Dear “Dear”

りずべす

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第三章

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 六月になった。梅雨の季節だ。この時期は湿度も高く曇りも多いため、地上から世界樹を見ることのできる日が少なくなる。俺としては、やや退屈な日々である。授業中、本来ならばそれが見えるはずの方角を窓から眺め、しかし灰一色の空、そして休みなくしとしと降り続ける雨に頬杖をつきながら溜息を一つ放る。磨硝子のように煙る景色の向こう、花壇に咲いた紫陽花は雨に打たれて小刻みに揺れ、まるで喜んでいるかのように見える。
 午前の授業を終えて昼休みを迎えると、後ろの席に座るクラスメイトから声がかかった。
「おつかれー。那城、学食と購買どっちにするよ?」
 学食は混むから購買で何か買ってここで食べよう。俺は、そう答えようとして振り返る。
 しかし、そのときだ。突然に教室の入口扉が開け放たれた。そうして臆すこともなく俺の机まで入り込んできたのは、金髪翠眼のトラブルメーカー。
「はあい! ダーリン!」
 クラス中の視線がこちらに集まっているのは明白だった。俺はあえてそれを無視し、クラスメイトに一言告げる。
「学食へ行こう。今日は朝からAランチの気分だったんだ」
 けれど。連れ立とうとした彼はワンテンポ遅れて、何かを察したような様子を見せた。
「いや、先約済みだったか。悪い悪い」
「違う。別にそういうんじゃ」
「いいよいいよ、気にすんなって。じゃ、ごゆっくりな、お二人さん」
「あ、おい!」
 俺は思わず手を伸ばしたが、彼は無慈悲にも曖昧な笑顔を浮かべて去っていってしまった。まるで自分が邪魔者とばかりに詫びるような表情と声色。そんな気遣いができる彼の優しさは伝わったが、正直に言わせてもらえばとんでもない誤解である。さらに言えば、彼のその行為は、教室中の誤解を駄目押しとばかりに増長させた。
 まあ、それもこれも全部、目の前のこいつがおかしな呼称など使うからである。
「……おい翠。その呼び方はもうしないんじゃなかったのか」
 俺が声を低くして尋ねると、翠はまったく悪びれた様子もなく笑顔を返した。
「えー、だからそれは月末だって。今の私はまだ、清廉潔白純真無垢な真っ白セニョリータよ」
「ふざけんな。所構わず相手も選ばずそんな愛称使う女の、どこが真っ白かってんだ」
「立ち居、振る舞い、申し立て?」
「白々しいわ」
 駄目だ。こいつの相手をまともにしたら負けだ。
「んで、何しに来た」
 俺は無駄話を避け、わざわざ昼一でこのクラスまで出向いてきた意図を早急に問う。
 対して翠は、自分を見つめる人間のうちいくらかに向け「あ、どもども。やっほー」などと手を振り、愛想を振りまきながら集まった視線を上手く散らす。
 しばらくすると、翠は座る俺を見下ろして言った。
「はあい。ダーリン」
「お前、俺の質問聞いてた?」
「いやあ、正しい答えが返ってこなかったからさ」
 はあ? 何だそれは。
 俺は疑問を抱いたが、しかし不意に思い当たった。いや、思い当たってしまったと言うべきか。結局、腹立たしさと話の進まない苛立ちを天秤に掛け、精一杯の苦々しい表情で返す。
「ちっ。何か用かよハニー」
 すると翠はニヤニヤ笑いながら、机の上に数枚の紙束を出した。
「……何だ? これ」
「私が調べた、ホシの情報」
「ホシ? ……って、ああ」
 佐倉先生のことか。まあ確かに、この場で名前を出すわけにもいかないな。
 見れば、それは過去の新聞記事など、翠なりに集めた情報をまとめたものらしかった。
「これ、渡しとくわ。どうせあんた、午後の授業も聞かないんでしょ? 読んどいてよ」
「とんでもない言いがかりを前提に話を進めるな」
「え? じゃあ聞くの?」
 ……聞かないけど。
 答えない俺を前に、翠は「ほらね」と口角を上げ、なかなかにムカつく表情を見せる。
「互いに持ってるものは共有しなきゃ。って言っても、私、今日はこれから早退だし、口で聞かせる時間もないから、紙にしたのよ。あんたとしても、私と長々話すのは嫌でしょ」
「よくわかってるな。しかし、早退ってのは、何でまた」
「結婚式の衣装合わせとかリハーサルとか、色々とね」
 ああ、なるほど。こいつの結婚式ともなれば、さぞや大掛かりなものなのだろう。したがって準備も相応に大変なわけだ。
 翠は肩をすくめ、諦念や妥協の見え隠れする薄い笑みを浮かべた。
「でもさ、子供の頃から憧れてたウェディングドレスも、こう何回も着るとさすがに飽きてくるもんよね」
「……女子高生の台詞とは思えんな」
「だってあれ、仰々しいベールの付いたヘッドドレスに、これでもかってくらい丈の長いスカートとか、着るだけでものすっごい時間かかるし、着たら着たでほとんどまともに動けないし」
「夢も希望もへったくれもないコメントはやめろ」
 事実だとしても、出来ればあと数年は聞きたくなかった。確かに、見た目はどんなに麗しくても、着る方は決して楽ではない代物か。俺の知る中にはたった一人だけ、ウェディングドレスほどではないにしろかなりご立派なドレスを普段着のように着こなす人がいるけれども、あれを引き合いに出すのは間違いだ。まともに考えれば、あちらの方が絶対に異常なのだから。
「あーゆうのは見る専に限るってことがよーくわかったわ。お姫様みたいなドレスってのは、人形にこそ着せる服だってことがね」
 もうこれ以上は何も言うまい。ろくな感想が出てこないだろう。ゆえに俺は、露骨に話の方向をずらす。
「……その様子だと、式は国内か?」
「そうよ。あ、ねえ、あんた招待したら来る?」
 翠は特に気にした風もなく、まるで、今日うち来る? みたいなノリで尋ねてきた。
「嫌だよ。周りから、誰だよお前って言われちゃうだろ」
「そしたら紹介するわよ、私のダーリンですって」
「……なあお前、本っ当の本当に結婚するのか?」
 どうもこいつの言動は、いちいち冗談と本気をわからなくする。よくもまあ次から次へと突っ込む隙もなく、ボケなのかからかっているのか、薄っぺらい発言が絶えないものだ。
「ま、気になるんなら、それを確かめに来るのもいいかもね? っと、そろそろ時間か」
 訝しげな視線を送る俺に、翠は相変わらずのムカつく笑みで面倒をふっかけると、腕にはめたブレスレットデバイスを見て踵を返した。
「じゃ、引き続き、期待してるわ」
 果たして期待されたのは、式への来場か調査の件か。こいつのことだから、両方という欲張りな線も十分ある。俺は早足で教室から出ていく翠の背中を見送ってから、手元の資料をざっとまとめて机の中に放り込むと、軽く息をついて窓の外の空を眺めた。
「……はあ」
 六月。結婚式。ジューンブライド。季節柄、街でもネットでも、この手の宣伝が増えてきた頃だ。ある種、こんなのは業界の戦略に過ぎないのかもしれないが、それでも幸せの花嫁という謂われにあやかりたがる人たちは多いのだろう。式場にとっては繁忙期だ。
 中でも、近年少しずつ目立ってきたのは、ディアをターゲットとしたサービスを提供する式場だ。たとえば、とある人間の男女が結婚する際、新郎新婦それぞれのディアもこれからともに暮らすことになるのだからと、その結婚式まで同時に執り行うという、所謂ダブル結婚式。また、招待客や来賓にディアを積極的に招きたいという顧客のために配慮された大型の結婚式も少なくないと聞き及ぶ。一昔前まで、ディアを交えた結婚式はかなり稀だったが、これから先はどんどん増えていくかもしれない。
 それよりも、俺からすればこの雨の中こぞって結婚式をやりたがる古き慣習の方が、よっぽどか謎だ。だって、雨だぞ。仮に想像の中だけなら、新郎新婦、立派なタキシードにウェディングドレス。二人仲良く一つの大きな傘を持ち、優しく打ちつける慈雨の音色を観衆の拍手に見立て、ロマンチックに新たな門出の道を歩く。そんなことも可能だろうが、でも現実は違う。
 翠曰わくただでさえ面倒なウェディングドレスが、さらに面倒になること請け合いだ。喜ぶとすればブーケの花くらいのものである。立場的に祝事というよりも催事の意味合いが強い翠の結婚式は、当然、失敗の許されないものなのだろうし、だとすれば晴れた方が良いに決まっている。なぜ今やるのか。大人しく梅雨が明けるまで待てばいいのに。
 などと、俺はぼんやり考えながら、しかし一方でまた、ふと思う。
 どうして俺は、行きもしない翠の結婚式の天気や日取りなど気にしているのだろう。俺には一切関わりのないことではないか。それに、おそらく俺がどんなに気にしたところで、どうせあいつの式本番は晴れるに違いない。きっと翠なら、神通力でも何でも使って、当日にしっかり梅雨晴れを起こすだろう。大事な来賓と一緒に、 ついでに太陽様にも無理矢理出席願うわけだ。六月は休日の多い太陽もこれには勝てまい。非常に気の毒この上ない。
 俺は胸の中で勝手な同情を呟くと、降り続ける雨を尻目に緩慢な動作で席を立つ。そうして、今にも泣き出しそうな腹の虫を抑えるために購買部へと向かった。


 昼休みを終え午後の授業となり、癪だけれども翠の言う通り、それを聞く気になどならなかった俺は、結局、机の中から例の紙束を取り出した。それを読み始めて真っ先に俺の目を引いたのは、一つの新聞記事。見たところ、資料はその記事を中心に構成されていた。
 内容は、今から約二年半前、雪の降る冷えた二月に起こった、ある交通事故についてだった。かなり大きくメディアに取り上げられた事故で、当時中学三年だった俺の記憶にも残っている。
 その事故は休日の夕刻、首都圏のある交差点でトラックが停止し損ね、横断歩道を渡る歩行者三名に突っ込んだというもの。原因は濡れた路面によるスリップとも、車両不良とも言われていたが、詳しいことは述べられていない。それよりも、ここで触れられているのは、トラックのドライバーがディアだったという点である。事実、これが事を大ニュースたらしめた。
 一般常識として、ディアが運転でミスを起こすことはほとんどない。常に世界樹と情報のやりとりをすることで周囲に配慮し、車両の機械的な不良にも敏感で、なおかつヒューマンエラーを起こさないからだ。現在のディアは技術的にそれだけのスペックを持っており、また実績も十分にある。だからそこ、それだけこの事故は、珍しい出来事だった。
 読み進めると、記事の説明は事の概要から、被害者である三名へと移る。その三名の内訳は、人間一人とディア二人だ。人間の被害者の名は、鶴舞鷹弥つるまいたかや。当時二十七歳、男性の企業研究員。トラックの追突を受け、救急で病院に運ばれるも、間もなく死亡したとされている。また、ディアの方は、一名が先述の鶴舞氏を所有者とするセラタイプの男性モデル。こちらは比較的軽傷で、事故後、すぐにメンテナンスセンターに運ばれて処置を受けている。もう一人のディアは、第三者を所有者とする同じくセラタイプの女性モデルで、鶴舞氏同様、トラックの追突をまともに受けた。彼女については、鶴舞氏をトラックから庇う形で直接追突を受け、ほとんど即死――もとい機能停止であったようだ。被害者の三名は交差点近くの店で買い物をし、その帰りに事故にあったということらしい。
 記事には現場を俯瞰した写真が一枚だけ載っており、事の様相を表していた。その一枚を見ただけで読みとれる。一言で言って、現場は騒然だ。周りの人間や自動車は皆、立ち往生。交差点内には被害者たちの購入した様々な物品に混じって血痕が散っている。おそらく、電子版ニュースの履歴などを調べれば、現場を映した動画なんかも見られるのかもしれないが……とても見る気にはなれなかった。新聞の記事はそこまでだ。
 ただ、確かに悲しい事件ではあるが、ここまで読んだ俺の感想として、資料と佐倉先生の関連性が分からない。被害者である鶴舞鷹弥氏の名前と、佐倉先生のディアのそれであるタカヤが一致するのは、一つ引っかかる点ではあるけれど……。
 俺はページをめくる。続きは、翠の書いた文章だ。
 その、鶴舞鷹弥という人物。どうやら資料によれば、ガラテイアの研究員だったようだ。優秀な若手の研究員で、ディアの人格プログラムに関する研究に長けていた。二十代後半という若さでプロジェクトを一つ任されるほどだったと書かれている。ディアの研究にとても熱心だったと。そこから、彼についてのいくらかの説明と、簡単なプロフィールが述べられて……さらにページを一つめくる。俺が驚いたのは、ほとんどそれと同時だった。
 すぐに目に飛び込んできたのは、免許証や社員証に載っていそうな証明写真。鶴舞氏のものだそうだ。穏やかそうな顔立ちに、茶色がかった柔らかく癖のある髪。その相貌が、俺の知るタカヤ先生にそっくりだったのだ。
 後頭部に走る、電流のような何か。俺はその場で立ち上がりそうになるのを何とかこらえ、急かされるように資料の先を読み進めた。すると間もなくして、彼には婚約者がいたという記述に行き当る。ともに暮らし、結婚を目前に迎えた間柄にある女性、佐倉由梨絵。そして新聞に載っていた第三者、被害を受けたディアの所有者というのも、どうやら彼女のことらしい。
 そこまで読んで、俺の中で、やっと繋がる。翠がこの資料を寄越した理由が、やっとわかる。つまるところこの資料は、ガラテイアにクラッキングを仕掛けた容疑者である佐倉先生の、その過去について調べたものなのだ。資料は以降、もっぱら彼女の説明となった。
 結局、件の事故によって彼女は婚約者と自身のディアを一度に失い、突然一人になってしまったことになる。そのショックが原因で、当時就いていた教職を無期休職。のち、それまで暮らしていた都市圏の住まいで何とか生活を営んでいたようだが、ほどなくして親元であるこちらの地方に戻ってきたのだそうだ。それから今に至るまでの二年と半年の間、彼女についての社会的足取りはめっきり途絶え、一切の情報は得られなかった。これが事故の顛末である。
 だというのに、最近になって俺たちの通う高校で急に復職した佐倉先生の、何と、何と明るく快活なことか。元職場から遠く場所を移したためか、その変化に直接気づく者はいなかったのかもしれないが、こうして彼女の過去を知ってしまえば話は別だ。凄惨な事故で愛する人とパートナーを失いながら、しかしこのタイミングで堂々の社会復帰。これが健全な療養の結果であれば一つの問題もありはしない。でも実際は、いささか疑問が残るところ。資料と照らし合わせて整理をすれば、クラッキングはちょうど彼女の空白期間に当たるのだ。その上どうやら、翠の調べでは、クラッキングに利用された元社員のアカウントというのは鶴舞氏のものだという。さらに佐倉先生の現在のディア――タカヤ先生には、不健全な部分があり……。
 果たしてここまでの状況証拠が、単なる偶然で揃い上がるものだろうか。もはや外堀は十分埋まっている気さえする。これはいよいよ……ひょっとすると、ひょっとするのかもしれない。
 俺はそんな調子で資料を読み終え、そして、自分が非常に大きな驚愕という感情を抱いていることを自覚した。この資料には結論はない。ただ客観的な過去の事実が載っているだけだ。でも、翠は言っている。佐倉先生は極めて怪しいと。俺も、そう思えてならなくなってきた。
 驚きで頭が熱を持ち、冷静さを失っている。これではいけない。そうだ、一旦、落ち着こう。思えば今は授業中だ。意識を無理やり資料から引き剥がし、教室へと戻す。さきほどまでまっさらだったはずの黒板は、気づけば白いチョークの文字で埋め尽くされていた。
 俺は今更のようにノートを広げてペンを握る。だが案の定、それは数分ともたない。やがて静かにペンを置き、窓の外を見る。空から水たまりに落ちては円い波紋となって消えていく雨粒を目で追いかける。結局俺は、その日の授業が終わるまでずっとそうしていた。
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