Dear “Dear”

りずべす

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第七章

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 微弱な稼働音とともに、ティールーム全体に動力が走った。管制室に繋がる細い渡り廊下の扉が閉まり、足元から徐々に振動が伝わってくる。
 アイリスさんの白い手が、俺の両の手からするりと滑り落ちて、同時に彼女は立ち上がった。
「さて、じきに世界樹は停止するわ。魔法のかけられた時間が終わる」
「魔法……」
 俺は彼女のその言葉を繰り返す。そうか……魔法か。
 そして気づく。いつの間にか俺は、そんな時間の中にいたのだと。
 そしてまた、知る。もうじき俺は、魔法の消えた、お伽噺ではない世界に、戻るのだと。
 彼女は再び穏やかに言った。
「そう。私の占有する領域を解放して再起動リブートするために、一度シャットダウンをするのよ」
「それってつまり……時の凍結が」
「そうね。厳密には違う現象だけれど、似たような状況にはなるわ。でも、大丈夫よ。突然全てが止まる時の凍結と違って、今頃、地上では事前警告が出ているはずだもの。私たちが地上に降りる頃には、ちゃんと元通りになっているでしょう」
 止まらない涙が目尻から時折流れ落ちる。彼女は俺の頬に手を添えて、その涙の粒を親指で優しく拭った。
 ティールームの揺れはしばらくの間続き、やがてそれが収まったとき、窓の外が動き始めたことに意識が向く。景色が等速で上へ――いや、俺たちが下へ、落ちている。
「この部屋は降下用カプセルになっているの。世界樹がシャットダウンされると、この辺りでは生命の存在できる環境も維持されなくなってしまうから、こうして脱出するというわけね」
 確かに、本来ここほどの高さであれば、地上とは明らかに環境が異なってくる。俺たちが今いるのは、地球の重力すらも弱まるほどの高所なのだ。ならば、たとえば酸素濃度や気圧なども、生身の人体が耐えられる状態とはとても思えない。
「私はきっと、降下中に眠ってしまうわ。悪いけど、蓮君。その後をお願い。あと、目覚めてからの私のこともね」
 彼女の指先が、俺の頬からそっと離れようとするのを感じ、そのとき、俺の中で強く強く喪失の予感が輪郭を帯びた。あとを追ってこの手を伸ばし――
「アイリスさんっ!」
 気づけば俺は、何かに弾かれたように立ち上がって彼女を抱き締めていた。
「あら、ちょっと。まだ早いわよ。下で目覚めてからだってば」
 彼女は驚きつつも笑ってそう嗜めたが、それでも俺は彼女を離そうとはしなかった。
「少しだけ……こう、させてください」
 力んでしまって動かない奥歯を無理矢理浮かし、絞り出すようにそれだけを言う。
 すると彼女は、数秒ののち、俺にその身を委ねてきた。触れた彼女の身体は細く柔らかく、いとも容易く折れてしまいそうに感じる。けれども実際は、精巧で堅固な骨幹に支えられていて、その中で、彼女の心臓が脈打っているのがわかる。
 どれだけの間、俺はその音に耳を傾けていたのだろう。優しく穏やかな、安堵を与える彼女の音色に背を押され、俺は再び口を開いた。
「俺、あなたのこと忘れません。たとえあなたが、俺を忘れても」
「あはは……こんな風にされたら、私が、上手く忘れられないかも、しれないけどね」
 彼女は困ったように、冗談混じりにそんなことを言う。
「本当は、俺もあなたに、ついていきたいくらいです。俺は、あなたの世界の中にだけ、いられたらよかった。でも俺は……此処で、この世界で、生きていきます。目覚めたあなたと」
 俺は彼女を抱く腕に力を込める。それは俺の決意の表れであり、同時に、その決意を彼女に伝えようとするがゆえの行為でもあった。
 彼女の息遣いが耳元にある。彼女はクスッと笑みを溢す。
「……暖かい、わね」
 その腕で俺の身体を緩く抱き締め返すと、この距離でやっと耳に届くほどの細い声で囁いた。
「今の人類の世界は、多くの人がともに生きているようで、けれど日々、互いに触れ合うことは驚くほど少ない。こうしてあなたに触れて、私は長い間、誰にも触れてこなかったのだということを実感したわ。触れ合うことは、親しみの証。愛することの証。人の熱は、生命の熱は、心の宿る者の熱は……こんなにも暖かいものなのね」
 語りながら、彼女は懸命に俺の身体を抱き寄せようとする。求めるように、欲するように。
「ならそれは、あなたにも心があるってことですよ。だってほら、あなたも、とても暖かい」
 誰がなんて言ったって、この彼女の熱は本物だ。そう信じられる。互いの体温が、重なる身体を通して深く混ざり合う。それはまるで、互いの命に直接触れ合っているようにも感じられた。
 けれど、同時に俺は理解した――理解してしまった。彼女の身体からは、もうほとんど力が抜けている。伸ばした腕は上手く上がらず、足は自重を支えることすら危うい。立っているのも難しくて、ゆえに彼女は、いつしか俺にもたれかかっているのだった。
「いつから私は、諦めながら生きていたのかしら。そんな毎日は、ただ虚しかった。愛してほしかった。本当は愛してほしかったの。誰よりも、私を」
 空気に溶けてしまいそうな淡い声が、静寂の中、ぽつりぽつりと生まれては消えていく。わずかに湿っているようにも思える彼女の言葉。それは紡がれるほどに小さく、弱くなっていく。
「愛されて愛されて、そして私も、愛したかった。かけがえのない誰かを」
 俺は息をするのも忘れ、彼女が遠ざかっていく感覚を噛み締めながら無言で耳を傾けた。
「あなたはそれを、全部、叶えてくれたわ。ありがとう」
 ――“心”からね
 きっと最後の言葉に、声は伴っていなかっただろう。でも聞こえた。確かに聞こえた。去りゆく彼女の最後の想いが、俺の心を震わせたのだ。
 そして無音の時間が過ぎる。やがて俺は、もう動かない彼女の身体をかかえて丁寧に椅子へと座らせた。目を閉じて、少しだけ微笑んでいるようにも見える彼女。窓から差し込む陽が白い頬を淡く照らし、そこにすーっと流れる一筋の光を浮かび上がらせる。俺は親指の腹でその光に触れ、優しく払った。椅子を引き、テーブルを挟んだ彼女の対面に腰を下ろす。手元のカップに残った紅茶を口へと運ぶ。そうしていると、あの展望台で何度も何度も彼女と過ごしたお茶会を、一つ一つ思い出すことができた。
 部屋がゆっくりと降下していくにつれ、地球の向こう側に輝いていた太陽が地平に隠れていく。それはまるで、宵の終わりを告げる光景のようでもある。
 陽が沈む。彼女とのティータイムが終わる。そして俺も、彼女を見つめながら瞳を閉じて、夜に包まれた地上へと帰っていった。
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