Dear “Dear”

りずべす

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第四章

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 俺は走り出していた。そうせざるを得ないほどに、嫌な未来を想像した。夢中でエレベータに乗り込み扉を閉める。
「那城さん! 私も行きます!」
 だが、すんでのところで翠が扉に手をかけ割り込んできた。
「翠、お前」
「良くないことが起ころうとしているのは、私にもわかります」
 そう言って翠は、早々とエレベータを動かした。たちまち身体がふわりと浮き上がり、俺たちは空の世界を降下してゆく。
 しばらくして眼下の雲、おそらくはそのさらに下の地上を見つめる翠が、また口を開く。
「一応、訊かせて頂きたいのですが、さきほどの件、あなたには理解できたのですね?」
「理解? ……ああ、いや、俺も何となくだけど……でも、ここを上ってくる途中で、確かに佐倉先生たちを見たんだ。たぶんだけど、新型リングデバイスの受け取りに来ていた」
「そうですか。では、急ぐ必要がありますね。もうじき今日の受け取り時間が終わります」
 翠は右手首の内側、そこにある腕時計の文字盤に目を落として言う。
 気付くと既に、空の夕陽はかなり雲に沈んでいた。下は雨だ。ただでさえ混雑しているだろうに、夜になれば、到底人など探せない。しかし、焦ったところでエレベータの速度は寸分の狂いなく等速で、頻繁に搭乗する俺はもう、この速度を身体で覚えている。雲を抜けて地上が見えるようになるまであと五分。到着までには、その倍ほどかかるだろう。
 音の消えた室内で、翠はただ黙し、難しい顔をするばかり。
 俺はその横に少し距離を空けて立ち、実はずっと気になっていたことを恐る恐る尋ねた。
「……なあ。お前、翠なんだよな?」
「何を今更」
「いや、だって……喋り方が」
 冷めた端的な答えが用意されているあたり、訊かれることを、予想してはいたのだろう。
「今の私は、学生としての私ではありませんので。どうかお気になさらず」
 とは言うが……いや、こちらとしては気になって仕方がない。
「でも、相手が俺だけなら、普通に喋ればいいだろう?」
「致しかねます。私にとっての普通は、こちらの私の方ですから」
 ……そーかよ。今の翠は、ガラテイアの後継としての遠山翠。それが普段の、本当の遠山翠。では、これまで学生として俺と接していたのは、演技、のようなものだったのだろうか。雰囲気がまるで違うから、正直やりにくいことこの上ない。共通点は我が強いところくらいのものだ。
「でも、俺は……いつも通りにしか、振る舞えないぞ」
「構いませんよ。それより、那城さん。私からも、一つ質問が」
 複雑な感覚をもごもごしながら飲み込んでいると、間髪入れずに翠が続けた。訊かれることは、こちらもだいたい予想できていた。
「アイリスさんのことか? 俺は本当に大したことは喋ってないし、あの人とはここで会ってただけだぞ」
「……アイリス? アレのこと、そんな風に呼んでいるのですか」
 瞬間、眉根を寄せて述べられた翠の言葉が、俺にはよくわからなかった。……アレって、もしかして、アイリスさんのことか?
 戸惑いながら導き出したその結論に、俺はざらついた不快を感じて抗議をする。
「おいおい、アレ呼ばわりは失礼だろ。ちゃんと名前で呼べよ」
 すると翠は、歪めた細い眉をさらに崩し、やや長めの思考を挟んだのち、淡白に断じた。
「……なるほど。あなたは本当に、単なるお茶飲み友達のようですね。いいですか、那城さん。アレに名前などないのです。悪いことは言いません。アレと関わるのは、これっきりにしておいた方がよろしいかと」
 その言葉に、そして声音に、俺は、翠のアイリスさんに対する嫌悪、ともすれば忌避とさえ言える感情を垣間見る。単に馬が合わない相手というだけでなく、何か絶対的に相容れない想いに根ざした敬遠、あるいは――畏怖、とすら呼ぶべきものを。
 俺はそれ以上、尋ねるのをやめた。今必要のないことを、翠がここで話すとは思えないし、何よりアイリスさんから聞いていない彼女自身のことを、翠から聞こうとは思わなかった。
 ちょうどそこで、エレベータが雲を抜け、耳をつんざくような雨音が周囲を包む。
「さて、ようやく地上が見えましたね」
「ああ。とりあえず、目印は真っ赤な傘だ。それから……」
 俺はざっくりと、展望台へ上るときに見た佐倉先生とタカヤ先生の外見を説明した。
「わかりました。では、私は東側を探しますので、那城さんは西側を探してください」
 都心駅は、南北に延びる路線を境に、東のオフィス街と西の歓楽街に分かれている。それなりに複雑な構造で、この高さからでも視認できる場所は決して多くない。当然、二人が地下や百貨店などの屋内施設に居れば見つけることはできないし、今も駅周辺にいるかどうかすらわからない。そう思えば、見つけられる確率は高くはないだろう。いやそもそも、アイリスさんの話も俺の想像も、杞憂であるに越したことはないものだ。だとしたらこのまま見つけられなくても一向に構わなくて、むしろその方が実は望ましいのかも――
「あっ!」
 そのとき、俺は思わず声を上げた。
 二転三転する視界の中、百貨店から延びるペデストリアンデッキの上に、赤い大きな傘を見つけたのだ。並んで歩く二人。顔は見えないが、傘から覗く衣服の特徴は、俺が記憶する二人のものと合致する。雨の中、二人は大通りの方へ向かって歩いていくようだ。
「見つけましたか」
 翠が尋ねてくる。ああ、見つけてしまった。何という偶然だ。
 いや……違う。ひょっとしたらこれは、偶然ではないのかもしれない。このエレベータで上るとき二人を見かけた俺が、アイリスさんの助言を受けて降りてきた今、また見つける。その稀有な偶然は、単なる偶然を、必然たらしめるに足るのかもしれない。
 身体の内側から、ギリッという音が聞こえる。俺は無意識に、奥歯を強く噛み締めている。


 地上に着くよりも少し早く、3Fのボタンでエレベータを止めた俺たちは、百貨店内を抜けてペデストリアンデッキへと出た。雨に濡れることを気にする余裕はなかった。ついさきほど見た、赤い傘の二人を探してただ走る。
「那城さん! あそこ!」
 欄干に身を乗り出した翠が、階下の通りを指差して叫んだ。煙る白雨の向こうに見えるのは、間違いなく佐倉先生とタカヤ先生だ。二人で一つの傘の柄に手を重ねていて、その指には、雨の雫に紛れるような細い光の輪がはまっている。
 俺は近くの階段を下り、二人めがけて駆けていった。近づくたびに心臓が跳ねる。ひっきりなしに湧き上がってくる不安と衝動が、意味も分からず俺を焦らせる。
「先生! 佐倉先生っ!」
 声は雨音に遮られて届かない。
 二人はやがて横断歩道を渡ろうと、車幅の広い道路へと踏み出してゆく。折悪しくも、歩行者信号が点滅し始めたのは二人が渡り始めてすぐの頃だった。
 このまま走っても足止めされるだけ。そう考えた俺は、無意識に足の回転を緩めようとした。けれども直後、脳は即座にその命令を書き換えた。
 二人の渡る交差点を通過した一台のトラックが、その真ん中で輸送中の荷物を落としたのだ。すると後続する車両は、咄嗟の回避のために進路をずらす。
 そこからの光景は、まるでコマ送りのように俺の目に流れ込んだ。
 車線を違えた対向車を避け、さらに車線を変える車。それを避けるために曲がる車。急停止する車。直進、左折、右折が相まって、にわかに交差点は飽和状態に陥る。自動車同士の接触音、クラクション、怒声に悲鳴――雨に混じり、暴発したように様々な音が生まれ拡散する。
 そして、ついにそこから溢れた一台が、速度を落としきれずに横断歩道へと鼻先を向けた。その延長線上には、俺の追いかける二人がいる。
 事故に気づいた佐倉先生が、タカヤ先生の手を引いて走り出そうとするのが見えた。けれども、まるで引き戻されるように佐倉先生は立ち止まり、次いで青ざめた顔でタカヤ先生を振り返る。同時に俺も、明確な焦りを覚えた。タカヤ先生はぴくりとも動こうとしなかったのだ。
「何やってるんだ!」
 俺は思わず、また叫ぶ。既に二人は目の前だ。だというのに、どうするべきかを考えることができない。結局、頭の中は真っ白のまま、夢中で横断歩道へと出ていって、突き飛ばすように佐倉先生をタカヤ先生から引き離した。同体のまま地面へ伏す。腕には人一人分の重さ。アスファルトで擦りむいたのだろう、肩と膝に鋭利な痛みが走る。
 そして突如、耳に突き刺さる周囲の悲鳴は、よりいっそう大きなものにすり替わった。俺はゆっくりと目を開く。映るのは自分と、佐倉先生の白い肢体。それらが毒々しいほどの鮮血に覆われて、泥や雨水に混ざりながら震えている光景だった。
 どうにか身体を起こして振り返ると、ちょうど空から、まるで舞い散る花弁のように真紅の傘が降ってくる。開いたまま地に落ちたその陰から、河のような鮮血が流れ出ている。
 何が起こったのかわからなかった。いや、想像することは十分にできた。けれども脳はそれを頑なに拒んだ。拒まなければ、気を失ってしまいそうだった。荒い呼吸を整えようとしても上手くいかず、瞳はただ、眼前の光景をテレビ画面の向こう側の出来事のように映すばかり。
 ――ドン!
 次の瞬間、俺の呼吸は停止した。騒がしい悲鳴を押し潰すような、幾重にも重なった鈍い機械の停止音が、辺り一帯を覆ったのだ。俺はまったく動けない。眼球一つ動かすことがかなわない。
 でも気づけば、周りに溢れていた車は全て止まっている。家電量販店の街頭ビジョンも真っ黒で、雨ゆえに点いていた街灯も一つ残らず消え、信号までもが動いていない。人々もあまりの出来事に立ち尽くしている。そんな光景を見て、俺は空っぽの頭で、ふと思う。
 そうか……今は、時が止まっているのだと。
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