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Menu 4『Darjeeling Second Flash』
『Darjeeling Second Flash』③
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「楓さんがたまに部屋に閉じこもって出てこなくなってた理由、俺、今ならわかりますよ」
湧いた湯をポットにゆっくり注ぎながら、彼は目の前でそうこぼした。
「あはは、だよねー」と私はからから笑って答える。
「まあ……あのときわかってあげられなかった俺は、本当に大馬鹿ですけどね」
「そんなことないよ。あの頃の私にとって、病気のこと気にしないで話せる相手って、結構貴重だったんだよ。そもそもただのバイトにはちょっと重いでしょ。病気の話なんてさ」
冗談めかして私が言っても、彼は幼い迷子のようなしょんぼりした顔を上げない。手元で湯に浸った茶葉を蒸らし、その横でカップを温めている。
「俺がもっと、あなたのことをちゃんと見ていれば……」
「やだな、そんないじらしいこと言わないで。それにあんたは私のこと、ちゃんと見てたよ。もっと言うなら、私のいいところばっかり見てくれてた。だからあのとき、あんたは私に、あんなこと言ったんだよね」
バイトの彼が店に出入りするようになって、一年と少しが経った頃だったろうか。夜、最後のお客さんが帰って閉店の片付けをしていたときに、ふと言われた。
「楓さん。俺、あなたが好きです」
その頃にはもう、互いの呼び方は「黒川くん」と「店長」から「杏介」と「楓さん」になっていた。
声にならない驚きとともに息を吸い込み、目を見開いて彼に振り向く。すると彼は、カウンターを拭き終えた布巾を片手でぎゅっと握り締め、ただ真っ直ぐにこちらを見ていた。
私は内心慌てたが、なんとか平静を装って返す。
「え、ええっ……えー、ちょっと何それ。杏介あんた、楓お姉さんに惚れちゃった?」
「……はい」
悪戯っぽく、からかってごまかそうとしても杏介の表情はひどく真剣だった。こういうとき、ちょうどよくお客さんが来てくれたりしたらうまく話を逸らせるんだけど……でも今日は、もう入口に『CLOSED』のプレートを掛けてしまった。たぶん彼はそのあたりも見越して今というタイミングを選んだのだろう。
私は手元で洗うカップを気にするそぶりで視線を逸らす。不自然にならない程度に沈黙を最大限引き伸ばし、苦し紛れを承知で答えた。
「ふふ、そうだねぇ。じゃあ、私よりおいしい紅茶が出せるようになったら、考えてあげるよ」
必要以上に茶目っ気を出し、動揺を隠して、楽しげに。
真摯な告白を煙に巻いてはぐらかす性悪女。そんなふうに思ってくれたらいいんじゃない、なんて私は考えていたのだろうか。それで愛想尽かしてくれたらまあいいか、なんて。
病気のことを杏介に言わなくても、それは別に、嘘ではない。けれどここで彼を受け入れて、なのに病気のことは打ち明けないのだとしたら、それは嘘をつくのと同じくらい罪深い行為だ。
彼を受け入れることはできない。
だって私のこの身体では、彼を満たしてあげることはできない。
きっと私ばかりが満たされて、満たされて満たされて満たされて、そして溢れて、私だけが先に終わってしまう。彼よりも先に、あまりにも早く。
反対に、私を好いた分だけ彼は苦しむ。
誰の人生にだって必ず苦しみはあるのだろうけど、だからといってわざわざ約束された苦しみを選び取る必要はないはずだ。放っておいても苦しみや悲しみは降りかかってきて、日々の中に積もっていく。ならばせめて人は、喜びや楽しさだけに手を伸ばせばいいと思う。
私はこのとき、言うべきだった。ごめんね、あんたの恋人にはなれないよって。
心の中でだけ呟いたその言葉を、ちゃんと口に出して言うべきだった。きっぱりあと腐れなくふるべきだった。ほんのわずかでも伸ばされた彼の手を取りたいと、思ってはいけなかった。
でも……できなかった。
できなかった。
できなかった。
それは間違いなく私の罪だ。
湧いた湯をポットにゆっくり注ぎながら、彼は目の前でそうこぼした。
「あはは、だよねー」と私はからから笑って答える。
「まあ……あのときわかってあげられなかった俺は、本当に大馬鹿ですけどね」
「そんなことないよ。あの頃の私にとって、病気のこと気にしないで話せる相手って、結構貴重だったんだよ。そもそもただのバイトにはちょっと重いでしょ。病気の話なんてさ」
冗談めかして私が言っても、彼は幼い迷子のようなしょんぼりした顔を上げない。手元で湯に浸った茶葉を蒸らし、その横でカップを温めている。
「俺がもっと、あなたのことをちゃんと見ていれば……」
「やだな、そんないじらしいこと言わないで。それにあんたは私のこと、ちゃんと見てたよ。もっと言うなら、私のいいところばっかり見てくれてた。だからあのとき、あんたは私に、あんなこと言ったんだよね」
バイトの彼が店に出入りするようになって、一年と少しが経った頃だったろうか。夜、最後のお客さんが帰って閉店の片付けをしていたときに、ふと言われた。
「楓さん。俺、あなたが好きです」
その頃にはもう、互いの呼び方は「黒川くん」と「店長」から「杏介」と「楓さん」になっていた。
声にならない驚きとともに息を吸い込み、目を見開いて彼に振り向く。すると彼は、カウンターを拭き終えた布巾を片手でぎゅっと握り締め、ただ真っ直ぐにこちらを見ていた。
私は内心慌てたが、なんとか平静を装って返す。
「え、ええっ……えー、ちょっと何それ。杏介あんた、楓お姉さんに惚れちゃった?」
「……はい」
悪戯っぽく、からかってごまかそうとしても杏介の表情はひどく真剣だった。こういうとき、ちょうどよくお客さんが来てくれたりしたらうまく話を逸らせるんだけど……でも今日は、もう入口に『CLOSED』のプレートを掛けてしまった。たぶん彼はそのあたりも見越して今というタイミングを選んだのだろう。
私は手元で洗うカップを気にするそぶりで視線を逸らす。不自然にならない程度に沈黙を最大限引き伸ばし、苦し紛れを承知で答えた。
「ふふ、そうだねぇ。じゃあ、私よりおいしい紅茶が出せるようになったら、考えてあげるよ」
必要以上に茶目っ気を出し、動揺を隠して、楽しげに。
真摯な告白を煙に巻いてはぐらかす性悪女。そんなふうに思ってくれたらいいんじゃない、なんて私は考えていたのだろうか。それで愛想尽かしてくれたらまあいいか、なんて。
病気のことを杏介に言わなくても、それは別に、嘘ではない。けれどここで彼を受け入れて、なのに病気のことは打ち明けないのだとしたら、それは嘘をつくのと同じくらい罪深い行為だ。
彼を受け入れることはできない。
だって私のこの身体では、彼を満たしてあげることはできない。
きっと私ばかりが満たされて、満たされて満たされて満たされて、そして溢れて、私だけが先に終わってしまう。彼よりも先に、あまりにも早く。
反対に、私を好いた分だけ彼は苦しむ。
誰の人生にだって必ず苦しみはあるのだろうけど、だからといってわざわざ約束された苦しみを選び取る必要はないはずだ。放っておいても苦しみや悲しみは降りかかってきて、日々の中に積もっていく。ならばせめて人は、喜びや楽しさだけに手を伸ばせばいいと思う。
私はこのとき、言うべきだった。ごめんね、あんたの恋人にはなれないよって。
心の中でだけ呟いたその言葉を、ちゃんと口に出して言うべきだった。きっぱりあと腐れなくふるべきだった。ほんのわずかでも伸ばされた彼の手を取りたいと、思ってはいけなかった。
でも……できなかった。
できなかった。
できなかった。
それは間違いなく私の罪だ。
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