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第二章 唯花
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しまった! もしかすると、さっきのは鳴海に話しかける絶好のチャンスだったのではないだろうか。いや、もしかしなくてもきっとそうだ!
そのことに、俺は放課後を迎えてからやっと気づいた。
昼休み、鳴海は教室に一人だったのだ。妙な編入生のおかげで辺りに人はいなかったし、話をするにはまたとない絶好の環境だった。これほどまでに十分な機会に恵まれたのは、間違いなく今回が初めてだ。
いや、まあ、そりゃあ、たとえ向こうが一人でも俺は孝文と二人だったし、欲を言えば一対一で話せた方がいいかもしれないけれど……。そりゃあ、あの時間から話し始めても、結果的にはすぐに授業が始まっていたけれど……。そりゃあ、俺だって予期せぬ好機に心の準備なんてできていなかったけれど……。
でも待て。そんなことを延々とぐちぐち言っていたら、いつまで経っても鳴海とギターの話なんてできやしないではないか。一体全体、俺はさっきの昼休み以上の、どんな状況で鳴海と話そうというのだろう。果たして、俺が望む一番理想的な彼女との会話の形は何だろう。
それを考えたとき、真っ先に俺の頭に浮かんだのは、数日前に彼女のギターを聴いたあの部屋――音楽準備室だった。
紛れもなく一対一。かつ周りに人の気配はなく、放課後ならばほぼ時間の制約もないに等しい。そしてある程度偶然を装いつつも俺は心の準備ができ、ギターの話にも繋げやすい。
つまるところ俺にとって、もう一度準備室で鳴海に会う以上に歓迎すべき状況はないということだ。そう結論できる。
こうして俺は、この日の授業が終わってしばらく教室でぼんやりと時間を潰すと、いよいよ陽が赤くなる頃になって席を立った。向かう先は、もちろん音楽準備室だ。
二度目の邂逅を狙った訪問はこれが初めてではないし、そもそも鳴海が再びあそこに現れる保証もないが、可能性を追うだけでも構わなかった。もう一度、あの美しい光の中の彼女を見てみたいという想いも、おそらくこの胸にはあったことだろう。
ゆっくりと歩き、校舎を移し、階段を上る。最上階まで上り詰め、隅の方にある音楽室まで足を延ばす。
部屋に入ると、窓からは既に知った通りグラウンドが見渡せる。けれど今日は、そこで足を止めることはせず、照る太陽から逃れるように目元を手で覆いながら、準備室に通じる扉へ向かった。
――どうせ鳴海はいるわけがない。
――いや、もしかしたら今日はいるかもしれない。
二つの想いがきっかり平等に混ざり合わさり、まるで天秤のようにゆらゆらと揺れる。足の歩みに同調して、左右に忙しなく繰り返し。
だがそれも、いざ扉の前までやってくると、瞬間的に一方に傾いた。
ノブに手をかけようとしたとき、気づいたのだ。扉は、開いている。
この場合、開いているというのは施錠されていないということではなく、文字通り明確に開いているという意味だ。わずかに隙間が存在していて、二つの部屋の空気が繋がっていた。
人がいる。俺よりも先にここへ来た誰かがいる。物音はせず静かだったが、隣の部屋には確実に人の気配が感じられた。
そうか、今日は――いや今日も――今日こそまた――ここに鳴海がいるのだ。
それがわかると、トクン、と小さく、だが鋭く、一度だけ心臓が跳ねた。
俺はゆっくりと長く一呼吸おき、今度こそ思惑通りに事を運ぶよう丁寧に心境を整えて扉を開いた。
「あの、鳴海――」
直後、俺の視界は先客をとらえた。
視線と視線が交差して、相手も俺も、互いを見つめる。
しかし結論から言えば、その先客は鳴海ではなかった。
そこにいたのは――そこにいて目の前にあるアコースティックギターにいざ手を伸ばそうとしていたのは、見たことのない女の子だった。
随分と小柄で可愛らしく、制服から覗く手足は、触れれば折れてしまいそうなほどに細くて白い。少しだけ色の薄い黒のショートヘアが、大きな目の上で切り揃えられている。強い光の中に浮かぶ彼女は、陽の赤にうっすら染まりきっていて、異様な透明感を思わせる儚さを放っていた。
「…………」
俺は驚いたまま沈黙する。てっきりそこにいるのは鳴海だと思っていた予想が外れて、身体が硬直してしまっていた。
目の前の少女の、こちらを見つめる大きな瞳に意識を吸い込まれそうになりながら、しかし思考と神経を何とか動かすように努める。
すると、彼女の容姿には何となく見覚えがあるように思われた。その覚束ない雰囲気のある、幼さを残した妖精のような外見に、重なる記憶があったのだ。
それはちょうど、昼間に孝文と話題にしていた彼女――そう、唯花だ。目の前の少女は、あの唯花にそっくりだった。
ということは、この子が例の編入生か?
なるほど確かに、本人と言われても納得できるほどに、とても似ている。突然こんな子がクラスに来ようものならば、唯花当人だと思ってしまっても無理はないだろう。メディアに露出している唯花はブロンドで、目の前の少女は黒髪だが、それでもこれほど瓜二つの存在には驚きを隠せないものだった。
「えっと……」
数秒して、俺は無意識に呟いていた。その呟きには戸惑いの他に、感嘆の想いもわずかに混じっていたことだろう。想像していたほど黒髪と制服に違和感はない。むしろこれはこれで、作り込まれた人形のような調和を感じる。
けれども俺の硬直が解けて発した言葉を聞いて、彼女はぴくんと肩を弾ませ、一気に我に返ったらしい。伸ばしかけた手を素早く引っ込め、その両眼で俺を鋭く射抜いたかと思いきや、途端、翻って部屋から飛び出していってしまった。俺が来た方とは反対側にある、準備室から直接廊下へと繋がる扉を勢いよく開け放って、一目散に姿を消す。
一人とり残された俺はまたしばらく固まって、彼女の去っていった方を見つめていた。何とか形にしようとしていた言葉の先は、実際にはほとんど音になることはなく、萎んだ溜息となって口から漏れた。
静かに金色に輝く埃だけが、虚しく辺りに舞っている。
そのことに、俺は放課後を迎えてからやっと気づいた。
昼休み、鳴海は教室に一人だったのだ。妙な編入生のおかげで辺りに人はいなかったし、話をするにはまたとない絶好の環境だった。これほどまでに十分な機会に恵まれたのは、間違いなく今回が初めてだ。
いや、まあ、そりゃあ、たとえ向こうが一人でも俺は孝文と二人だったし、欲を言えば一対一で話せた方がいいかもしれないけれど……。そりゃあ、あの時間から話し始めても、結果的にはすぐに授業が始まっていたけれど……。そりゃあ、俺だって予期せぬ好機に心の準備なんてできていなかったけれど……。
でも待て。そんなことを延々とぐちぐち言っていたら、いつまで経っても鳴海とギターの話なんてできやしないではないか。一体全体、俺はさっきの昼休み以上の、どんな状況で鳴海と話そうというのだろう。果たして、俺が望む一番理想的な彼女との会話の形は何だろう。
それを考えたとき、真っ先に俺の頭に浮かんだのは、数日前に彼女のギターを聴いたあの部屋――音楽準備室だった。
紛れもなく一対一。かつ周りに人の気配はなく、放課後ならばほぼ時間の制約もないに等しい。そしてある程度偶然を装いつつも俺は心の準備ができ、ギターの話にも繋げやすい。
つまるところ俺にとって、もう一度準備室で鳴海に会う以上に歓迎すべき状況はないということだ。そう結論できる。
こうして俺は、この日の授業が終わってしばらく教室でぼんやりと時間を潰すと、いよいよ陽が赤くなる頃になって席を立った。向かう先は、もちろん音楽準備室だ。
二度目の邂逅を狙った訪問はこれが初めてではないし、そもそも鳴海が再びあそこに現れる保証もないが、可能性を追うだけでも構わなかった。もう一度、あの美しい光の中の彼女を見てみたいという想いも、おそらくこの胸にはあったことだろう。
ゆっくりと歩き、校舎を移し、階段を上る。最上階まで上り詰め、隅の方にある音楽室まで足を延ばす。
部屋に入ると、窓からは既に知った通りグラウンドが見渡せる。けれど今日は、そこで足を止めることはせず、照る太陽から逃れるように目元を手で覆いながら、準備室に通じる扉へ向かった。
――どうせ鳴海はいるわけがない。
――いや、もしかしたら今日はいるかもしれない。
二つの想いがきっかり平等に混ざり合わさり、まるで天秤のようにゆらゆらと揺れる。足の歩みに同調して、左右に忙しなく繰り返し。
だがそれも、いざ扉の前までやってくると、瞬間的に一方に傾いた。
ノブに手をかけようとしたとき、気づいたのだ。扉は、開いている。
この場合、開いているというのは施錠されていないということではなく、文字通り明確に開いているという意味だ。わずかに隙間が存在していて、二つの部屋の空気が繋がっていた。
人がいる。俺よりも先にここへ来た誰かがいる。物音はせず静かだったが、隣の部屋には確実に人の気配が感じられた。
そうか、今日は――いや今日も――今日こそまた――ここに鳴海がいるのだ。
それがわかると、トクン、と小さく、だが鋭く、一度だけ心臓が跳ねた。
俺はゆっくりと長く一呼吸おき、今度こそ思惑通りに事を運ぶよう丁寧に心境を整えて扉を開いた。
「あの、鳴海――」
直後、俺の視界は先客をとらえた。
視線と視線が交差して、相手も俺も、互いを見つめる。
しかし結論から言えば、その先客は鳴海ではなかった。
そこにいたのは――そこにいて目の前にあるアコースティックギターにいざ手を伸ばそうとしていたのは、見たことのない女の子だった。
随分と小柄で可愛らしく、制服から覗く手足は、触れれば折れてしまいそうなほどに細くて白い。少しだけ色の薄い黒のショートヘアが、大きな目の上で切り揃えられている。強い光の中に浮かぶ彼女は、陽の赤にうっすら染まりきっていて、異様な透明感を思わせる儚さを放っていた。
「…………」
俺は驚いたまま沈黙する。てっきりそこにいるのは鳴海だと思っていた予想が外れて、身体が硬直してしまっていた。
目の前の少女の、こちらを見つめる大きな瞳に意識を吸い込まれそうになりながら、しかし思考と神経を何とか動かすように努める。
すると、彼女の容姿には何となく見覚えがあるように思われた。その覚束ない雰囲気のある、幼さを残した妖精のような外見に、重なる記憶があったのだ。
それはちょうど、昼間に孝文と話題にしていた彼女――そう、唯花だ。目の前の少女は、あの唯花にそっくりだった。
ということは、この子が例の編入生か?
なるほど確かに、本人と言われても納得できるほどに、とても似ている。突然こんな子がクラスに来ようものならば、唯花当人だと思ってしまっても無理はないだろう。メディアに露出している唯花はブロンドで、目の前の少女は黒髪だが、それでもこれほど瓜二つの存在には驚きを隠せないものだった。
「えっと……」
数秒して、俺は無意識に呟いていた。その呟きには戸惑いの他に、感嘆の想いもわずかに混じっていたことだろう。想像していたほど黒髪と制服に違和感はない。むしろこれはこれで、作り込まれた人形のような調和を感じる。
けれども俺の硬直が解けて発した言葉を聞いて、彼女はぴくんと肩を弾ませ、一気に我に返ったらしい。伸ばしかけた手を素早く引っ込め、その両眼で俺を鋭く射抜いたかと思いきや、途端、翻って部屋から飛び出していってしまった。俺が来た方とは反対側にある、準備室から直接廊下へと繋がる扉を勢いよく開け放って、一目散に姿を消す。
一人とり残された俺はまたしばらく固まって、彼女の去っていった方を見つめていた。何とか形にしようとしていた言葉の先は、実際にはほとんど音になることはなく、萎んだ溜息となって口から漏れた。
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