月に兎がおりまして

りずべす

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壹、天兎

天兎①

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 自室の大きな窓から差し込む朝日で目を覚ます。
 身体を起こすと、熱の溜まった掛け布団の内側をぬるい空気が通り抜けた。しかしながら腰回りだけは未だに暖かい。なぜかと思って寝ぼけた目を向けると、瞬間、俺は飛び上がった。
「うぉ、おおおぉぉぉーー!」
 ベッドの中で俺の腰に巻きついていたのは、なんと一糸纏わぬ姿の女性。朝からこれほどの気つけはない。俺は思わずベッドから逃げるようにあとずさり、そのまま床に転げ落ちた。
 ガタ、ゴト、ズドン。
「っつ……」
 我ながら清々しいまでの典型的落下音だ。
 同時に、ベッドの上では女性がもぞもぞと動き始める。今の衝撃で目を覚ましたらしい。そのまま起きかけの裸体を隠すでもなく、こちらに身を乗り出してくる。
 当然、俺の目には女性のあられもない姿が映った。陶器のような肌。華奢な細い肢体。立てば膝下まであろうかという長い髪は白銀に輝いている。大きな丸い瞳はまるで淡い蒼穹のよう。
 そして艶めく形の良い桃色の唇が、俺に向かってゆっくりと開かれた。
「■■■■■■■■■」
「……っつぁ! いって! なんだこれ、頭が!」
 俺は思わず頭を押さえた。
「■■■■■■■■■■■■■■」
「ぐぁ……やめろやめてくれ!」
 俺はたまらず転げ回った。
 なんだこれは。女性が言葉を発するたび、何か強い衝撃が脳内を駆け抜けていく。頭が割れてしまいそうに痛くて、小さな雷が体内で暴れ回っているような感覚がする。
 なんだ、なんだ、なんなんだこれは。この女、いったい……。
「ああ、ごめんごめん。んー、えっと……これであってる?」
「おいっ! だからさっきからやめろって言って……ん?」
 しかし三度目の発言は俺にも聞き取ることができた。俺の理解しうる言語はこの世界でたった一つ日本語だけだから、おそらくこれは日本語なのだろう。頭痛もピタリと止んでいる。
「お前……会話ができるのか?」
「それはこっちの台詞よ。あんたこそ、統一言語は無理でも土着の言語は話せるようね。安心したわ」
「はあ……?」
 統一……何だって?
「いや、ね。助けてもらったものの会話ができないっていうんじゃあ、お礼をするにも骨が折れるじゃない?」
「助けた? いつ誰が誰を?」
「昨日、あんたが、あたしを」
「いやいや、昨日俺が助けたのはただの白兎……」
 理解が追いつかないまま、俺は部屋の隅に置いたクッションに目を向ける。昨日助けた白兎を安置したはずの場所だ。
 しかし今、そこには何の姿もない。代わりに俺を見下ろす女性が言う。
「その白兎が、あたしってわけ。ま、でも、ただの白兎じゃあ、なかったわけだけど」
 なんとも愉快そうに口の端を引き上げ八重歯を覗かせた彼女は、そこでピョコっと、頭から真っ白く長い耳を飛び出させた。それは確かに兎の耳――しかも、昨日俺が助けた白兎と同じく、左の耳が折れている。
 俺は開いたままの口を閉じることを忘れた。
 耳は、到底作り物には見えない。ふわふわの毛並みと一緒に、彼女の息遣いに合わせてわずかな上下運動を繰り返している。その細い手足、くびれた腰に滑らかな首筋、大きな胸と同じ、生きた彼女の身体の一部だ。
 俺はそこまで考え、ようやくはっと気づいて冷静になる。
「と、とと、とりあえずお前……服、着ろよ」
 彼女は裸だ。彼女が昨日の白兎であるという話を信じるにしても、少なくとも今は女の人――それもおそらく十代後半くらい――にしか見えない。衣服の着用は最優先事項と言える。
 すると彼女は「あぁ」と生返事で部屋の中を見回し、相も変わらず恥ずかしがるそぶりすら見せずに立ち上がった。そのままベッドを降りると、部屋の入口の方へと歩いていく。
 目的とするのは、どうやら自身の手荷物のようだ。俺が昨日、兎と一緒にここまで運んだ大きな風呂敷包み。そのこんもり丸々とした包みを漁り、衣類らしきものを豪快に引っ張り出す。
 俺はそれを確認したところで後ろを向き、完全に彼女を視界から排した。
「背中向けてるから、着終わったら教えてくれ」
「はいはい。悪いけど、ちょっとかかるわ」
「ああ。構わないから、ちゃんと着ろよ」
 それからしばらく、背後で衣擦れの音のする時間だけが続いた。静かな部屋の中、するすると響くそれらの音は、特に聞き耳を立てなくても聞こえてしまう。宣言通り時間を要するようだったので、俺は正面の壁を見つめたまま待ち、やがてなんとなしに口を開いた。
「あのさ、お前が本当に昨日の白兎なら、夜のうちに、人間の姿になったってことだよな?」
「そうねぇ」
「ベッドに潜り込んできたのは……寒かったからか?」
 人間の姿になると同時に、あの白くてふさふさの体毛はなくなったはずだ。今、時期は六月初旬。そろそろ暖かい夜も増えてきた季節ではあるが、それでも裸では冷えたのだろうか。
「さあねぇ」
「さあって、お前」
「何しろあたしも寝ぼけてたみたいだし、あんまりよく覚えてないのよ。寒かったのか、それとも、寂しかったのか」
「なんだよ、そりゃ」
「まあ、異郷の夜ってのは、誰であっても寂しいものじゃない? 特にあたしたち兎は、寂しいのが苦手でね」
 そう答える彼女の声は、わずかに笑みを含んでいた。俺は後ろを向いているからわからないけれども、もしかしたら今もまた、彼女は小さな八重歯を覗かせていたのかもしれない。
 兎は寂しいと死んでしまう……なんて話を、まあ、俺だって聞いたことくらいはある。でもあれは単なる迷信だったはずだし、何よりここにいる彼女は、全然そんなタチには見えない。
「あるいは、あんたが一人で寝てるのを見て、寂しそうって思ったのかも?」
「はあ? 俺が?」
「そうよ。うん、きっとそう! 朝起きたとき、誰かの温もりが傍にあるのは安心するでしょう? 今朝はどうだった?」
 声を聞いただけで、彼女のニヤついた顔が目に浮かぶようだった。
「それは……余計なお世話だよ。添い寝そのものは嬉しくても、肝心の相手が兎じゃあ」
 図星と思われては悔しいのでそう言い返しつつも、しかし、ベッドで裸を見たときにはやはりドキッとした。だって何しろ裸だし。それに、聞こえてくる衣擦れの音も妙に色っぽいから体温上昇に拍車をかけるが……いや、そういう思考は今はいらない。
 俺は一旦かぶりを振って身体の熱を冷まし、居住まいを正した。
「要するにお前は、兎人間なんだな?」
 真っ先に思い浮かべたのは、狼人間とか鳥人間とか、いわゆる半人半獣の……。
「違うわ」
 違うらしい。
「あたしは兎よ。少なくとも人じゃあない」
「……って、人間の姿で言われてもなぁ」
「人の姿の方が便利なの。それに、あたしたち兎の信じる神様は人間の形をしているから、それにあやかっている意味もある。それでもこれが仮の姿であることは疑いようがないわ。だってあたしたち兎はいくら人に擬態しても……ほら、耳と尻尾が元のままだから」
 ほらと言われても今は見れん。まだ着替えの最中だろうに。
 しかしまあ、神様云々はよくわからないが、確かに耳は兎のままだった。あの長い耳はとても目立つから、普段は寝せて髪の毛に隠しているのだろう。尻尾の方は、直接見てはいないけれど、たぶん服を着ればそれで隠れる。
「人間に化けられるのに、じゃあなんで、昨日は兎の姿だったんだ?」
「それはあれよ。昨日は新月だったでしょう? この地では、月のない日は人の姿を取ることができないの。それがあたしたち『天兎てんと』――月に住む兎のさがだから」
「つ、月に住む兎だって!?」
 俺は信じられない思いで聞き返した。咄嗟に振り向きそうになるのを抑える。月に住む兎なんて……そんなの、もはや御伽噺の領域だ。
「何よあんた。この神社に住んでるってのに、天兎のこと知らないの? 薄々変だとは思ってたけど……もしかしてあんた、宮東菫司みやとうきんじじゃないの?」
 そして、彼女の口から出た名前が、さらに俺の身を硬くする。
 宮東菫司。
 現在するその人物の名前が現れたことで、ここまで全て冗談や空想の域を出なかった彼女の話が、途端に現実味を帯びた。話半分で聞き流すわけにもいかなくなる。
「……菫司は、俺のじじいだ。俺はその孫の、宮東紫苑みやとうしおん
「ふぅん……なるほど、孫ね。んで、その孫はあたしたち天兎のことについて、菫司から何も伝えられてない、と」
「まあ……じじいから御伽話を聞いた記憶はないな」
 事実、聞いた試しがない。じじいは歳に似合わず軽口や冗談の絶えない性格だが、それでも月に住む兎の話なんて一度もしたことはなかった。
「あっはっは、御伽噺か。ま、そうよね。あんたたち人間にとっちゃ、兎なんて御伽噺に出てくるのが関の山かもしれないわね」
 彼女は愉快そうに笑う。そうして一通り声を上げると、その笑ったままの声音で言った。
「でもね。えてして御伽噺、あるいは説話や伝承の類って、根拠なしには生まれないものよ」
 その根拠こそが、他ならぬ自分なのだという顔で。
 あんまり堂々と、さも当然のことのように話されると、俺はうっかり信じてしまいそうな気分になった。彼女の言葉には、不思議とそういう力があった。
 いや、待て待て。こんな荒唐無稽な話に、そう易々と飲まれてはいけない。
 俺が自分に改めて言い聞かせる間、背後で彼女はさらに尋ねた。
「で、紫苑。菫司はどこ? ここにはいないの?」
「じじいは、二年前から入院してる。この家には、今は俺しか住んでない」
 淀みなく動き続けていた彼女の手が、そこでふと止まったのがわかった。
 俺はやや間をおき、それでも彼女が口を開かないので、溜息混じりにまた切り出す。
「とりあえず、じじいの客ってわけか」
 いっとう面妖な客ではあるが、それもじじい目当てなら然もありなんというところ。じじいは結構、方々に顔が広いのだ。入院した当初は毎日見舞いが絶えなかったし、それから一年間くらいは、話に聞いたと顔を見せにくる人が代わる代わるいた。今でもたまにそういうことはあるし、こいつもその一人……いや一匹? なのかもしれない。
「まあ、ここにはいないが、会いにいけば話くらいはできると思うぞ」
「……ほんと?」
「ああ。けど、会うなら来週末がいいと思う。今週は病院で検査があるみたいだし」
 大した症状でもないのに大袈裟だ、と本人は検査の度に文句を言っている。
「らい、しゅうまつ……って、いつのこと?」
「え? ああ……」
 そうか。月から来たって設定の奴に、曜日の感覚はわからないか。
「来週の土曜。今から七日後だ」
「七日後か……」
 彼女は俺の言葉を繰り返しながら、何かを考え込むように黙った。そしてしばらく無言でまた着替えを続け……って、いや、さすがに着替えが長すぎやしないか。いったいいつまで待たせるつもりなんだ。いい加減に俺が痺れを切らして文句を言おうとしたところで、しかし彼女は、まるでそれを先読みしたかのように告げた。
「悪いわね。待たせたわ」
 もうとっくに、壁との睨めっこは飽きている。その言葉の直後、俺は素早く身体を回転させ、ついでに目の前の彼女に曜日というものについて説明してやろうと口を開いた。
 けれども結局、俺の口が声を発することはなかった。振り向いてすぐに目にした彼女の姿に、俺は言葉を失ったのだ。
 そこにいた彼女はなんと、着物姿だった。どうやら彼女、俺の後ろでずっと着替え――というよりは着付けをしていたらしい。だから時間がかかっていたのだ。そしてその着付けの成果ともいうべき彼女の佇まいには、さきほどまでにはまったく感じられなかった気品があった。
 召し物は深い青紺に白の花柄という粋な染物で、それを上から締める帯は、彼女の瞳の色と同じ蒼。かつ、白銀の髪は背に流されたまま適度に結われ、そこにも洒落た花のかんざしがあしらわれていた。格好そのものはまるで本当に御伽噺から出てきたようでもあるが、それが異質な白い肌や髪と合わさることで、何やら不思議とエキゾチックな装いに仕上がっている。
 彼女は硬直したままの俺に向かって歩み寄り、ゆっくりと膝を折った。目線を同じ高さに合わせたかと思うと、その身をこちらに傾け、たおやかに右手を伸ばしてくる。
 彼女の冷たい手のひらが、俺の左の頬に触れた。
「ねぇ紫苑。昨夜、あたしを助けてくれたその温情、感謝してもしきれないわ。ところで、おおかた察しはついているかもしれないけれど……この通り、あたしには行く当てがない。そこで、どうかしら。温情ついでに、あたしをここにおいてくれたりしない?」
「温情ついでって、お前……結構強引だな」
「あたしとっては死活問題だからね」
 気が入っているのかいないのか、そんな出来損ないの芝居は如何ともし難い。けれどまあ、あんな風呂敷包みと一緒に庭先で弱っていた相手だ。身寄りのない境遇かもしれないことは予想がついていた。それが単なる兎か、人の姿をとる兎かで、話の規模は随分と違うが。
「それに、あんたもひとたび生き物を拾ったからには、最後まで面倒を見る責任があるのではなくて?」
 そう言われてしまえば、言えなくもない……かもしれない。
「もちろん、お礼はするつもりよ。例えば、ほら、こんなのとか」
 すると彼女は、俺に覆いかぶさるようにその身を乗り出し、なんと、左手で着物の胸元をはだけてみせた。途端、俺の視線は、多少なりともその奥に吸い寄せられずにはいられない。芝居は似非でも、やたらと容姿がいいものだから雰囲気が出る。
 これは……いけない。俺はベッドで見た裸がフラッシュバックするのをなんとか振り払った。
「こらこら、せっかく着た物をすぐさま脱いでどうするんだ。馬鹿やってないで、ほら、ちゃんと着て!」
「あ、ちょっと。せっかくあたしが厚意で――」
 こんな厚意があってたまるか。俺は両手でせっせと彼女の襟元を正してやりながら、たまらず「はぁ」と大きく零した。そりゃ溜息も出るというものだ。結局俺は、礼あれこれではなく、行く当てがないとわかっているじじいの客を、ほっぽり出すわけにはいかないのだから。
 しばらく黙したが、やがて俺は、彼女からゆっくりと距離を取って言った。
「わかったよ。どうせ無駄に広い家だ。部屋もいっぱいあるし、お前の用が済むくらいまでなら、好きに使ってくれていい」
 すると彼女は、その顔にパッと大きな花を咲かせる。
「ほんと!? そう言ってくれると嬉しいわ! じゃあ紫苑、今夜が楽しみね!」
「その礼はいらないけどな」
 しかし花は途端に散った。彼女はあからさまに眇めた目を俺へと向け。
「……何よ、あんた。つれないわね。据え膳食わぬはオスの恥よ」
「そうは言っても、俺だって相手くらい選ぶって」
 彼女は何やら、片足でタンッと床を蹴りながら拗ねたようにぼやく。
「別に減るもんでもないのに」
「減りもしないものを礼に寄越されてもなあ。とにかく、その礼はなし! はい決まり」
 俺はそれだけ答えると、再度溜息をつきながら立ち上がった。クローゼットを開け適当に服を取り、部屋から出ようと扉に手をかける。さすがに客の前では着替えられない。
 俺が部屋をあとにするとき、座ったまま首だけでこちらを向いた彼女は、白い八重歯を見せてまた笑った。今度は、さきほどとはまた違った挑戦的な笑みで。
「そっか。あんた……さてはあれね。お人好しね?」
 そんな彼女に、俺は意趣返しのつもりで同じように笑ってみせる。
「それを言うなら、兎好しの間違いだろ」
「あっはは! じゃあなおのこと、あたしにとっては好都合ね」
 存外、それでも彼女は満足げな様子であった。
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