を、口に出してみた。
「学校、増築工事するんだって?」
「……あら、そんな話、どこで聞いたの?」
 俺の言葉には、彼女は思いの外に驚いた様子を示した。まあ、あくまで彼女の感情の平坦性の範囲内で、だが。どちらにせよこれは、濁した内容にドンピシャということか。
「まだあまり知っている人は少ないはずだけれど。一般生徒に告知されるのは、もう少し先じゃなかったかしら」
「えっと、ちょっと小耳に挟んでさ。つか、九条がそう言うってことは、やっぱり本当なのか。増築」
「随分といい耳を持っているのね。ええ、本当よ。と言っても、別に隠すことでもないし、そのうち掲示板にでも張り出されるのではないかしら。ちょうどこの辺りの古い校舎一帯が対象でね。始まるのは十一月の頭、文化祭の前後くらいかしらね」
 それで物品を持ち運んでいるのよ、と彼女は付け加える。
「ほぉーぅ……」
「何よ、その反応は」
「いやいや、裏をとっただけでございます。情報は真偽が命。エセ情報だったら困るでしょ」
 どちらかと言えば、エセ情報だった方が助かった気もするけど。というか、未告知情報だったってことも知らなかった。
 ここいら一帯ってことは、ここからそう離れてもいない銀杏の樹は、当然のように対象範囲内だろうな。
 うーん……。優璃の言ったことはやはり事実か。この学校なら、増築自体は可能性として十分あり得る話だしな。これで夜の学校の件を支持する事実が、また一つ増えたわけだ。
 そうやって俺が安っぽい情報屋の真似でもしていたら、いつの間にか九条は作業に戻っていた。さらに俺が一人で自分の思考に浸かっていたら、これまたいつの間にか彼女はこう言った。
「まあ、こんなものかしら。とりあえずは」
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「あれ、もう終わりか?」
 俺が気付いて尋ねると、彼女は部屋の外で荷物を下ろしながら答えた。
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 そして髪を束ねていたヘアゴムを、すっと外した。さっきまで元気に揺れていたポニーテールが、さらさらと艶やかに腰まで零れ落ちる。
「運ぶのはまた今度にするわ。次の授業には出なきゃならないから。もう戻らないと」
「え!?」
 そのとき彼女は、ちょっと信じられないまさかの発言をした。
 ……え? 次の……授業?
 俺は彼女の言葉を聞いて驚き、端末の時計を確認する。確実に正しいはずの電波時計が、数学の授業を抜け出した時刻からかなり離れて、もはや次の授業の数分前を示している。……あれ? 昼休み、あったはずだよな?
「ご飯も食べずに手伝ってくれて、どうもありがとう。まさかあなたが、私の下着にそこまで罪の意識を感じていたなんて、意外だわ」
「んなわけあるかっ!」
 俺は脊髄反射で言い返す。
 いや、だけど、確かに叫んだらいきなり空腹が襲ってきたぞ。ご飯も食べずにって、さっきまで意識してなかったから感じなかっただけなのか。めちゃめちゃ腹減った!
「えっと、九条さん……ご昼食は?」
「私は、昼はあまり食べないから」
 しれっと答える。くそっ! この不健康女め!
「ほら戻るわよ。あなたも次の授業は出なさい。英語のはずだから、サボるのは辛いんじゃないの?」
 さらになぜ俺のクラスの時間割まで知っているんだ、お前は。
 嫌だ! それよりお腹空いた! こちとら昼抜きでカロリー維持できるような身体してないのに!
「え、けど、さすがにちょっと。せめてパンでもつまみに……」
「副会長として、サボり遅刻は認められないわ」
「え、数学は見逃してくれたじゃないか! 雑用係副会長なんだろー!」
「それも、自分で言うのと人が言うのでは、別物よね。ほら、急いで」
 だからその物言いはどうなんだ。
 俺は結局、問答無用で九条に手を引かれて、教室まで連れていかれた。途中で学食に逸れるルートに対し、十年付き合って別れる彼女に向けるくらいの名残惜しい目線を送りながら、けれども右手を引っ張られて抵抗できず、さよならして。
 胃の中が空っぽのまま、俺は英単語の勉強をしましたとさ。
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 主人公・森下陽和は幼少の頃、ピアノを弾くことが好きだった。  しかし、ある日医師から『楽譜“だけ”が読めない学習障害を持っている』と診断されたことをきっかけに、陽和はピアノからは離れてしまう。  月日が経ち、高校一年の冬。  ピアニストである母親が海外出張に行っている間に、陽和は不思議な夢を視る。  そこで語り掛けて来る声に導かれるがまま、読めもしない楽譜に目を通すと、陽和は夢の中だけではピアノが弾けることに気が付く。  夢の中では何でも自由。心持ち次第だと声は言うが、次第に、陽和は現実世界でもピアノが弾けるようになっていく。  時を同じくして、ある日届いた名無しの手紙。  それが思いもよらぬ形で、差出人、そして夢の中で聞こえる声の正体――更には、陽和のよく知る人物が隠していた真実を紐解くカギとなって……  優しくも激しいショパンの旋律に導かれた陽和の、辿り着く答えとは……?

可愛い後輩とフツメン人気配信者の恋

夜月連
ライト文芸
主人公の 黒木 佑(クロア)は人気配信者であり人気声優で日常にも満足していた...だが彼には悩みがあり そう一度も彼女が出来たことがないのだ

よるやことこと

小川葉一朗
ライト文芸
夜矢琴子は、とても普通の女の子だ。 友達、後輩、家族、知り合い。 人生の中で、普通の女の子、夜矢琴子と出会った若者たちの群像劇。 もし、一番印象に残っている人を挙げろと言われたら、それは彼女かもしれない。

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