アデルの子

新子珠子

文字の大きさ
53 / 114
第二章 深窓の君

53. 冬月

しおりを挟む
 秋の節が過ぎると空気は深く冷え込み、粒立った空気は白い景色を作り始める。僕はその景色を馬車の車窓から眺めていた。車内の温かい空気が窓に触れ、段々と白く曇っていく。僕はそこで車窓から視線を外し、車内へと視線を戻した。

 隣に座っていたジェイデンも窓を見ていたのか、不意に目が合う。彼は僅かに微笑んでもう一度曇ったガラスへ視線を向けた。

「もうすぐ聖夜祭ですね。」
「そうだね、もうウィンターマーケットも出ているのかな。」
「ええ、冬の節に入ればすぐに日が落ちる様になりますから、今の時期にはもう賑わっているはずですよ。」
「そうか、帰りは近くを通って帰りたいな。車窓から少し見てみたい。」
「承知しました、御者に伝えておきます。」
「うん、ありがとう。」

 冬の節に入るとこの国は鈍色の雲と雪に支配され、夜がとても長くなる。15時台にはもう日が落ち始めるため、長い夜を楽しむために広場に出店がたくさん出る。無数の魔鉱ランプによって彩られ、きらきらとしたマーケットの中にはホットワインやホットチョコレートなどの飲み物や簡単な食事を楽しめる店がいくつも出て、日が暮れると市井の者はマーケットで過ごすらしい。もちろん聖夜祭に向けたキャンドルやオーナメント、ランプなどの品物も並ぶ。
 僕も母に連れられて行った事もあるし、まだ10代だったレヴィルやリノと手を繋いで3人で遊びに行った事もある。ウィンターマーケットは僕にとって楽しい思い出があるところだった。

 ジェイデンは僕が思いを馳せていた事を察してか、穏やかに微笑んだ。

「リノ様かハリス様をお誘いして遊びに行かれてはいかがですか、治安が悪い所でもないですから護衛が付いていればお許しいただけると思いますよ。」

 僕は彼の言葉に曖昧に頷く。

 秋以降、僕は何度かハリスと一緒に外出をして、以前に比べると外出に恐怖はなくなっていた。何度かジェイデンに同行をお願いして、単独で図書館に行ったし、屋敷周りの散策やリノと出かける事も多くなった。
 外出に慣れてきた今の状況であれば、きっとウィンターマーケットへ行きたいと言えば許して貰えるだろう。

 でも僕はそれを言い出す気にはなれなかった。


「いや、今は車窓から眺めるだけでいいんだ。」

 僕は誤魔化す様に微笑む。

「そうですか…」

 ジェイデンは少し引っかかっている様子ではあったが、特に追及する事もなく静かに返事をした。
 話はそこで途切れ、轍を慎重に進む馬車の音だけが響く。

 僕はきらきらとした灯りに想いを馳せ、ゆっくりと曇った窓に視線を戻した。










――――――――――――――――――


「え?ウィンターマーケットにはまだ行かれてないんですか?」

 僕の足元に膝跨いていたセレダは、少し驚いたように声を上げた。ちゃぷん、と足元のボウルのお湯が音を立てる。

「そんなに驚くことかな?」
「いや、もうとっくに行っていらっしゃるかと思ってました。庶民が多い場所ですが治安も良いですし、ティト様も楽しめる場所だと思いますよ。上流階級の方がいらっしゃっているのもよく見かけますし。」

 セレダはあっさりとした口調でそう言った。そのまま慣れた様子で足元のフットバスにお湯を足し、僕の足にゆっくりと触れる。湯気と共に優しいローズマリーの香りが鼻先をくすぐった。

「デートにも良い場所じゃないですかね、リノ様やハリス様をお誘いしても喜ばれると思いますよ。」
「うん、それは分かってるんだけどね…」

 ジェイデンと同じ様な事を言うセレダに、僕は思わず苦笑いを返した。

「最近、レヴィルが本当に疲れている様子で、僕ばかり遊んでいるのが申し訳ないなと思ってるだけなんだ。ウィンターマーケット自体は素敵な所だと思っているよ。」
「ああ、なるほど…侯爵はお忙しいんですか。」
「うん。」

 夜の長い冬の節は社交界のトップシーズンでもある。トップシーズンに入ってから、レヴィルは連日連夜深夜まで帰ってこれず、疲れ切っている様子だった。そんな彼を見ているのに、僕ばかりリノやハリスと出かけるのが段々と申し訳なく感じていたのだ。
 つい最近もリノと美術館に出かけたばかりで、僕はとてもウィンターマーケットに行きたいと言い出す気にはなれなかった。

 セレダは少し悩ましげにううん、と、唸る。

「でも、侯爵のご性格ならティト様が遠慮していらっしゃる事を知ったら、悲しまれるんじゃないですかね。」
「……そう…かな」

 彼は僕の足をマッサージしながら僕を見上げる。

「ええ、それにティト様が色んな所へ出かけられるのは、単に遊ぶためではなく将来の責務と見聞を広げるためですから、そんな風に後ろめたく思われる必要は無いと思いますよ。遠慮して責務を果たせない方がティト様にとっても侯爵にとっても良くない様に思えます。」
「……うん」

 セレダは虹色の目を細め、穏やかに笑う。

「まあ…ティト様はもう少し、自分が楽しい事に欲張りになってもいいと思いますけどね。」
「………」

 セレダがそれを言うのかと訝しげな顔をすると、彼は僕の顔を見て、吹き出して笑った。

 僕は今、中央医院の一角にある静かな部屋で、セレダにフットバスと足のマッサージをして貰っていた。これはただマッサージを受けている訳ではなく、僕がセレダに触れられて緊張しない様に慣らす事が目的のものだ。

 彼はすっかり温まった僕の足をバスタオルで優しく拭うと、何かを思いついた様に顔を上げる。

「じゃあ帰りに僕とジェイデンとウィンターマーケットに寄ってみませんか?」
「え?」
「帰り際に少し様子を見に行くだけです。それならそんなに後ろめたくないでしょう?」
「…そんな急に…ジェイデンが許してくれないと思うけど…」
「まあ、試しに聞いてみましょうよ、どうですか?」

 僕は少し悩んだ後、彼の提案に頷いた。

「ジェイデンが許してくれるなら」
「よし、じゃあ終わったら聞いてみましょう。」



 セレダは頷くと、手早く手を清めた。

「では、今日も頑張ってみましょうか。」
「……うん、お願いします。」


 来春から僕には寄付の義務が発生する。そのため、秋から寄付の練習——簡単に言えばセレダの前で射精をする練習を始めていた。ただ、状況が状況だからか、自慰がトラウマになっているのかは分からないが、何度試してもどうにも自慰でイくことが出来ていなかった。
 それを見かねたセレダから寄付の手伝いをする事を提案された。寄付を避けるために研究者になった経緯のあるセレダに、そんな手伝いをしてもらうのは申し訳なくて最初は拒否していたのだが、何度試しても自慰が上手くいかず、結局申し訳ないものの手伝いをお願いする事になった。

 僕は定期的に中央医院に通い、自慰の練習と共に、彼に触れられる事に慣れる練習している。

「今日はどうします?」
「……その…前と同じ感じがいい」
「はい、では失礼しますね。」

 セレダはゆっくりと僕の左隣に座ると、そっと僕の太ももに手を添えた。ちらりと、セレダを窺い見る。彼は僕の方を見ない様に静かに目を閉じていた。
 僕はそれにどこか安心し、緊張を和らげる様にふう、と息を吐くと自分のベルトに手を掛けた。
 段々とセレダのローズマリーの香りが強くなっていて、前をくつろげると僕のものは少し頭を持ち上げていた。

 僕はもう一度息を吐くと、自身のものに触れた。











――――――――――――――――――

 練習を終えると、外はすっかり暗くなってしまっていた。僕は別室で控えてくれていたジェイデンと合流し、セレダと3人でエントランスへ向かう。

 すると回廊の向こう側からランプを手に掲げた人がこちらへ向かって来ていた。隣を歩くジェイデンとセレダが僅かに緊張するのが分かる。セレダが一歩前に出そうになるのを、僕は少しだけ手を上げて制した。

 相手は僕たちを視認すると礼をして微笑んだ。

「クローデル様、ごきげんよう。良い夜ですね。」
「ごきげんよう、君も良い夜を」

 僕が僅かに微笑んで返事を返すと、相手は妖艶とも言える笑みを浮かべた。僕を一通り見つめた後、僅かに首を横に傾げ、笑みを深める。横を通り過ぎていく拍子にふっ、と花の香りが香った。

 僕は少しびっくりしたが、反応はせずにそのまま歩みを進めた。隣を歩いていたセレダは相手を鋭く睨んでいたが、距離が離れると盛大に嫌そうなため息をつく。

「……申し訳ありません…大変な失礼を……」
「いや、大丈夫だよ、気にしないで。」
「本当に申し訳ありません………ティト様がいらっしゃってる間は、ここを通らない様に術師達には何度も言ってるんですが……懲りないな…」

 セレダは少しイラついた声でそう言った。

「ティト様、お加減は大丈夫ですか」
「うん…大丈夫、流石に慣れてきた…かも」

 心配そうなジェイデンに苦笑いを返すと、セレダも申し訳なさそうに眉を寄せた。

 中央医院に在籍する術師の間では、僕はお近づきになりたい存在らしい。中央医院を訪れると時々ああやって知らないエバにフェロモンを当てられる事がある。そういったエバは大体術師らしかった。

「その…皆、僕が…すごく苦手な感じの雰囲気だから、逆に練習になっていいかも…少し知らない人のフェロモンにも慣れてきた気がするし。」
「それは…いいのか悪いのか………僕がもう少し彼らと疎通が取れていれば良かったんですが…僕のせいです…本当に申し訳ありません。また上に掛け合ってみます。」
「いや、本当に大丈夫、気にしないで。そんな事しなくていいよ。」

 僕は笑って首を横に振った。
 セレダは研究職の術師のため、同じ中央医院でも専門職の術師とはあまり交流がないらしく、彼がいくら言っても術師達には効かない様だった。
 彼は僕に合わせてクローデル領から王都に移動してくれ、中央医院に戻った。僕の専任である限りは元の研究職には就けないが、術師として携わる以外の時間は研究チームのサポートをしているらしい。
 サポートとは言え彼の望む場所に戻れているのに、彼の人間関係が悪くなりそうな事はさせたくはなかった。

「酩酊するほど当てられる訳でも無いし、パニックにもなっていないし、とにかく僕は大丈夫だよ。もし僕が無理だと感じることがあれば必ずセレダに言う。だからそんなに気に病んだりしないで。」
「……はい…ありがとうございます。ただ…上には報告をさせてください。ティト様に失礼な振る舞いをするのは許せませんから。」

 セレダのはっきりとした物言いに、僕はこれ以上宥めるのも難しいと感じ、苦笑いをしながら頷いた。





 外に出るともう馬車は迎えに来てくれていた。
 いつもはセレダはここで見送ってくれるが、今日はコートをしっかりと着込み、帰り支度が整っている。この後、僕たちはウィンターマーケットに向かう予定だからだ。
 先ほど合流した際にセレダがジェイデンに相談をしてくれていた。彼はしばらく悩んだ後、寄り道をする事を了承してくれたのだ。


 僕は馬車に乗る前にジェイデンの顔を見上げる。

「…本当に寄って行ってもいいんだよね?」

 ジェイデンは僅かに微笑んで頷いた。

「ご無理はしないと約束していただけるなら。」

 僕は彼の言葉に頷いた。

「約束するよ。」
「はい、では参りましょう。」

 隣で話を聞いていたセレダも安心した様に笑う。僕はジェイデンに促され、馬車に乗り込んだ。それに続いてセレダとジェイデンも車内に入った。
 こんな風に彼らと馬車に乗るのも、出かけるのも、思えば初めてのことだった。

「出発してくれ」

 ジェイデンが静かな調子で御者に声をかけた。
 僕は跳ねる心を胸に車窓を眺める。隣に座ったセレダも同じ様に窓の外に視線を送った。

「楽しみですね。」
「うん」

 僕が微笑み頷くと、馬車はゆっくりと歩みを進め始めた。
しおりを挟む
感想 20

あなたにおすすめの小説

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

男子高校に入学したらハーレムでした!

はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。 ゆっくり書いていきます。 毎日19時更新です。 よろしくお願い致します。 2022.04.28 お気に入り、栞ありがとうございます。 とても励みになります。 引き続き宜しくお願いします。 2022.05.01 近々番外編SSをあげます。 よければ覗いてみてください。 2022.05.10 お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。 精一杯書いていきます。 2022.05.15 閲覧、お気に入り、ありがとうございます。 読んでいただけてとても嬉しいです。 近々番外編をあげます。 良ければ覗いてみてください。 2022.05.28 今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。 次作も頑張って書きます。 よろしくおねがいします。

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

身体検査

RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、 選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。

お兄ちゃん大好きな弟の日常

ミクリ21
BL
僕の朝は早い。 お兄ちゃんを愛するために、早起きは絶対だ。 睡眠時間?ナニソレ美味しいの?

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。 そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。

皇帝陛下の精子検査

雲丹はち
BL
弱冠25歳にして帝国全土の統一を果たした若き皇帝マクシミリアン。 しかし彼は政務に追われ、いまだ妃すら迎えられていなかった。 このままでは世継ぎが産まれるかどうかも分からない。 焦れた官僚たちに迫られ、マクシミリアンは世にも屈辱的な『検査』を受けさせられることに――!?

処理中です...