アデルの子

新子珠子

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第一章 静かな目覚め

27. 浴場

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 収穫の手伝いを終え、帰り支度をしているとセレダが僕の方を向いた。

「ティト様、この後はご予定はありますか?」

 村人たちは日当を受け取って帰り始め、農場の主である村人も荷馬に車の出立の準備をしていた。僕のそばにはジェイデンとセレダしかいない。

「今日?今日はもう屋敷に帰るだけだけど…。」

 ジェイデンの手伝いをすると僕はへとへとになってしまうので、手伝いの後には何も予定を入れないことがほとんどだった。今日も予定はあえて入れていない。
 夜もすぐに寝てしまうため、手伝いに行く日は大体一人で寝る日になっていた。

「僕に用事かな?」

 僕は首を傾げてそう答えた。セレダからそのように予定を聞かれたことは始めてだ。
 セレダは腰に手を当てて、ううん、と少し悩んだ様子で口を開く。

「中央医院から連絡がありまして…侯爵には一度ご相談をしたのですが……、決定してからお伝えするよりは…先にティト様にお話した方がいいかな…と思っていて…。」

 いつでもあっさりとした態度をとるセレダが、珍しくはっきりとしない物言いでそう言った。

「あまり良くない話?」

 僕が不安そうにそう聞くと、彼はなぜか戸惑うようにジェイデンの方を向いた。ジェイデンは困ったように首を振る。その反応を見たセレダも同じように眉を下げ、軽く笑った。

「良い話なのか悪い話なのかは僕たちには判断しかねます。」
「…ジェイデンにも関係がある話なの?」
「…ええ、そうですね。」

 ジェイデンは静かにそう答えた。僕はますます何の話なのか分からなくなる。

 セレダは悩みつつももう一度口を開いた。

「…彼にとっても、非常に大切な事なので慎重に進めたいんです。ティト様にもちゃんと事情を把握して考えていただきたくて…。」
「……セレダ、今日はティト様はお疲れだ。後日にしよう。」

 ジェイデンは静かな調子で、諭すようにそう言った。何の話なのかが分からない状況が気持ち悪く、僕は慌てて口を開く。

「僕、今節は湖水に行くことになったんだ。湖水へ行くまでに話を聞けるタイミングがないようなら、今聞きたい。」
「…ああ、そうですよね…聞いています。」

 セレダは頷いた。

 今朝僕が知ったばかりの事を、もう彼が知っている事に少しびっくりしたが、あえて反応はしなかった。担当術師や護衛には僕の行動や予定が常に共有されている。

 悩んでいるセレダを説得するように、僕はもう一度口を開いた。

「僕、今日は疲れているけど今すぐに休みたいほどではないよ。話を聞くくらいだったら大丈夫。」
「そうですか…。」

 セレダがもう一度ジェイデンを見ると、ジェイデンはふうと息をついて頷いた。

「……ティト様、汗をかかれて気持ちが悪いでしょう。村屋敷で清められてから私と教会に向かいましょうか。一度丘屋敷にお送りしても構いませんが…。」
「あ…、そうか。じゃあ村屋敷に行きたい、かな。」
「承知しました。」

 セレダは少し安心した様子で微笑んだ。

「教会に来ていただかなくても大丈夫です。僕が村屋敷にお伺いしますよ。僕はティト様が入浴されている間に一度お屋敷へ行って、リノ様に村屋敷にいらっしゃることを報告をしてきます。」
「あ、うん…分かった。ありがとう。」
「いえ、では後ほど。」

 セレダは綺麗に礼をして、馬に乗った。そして村人たちに軽く声を掛けた後、軽やかな調子で馬を翻し、屋敷へ続く道へと姿を消した。


「…私たちも向かいましょうか。」
「うん。」









 村屋敷と呼ばれるその邸宅は、呼び名の通りに麓の村のはずれにある。

 村屋敷は麓の村が好きだった祖母がゆっくりと余暇を過ごせるようにと、祖父が建てた美しい週末邸宅だ。もう祖父母は亡くなっており、今は祖母付きであった使用人が邸の管理をしてくれている。今年になって、そこへジェイデンが住み込んでくれるようになったのだ。
 村の人たちはこの邸宅を村屋敷と呼び、僕が住む丘の上の屋敷を丘屋敷と呼んで親しんでくれている。


 村屋敷に近づいてくると愛らしい花々が咲き誇る美しい庭が目に入ってきた。
 梅雨がなく夏でも暑さが厳しくないこの国は、夏の節である今の時期がバラやあじさいの見頃だ。庭には野ばらや紫陽花が彩豊かに咲き誇り、小さな白い花をつけた蔓バラが石造りの邸宅をつたっていた。村屋敷の周りはまるで童話の世界のような美しさだ。

 僕とジェイデンが邸宅の馬留に馬を寄せる。すると玄関前を清めていた高齢の使用人がこちらに気付き、少し驚いた様子で綺麗に礼をした。
 僕たちは彼の元へ近づく。

「ティト様、今日はお出ましの日でしたか。」
「爺、突然ごめんね。今日は手伝いに出たから汗をかいてしまって…浴場を使わせて欲しいんだ。」
「…急にすまない。私がお勧めしたんだ。」
「ああ、そうでしたか。いえいえ、お越しいただいて嬉しいばかりですよ。急ぎ準備いたします。どうぞ中へ。」
「うん、ありがとう。」

 高齢の使用人は穏やかな笑みを浮かべて僕たちを中へ導いた。彼はとっくに70歳を過ぎているはずだが、背筋はすっと伸び、洗練した所作でとても若々しい。元々祖母の従者を務めてくれていた人物だ。僕やレヴィルは親しみを込めて彼を爺と呼んでいた。

 爺は屋敷に入ると、穏やかな声でもう一人の使用人を呼んだ。するとはーい、と間延びした調子で返事が返ってきて、パタパタともう一人の使用人が出てくる。

「あれ!?ティト様だ!」
「ヒューゴ、久しぶり。」

 明るい調子の青年はにこにこと微笑んで僕とジェイデンに礼をした。

「ヒューゴ、ティト様は汗を流しにいらしたそうだ。急ぎ浴場の準備をしてくれ。」
「ああ、ちょうど掃除を終わってるから良かった。すぐに準備しますね!」

 ヒューゴはにこっと笑い、もう一度礼をするとまた慌ただしく奥へと向かった。

「…やれやれ、騒がしくて申し訳ありません。」
「ふふ、僕ヒューゴ明るくて好きだよ。」

 爺は困ったように微笑んだ。ヒューゴはまだ若いエバで、彼の孫だ。祖母の死後、使われることが少なくなったこの屋敷は彼の一家が大切に守ってくれている。



「湯の準備ができるまでこちらへ、お飲み物をお出ししましょう。」

 爺は僕たちをサロンへ導いた。僕がこの後、セレダが来ることを伝えると彼は今日は賑やかですねと言い、嬉しそうに頷いた。
 彼は僕たちにソファを薦めて、飲み物の準備のために退室する。


 彼の姿が扉の向こうへ消えると、僕とジェイデンは顔を見合わせた。サロンには祖母のお気に入りだった素晴らしい誂えのソファセットが置かれている。けれど、汗だくの今の状態ではとても座る気にはなれなかった。
 少し悩んだジェイデンが、衝立の奥へ行き、2脚の素朴な木製のスツールを取り出してきた。恐縮そうなジェイデンに僕は思わず笑ってしまう。

「すみません。こうやってティト様がいらっしゃる可能性があるなら、彼らにも伝えておくべきでした。私は普段浴場を使っていないもので…。」
「全然平気だよ。僕はここが好きだから、久しぶりにゆっくり来れて嬉しい。」

 僕が礼を言ってスツールに腰をかけると、ジェイデンはわずかに微笑んだ。

「よろしければもう少し村屋敷へもお越しください。彼らはいつもティト様のご様子を気にしています。遊びにきてくだされば、きっと喜びます。」
「そうか、嬉しいな。……じゃあ、ジェイデンの手伝いに来る日はここへ寄ろうかな。」

 僕がそういうとジェイデンは、少し嬉しそうに頷いた。



 しばらくすると爺が飲み物を持って戻ってきた。
 彼はソファに座らず、サロンの隅っこでこじんまりとスツールに座る僕たちを見て驚いていた。慌ててソファを勧める彼をやんわりと断り、飲み物を受け取る。

 爺の持ってきた飲み物はレモネードだった。しっかりと冷えたグラスの中で、スライスしたはちみつ漬けのレモンと摘みたてのミントがゆらゆらと揺れている。
 そっとグラスを傾けると、氷がカランと小気味のよい音を立てた。口の中にレモンの爽やかな酸味と、はちみつの優しい甘みが広がる。とても美味しい。すっきりとして労働の疲れが癒えるようだ。

「…美味しい。」
「それはよろしゅうございました。もっと何かお出しできれば良いのですが…おもてなしの準備ができておらず申し訳ございません。」
「充分だよ、ありがとう。これからジェイデンと手伝いに出る日は村屋敷に寄りたいと思うんだ。いいかな?」
「もちろんでございます。これからは浴場もすぐ使っていただけるようご用意いたします。」
「ありがとう。楽しみだな。」

 僕は頷いた。
 亡くなった祖母は大の風呂好きで、村屋敷の浴場は素晴らしい趣向が凝らされている。普段は自室のバスルームを使うことが多いので、村屋敷の大きな浴場を使うのは楽しみだ。僕は手伝いの日の楽しみが一つ増え、わくわくとした気持ちになる。




 しばらく飲み物を飲みながら談笑していると、ヒューゴがひょこっとサロンへ顔を出した。

「お待たせしましたー。浴場の準備ができましたよ。」

 彼はのんびりとそう言って、にこりと笑った。

「ありがとう、ヒューゴ。」
「いえ、久しぶりだったので準備にも気合入りました。」
「ふふ、楽しみだな。」

 僕がスツールから立ち上がると、ヒューゴはジェイデンの方を向く。

「ジェイデン様も客間のバスルームの準備できました。どうぞ!」
「ああ、ありがとう。」

 ジェイデンもわずかに微笑んで、ゆっくりとスツールから立ち上がった。ヒューゴは伝え終わると、まだ手間が残っているのか、礼をしてすっとサロンから退室した。
 僕はヒューゴの言ったことに思わず首を傾げる。

「…?ジェイデンも浴場を使うんじゃないの?」
「いえ、私は客間のバスルームを使わせていただきますよ。」
「ええ?せっかく浴場に湯をいれてもらったのに。」

 僕が少し残念そうな声を上げると、ジェイデンは困ったように笑った。爺はジェイデンへ助け船を出す様に口を開く。

「ティト様が上がられてから入られるのでは、ジェイデン様のお体が冷えてしまいますからバスルームをご用意させていただいたんですよ。」
「…えっ、なんで僕が出た後なの?」
「え?」

 爺はどういうことか分からないと言った風に聞き返した。

「僕と一緒に入ればいいよ。浴場は広いから2人で入っても大丈夫でしょう?」

 浴場は元々祖母父がゆっくりと湯を楽しむために作られた場所だ。充分に広く、2人で使うことは全く問題がないはずだ。

「そ…れはそうですが…。」

 はっきりとしない爺を不思議に思い、ジェイデンを見ると、彼はなんとも言えない表情で僕を見ていた。僕はどうしてそんな表情になるのか分からず、首を傾げる。

「それは……ジェイデン様と湯を楽しまれたいという事でしょうか?」

 急に神妙な面持ちになった爺が静かにそう言った。
 明らかに先ほどとは雰囲気が違う。なにかまずいことを言ってしまったのだろうか。僕は急に不安になってくる。

「う…うん…だめだった?」
「…いえ、だめなことは何もございませんよ。ただ少しご準備を…。」

 爺が慌てて動き出そうとするのを、ジェイデンが制した。ジェイデンはもう一度困ったように笑い、僕の方へ向いた。

 彼は僕の視線に合わせて少し屈み、僕が理解できるようにゆっくりと口を開く。

「ティト様、加護の異なる者を湯に誘うと言う事は、一般的には情交の誘いに捉えられます。今は…そういう意味で仰った訳ではありませんね?」
「……え!?」

 僕はびっくりして上擦った声を上げた。
 僕はジェイデンの言葉を理解して、段々と顔が赤くなりはじめる。僕は意図せず彼を抱きたいと言ってしまったらしい。動揺し、思わずジェイデンを上から下までまじまじと見てしまった。じっとりとした視線を浴びたジェイデンは、居心地が悪そうに苦笑いをする。

「…あ……いや……、僕はただ…せっかくの浴場だからジェイデンにも使ってもらいたくて……。」

 釈明をしようと口を開くが、しどろもどろだ。思いもよらない事態に僕の心臓はばくばくと音をたてる。

「ご…ごめん。そういう誘いになってしまうなんて…知らな、くて…。」

 あまりにも恥ずかしくて段々と声が小さくなり、耐えきれずに下を向いた。顔から火が出るようだ。その様子をみた爺が場を和ませるように口を開く。

「…おお、おお、そうでしたか。これは爺が早とちりをしてしまいました。どうかお許しを。」

 僕はどうすればいいか分からなくなり、顔を真っ赤にさせたまま、ふるふると顔を振った。恐る恐るジェイデンの顔を見る。彼は先ほどと変わらず、静かに僕を見守っていた。

「…ジェイデン、とても失礼なことを…ごめんなさい。そういうつもりで言ったわけじゃないんだ。」
「ええ、承知しております。ご存じではなかったのですから謝る必要はありませんよ。……ただ、ご自身の言動が周りにどう捉えられるのか、これからは覚えなくてはいけません。ご自身を守るためにも。」
「……うん。」

 ジェイデンは穏やかな調子で僕をそう諭した。

「さ、湯が冷めてしまわない内に湯あみをなさってください。私もバスルームを使わせてもらいますので…。」
「あ……うん。」

 僕はジェイデンにとんとん、と背中を宥めすかされて、ようやく歩を進めた。




 爺に浴室に案内をしてもらう間も、僕はしばらくの間、心臓のばくばくが治らなかった。
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