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第五章
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ひらひらと、鳥のように宙を踊る真紅の傘。不規則に舞い、徐々に徐々に近づいて大きくなる。降りしきる雨の中、それはやがてアスファルトに当たり――
ガッと鈍い音がしたかと思ったら、その拍子に目が覚めた。自室のベッドから窓を通して見る空は、灰の絵の具を力任せに塗りつけたかのような色をしている。夢と繋がった雨模様の空から重力に引かれた大粒の雨が、まばらに視界を横切っていく。
先日の事故以来、俺は見えない何かに囚われながら、ぼやけた日常を送っていた。
佐倉先生はまだ学校に復帰していない。一身上の都合で休暇中ということになっている。翠はほとんど学校に来なくなった。おそらくは結婚式の準備だろう。珀が相も変わらずよく麻雀の誘いに来るが、少しだけ断ることが増えた。
今日は、確か休日のはずだった。時計の短針は九をわずかに過ぎている。少し寝過ごした。身体を起こし、何となしに薄暗い室内を眺める。けれどもそれは霞むように後頭部から抜けていく。渦巻く思考が、俺に疑問を投げ掛け続ける。
人間とは何か――
ディアとは何か――
そのとき、不意にインターフォンの音が耳をついた。今、この家には他に誰もいないので、俺が出迎える必要がある。渋々ながら一階へと降りて玄関を開ける。
するとそこには、彼女が立っていた。
「こんにちは。お久しぶりね」
淑やかに可愛らしく首をかしげ、にこやかな笑顔の横で右手をひらりと振る彼女――アイリスさんが立っていた。
「……え?」
いつも通りの黒いドレスに、鮮やかな夕陽のごとく晴れた笑顔で。
「今日はデートに誘いに来たの。蓮君ったら、最近全然会いに来てくれないんだもの」
明らかに手ぶらで、傘すら持っていないのにまったく雨に濡れた様子がない。いったいどうやってここまで来たのか。そもそもどうしてうちの住所を知っているのか。などなど、抱いた疑問はいくつかあったが、しかしこのときの俺は意外にも動揺しており、どうでもいいことばかりを先に口にした。
「あ、ああ、えっと……最近はずっと雨でしたからね。アイリスさんの方こそ、今は晴れていないし夕方でもないですけど……来てよかったんですか?」
先日の展望台で、翠がこの人に向かって言っていたことを、俺は頭の片隅で記憶していた。一人での外出は晴れた日の夕方だけ。確か、そんな内容だったはずだが。
「大丈夫よ。あんなの所詮は建前だもの」
そうだろうか。翠はおそらく人より多くの建前を使って生きているが、少なくともあれだけは本音だったに違いない。
「それに、デートなら一人じゃないものね」
……なるほど。だがその場合、翠に小言を言われるのは、きっと俺だ。
とはいえ、ここまで来てしまったアイリスさんを今更追い返すわけにもいかず、結局俺は、なし崩し的に彼女と出かけることとなった。
足先は、自然と都心駅の方へと向いた。雨の雫に淡くきらめく景色の中を、俺とアイリスさんは並んで歩く。傘は一本、大きめのビニール傘を俺が持つ。けれどもそれは、二人で入るには少々きつく、どちらも外側の肩がはみ出てしまう。俺は時折、横目で彼女をうかがっては、意識的に彼女の側へと傘をずらす。
対する彼女は「大丈夫よ、気にしないで」と花のような微笑みを俺に向けた。
その姿を見て、俺は思う。ああ、彼女はどうして……灰の世界の中で黒一色を纏う彼女はどうして、こんなにも色づいて見えるのか。
そして知る。人間とディアの溢れるこの往来の中で、彼女の存在は、極めて強いのだということを。それはまるで、世界のスポットライトをその身一つに集めるかのように、道行く人の大半が、すれ違いざまに彼女の方を振り返っている。たぶん彼女は、ディアとか人間とか、そういう区分なんて関係なく、絶対的に美しいのだろう。俺は、ふと抱いたそんな感想に足を止められそうになりながらも、なんとか彼女のあとを追った。
すると、今度は彼女の方が立ち止まり、唐突に、胸の前で手を合わせて言うのだった。
「ねえ蓮君。私、服がほしいの。服を買いに行きましょう!」
俺は普段から、駅に併設された百貨店の展望台を訪れる。しかし一方で、百貨店そのものにはまったくと言っていいほど詳しくない。全体として高級志向の食品や服飾を取り扱う傾向にあるので、一介の高校生である俺には縁がないのだ。
よって、先を歩くアイリスさんに手を引かれたまま、見慣れてはいるものの一度もくぐったことのないゲートから店内に入り、エスカレータで一階ずつ上を目指す。そのまま六階にたどり着くと、彼女はフロアガイドのホログラフを背にして振り返った。
「さてさて、ここからが婦人服飾のフロアよ」
彼女の言う通り、ガイド上の六階から十一階までの五フロアは、一貫して婦人物の服飾を取り扱う店舗で占められている。この百貨店の規模は非常に大きいものであるが、ただでさえ面積のあるそのフロアを五つも使って婦人物だけを売るという構成に、俺は素直に面食らった。百貨店側の力の入れようはもっともだが、それだけ商品の種類があるという事実にもだ。
トップス、ボトムス、アウター、インナー、下着に帽子にバッグに靴にアクセサリー。周りをざっと見渡して、俺が理解できる文字列はせいぜい二割が関の山。苦難の末の解読によると今夏の流行はワンピースだそうだが、他にもオフショルダー、スキッパー、スカンツ、フレアキャミソールチュニックガウチョミュール……いかん頭が処理落ちしそうだ。これは大人しくしていた方が良さそうだな……。俺は早々に理解を諦めてアイリスさんのあとに続こうとした。
が、しかし。次の瞬間、彼女はあらぬ発言をする。
「じゃあせっかくだし、今日買う服は、蓮君に選んでもらおうかしらね」
「え?」
……え?
「ん?」
アイリスさんが、何かおかしなこと言った? みたいな顔を向けてくる。
「え? 俺が選ぶんですか?」
「せっかくだし、いいでしょう? お人形さんの着せ替え遊びとでも思って頂戴」
「いやいや、何ですかそのたとえ。俺、人形遊びなんてしたことないですし」
「大丈夫よ。ちゃんと自分で着るし」
「そういうことじゃなくて、いや、そりゃ自分で着てもらわないと困りますけど……違います。俺はレディースファッションのことなんて何もわかりませんよ。絶対無理ですって」
「大丈夫大丈夫。服選ぶだけだもの」
「だけって言いますけどね……」
見事に世間ずれしている彼女は知らないのかもしれないが、その“だけ”の行為は、実は職業として成り立つほどの至難の業なのだ。しかし、彼女は引き下がる様子を見せず
「ほら、こういうのって料理と同じよ? 食べる相手のことを考えて作るのが大事なの。着る相手のことを考えて選ぶのが大事なのよ。要するに、鍵は愛情ってことね。私たちがお互いを知るのに、とてもいい機会だと思わない?」
などともっともらしいことを言う。彼女の話し方には独特の雰囲気があって、たまに真面目なことを言うと、それが非常に絵になるのだ。
「幸い、モデルが良いから選ぶ側も楽だと思うわ」
だからこれも、無駄に絵になる。まあ、おそらくは万人が認める事実だけれども……。
再三確認したところによると、どうやらアイリスさんは、今日一日で全身のコーディネートを俺に任せるつもりらしい。幸か不幸か、ここの店舗にはそれを可能にするだけの品揃えがある。あと必要なのは、俺のやる気と根気と体力くらいか。
「……どうなっても知りませんからね」
アイリスさんは相変わらずの華やかな笑みで、ウィンクなんかして見せる。
さて。許可は出たものの、ぶっちゃけ何もわからないので、展示されているマネキンの服装を参考にしつつ、棚から服をいくつか拝借。流行りらしきワンピースを軸に据えた組み合わせ、それを、フロア中心にある試着室の前で意気揚々と待ち構えるアイリスさんに手渡した。
「とりあえず、これでどうです?」
彼女は一通り目を通し、そして言う。
「んー。なーんか、違うのよねー」
しかし第一波は敢えなく突き返された。仕方なく俺はまた別の棚を見ながらラインナップを変更し、彼女に届ける。次もワンピース。色は彼女の好きそうな黒だ。結果は……。
「えー。いつもと同じ色は嫌よー」
………………。
その後も何度か選び直して提案をした。けれど、どうも彼女のお眼鏡には適わないようで、なかなか試着に踏み切ってくれない。ちなみに、以降提案したものを順々に挙げていくと……。
シャキッとしたブラウスにタイトスカート。
「もう少しラフなのがいいわね。着易さ重視ってことで」
ブラウンのオフショルダーにワイドデニム。
「肩がスースーするー。あと、ズボンよりスカートのがいいかなー」
ピンクのフリルとリボンがついたチュニック。
「ちょっと、子供じゃないんだから。それにサイズも小さすぎるわよ」
……この人意外とわがままだな。自分のこと着せ替え人形にたとえた割りに文句が多い。
「アイリスさん……せっかく選ぶんですから、せめて持ってきた服は着てください」
俺が泣く泣く抗議をしたら、途中からはちゃんと試着してくれるようになったけれど……ただ、なったらなったで問題もあった。
「蓮君ー。この服、ファスナーいっぱいあってわかんないわよー」
「わっ! ちょっとアイリスさん! そんな格好で出てこないでくださいよ!」
やっと試着室に引っ込んだかと思いきや、今度は服の着方がわからないと言い、目のやり場に困るひどい姿で扉を開けてくる。
「さっきは自分で着るって言ったじゃないですか」
「だってぇー」
この人、絶対人形向いてない!
「あの、お客様。よろしければお手伝い致しますよ」
挙げ句の果てには、困っている俺たちを見かねたのか、周囲の女性店員が苦笑いで二人も駆けつけてくれる始末。一人はアイリスさんの試着のアシストとして試着室に入り、もう一人は、どうやら俺の方に対応してくれるらしい。
「お連れ様のものをお選びですね」
「えっと、まあ」
俺がアイリスさんの方に視線を向けると、店員も同じようにしてそちらを見た。その先には試着室の閉じた扉があって、何やらガタガタと音がする。
「……すみません。うるさくて」
「いえ、どうかお気になさらず」
店員が軽く両手を振る。その出で立ちや仕草には、ほどよい親しみを思わせる雰囲気がある。
「彼女さんですか?」
尋ねられたのは何気ないことだったが、俺の心臓は少しばかり跳ねた。
「い、いえ、そういうわけでは……。そんな風に、見えましたか?」
「ええ。あるいは、仲の良いお姉さんとか」
答えると、店員は穏やかに目尻を下げる。
彼女。姉。周囲から見て、アイリスさんはそんな風に見えているのか。ならば逆に俺の方は……彼氏。弟。
つまり、俺たち二人は恋人か、それか姉弟のように見えているということだ。考えてみれば、それは当たり前のことかもしれない。容姿から想像できる俺とアイリスさんの年齢は近しく、しかし彼女の方が若干大人びた印象を与える。休日のこんな時間に二人で服なんて買いに来れば、そりゃあ、然るべき関係に見えるだろう。
ただ、実際にはこの店員の読みは外れている。アイリスさんは、俺の彼女でも姉でもない。アイリスさんが本当はいったい何者なのか、俺も知らない。一つだけ俺にわかったことは、俺以外の人から見ても、やはりアイリスさんは人間に見えるということだ。
そう――ディアではなく、人間に見えるということだ。
俺はそのことを、間接的にだが、今、実感した。
「選んで差し上げるんですよね、服」
黙していた俺を気遣ったのか、店員は話の方向を戻しながらこちらに問いかける。
「はい。一応、そういうことになってます」
「喜んでもらいましょうね、是非」
そうして俺は、途方もない数の服が並んだ商品棚と、再び睨み合うこととなった。
あろうことか、時刻はなんと午後八時過ぎだ。この百貨店を訪れたのが午前十一時くらいだったから、計算すると差し引き約九時間、俺はずっとアイリスさんの服を選んでいた。その長い戦いの末に揃えたのは、襟と袖のある白いフレアワンピース。爪先に小さなコサージュをあしらったヒールの高めなミュールサンダル。羽根がモチーフの銀のヘアピン。ハートのネックレス。やたらと装飾の入ったフリル付きスリップ……我ながら言葉の意味は半分もわかっていないけれど、要するに上下の服に加えて、靴、髪と胸元のアクセサリー、そして下着まで選んだわけだ。これについては、アイリスさんが元々黒い下着を着用しており、試着時に
「上を白にするなら、下もそれに合わせなきゃ。このままじゃ、ほら、黒が透け透けよ」
などと偉そうにわけのわからない主張をしてきたものだから、仕方なく選ぶことになったもの。事情を知る店員と一緒でなかったら、恥ずかしさも相まって絶対にできない所業だった。
そんな苦労の対価というべきか、全てを身に付けた彼女の姿には、思わず目を見張るものがあった。選んだ本人が言ってしまえば自画自賛だが……うん、でも言わずにはいられない。
「悪くないと思いますよ」
その言葉にアイリスさんは、少しだけ口を尖らせる。
「あら、違うでしょう? こういうときは、可愛いとおっしゃい」
「そう、ですね。可愛いです。とても」
「ふふっ、ありがとう」
まあ、真に素直な感想としては、可愛いよりも綺麗と言った方が、より適切だろう。
よほど気に入ったのか、彼女はそれらを試着からそのまま購入した。現在、俺の隣では真っ白の彼女が歩いている。適度に肌を露出した夏らしい装い。普段の黒いドレスではその白い肌がよく映えていたものだが、今は反対に、しなやかで長い黒髪が際立っている。どちらも同様に美しくはあるが、それでも抱く印象は随分と違う。女の人って、着るもの次第でこんなにも変わるものなのだと、心底感心させられる。
「ところで」
歩きながら、俺は何気なく彼女に尋ねる。閉店間際ゆえ、進む足はやや急ぎ気味だ。
「アイリスさんの注文がうるさくて、途中からタグ見てませんでしたけど……値段、結構いってましたよね?」
「あらご挨拶ね。大丈夫よ、これくらい。……あ」
しかしそんな中で、なぜか彼女は立ち止まった。その視線の先には、きらびやかに光る宝飾類の並ぶショーケースがあった。
「ねえ。見て、蓮君。指輪よ 」
「指輪? ちょっとアイリスさん。アクセサリーはもう十分買ったでしょうに」
「そうじゃなくて、ほら」
言われて、渋々ながら彼女の指の先に視線を向けると、確かにそこにはいくつもの指輪が並んでいた。どうやらここは宝飾店らしい。指輪だけでなくネックレスや腕輪などもある。様々な種類の装飾品が、どれもその中心に綺麗な石を湛えて輝いている。色や形が対になったペア仕様のものもあり、凝ったデザインが自然と目を惹く。
俺はふと、その並びの中に既視感のある品を見つけた。
「あ、この指輪……」
思わずそう零す。アイリスさんも、同じものを見ていたようだ。
「ディアデバイスね。最新の指輪型。こうして見ると、あまり違和感ないものよね」
そうか。既視感の理由は、過去に二度、珀と佐倉先生のものを見ているからだ。
本来、ディアデバイスは電子機器の分類である。けれど昔と違って今は、かなりデザイン性に富んだものが産み出されている。その背景には装飾品メーカーとガラテイアの事業提携もあったりして、立派にアクセサリーとしての一面を併せ持つようにもなったのだ。ゆえにこういった店舗でも、ディアデバイスが商品として陳列されることがある。
「蓮君、これ、ほしいんじゃない?」
「ああ……まあ、ほしいですけど。結構値が張りますしね」
「じゃあ私が買ってあげるわ」
「は!?」
まったく想定外の発言に、思わず声が上ずってしまった。いきなり何を言い出すんだこの人。
「ふふ、大丈夫よ。私、この百貨店では無敵だから」
「いや、それ前も言ってましたけど、わけわかんないですって」
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮じゃないです。それに、そもそも俺にはリンクするディアもいないですし……買ったらバラしたいんですけど、人に買ってもらったものをバラすのも、ちょっとどうかと思うんで。やめておきます」
「えー、そう? とか言って、本当はほしいくせに」
アイリスさんは、肘で俺をつついてニヤニヤ笑う。
そりゃほしいけど……あー、もう。ここにいたらそのうち誘惑に負けそうだ。店舗の片付けをしている店員を視界の端に捉え、俺はアイリスさんの手を取った。
「ほら、行きますよ。ここ、もう閉まるんですから」
さきほどよりもさらに早足で歩みを進め、けれどもアイリスさんが高めのヒールを履いていることを思い出して少し緩める。握った手から、遅れて彼女の体温が伝わってくる。
「アイリスさん、いつも暗くなる前には帰ってますよね。もう結構遅いですし、急ぎましょう」
俺が前を向いたままでそう告げると、しかしそこで、彼女は思いがけない答えを返した。
「あら、蓮君。帰るつもり? ダメよ」
咄嗟に俺は振り返る。
「だって、今日はこれからが本番なんだから」
ガッと鈍い音がしたかと思ったら、その拍子に目が覚めた。自室のベッドから窓を通して見る空は、灰の絵の具を力任せに塗りつけたかのような色をしている。夢と繋がった雨模様の空から重力に引かれた大粒の雨が、まばらに視界を横切っていく。
先日の事故以来、俺は見えない何かに囚われながら、ぼやけた日常を送っていた。
佐倉先生はまだ学校に復帰していない。一身上の都合で休暇中ということになっている。翠はほとんど学校に来なくなった。おそらくは結婚式の準備だろう。珀が相も変わらずよく麻雀の誘いに来るが、少しだけ断ることが増えた。
今日は、確か休日のはずだった。時計の短針は九をわずかに過ぎている。少し寝過ごした。身体を起こし、何となしに薄暗い室内を眺める。けれどもそれは霞むように後頭部から抜けていく。渦巻く思考が、俺に疑問を投げ掛け続ける。
人間とは何か――
ディアとは何か――
そのとき、不意にインターフォンの音が耳をついた。今、この家には他に誰もいないので、俺が出迎える必要がある。渋々ながら一階へと降りて玄関を開ける。
するとそこには、彼女が立っていた。
「こんにちは。お久しぶりね」
淑やかに可愛らしく首をかしげ、にこやかな笑顔の横で右手をひらりと振る彼女――アイリスさんが立っていた。
「……え?」
いつも通りの黒いドレスに、鮮やかな夕陽のごとく晴れた笑顔で。
「今日はデートに誘いに来たの。蓮君ったら、最近全然会いに来てくれないんだもの」
明らかに手ぶらで、傘すら持っていないのにまったく雨に濡れた様子がない。いったいどうやってここまで来たのか。そもそもどうしてうちの住所を知っているのか。などなど、抱いた疑問はいくつかあったが、しかしこのときの俺は意外にも動揺しており、どうでもいいことばかりを先に口にした。
「あ、ああ、えっと……最近はずっと雨でしたからね。アイリスさんの方こそ、今は晴れていないし夕方でもないですけど……来てよかったんですか?」
先日の展望台で、翠がこの人に向かって言っていたことを、俺は頭の片隅で記憶していた。一人での外出は晴れた日の夕方だけ。確か、そんな内容だったはずだが。
「大丈夫よ。あんなの所詮は建前だもの」
そうだろうか。翠はおそらく人より多くの建前を使って生きているが、少なくともあれだけは本音だったに違いない。
「それに、デートなら一人じゃないものね」
……なるほど。だがその場合、翠に小言を言われるのは、きっと俺だ。
とはいえ、ここまで来てしまったアイリスさんを今更追い返すわけにもいかず、結局俺は、なし崩し的に彼女と出かけることとなった。
足先は、自然と都心駅の方へと向いた。雨の雫に淡くきらめく景色の中を、俺とアイリスさんは並んで歩く。傘は一本、大きめのビニール傘を俺が持つ。けれどもそれは、二人で入るには少々きつく、どちらも外側の肩がはみ出てしまう。俺は時折、横目で彼女をうかがっては、意識的に彼女の側へと傘をずらす。
対する彼女は「大丈夫よ、気にしないで」と花のような微笑みを俺に向けた。
その姿を見て、俺は思う。ああ、彼女はどうして……灰の世界の中で黒一色を纏う彼女はどうして、こんなにも色づいて見えるのか。
そして知る。人間とディアの溢れるこの往来の中で、彼女の存在は、極めて強いのだということを。それはまるで、世界のスポットライトをその身一つに集めるかのように、道行く人の大半が、すれ違いざまに彼女の方を振り返っている。たぶん彼女は、ディアとか人間とか、そういう区分なんて関係なく、絶対的に美しいのだろう。俺は、ふと抱いたそんな感想に足を止められそうになりながらも、なんとか彼女のあとを追った。
すると、今度は彼女の方が立ち止まり、唐突に、胸の前で手を合わせて言うのだった。
「ねえ蓮君。私、服がほしいの。服を買いに行きましょう!」
俺は普段から、駅に併設された百貨店の展望台を訪れる。しかし一方で、百貨店そのものにはまったくと言っていいほど詳しくない。全体として高級志向の食品や服飾を取り扱う傾向にあるので、一介の高校生である俺には縁がないのだ。
よって、先を歩くアイリスさんに手を引かれたまま、見慣れてはいるものの一度もくぐったことのないゲートから店内に入り、エスカレータで一階ずつ上を目指す。そのまま六階にたどり着くと、彼女はフロアガイドのホログラフを背にして振り返った。
「さてさて、ここからが婦人服飾のフロアよ」
彼女の言う通り、ガイド上の六階から十一階までの五フロアは、一貫して婦人物の服飾を取り扱う店舗で占められている。この百貨店の規模は非常に大きいものであるが、ただでさえ面積のあるそのフロアを五つも使って婦人物だけを売るという構成に、俺は素直に面食らった。百貨店側の力の入れようはもっともだが、それだけ商品の種類があるという事実にもだ。
トップス、ボトムス、アウター、インナー、下着に帽子にバッグに靴にアクセサリー。周りをざっと見渡して、俺が理解できる文字列はせいぜい二割が関の山。苦難の末の解読によると今夏の流行はワンピースだそうだが、他にもオフショルダー、スキッパー、スカンツ、フレアキャミソールチュニックガウチョミュール……いかん頭が処理落ちしそうだ。これは大人しくしていた方が良さそうだな……。俺は早々に理解を諦めてアイリスさんのあとに続こうとした。
が、しかし。次の瞬間、彼女はあらぬ発言をする。
「じゃあせっかくだし、今日買う服は、蓮君に選んでもらおうかしらね」
「え?」
……え?
「ん?」
アイリスさんが、何かおかしなこと言った? みたいな顔を向けてくる。
「え? 俺が選ぶんですか?」
「せっかくだし、いいでしょう? お人形さんの着せ替え遊びとでも思って頂戴」
「いやいや、何ですかそのたとえ。俺、人形遊びなんてしたことないですし」
「大丈夫よ。ちゃんと自分で着るし」
「そういうことじゃなくて、いや、そりゃ自分で着てもらわないと困りますけど……違います。俺はレディースファッションのことなんて何もわかりませんよ。絶対無理ですって」
「大丈夫大丈夫。服選ぶだけだもの」
「だけって言いますけどね……」
見事に世間ずれしている彼女は知らないのかもしれないが、その“だけ”の行為は、実は職業として成り立つほどの至難の業なのだ。しかし、彼女は引き下がる様子を見せず
「ほら、こういうのって料理と同じよ? 食べる相手のことを考えて作るのが大事なの。着る相手のことを考えて選ぶのが大事なのよ。要するに、鍵は愛情ってことね。私たちがお互いを知るのに、とてもいい機会だと思わない?」
などともっともらしいことを言う。彼女の話し方には独特の雰囲気があって、たまに真面目なことを言うと、それが非常に絵になるのだ。
「幸い、モデルが良いから選ぶ側も楽だと思うわ」
だからこれも、無駄に絵になる。まあ、おそらくは万人が認める事実だけれども……。
再三確認したところによると、どうやらアイリスさんは、今日一日で全身のコーディネートを俺に任せるつもりらしい。幸か不幸か、ここの店舗にはそれを可能にするだけの品揃えがある。あと必要なのは、俺のやる気と根気と体力くらいか。
「……どうなっても知りませんからね」
アイリスさんは相変わらずの華やかな笑みで、ウィンクなんかして見せる。
さて。許可は出たものの、ぶっちゃけ何もわからないので、展示されているマネキンの服装を参考にしつつ、棚から服をいくつか拝借。流行りらしきワンピースを軸に据えた組み合わせ、それを、フロア中心にある試着室の前で意気揚々と待ち構えるアイリスさんに手渡した。
「とりあえず、これでどうです?」
彼女は一通り目を通し、そして言う。
「んー。なーんか、違うのよねー」
しかし第一波は敢えなく突き返された。仕方なく俺はまた別の棚を見ながらラインナップを変更し、彼女に届ける。次もワンピース。色は彼女の好きそうな黒だ。結果は……。
「えー。いつもと同じ色は嫌よー」
………………。
その後も何度か選び直して提案をした。けれど、どうも彼女のお眼鏡には適わないようで、なかなか試着に踏み切ってくれない。ちなみに、以降提案したものを順々に挙げていくと……。
シャキッとしたブラウスにタイトスカート。
「もう少しラフなのがいいわね。着易さ重視ってことで」
ブラウンのオフショルダーにワイドデニム。
「肩がスースーするー。あと、ズボンよりスカートのがいいかなー」
ピンクのフリルとリボンがついたチュニック。
「ちょっと、子供じゃないんだから。それにサイズも小さすぎるわよ」
……この人意外とわがままだな。自分のこと着せ替え人形にたとえた割りに文句が多い。
「アイリスさん……せっかく選ぶんですから、せめて持ってきた服は着てください」
俺が泣く泣く抗議をしたら、途中からはちゃんと試着してくれるようになったけれど……ただ、なったらなったで問題もあった。
「蓮君ー。この服、ファスナーいっぱいあってわかんないわよー」
「わっ! ちょっとアイリスさん! そんな格好で出てこないでくださいよ!」
やっと試着室に引っ込んだかと思いきや、今度は服の着方がわからないと言い、目のやり場に困るひどい姿で扉を開けてくる。
「さっきは自分で着るって言ったじゃないですか」
「だってぇー」
この人、絶対人形向いてない!
「あの、お客様。よろしければお手伝い致しますよ」
挙げ句の果てには、困っている俺たちを見かねたのか、周囲の女性店員が苦笑いで二人も駆けつけてくれる始末。一人はアイリスさんの試着のアシストとして試着室に入り、もう一人は、どうやら俺の方に対応してくれるらしい。
「お連れ様のものをお選びですね」
「えっと、まあ」
俺がアイリスさんの方に視線を向けると、店員も同じようにしてそちらを見た。その先には試着室の閉じた扉があって、何やらガタガタと音がする。
「……すみません。うるさくて」
「いえ、どうかお気になさらず」
店員が軽く両手を振る。その出で立ちや仕草には、ほどよい親しみを思わせる雰囲気がある。
「彼女さんですか?」
尋ねられたのは何気ないことだったが、俺の心臓は少しばかり跳ねた。
「い、いえ、そういうわけでは……。そんな風に、見えましたか?」
「ええ。あるいは、仲の良いお姉さんとか」
答えると、店員は穏やかに目尻を下げる。
彼女。姉。周囲から見て、アイリスさんはそんな風に見えているのか。ならば逆に俺の方は……彼氏。弟。
つまり、俺たち二人は恋人か、それか姉弟のように見えているということだ。考えてみれば、それは当たり前のことかもしれない。容姿から想像できる俺とアイリスさんの年齢は近しく、しかし彼女の方が若干大人びた印象を与える。休日のこんな時間に二人で服なんて買いに来れば、そりゃあ、然るべき関係に見えるだろう。
ただ、実際にはこの店員の読みは外れている。アイリスさんは、俺の彼女でも姉でもない。アイリスさんが本当はいったい何者なのか、俺も知らない。一つだけ俺にわかったことは、俺以外の人から見ても、やはりアイリスさんは人間に見えるということだ。
そう――ディアではなく、人間に見えるということだ。
俺はそのことを、間接的にだが、今、実感した。
「選んで差し上げるんですよね、服」
黙していた俺を気遣ったのか、店員は話の方向を戻しながらこちらに問いかける。
「はい。一応、そういうことになってます」
「喜んでもらいましょうね、是非」
そうして俺は、途方もない数の服が並んだ商品棚と、再び睨み合うこととなった。
あろうことか、時刻はなんと午後八時過ぎだ。この百貨店を訪れたのが午前十一時くらいだったから、計算すると差し引き約九時間、俺はずっとアイリスさんの服を選んでいた。その長い戦いの末に揃えたのは、襟と袖のある白いフレアワンピース。爪先に小さなコサージュをあしらったヒールの高めなミュールサンダル。羽根がモチーフの銀のヘアピン。ハートのネックレス。やたらと装飾の入ったフリル付きスリップ……我ながら言葉の意味は半分もわかっていないけれど、要するに上下の服に加えて、靴、髪と胸元のアクセサリー、そして下着まで選んだわけだ。これについては、アイリスさんが元々黒い下着を着用しており、試着時に
「上を白にするなら、下もそれに合わせなきゃ。このままじゃ、ほら、黒が透け透けよ」
などと偉そうにわけのわからない主張をしてきたものだから、仕方なく選ぶことになったもの。事情を知る店員と一緒でなかったら、恥ずかしさも相まって絶対にできない所業だった。
そんな苦労の対価というべきか、全てを身に付けた彼女の姿には、思わず目を見張るものがあった。選んだ本人が言ってしまえば自画自賛だが……うん、でも言わずにはいられない。
「悪くないと思いますよ」
その言葉にアイリスさんは、少しだけ口を尖らせる。
「あら、違うでしょう? こういうときは、可愛いとおっしゃい」
「そう、ですね。可愛いです。とても」
「ふふっ、ありがとう」
まあ、真に素直な感想としては、可愛いよりも綺麗と言った方が、より適切だろう。
よほど気に入ったのか、彼女はそれらを試着からそのまま購入した。現在、俺の隣では真っ白の彼女が歩いている。適度に肌を露出した夏らしい装い。普段の黒いドレスではその白い肌がよく映えていたものだが、今は反対に、しなやかで長い黒髪が際立っている。どちらも同様に美しくはあるが、それでも抱く印象は随分と違う。女の人って、着るもの次第でこんなにも変わるものなのだと、心底感心させられる。
「ところで」
歩きながら、俺は何気なく彼女に尋ねる。閉店間際ゆえ、進む足はやや急ぎ気味だ。
「アイリスさんの注文がうるさくて、途中からタグ見てませんでしたけど……値段、結構いってましたよね?」
「あらご挨拶ね。大丈夫よ、これくらい。……あ」
しかしそんな中で、なぜか彼女は立ち止まった。その視線の先には、きらびやかに光る宝飾類の並ぶショーケースがあった。
「ねえ。見て、蓮君。指輪よ 」
「指輪? ちょっとアイリスさん。アクセサリーはもう十分買ったでしょうに」
「そうじゃなくて、ほら」
言われて、渋々ながら彼女の指の先に視線を向けると、確かにそこにはいくつもの指輪が並んでいた。どうやらここは宝飾店らしい。指輪だけでなくネックレスや腕輪などもある。様々な種類の装飾品が、どれもその中心に綺麗な石を湛えて輝いている。色や形が対になったペア仕様のものもあり、凝ったデザインが自然と目を惹く。
俺はふと、その並びの中に既視感のある品を見つけた。
「あ、この指輪……」
思わずそう零す。アイリスさんも、同じものを見ていたようだ。
「ディアデバイスね。最新の指輪型。こうして見ると、あまり違和感ないものよね」
そうか。既視感の理由は、過去に二度、珀と佐倉先生のものを見ているからだ。
本来、ディアデバイスは電子機器の分類である。けれど昔と違って今は、かなりデザイン性に富んだものが産み出されている。その背景には装飾品メーカーとガラテイアの事業提携もあったりして、立派にアクセサリーとしての一面を併せ持つようにもなったのだ。ゆえにこういった店舗でも、ディアデバイスが商品として陳列されることがある。
「蓮君、これ、ほしいんじゃない?」
「ああ……まあ、ほしいですけど。結構値が張りますしね」
「じゃあ私が買ってあげるわ」
「は!?」
まったく想定外の発言に、思わず声が上ずってしまった。いきなり何を言い出すんだこの人。
「ふふ、大丈夫よ。私、この百貨店では無敵だから」
「いや、それ前も言ってましたけど、わけわかんないですって」
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮じゃないです。それに、そもそも俺にはリンクするディアもいないですし……買ったらバラしたいんですけど、人に買ってもらったものをバラすのも、ちょっとどうかと思うんで。やめておきます」
「えー、そう? とか言って、本当はほしいくせに」
アイリスさんは、肘で俺をつついてニヤニヤ笑う。
そりゃほしいけど……あー、もう。ここにいたらそのうち誘惑に負けそうだ。店舗の片付けをしている店員を視界の端に捉え、俺はアイリスさんの手を取った。
「ほら、行きますよ。ここ、もう閉まるんですから」
さきほどよりもさらに早足で歩みを進め、けれどもアイリスさんが高めのヒールを履いていることを思い出して少し緩める。握った手から、遅れて彼女の体温が伝わってくる。
「アイリスさん、いつも暗くなる前には帰ってますよね。もう結構遅いですし、急ぎましょう」
俺が前を向いたままでそう告げると、しかしそこで、彼女は思いがけない答えを返した。
「あら、蓮君。帰るつもり? ダメよ」
咄嗟に俺は振り返る。
「だって、今日はこれからが本番なんだから」
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