月に兎がおりまして

りずべす

文字の大きさ
上 下
25 / 36
肆、地兎

地兎③

しおりを挟む
 通話を終え、月見里は再びスマホを杏朱という黒兎に渡し……それから一心不乱に外を見ていた。広がる庭園を――いや、その先に見える、屋上からの眼下の景色を。
 そしてふいに、高く澄んだ声で言った。
「俺のことはいいから……なんて、大事になされているんですね」
 アオのことを言っているのだろうか。そりゃ、もちろん心配はしてるけど……。
 俺が答えずにいると、月見里は短く息をついてまた続けた。
「手荒をして、申し訳ないとは思っていますよ」
 それは……逆に言えば思っているだけで、行動は変えないという宣言でもあった。もちろん、月見里にも色々と事情はありそうだが。
「……でも、さすがにスタンガンはひどい」
「はい。ですが、宮東さんに本気で抵抗されると、こちらとしても困りまして。もう使いませんよ。用が済みましたから」
 それもそれでちょっとひどい気がする……とまあ、そんなことはさておき。
「なあ……月見里は、本当に地兎なのか?」
「はい」とすぐに返る。「いつもは耳を髪に寝かせて、尻尾はスカートの中。それと、黒のカラーコンタクトです」
「じゃあ、もしかして今日、月見里が学校を休んだのは……新月の日だからか?」
 そして今日以外にも、これまで月一ペースでパラパラ遅刻や欠席をしていたのも、あるいは。
「その通りです。地兎も天兎も、兎である限りこの地上では例外なく、新月の日に兎の姿へと戻ります。それは太陽光を反射した月からの光が、たとえ一時的ではあっても完全に供給されなくなってしまうことによって起こると考えられています」
 兎にとって月から降る光が大切なものであることは、以前にアオからも聞いている。
「一口に新月の日と言っても、当然ながら、明確に新月となる瞬間――月齢のゼロとなる瞬間がございます。この月齢ゼロの瞬間を中心に、約一日から数時間の振れ幅を持って、私たち兎にとっての不自由な時間が訪れます」
「不自由な、時間……」
「はい。この日、兎に戻っているときは、その身に有すユエのほとんどを使うことができないのです。身の内にいくら多くのユエを蓄えたとしても、この斎日は避けられません。人の姿を保つためには内のユエだけでなく、身体の外からも月の光に照らされなければならないのか、また個々の体調やユエの状態にも依存するのか……未だにわかっていないことは多い」
 俺は部屋の隅で壁を背に座りながら、背を向けたままの彼女の声に耳を傾けた。
「実際、今日の新月の瞬間は、午後十一時三十二分。現在は午後六時二十分ですが……例えば、さきほどからこの部屋に出入りしている杏朱――私の世話係兼後見役の彼女は、もう既に人の姿をとれません」
 俺がこの部屋で見る杏朱という彼女は、一度も人の姿を見せることなく、何をするにもずっと兎の姿だった。おそらくは今日のもっと早い時刻から、そういう状態だったに違いない。
「対して私は、今日はまだ、人の姿を保てています。厄介なのは、これが常にそうというわけではなく、別の新月の日にはまったく逆の立場だった経験もあるということです」
「複雑……なんだな」
「ええ、とても。そして、自分が極めて無力になってしまう時間というのは、とても恐ろしいものです。それは兎として生きる中で、もっとも弱い時間。自分にいつその時が訪れるのか、また、いつその時が終わるのか。この斎日、私たちは常に神経を尖らせています」
 人間として生まれ、常に人間の姿で生きている俺にとっては、理解のしようもないことだ。その恐ろしさはきっと、俺が簡単にわかると口にしていいものではないのだろう。
 では、アオは……。アオは、そんな恐怖を抱えながら、俺のいるこの場所へ――敵地の中へ来ようとしているのだ。
 月見里は音もなく半身で振り返って俺に告げる。
「けれども、こと私たち地兎が天兎と戦う場合においては、話は別です。少ないユエしか持たない地兎が、多くのユエを持つ天兎と戦うには、逆に新月の斎日が好機となる。つまり今日は、彼我の戦力差がもっとも縮まる好機なのです」
 正面に見えるのは、すっかり日の落ちた昏い空。同じく暗い室内で紅く輝く彼女の瞳には、強い意志が感じられた。
「アオと……戦うつもりなのか」
「はい。初日の五匹の仲間に始まり、これまで多くの仲間が追い返されておりますが……今日はさらに数も多い。ここら一帯には、多くの地兎が住んでいますので」
「なあ。できればアオにも、手荒はやめてほしいんだ」
「それは先方次第ですね」
「どうして……アオを狙うんだ」
「理由はいくつかあります。ですが、宮東さんが知る必要はありません。ただ、それでも、一つだけ申し上げるなら……」
 そこで月見里は、再び外に視線を向ける。
「どんな獣でも縄張りを荒らされるというのは、気持ちの良いことではありませんから」
 同時に階下で「ダン」という音がした。今となっては聞き慣れてしまった、足で地を打ち鳴らしたときのものだ。ただ、それは一つではなく、小さな音がいくつも重なって響いている。地を揺らすような多重低音。
「どうやらご到着のようです」
 もう見えなくなった彼女の瞳が、今、はっきりと何かを捉えたと、俺にはわかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

一杯の紅茶の物語

りずべす
キャラ文芸
 カフェ『TEAS 4u』には日々、様々なお客様が訪れます。  大好きなテニスができなくなり、ぼんやりと毎日を過ごしていた少女。  バイトをいくつも掛け持ちし、写真を撮り続ける若者。  先生にずっと好意を寄せている少年。  突然来店した元店主。  間近に控えた結婚に不安を抱いている女性。  そんな彼、彼女たちが紡ぐ心満たされるストーリー。たった一杯の紅茶が、あなたの人生の転機になる――。

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

ロボリース物件の中の少女たち

ジャン・幸田
キャラ文芸
高度なメタリックのロボットを貸す会社の物件には女の子が入っています! 彼女たちを巡る物語。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

『元』魔法少女デガラシ

SoftCareer
キャラ文芸
 ごく普通のサラリーマン、田中良男の元にある日、昔魔法少女だったと言うかえでが転がり込んで来た。彼女は自分が魔法少女チームのマジノ・リベルテを卒業したマジノ・ダンケルクだと主張し、自分が失ってしまった大切な何かを探すのを手伝ってほしいと田中に頼んだ。最初は彼女を疑っていた田中であったが、子供の時からリベルテの信者だった事もあって、かえでと意気投合し、彼女を魔法少女のデガラシと呼び、その大切なもの探しを手伝う事となった。 そして、まずはリベルテの昔の仲間に会おうとするのですが・・・・・・はたして探し物は見つかるのか? 卒業した魔法少女達のアフターストーリーです。  

ハードボイルドJK

月暈シボ
キャラ文芸
近未来を舞台にした学園で、ハードボイルドなヒロインと謎を追う日常風学園ミステリーです。 転入してまだ間もない主人公の高遠ユウジは特別校舎での授業を終えて本校舎に戻る途中、下駄箱前で立ち尽くすクラスメイトの麻峰レイに遭遇する。 レイは同じクラスでありながらも、その完璧に近い美貌と近寄りがたいクールな雰囲気によってユウジは自分とは縁がないと思っていた人物だった。 靴が紛失し立ち往生していたレイを助けたユウジは翌日、彼女から昨日の礼と靴の盗難事件が多発していることを聞かされる。 レイは既に盗難事件について独自の調査を開始しており、自分を含めた被害者の生徒はいずれも同じ寮の女子生徒であることを突きとめていた。 そしてユウジは、レイからこの事件を一緒に解決しようと誘われる。好奇心からと、レイのような美少女と仲良くなるチャンスを拒む理由はないユウジはその申し出を受ける。 このようにしてユウジとレイはバディを組むと、事件と学園の謎に迫るのだった。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

処理中です...