久遠の花

りずべす

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二章 同魂の双子

2  二〇二四 葉月―初

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 翌日は過ごしやすい晴れの日となった。穏やかに流れる白い雲が、時折太陽光を薄く遮る。
 僕と唯花は待ち合わせをして、目的地である街の病院へと向かった。
 けれどもその入り口の前では、もう十時近くだというのに、唯花が眠たそうに目をこすりながらぼやく。
「詞~、どうしてこんな早い時間にしたのよー」
「ちっとも早くなんてないよ。唯花が夜更かしするから眠いんだよ」
 取り決めた集合時間にこそ間に合ったものの、唯花はここにくる間も、ひたすらに文句を言い続けた。
 待ち合わせの時間を決めたのは僕だったが、しかしそこまで早い時間にしたつもりはなかった。普通の生活をしていれば余裕を持って集まれる時間だったはずだ。早いと感じるのは、昼と夜がひっくり返った生活をしている唯花くらいのものだろう。
「ほら唯花。もう病院に入るよ。電子機器の電源は切ってね」
 何だかんだで、僕の方が先導する構図になってしまっている。唯花にはそろそろしっかりしてほしいところだ。
 目的が少々違うとはいえ、僕らはこれから見舞いに行くのだ。その見舞いの客が眠気で怠そうにしていたら、第一印象はまず間違いなく悪いものになるだろう。それは、できれば避けたい事態である。
 発案者の唯花もそのあたりはさすがにわかっているようで、持参するいくつものデバイス、もとい複数の携帯やミュージックプレーヤーの電源を一つ一つ切り、もう一度目が覚めるように気合を入れ直しているようだった。
 隣で見ている僕としては、次々にポケットから出てくるデバイスの数の方が気になったりしたものだが、この際それは脇に置いておこう。
「ん~~、オーケー。眠くないわよー」
「大丈夫? 寝ぼけて電源切り忘れないでよ? 寄るだけじゃなくて見舞いだから、マナーはちゃんと守っていこうね」
「そうね」
 こうして僕らは自動ドアをくぐり、受付のカウンターまで歩いていった。
 しかしながら、そのカウンターを目の前にして、僕は思った。至極当然のことを、今更になって。
 はて……見舞いにきた少女の名前は?
 名前を知らなければ、どの部屋にいるのか聞くこともできない。どころか見舞い相手の名前を知らないなんて、土台不自然な話である。
 それなのに現状で僕が知っているのは、少女が中学三年生で、この病院のどこかの部屋に入院しているということだけだった。
「えっと、唯花。灯華さんから詳しい情報もらってない? 僕、結局あれから何も聞いてないんだけど……」
 僕が唯花に尋ねると、彼女の方も当たり前のような顔をして、こう答えた。
「え? 特にもらってないけど?」
 ………………。
「それって、名前もわからないってこと……?」
「わからないわね。いつもそうだけど、灯華は余計なことまで教えてくれたりしないわ。必要最低限のことだけなの」
「いや……名前はその“必要最低限のこと”に含まれてもいいと思うんだけどな……。じゃあ僕らは、結局のところほとんど何も知らないでここにきたことになるよ」
 僕はてっきり、あの例のデータベースの情報を、唯花が聞いてくれていると思ったのだけれど……。一応そういう部分は、灯華さんも法に気を配っているということなのだろうか。
 でも、せっかく閲覧権を持っているのだから、もう少しくらい情報がほしかったと感じなくもない。
「どうしよ……二人してカウンターの前で突っ立っていたら、絶対不審に思われるよ」
「大丈夫よ、裏を取ってもらったんだから。ハッタリでも何でもかまして、とりあえず尋ねれば上手くいくわよ」
 えー……んな無茶な……。
 確かに、間違いなくここにあの少女がいるというのなら、知り合いですと名乗るだけでいいのかもしれないけれど……。
 不安だ。非常に不安だ。
 ただ、いい加減にカウンターを目前にした作戦会議も限界を感じる。僕はそう思って、こちらを向いて対応しようとしている看護師さんに声をかけた。
「こ、こんにちは。あの、見舞いにきた者なんですけど」
「はい、ありがとうございます。どなたのお見舞いですか?」
 対応は、ごく自然だ。
 それでも、返ってくる一言一言が、探りを入れながら話す僕にとっては怖いものだ。
「その、中学三年生くらいで、結構長いこと入院している女の子がいると思うんですけど」
「はぁ。まあ、患者さんの中には、そういう方もいらっしゃいますけど……お知り合いか何かですか?」
「え、あ……はい。知り合い、みたいなものです」
「みたいな、もの……? 申し訳ありませんが、患者さんのお名前とか、そういったものを教えて頂けるとありがたいのですが……」
 あれ? 何かやっぱり疑われているような……。っていうかハッタリってどうかますんだ?
 正直なところ、知っている情報が少な過ぎてハッタリすらもままならない状況だというのがじわじわと把握できてくる。
「詞……下手……」
 ボソッと唯花が隣で呟くのがわかった。
 下手で悪かったね! そりゃあそうだよ!
 僕の日常にハッタリをかます機会なんて今までなかった。そもそもやったことがないのだから当然の結果である。
 自然だった看護師さんの対応にも、次第に疑惑の色が混じり出す。あからさまにこちらの立場が危うい空気を、僕は感じ取った。せめて学生服とか、外見だけでも多少の警戒を解ける身なりをしてこれば良かったという後悔もわいてくる。
 作戦失敗。とりあえずこうなってしまっては、あとはもう、出直しますと伝えて逃げるくらいしか選択肢はないと思われた。
 が、そんなときだ。
 ふと背後から聞き覚えのある声が聞こえた。まるで鈴を転がしたような、高く愛嬌のある女の子の声が。
「あれー? もしかして、あのときのお兄さん?」
 僕が驚いて振り返ると、自分の真後ろの、腰くらいの高さに誰かがいた。
 すみれ色のゆったりした服を纏い、車椅子に座って無邪気に笑う可愛らしい少女。紛れもない、あの月夜の少女だった。
「君は…………そう! 君だよ! 一昨日の公園の子!」
 雰囲気は少し違うけれど、間違いない。よもやここまできて、この偶然に人違いはないだろう。
「君に会いにきたんだよ。良かった。夜遅くて暗かったし、もう覚えてないかと」
「わっ! ちょ、ちょっとお兄さん、声大きいよ!」
 思わぬ救いの手に、僕は少しばかり興奮気味に喜んでしまった。ここが病院だということも忘れて声を大にしてしまい、注意を受ける。
 ハッとしてすぐに謝ると、少女ははにかみながらこう言った。
「えっと、えっと、私に会いにきたんだよね? じゃあさ、部屋に行こう! 私のとこ、個室だから!」
 ただ、少女は何やら慌てながら、僕の手を引いて催促をする。空いた一方の手で器用に車椅子を操り、そそくさとこの場を立ち去ろうとするのだ。
「受付はー……パスでいいよね! あとよろしく!」
 カウンターの看護師さんには少女が手早く簡単に言葉を残して、奥へと進む。その言動のあまりの機敏さに、少しの疑問や当惑があったことは確かだけれども、それでも受付で不審者として閉め出される不安がなくなって、僕としては助かった。
 呆気にとられて手を引かれていく僕の背後では、唯花があっけらかんとした様子で謝辞を置いてきていた。
「どもども~」
 一言も会話に参加していない彼女は、僕以外から見たら未だに素性不明の謎の人だ。けれども、一通りのやりとりを傍で見ていた看護師さんは、ポカンとしつつも最後には手を振ってくれていた。だからきっと、おかしな誤解は免れたはずだ。
 そうして僕らは、広々とした院内の廊下を歩いていく。
「ちょっとお兄さん~。もう、びっくりしたよ」
「ごめん。つい、大声に……」
「違う違う、そうじゃなくて。夜中に公園で会ったなんて、言っちゃダメだからね」
 少女はぷくっと頬を膨らませた。僕が両手で押す車椅子に座りながら、こちらの顔を見上げるようにして訴える。首を動かすたび、びっくりするほどに長くて細い綺麗な黒髪が、ヘアゴムで束ねられたまま踊るように跳ねる。
「あのときは、その……こっそり抜け出したんだよ」
 少女は可愛らしい口元に手を当ててこっそりと、内緒話をするような仕草を見せた。
 なるほど、そういうことか。確かに冷静になって考えれば、ここの患者である少女があんな時間に公園にいたのはおかしなことだ。
「裏口からこっそり出て行ったの。その……月が綺麗だったから、ちょこっとお散歩に」
「そりゃまた、大胆だね」
「んー……でもね。ここの人たちは、ちょっと過保護なの。この車椅子だって、本当は必要ないんだよ。私、ちゃんと自分の足で歩けるのに」
 少女はそう言って、半分呆れて、半分残念というように苦く笑った。
 思えば、一昨日の夜に公園で出会った少女は、ゆっくりではあったものの、しっかりと自分の足で歩いていたものだ。それを見たことのある僕にとって、少女のこの言葉はただのわがままではなく、真実なのだと思われた。
「車椅子って、嫌い。窮屈だし、視線が低くなっちゃうから」
 小さな子供の視点なんだよ、と続ける。
 確かに座ったままの車椅子では、視点の高さも、本来の身長の半分程度だろう。少女に言わせれば、それは想像以上につまらない世界らしかった。
「だからね。本当はこうしてお兄さんに押してもらう必要も、ないんだよ。ごめんね」
「構わないよ。気にしないで」
「うん、ありがと。そういえば今更だけど、私、お兄さんの名前、知らないんだよね。えっと……教えて、くれない?」
 ああ、そう。名前だ、名前。さきほどもそれを知らなくて苦労をした。僕が少女の名前を知らないのだから、同様に少女も、僕の名前を知らないのだ。僕とこの少女が一昨日の夜に公園で出会ったことを考えれば、それも自然なのだけれど。
「そっか、そうだったね。僕は川澄詞っていうんだ。この近くの高校の、二年生だよ」
「へえー、そうなんだ。私は、織戸悠那っていうの。よろしくね。悠那って呼んでくれたら嬉しいな」
 織戸……?
 それは、僕にとってはよく耳にする苗字。クラスの委員長と同じものだ。名前で呼ぶことを許可してもらっておいて申し訳ないが、当然ながら気にはなった。何か関係があるのだろうか。
 ただやはり、いきなり不躾にも家族構成を聞くことは憚られたので、余計なことを聞くのはやめておく。
 よろしく、悠那ちゃん。僕はそう言って、ただ笑った。
 僕と悠那ちゃんの自己紹介が済むと、続いて彼女から疑問が投げかけられる。
「それで、そっちのお姉さんは? さっきからお兄さんと一緒にいるし、知ってる人なんでしょう?」
 もちろん唯花のことである。
「あ、うん。こっちの人は……てか唯花、さっきからずっと黙ってるけど、どうしたの? 自己紹介してよ」
 僕が唯花にそう言うと、あとを無言でついてきていた唯花が久しぶりに開口した。
「詞って、年下の女の子には優しいのね~」
 しかし第一声は自己紹介でも何でもなく、僕に対する感想だった。
 ……え? 何その、微妙に嫌味も入っているようないないような感想。
 唯花の態度はいつもと同じで、顔は自然に笑っているように見えるけれど……。
「別に、僕は誰に対しても優しいよ。それより早く、自己紹介」
 何気に心外なことを言われたので、僕は抗議を付け加えて催促した。
 すると唯花は、わざわざ車椅子の前まで回り、膝をかがめて丁寧に挨拶をする。
「こんにちは、悠那ちゃん。私の名前は音瀬唯花。立場としては……そうね、詞のバイト先の先輩ってところかしら」
 パッと笑う、花が咲くような明るい表情。横に立つ僕が見ても少しドキッとするくらいの、華やかな唯花の笑顔だ。
「こんにちは、お姉さん。とてもとても、綺麗な人だね」
「あら、ありがとう。あなたもすごく可愛らしいわね。詞が気にするのもわかる気がするわ」
「ち、ちょっと唯花。あんまりそういうことは……」
 気にするだなんて、まあ……そりゃ事実ではあるけれども。
 しかしながら、どうして唯花はいつも、こういった誤解を招きやすい言い方をするのだろう。悠那ちゃん本人に聞かれてしまうと、なおいっそう恥ずかしいものがある。
「あら、いいじゃない。何も変な意味を込めたわけじゃわないわ。だってこの、漆のように光る長くて真っ直ぐな髪とか、誰が見たってぞくぞくすると思うもの」
「ぞくぞくって……だから、その言い方が問題なんだってば。危ない発言は控えてってば」
 駄目だ。唯花自身に自己紹介をさせたことを、今更ながらに後悔した。これなら黙ってついてきてくれた方が、よっぽどか良かったんじゃないか。
「あのね、よもや本人を目の前にしてそんなこと――」
 唯花のその言動に対し、僕は文句を重ねる。
 ついでにもう一つくらい文句を連ねてやろうとすると、そこで僕の言葉を上書くようにして、快活な高い声が響いた。
「あはははは。あはは。二人とも、すごく仲がいいんだね! もしかして、お兄さんとお姉さんは、付き合ってる、とか?」
 声の主は、悠那ちゃんだ。
 ただ僕は、突然の笑い声よりも、その発言内容の方に仰天する。
「なっ! 悠那ちゃん何言って……ねえ、唯花!?」
 車椅子を押すのも忘れて、僕は慌てて否定をした。そんな誤解、勘違い、とんでもない!
「そうねえ。残念だけど、付き合ってるわけではないわね~。詞は、私の助手だから」
「そ、そうそう。助手だよ、助手!」
 通常なら、それもあまり同意したいものではなかったが、今回の場合は例外だ。唯花と付き合うだなんて……。そんなこと、一欠片も今まで考えたことはなかった。
 でも、一度言われてしまったら、意識せざるを得ないというのもまた事実だ。
 悠那ちゃんに答える唯花は、相変わらずあの花の咲くような笑みを零して話している。そんな顔をわずかでも見てしまえば、僕は視線を上げられないではないか。
 悠那ちゃんは「そっかー」と言って笑っていたから良かったものの、そこからは唯花に車椅子の操舵を取られて、僕の方がおいていかれる形になってしまった。
「お兄さんー、早くー。こっちだよ」
 無邪気な悠那ちゃんの質問に、こんな風にして右往左往しつつ、僕らは目的の部屋に向かうのだった。
 目指すべき悠那ちゃんの病室は、病棟最上階の西の端にあった。
 廊下を歩きエレベーターに乗って、そこからまた廊下を歩く。いくつもの曲がり角と、同じ扉が連鎖する長い道のりを経て、院内でもあまり人通りのない、活気の乏しい区画に行き着いた。まるで迷路のようなその道は、帰り道のことが不安になってしまうくらい複雑だ。どこまでも続くような、生気の抜け落ちた白い床の繰り返し。果てのない、無機質な壁のスクロール。
 辿り着いた病室は、表札のない、分厚い引き戸に閉ざされた個室だった。
 悠那ちゃんが慣れた手つきで部屋の扉を開け放つと、途端に彼女は目を丸くする。
「え、あ――あれ?」
 彼女の後ろについて歩いていた僕には、すぐには状況が分からなかった。しかし部屋の中から爽やかな男性の声が聞こえたとき、そこには既に誰かがいたのだと理解できた。
「どこに行ってたの悠那! 心配したよ」
「ゆ、悠斗! どうして? くるのは午後からだって、言ってなかった?」
 悠那ちゃんが驚いた様子で対応する。するとまた、新たに別の声が聞こえる。
「悠斗のやつが、早く行くと言って聞かなかったんだ。何か、問題があったか?」
「桂兄まで……。あの、今ちょっと、お客さんが……」
 二種類の声。しかも一つは聞き覚えがある。
 唯花は特にひるむこともなく冷静な表情をしていたが、室内を覗ける位置まで寄った僕の方は、どうにもそうはいかなかった。中にいた二人のうち、その一人と目が合い、お互いに同じような驚きを見せる。僕とその人の「あっ……」という呟きが重なった。
「お、織戸くん?」
「あれ、川澄くんじゃないか。どうしてここに?」
 室内に立っていたのは、学校ではよく見た委員長の姿。私服に身を包んだ清潔な身なりは新鮮だったが、僕の知っている織戸桂祐その人であることに間違いなかった。
「あ、えっと……見舞い、かな」
 さきほどの悠那ちゃんの自己紹介で苗字にひっかかりを覚え、一瞬だけ頭の中に彼が浮かんだ。けれども、まさかこんなにも早く、現実に対面することになるなんて。
 ここにいるとうことはもしかして……いや、もしかしなくても、彼は悠那ちゃんの血縁者ということだろうか。
「なるほど、見舞いか。もしかして、悠那とは顔見知りだったのかな。見たところ、君の知人もいるようだが」
 しかし向こうからしたら、きっと僕らの存在の方が、よっぽどか謎だっただろう。妹の見舞いに訪れていきなりこんな場面に出くわせば、そりゃあ驚くのも無理はない。僕なら彼のように落ち着いた対応をするのは難しいと思う。
「俺は、織戸桂祐といいます。ちなみにここにいるもう一人は、織戸悠斗。俺の弟で、悠那とは双子になります」
 そう言って織戸くん――もとい織戸桂祐くんは、自己紹介と同時に弟を傍に寄せて挨拶をさせた。彼自身の紹介は、主に唯花に対してのものだろう。
 隣の織戸悠斗という子は、確かに悠那ちゃんによく似ていた。もちろん男の子だし、髪は短く切り揃えていて背丈も体格も男性然としていたが、顔立ち等を比べればよくわかる。双子と言われて違和感はなかった。
 そして僕は、その紹介に応えるようにして自分と唯花の紹介をしたのだった。僕と唯花の、名前と関係。一般的な素性。加えて、悠那ちゃんとの出会いの件を。
 最後にはまた、皆でよろしくと言って上手くまとまる。
 ただ、互いの紹介をしている間、傍にいた織戸悠斗くんは何故だかずっとしかめっ面をして黙っていた。最初に聞いた、悠那ちゃんに対する明るい声は出てこなくなり、随分と大人しくなってしまっている。
 ……警戒されているのだろうか。
 僕は少々不安を感じたが、それについてはすぐにフォローがなされるのだった。
「あの、川澄くん、すまない。悠斗は今朝から、とても悠那と話したがっていたんだ。いきなり初対面の人に出会って戸惑った節もあるだろうし、悪く思わないでやってくれ。音瀬さんも、そういうわけなので、大目に見てやってくれませんか」
「ええ、私は別に気にしてないわ」
「ああ、うん、僕も。それに、こっちこそ悪かったよ。織戸くんが謝ることじゃ……って、えっと、ここはみんな織戸なんだっけ」
「はは、そうだな。みな織戸だ。ではもし良ければ、俺のことは桂祐でいい。ややこしいからな」
 爽やかに笑う。とても好意的な笑みだ。
「そうだね。じゃあ僕は、桂祐くんって呼ぶことにするよ。それと、せっかくだから僕の方も、名前で呼んでくれると嬉しい」
「なら、私もそうさせてもらおうかしら。私を呼ぶときも、好きに呼んでもらって構わないわ。名前でも苗字でも、呼び捨てでもさん付けでも。あと、言葉遣いも普通でいいのよ。気にしないで」
「そういうことなら、そうしよう。詞くんに、えっと……慣れるまでは、音瀬さんでいいかな。俺も少し、恥ずかしいから」
 社交的な桂祐くんでも、やはり初対面の異性には気恥ずかしさがあるようだった。唯花とは視線を合わせて話してはいても、少しぎこちない感じがあって、隠しきれない戸惑いが見え隠れする。
 まあ、今でこそ僕は唯花のことを呼び捨てるけれど、確かに初めてなら緊張もすることだろう。話す内容はともかく、外見の映える唯花が相手では、特にそうかもしれなかった。
「ふぅ~ん、桂兄とお兄さんって、もともと知り合いかー」
 そして、僕らのやり取りを横で見ていた悠那ちゃんは、これ見よがしに感心していた。
「桂兄って、友達いたんだね」
「まあ、人並みにはな」
 だが、それはなんて言い草だろう。冗談だとしても、実の兄に対してあんまりのように思う。
 さらに本人も本人で、特に言い返したりしないものだから、僕は代わりに慌てて訂正をした。
「け、桂祐くんは、僕らのクラスの委員長だよ。人気者だよ。人望の塊さ」
「えー、そうなの? こんなユーモアのない堅苦しい人が、お兄さんより人気者なの?」
 何だろう。桂祐くんの実の妹からの評価は著しく低いようだった。彼は決して、家と学校で態度が変わるような人柄には見えないものだけれど……うーん、不思議だ。
「成績もいいし、とても親切だよ。友達も多くて、先生にも高く買われているんだ」
「休日もろくに友達と遊んだりしない桂兄がねえ……。お兄さんのが、よっぽど面白いのに」
「いや、僕こそ大したことはないよ。特に、こと学校ではね。あの……桂祐くんも、少しは否定と補足をしないと……」
 そんな中、暴言を食らっている本人は不自然なほど涼しげな態度で立っていた。否定も反論もない。言われ放題だ。
「まあ、いつものことさ。あまり気にしないでくれ。俺は自分のことには疎くて……むしろ、丁寧なフォローに感謝するよ、詞くん」
 さらに依然として、こんな調子。気にしていないというよりは、本当にそういうことには鈍いのかもしれない。僕にとっては、知らなかった彼の一面だ。
「それより、悠那の見舞いにきてくれて、どうもありがとう。ただせっかくのところ済まないのだが……詞くんに、音瀬さん。ロビーの方で、少し俺の話を聞いてくれないかな」
 やがて彼は改まった口調になって、僕らにこんな提案をする。
「えっと、ロビーで? 僕は構わないけど、唯花も一緒に?」
「ああ、できれば。ここにきて突然なのが、申し訳ない限りではあるが」
 それを聞いて僕は唯花の方を向き、彼女の意思を確かめる。
 肩をすくめながら「何かしら?」というような表情をしたが、特に悩むこともなく唯花自信が口を開いた。
「いいわよ。ここにくる途中にも、悠那ちゃんとは話せたしね」
 唯花は賛成らしい。
 けれども、反対票も、あるにはあった。
「ちょっと桂兄、私のお客さんなのに。横取りだよ、それ」
「悠那は、悠斗と一緒にいてやってくれ。これ以上待たせると、機嫌を損ねるぞ」
「それは……いいけど……。でも、あのこと話すなら、変な印象与えないようにしてよ。暗いのは嫌だよ」
「ああ、善処する」
 桂祐くんは荷物を持って、病室から出ていこうとする。
 悠那ちゃんは自分で車椅子を操りながらベッドへと向かった。「二人で遊ぼっ!」と悠斗くんに声をかけて。そのあとも僕らが部屋から出て扉を閉めようとすると、忘れずに手を振ってくれる。
 つられて悠斗くんも、仏頂面ながらに軽い会釈を見せた。
 僕らは再び廊下へと出た。瞬間、やはり静まり返った空気を感じる。病院自体に活気はあるはずなのに、ここの辺りだけはやはり例外らしかった。
「よし。じゃあ、そこの近くのフリースペースに行こう」
 桂祐くんは、少し声を落としながらそう告げた。
「え? ロビーで話すんじゃないの?」
「いや、ここからロビーは遠い。部屋にはまだ用があるから、近い方がいいんだ」
 ……? 桂祐くん、妙なことを言っていないか? 少し様子が変だ。
 彼は数メートル先にある開放区画に向かい、一つの椅子を選んで腰掛ける。僕らにも、当たり前のように周辺への着席を促した。
「その、頼みがあるんだ。少し……いや、いくらか長い話を聞いてもらいたい。けれど、万に一つも楽しい話ではないから、もし面倒ならば、この場で拒否してもらって構わない。えっと……どうかな」
 何だかとても、とてもひっかかる言い回しだ。語る口調は少し重いが、いったいどんな話なのだろう。彼の前置きに、僕は戸惑いや警告めいたものを感じたが、しかし隣の唯花がすぐに返事をしてしまう。
「悠那ちゃんか、あるいは悠斗くんのことかしら」
「ああ。音瀬さんは、察しがいい」
「そうよね。聞くわ」
 紛れもない、清々しいほどの即答だった。唯花の落ち着いた顔つきは、桂祐くんの前置きにまったくたじろいでいない証拠だ。椅子を引いて居住まいを正し、太ももの上で腕を組んで正面を向く。
 当然ながら、そんな彼女の横で拒否の意思など示しようもなかった。僕だって、ちゃんと心得ている。もともとここへきた目的も戯れではないのだから、むしろこれは好都合だろう。
 僕も唯花に同意のつもりで、同じように姿勢を正す。
 すると、桂祐くんは話を始めた。
「こんなところにきているのだから、だいたいの予想はつくかもしれないが……悠那は、病気だ」
 予想に難くない事実だった。
「そう……なんだろうね。えっと……もし事情を聞いてもいいのなら……」
「構わない。構わないが……と言っても、話せる事情がほとんどそれだけなんだ。非常に情けない話なのだが、悠那の病気に関してはあまり詳しいことがわかっていない。わかっているのは、死期が近いということくらいで」
 ………………。
 さーっとその空間に、沈黙が落ちる。
 当然だ。死の関わってくる話。そんな話なら普通、誰が聞いたって尻込みする。だからこそ、衝撃から思考がついていかなかった。ゆえの沈黙だ。
 けれど、唯花の方はどうだろう。こういう事態には、少なくとも僕よりは慣れていそうだ。横目には、相も変わらず落ち着いた様子で、特に感情が挙動に表れているわけもない。
「俺の父は、ここの病院の院長を務めている。つまりは医者だ。それなのに娘の病気を何ともできない歯痒さには、苦しんでいるようだった。悠那の個室が不自然に広くて立派なのも、そういう事情からの配慮だ。ほとんどここで暮らすことになるし、経過観察もあるから」
「あの、僕は医学の知識がないから、すごく単純な疑問なんだけど……よくわからない病気なのに、もうすぐ死んでしまうことはわかるの?」
「身体のそこかしこに頻繁に異常が出るらしくて、だんだんと身体機能が下がってきているみたいなんだ。悠那のやつ、今は結構元気に振る舞ってはいるが、辛そうにしているときもよくあった。だが、申し訳ない。正直、俺もそれ以上のことは詳しくないんだ。今の俺の知識では父の話の全てはわからないし、父も何もかもを大っぴらに話そうとはしない」
 桂祐くんは、学校ではとても見せることのないような、悲しく苦しそうな表情で話す。
 彼の話を聞いて、僕は遺失の件を思い出していた。原因不明の早い死期。それは、今の僕の状況と、とてもよく似ている。
 そして悠那ちゃんと再び今日会ってみて、彼女が遺失者であるかどうかの確認を、唯花がとったはずだった。
 僕としても、あの明るい雰囲気の悠那ちゃんからでさえ、やはり微かに何かを感じる。あとから改めて相談をすれば、何らかの糸口は分かるかもしれない。
「こんなことを君たちに伝えるのは、お門違いというか、時期尚早というか……本当にすまないと思う。ただ実際のところ、俺も切羽詰まった想いで……こんな、縋るみたいな言い方に。それに、悠那のこともを考えると、やはり伝えるべきかとも思ったんだ」
 桂祐くんの声は、一定の張りを保ってはいるものの、それでもちらほらと感情の端が漏れ出している。時折わずかだけ震え、俯き加減のためか、声は床の方へゆっくりと落ちていく。それは気持ちを押し殺したっきり、どう伝えたら良いのか、表現したら良いのか、わからないという感じだった。伝えたいのに、うまく言えない。こんなとき、どんな声で、どんな顔で、言葉を紡いだらいいのかわからない。そんな様子だ。
「桂祐くんは、少し不器用な性格なのね」
 唯花の率直な表現は、よく的を射ていると思った。
「私たちのことは、気にしなくていいわ。頼みがあるって言っていたわね。回りくどいことはいいから、素直に言ってごらんなさい 」
「そうだよ。唯花の言う通りだよ。僕らでよければ力になるから」
 ただ唯花はともかく、普段なら僕は、こんな安請け合いはしない。解決の宛もなく、相手に期待ばかりさせるのも悪いし、自分にとって負荷にもなるからだ。
 しかしながら、今回は別だった。
 今の僕の特殊な立場と、そこに生まれる義務にも似たものに影響され、桂祐くんの頼みを引き受けるべきだと感じたのだ。
 僕らの返答を受けた桂祐くんは、わずかな疲れを浮かべた顔に、安心と喜びの意思を示して、礼とともにこう言った。
「ありがとう、感謝する。ならばもう一度、悠那の部屋へ向かおう」
 彼は、静かに立ち上がった。それから再び訪れた扉の前、よりいっそうの小さな声で、続きを述べる。
「音を立てないで、中の様子を伺ってくれ」
「伺うって、内緒で? そんなことしていいの?」
「何だか事情がありそうだけれど、私もちょっと気が引けるわ」
 これはいわゆる、盗み聞きというものだ。兄である彼はともかく、僕らがこんな行為をしていいのだろうか。
 それでも桂祐くんは、躊躇はしなかった。
「いいんだ。実際に聞くか、あるいは見るのが一番早い。俺が許すよ」
 彼はそっと引き戸の入り口に隙間を作り、中の音が聞こえるようにしてくれた。室内の空気が漏れ出てきて、同時に耳に届く物音もクリアになる。
「ベッドからは、扉の動きは見えないはずだ。この状態なら気づかれることはないから、しばらく聞いていてくれ」
 即座に感じたのは、不自然なほどの静けさだった。けれどもそれは、室内が無言だったということではない。
 遠慮がちに様子を探ろうとする僕の聴覚には、囁くような甘い声が響いてきたのだ。
「悠斗、夏休みは楽しい?」
「普通だよ。夏休みでも夏期講習があるし、学校にはいかなきゃならないんだ」
「じゃあ、夏休みでも友達と会えるんだね。いいことだね」
「いいもんか。せっかくの休みなのにさ」
 室内には、悠那ちゃんと悠斗くんしかいない。自分の目の前の人だけに届ける声なら、そこまでの大声にはならないことはわかるけれども、それでもこのときの二人の様子に、僕らは驚いたものだった。
 その理由は、両者の声が、ある特別な音を奏でていたからだ。
 特別な音。特別な想いから、奏でられる声。その言葉の中に好意が含まれているのは明白だった。
「そんなこと言わないで。学校は、楽しいところでしょう?」
「楽しくない。悠那といた方が、何倍、何十倍も楽しいよ。せっかくの休みなんだから、もっと悠那と一緒にいたいのに」
 あるいはそれは、好意と表現してすら足りないかもしれない。あの二人が紡いでいるのは、もっと深くて、色濃いものだと、僕は思った。
「そう、かな……? 私なんかといて、本当に楽しい?」
「当たり前だよ。俺は、誰よりも悠那といるのが楽しい。悠那といるのが幸せだ。だから……好きだよ」
「そっか。うん、ありがとう……悠斗。いつも悠斗がくれるその言葉が、私は何より嬉しいよ」
 そう。まるで、まるで恋人同士のようだった。今この室内に、隙間なく敷き詰められるかのごとく溢れる感情は、愛なのかもしれなかった。僕には、どう聞いてもそれが家族愛には思えず、知識として知る恋愛の……愛の囁きそのものに感じられた。
 だから桂祐くんに対して、二人は仲が良いんだね、なんて発言が適切でないことくらいは簡単にわかった。
 隣で扉を支え続ける彼は、下を向いていて、ひどく居心地が悪そうだ。
 僕は、彼にかける言葉が見つからず、黙って視線を向けるばかり。
 そして室内の会話もなくなり、誰の声も聞こえなくなった頃には、かすかな水音が漏れてくる。こんなところで聞くからだろうか。その音はあまりにも、際立って通った。姿が見えない分、なお信じがたいけれど、悠那ちゃんと悠斗くんが何をしているのか、僕には容易に想像ができてしまった。
 どうやらそれは、唯花の方も同じだったらしい。部屋の中の、僕らから辛うじて見える床の位置に落ちる、二人の影。それを人差し指で指し示しながら、唯花は言った。
「あらあら、これはまた、随分とおませさんね」
 床の影に目を向けると、二人のそれが重なって、まるで一つになったように見える。
「あれって……キス、してる……?」
「大胆ねえ。いくら二人きりだからって」
「す、すごく……その、情熱的だね」
 こんな場面に聞き耳を立てているこちらの方が、よっぽどか恥ずかしくなって赤面してしまうくらい、それからの二人は扇情的だった。
 悠那ちゃんは、何度も甘く、悠斗くんの名を囁く。細く消え入りそうな、絹糸のように細い声で。
 悠斗くんは、何度も激しく、悠那ちゃんに好きだと告げる。息次ぐことすら忘れ、喘ぐような縋る声で。
 それを聞くと、伝わってきてしまうのだ。互いを欲する、狂気的なほどの想いが。そこらの街中を歩くカップルよりも、二人は何百倍も互いを求め合っている。必要としている。そんな感情が空気の振動に乗って、僕の方にまで波及した。
「悠那、その……最近調子は?」
「いつも通りだよ。悠斗は心配性だね」
「本当に? ちゃんと検査は受けた?」
「大丈夫だってば。大袈裟なんだから」
 悠斗くんは、とても不安気に質問をした。
 一方の悠那ちゃんは、不思議なくらい落ち着いた様子で答えている。無理をしているのわからないが、それが余計に悠斗くんを不安にさせているようにも感じられる。
「大袈裟なくらいでいいんだよ。悠那自身のことなんだ。気にならないわけ……ないじゃないか」
「悠斗、大丈夫。そんなに心配しないでいいよ」
「でも……無理だよ、そんなの。心配だよ……」
「大丈夫。大丈夫だから。私はまだ、悠斗の傍にいられるから」
 悠那ちゃんは、その優しくも儚げな声で“まだ”と言った。それだけでわかる。彼女も、自身の置かれた状況を理解しているのだと。迫りくる死を、感じているのだと。それなのに……なんて、なんて冷静に話すのだろう。
「まだ、いかないよ。まだ私たちは、一緒にいられる」
「でも、でも……俺、怖いんだよ。悠那がいなくなるなんて……考えるだけで、頭が割れそうになるんだ」
「悠斗……泣かないで。ほら、こっち」
 悠斗くんは怯えていた。嗚咽を漏らすような音が聞こえる。自分の半身のように大切に思う悠那ちゃんが、いつ遠くにいってしまうかわからない。そんな想いからくる恐怖を、感じているのだろう。
 もしかしたら明日、目覚めたとき、もうこの世界には悠那ちゃんがいないかもしれない。愛しい彼女の声が聞けるのは、今日で最後かもしれない。そんなことを考えたら、誰だって心の安定なんてとれやしない。僕にとっては想像の上でしかない感情だけれど、悠斗くんの心境を考えると、とても強く胸を打たれた。
 床に落ちる黒い影は、悠那ちゃんが悠斗くんを抱き寄せたようにさらに重なり、いっそう深く、濃くなった。それが、直接は見えない動作までを僕らに伝える。
「ねえ悠斗、こうしていると、落ち着くでしょう? ほっとするでしょう?」
「うん、安心する。……でも、もっともっと、怖くなる。こうやって悠那に触れられない日々が、いつかくるってこと。いつか俺は、一人になってしまうこと。それが、どうしようもなく分かってしまって……怖い」
「……ごめんね。ずっと一緒に、いられたら良かったのにね」
「嫌だよ……ずっと一緒に、いたいよ……。悠那のいない世界なんて、俺はそんなの、いらないのに……」
 悲痛な想いと、それをなだめる不自然なほどに穏やかな笑顔。考えなくたって、簡単に脳裏に浮かんでしまう。阻むことのできない感情の濁流に、そうやって僕は飲まれていく。
「ずっと、ずっとずっと一緒にいたいよ。悠那といたい。ああ……悠那……ゆう、なぁ……」
 悠斗くんの声は、もう途切れそうになっていた。発作にも似た慟哭が、彼の言葉をすり潰してしまっている。
「悠斗。私はまだ、ここにいるよ。ここで今、悠斗を抱いてあげる。だから……それで、許して」
「嫌だ……嫌だよ。悠那は寂しくないの? 俺をおいていくのは、 平気なの?」
「平気じゃ、ないよ。でも……でもね、どうにもならないことも、この世界にはあるんだよ。ごめんね。だから、分かって」
「嫌だよ……。ついていきたい。俺もついていきたいよ、悠那に」
 僕の全ての神経は今、聴覚だけに集中していた。届く音に含まれる想いが大きすぎて、それを処理するために必死だったのだ。二人の感情の余波に抗えない。感化されてしまう。次なる発言が、そこに宿る無視などできない激情が、強く僕の鼓膜を揺らし、脳を割ろうとする。
「……じゃあ、さ。……ついて、くる?」
 そして続く言葉は僕の脳を強く揺さぶった。
 ニコリと一言。きっとそうやって、容易く紡がれた言葉だった。それが、どんな意味を持つのかを知って。
 悠斗くんは全てわかった上で、悠那ちゃんに答える。彼は明らかに、その言葉を待っていたようだった。
「ああ、ありがとう。悠那、ありがとう。俺もいくよ。悠那と一緒に、どこまでもいく」
 悠斗くんは、何よりも目の前の悠那ちゃんを愛し、慈しみ、求めていた。
 他人というものを、そこまで想えるものだろうか。自分と同じくらい、あるいは自分よりも、もっと大切な人。そんな存在は、本当にあり得るものだろうか。考えさせられずにはいられないほどに。
「なら、一緒にいこうね、悠斗。悠斗が望むなら、私があなたを殺してあげる。悠斗と……そして、私のために」
「……うん、約束だ。すごく嬉しいよ。そのときはすぐに、悠那のところへ飛んでくるから」
「そっか、うん。待ってる。そのときまで、待ってるね。そうしたら、二人でいこうね。約束だね」
 室内から聞こえる囁きは、僕には刺激が強過ぎた。ひたすらに甘い。甘すぎて、感覚の何もかもがいかれてしまう。二人がああして分け合っている愛の味は、きっと気が狂うほどに魅惑的なのだろう。二人が放つ一言一言、その言の葉に、僕の身体は中からじわじわ侵されていくようだった。
 特に最後の悠那ちゃんの提案には、僕の許容限界を超えた感情が乗っていたように思う。その感情は……愛情や狂気や、他にももっと、僕が呼び名すら知らないたくさんの想いで形作られていて……未知なる響きをもって、室外から耳にする僕さえも惑わし、恐怖させ、魅了した。
 駄目だ。惚けて思考が回らない。脳を溶かし、活動を担う歯車を狂わせ、おかしくする。やはりこれは、僕には毒だ。こんな激しい、毒気のような恋情にあてられて、一人ではとても抜け出せない深みに落ちそうだ。
 でも、その瞬間に我に返る。トン、と肩に手を置かれて、意識を取り戻す。
 隣では苦しそうな顔をした桂祐くんが立っていた。
「もう、分かったろう」
 僕は若干混乱していて、何がわかって何がわからなかったのか、その判断ができなかったけれど、彼に無闇な質問はできなかった。曖昧な表情で首を縦に振ることしかできない。
「今度こそ、本当にロビーへ行こう。昼時も近い。外まで送るよ」
 僕の様子を見て彼は、唯花にもその旨を伝えて同行を促す。そうして、隠しきれない苦渋と疲弊の滲んだ顔で、必死に平静を保とうとしながら僕らを見送ったのだった。
 彼の話では、悠那ちゃんと悠斗くんのあのような会話は、もはや珍しいものではないらしい。二人きりになれば、いつものようにしていることみたいだった。
 この日、彼は総じて元気がなかった。学校で話すときと比べて、目に見えて覇気が欠けていた。通常は押し殺す苦痛の想いも、休みの日まで同じようにはいかないのかもしれない。
 安易な同情は失礼だとしても、それでも、同情せずにはいられないほどの苦悩を感じた。
 病院を退いても、僕と唯花は無言だった。桂祐くんと別れるまではぽつりぽつりと会話があったが、やはり二人になると難しい。しばらくそのまま歩いて行き、初めて悠那ちゃんと僕が出会ったあの公園の辺りで、ようやく唯花の方から口を開いた。
「元気ないじゃない。どうしたの、詞」
 ただ、そう言う唯花も、いつものように明るくはない。いやに真剣な顔をしている。
「いや、元気がないっていうか……もう、わけがわからなくて」
「そうね。少しばかり、驚いたわね」
「でも……桂祐くんの頼みは、ちゃんと聞いてあげないとって思うんだ。僕らの当初の目的にも関わるのかもしれないし。それに、個人的にも……」
 僕の言葉に、唯花はただ淡々と応じ、最後に小さく「うん」と返した。
 帰りがけに、僕らは桂祐くんから一つのお願いをされた。その彼のお願いというのは、別段無理難題ということはない。外界との接点が乏しくなってしまった悠那ちゃんのために、時間の許す限りで見舞いにきてほしいというものだった。僕らが彼女のために、外の世界との架け橋になってほしいというものだ。
 ただ、この頼みにはもう一つ別の意図があることを、僕も唯花もわかっていた。桂祐くんの本音をはっきり言ってしまえば、悠那ちゃんと悠斗くんを少しでも二人きりにしておきたくないのだろう。あの二人の度を超えた“仲の良さ”を、桂祐くんは憂いていた。超えてはいけない一線をいともたやすく超えかねない二人の様子を。
 まあそれでも、見舞いくらいは別に大したことでもないのだ。いくらでもこられる。その程度であの二人の関係を変えることができるかどうかは、正直、微妙なところだけれど。
 何せ、あんな様子だったのだから。
 二人は、あんなにも甘く愛を囁き、キスをして、抱き合っていた。とても普通の家族間で交わされるスキンシップとは思えない。明らかに常軌を逸している。
「それにしても、すごい出来事だったよ。ちょっと言葉には、言い表せないくらい。悠斗くんと悠那ちゃん……あの二人は、双子って言っていたよね?」
「ええ、そう言っていたわね。まあ私には、恋人同士にしか見えなかったけど。近親相姦っていうのかしら、ああいうの」
「きっ! あのね唯花、あんまり滅多な言い方は……」
「でも、そんな雰囲気だったわ。むしろ的確な表現だとさえ思う。家族と恋人って、どっちの方が深い関係なのか、私は知らないけれど。あの二人……あんなにも強く互いを欲して……まるで目の前の想い人が、自分の全てって感じだった」
 確かに、口にするのは憚られるが、僕も内心では同意見だ。否定は、できない。
「他人の逢引きを邪魔するのは、良くないことだとは思うけれど……でも……」
 僕らが見舞いとして訪ねれば、多かれ少なかれ彼らの関係の阻害にはなるだろう。いくら桂祐くんの頼みでも、やはりどうしても気は引ける。
 しかし、だ。僕らにも事情はあった。
「ところで唯花。最初の話に立ち返るけれど、悠那ちゃんの遺失はどうだったの?」
 僕の質問に対し唯花はびくっと肩を跳ねさせ、意外にも複雑そうな顔をした。
「悠那ちゃんは……遺失者じゃ、なかった」
「そっか。それはよかっ――」
 なんだ。違ったのか。ならばそんなに深刻そうな顔をしなくても良いのに。僕はそう思って安堵の言葉を漏らそうとしたが、けれどもそれは唯花によって遮られた。
「でも、完璧に無関係ってわけじゃないみたい。彼女の器は、決して正常ではなかったわ」
 ――え!?。
「それに、悠斗くんの方も普通じゃない。彼の方が遺失者だった。彼の器には、大きな穴がぽっかり空いていたわ。彼は……心を失くしているわね」
 僕は固まってしまった。
 心……? 心を失くしているって……いったいどういうことだ?
「心は精神の根幹。彼の精神は、そのせいでとてつもなく不安定になっているわね。きっと、見た目よりもずっと危うい状態だわ。心という根幹、つまり土台を失って、感情が不安定になっている」
 唯花は真剣な表情で考え事をしていた。口元に片手を添えて、ゆっくりと歩く。目は開いているけれども、周りには気が回らなくなっているみたいだった。
「おそらく今、悠斗くんを支えているのは悠那ちゃんなのね。さしずめ悠斗くんは、文字通り心を奪われて、悠那ちゃんの虜ってところかしら。でもそれなら、悠斗くんの心の在処はもしかして……」
 コツコツと、緩慢な足音が響く。
 遺失者が悠斗くんであったという事実に、僕は驚いて立ち止まってしまったが、そんな僕に気づく様子もなく、唯花は俯き気味に一人で進んでいってしまう。
「悠那ちゃんが、悠斗くんの遺失に関係していると考えるべき……? それなら悠那ちゃんの原因不明の病気も……? いやでも、そこまでは断定できない。勝手な想像かしら……」
 快晴の太陽が真上から照りつける中、それをまったく気にした風もない。おそらく唯花の頬を垂れる汗は、この気温によるものではないだろう。彼女には珍しく、深刻そうな表情をしている。
「あの病室の中で、とても大きな違和感を感じた。あそこは色々なものが混じり合っている。ちょっと……不気味ね……。どうしたものかしら……」
 その独り言は、夏の陽炎に滲んで、遠ざかるうちに僕へ届かなくなっていく。
 僕はハッとしてから、慌てて唯花の後についていった。
 何かが複雑に絡み合っている。唯花の言う通り、僕も直感的にそう感じた。
 僕は唯花に声をかけることができず、ゆっくりと進む唯花の斜め後ろについて、行き先もわからない帰路に着く。
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