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第一章 静かな目覚め
14. 遠乗り
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翌日、目を覚ますと何となく身体が重かった。僕は脳の処理が追いつかなくて、何度か瞬きをしてまた目を閉じる。おそらく、もうそろそろ礼拝の時間だ。早く起きて支度をしないといけない。それは分かっているが、なぜか起き上がる気にならなかった。僕はまたうとうとし始める。
不意に誰かの手が僕の額に触れた。骨張っていて大きい。
「…少し熱っぽいな。」
「…すみません、昨日無理をさせてしまいました。」
「いや、…それはお互い様だ。」
レヴィルとリノが話している声がする。
僕はうとうとした意識の中、なんとかもう一度瞳を開けた。2人の姿がぼんやりと視界に入る。
「ん…。」
「…起きたか。」
「ティト…体調はいかがですか?」
そうだ。僕は昨日意識を失ったんだ。急に思考が働き始めた。身体を起こそうとするとリノが支えてくれる。
「…大丈夫。」
昨日の事もあり、僕はレヴィルの顔を見るのが怖かった。自分の足元に視線を落として、リノの言葉に頷いた。なんだか頭がくらくらした。2人が顔を見合わせる気配がする。
「…ティト。」
レヴィルが背中に手を置き、僕の顔を覗き込んだ。僕は視線を合わせられず、少し顔を逸らす。
「ティト、湖水は延期だ。また今度にしよう。」
「え…なんで…?」
僕は思わず彼の方に顔を向けた。背筋を悪寒が走る。
「お前の体調が良くなさそうだからだ。」
「…僕は大丈夫です…。」
「俺が無理をさせたくないんだ。湖水までは随分と時間がかかる。」
「いやだ!!」
僕はほとんど悲鳴のような叫び声を上げた。湖水に行けないと言う事実と昨夜の出来事が頭でごちゃ混ぜになって絶望に打ちひしがれる。僕は歯の隙間から漏れる嗚咽を我慢できず、ぼろぼろと泣き始める。
「っ…僕がっ…ダメだから…!!僕と一緒に行くのが嫌なんだ…っ!」
「そうじゃない。」
「…っ嫌だ!レヴィルと行く!!!」
「ティト。」
「あぁああっ、あ!!は、…いやだ!!はぁっ…はっ…。」
またひゅっと呼吸が漏れる。起きていられなくなりそうになる所をレヴィルが支えた。そしてそのまま抱きしめられる。呼吸がうまく出来ず、涙が溢れて溺れそうになる。
「ティト、落ち着け。お前のせいじゃない。」
「は、っ…は…ぁは…っ。」
「ティト…大丈夫ですよ。私の呼吸にあわせて。…大丈夫、ティトのせいじゃありませんよ。」
リノが僕をさすりながら大袈裟にすーはーっと息を吐いて見せてくれる。僕は必死に彼の呼吸を真似をした。いつも僕が過呼吸になった時にリノがやってくれる方法だ。僕はレヴィルとリノにさすられながら、何とか呼吸をする。僕が落ち着くまで、2人はじっと見守ってくれた。
頭が動き始めると、レヴィルと湖水へ行けない悲しみがどっと押し寄せてきた。何かの栓が壊れてしまったかのように涙が止まらない。僕はレヴィルにしがみ付いたまま、ぼろぼろと泣いた。
「……リノ、すまないが少しティトと2人で話をしてもいいか。」
「ええ…もちろんです。私はアズレトに伝えてきます。」
「ああ、すまない。…ありがとう。」
リノは僕の頭を一撫でして部屋を出て行った。ベッドには僕とレヴィルだけになる。
僕は涙が止められず体を震わせて泣きつづけた。レヴィルは僕を赤子のように抱えて静かに宥める。
「ティト…どうしたら泣き止んでくれる?」
レヴィルは僕の顔をそっと上に向かせ、指の腹で涙を拭う。ダークブルーの瞳が心配そうに僕を見つめていた。
「………ぃっ…。」
「…ん?」
「…僕の事っ、…嫌いに…ならないで…。」
僕は涙をいっぱい流しながら必死に懇願した。湖水に行けない事よりも、なによりそれが一番怖かった。
カタカタと震えながら彼のガウンの袖を掴む。レヴィルは困ったように笑って僕を抱きしめた。
「嫌いになる訳ないだろう…、昨日の事で心配になったのか?」
僕はこくりと頷いた。服越しに伝わる彼の体温は温かくて、僕はますます涙が止まらなくなる。
「ごめんな、さいっ、僕…昨日………っ、貴方が、っいたのに…不誠実な…こと…っ。」
「…お前はリノの想いに応えただけだろう?不誠実ではないよ。お前の事を嫌ったりしない。」
レヴィルは先ほどと変わらない穏やかな調子でそう答えた。ぽんぽんと僕の背中を撫でる。彼はそれ以上何も言わず、僕が落ち着くまでそうして過ごすつもりらしかった。
僕を宥めるレヴィルの様子はいつもと同じ様に思える。彼にとって昨晩の出来事は些末な事なのだろうか。彼に何も気にされていないのはあまりにも悲しくて、胸がチクリと痛んだ。
「…ティト、午後にお前の体調が良かったら俺と散歩に行こうか。」
「……散歩?」
「ああ、ミルフォード湖に行こう。馬に乗ればすぐだ。」
「ミルフォード…。」
ぼうっと言葉を繰り返すと、彼は笑って僕の額にキスを落とす。ミルフォード湖は屋敷から少し離れた場所にある小さな湖だ。
「僕…湖を見たくて泣いてるわけじゃありません…。」
「ふふ、それは分かってる。俺がお前と行きたいんだよ、だめか?」
彼は優しい表情で僕の頬を撫でる。あまりにも変わらない彼の態度に戸惑いつつも、僕は頷いた。
午後になると僕の体調はすっかり回復していた。この調子であれば湖水に行けたかもしれないと思うと少し残念だが、旅先で僕が体調を崩すと、レヴィルだけではなく使用人たちにも迷惑がかかる。仕方がなかったと自分に言い聞かせて、何とか気持ちを切り替えた。
今日は馬に乗るので心地よいリネンシャツにベージュのベストとパンツを着た。乗馬ブーツを履けば気軽な乗馬スタイルだ。
着替え終わってホールへ向かうと、すでにグレーのベストを着たレヴィルがいた。同じような服装をしているはずなのに、スタイルが良い彼は、とても様になっていてカッコいい。
それを少し悔しく思いながらも2人でエントランスを出る。すると様子を見計らったレヴィルの従者が彼の愛馬を連れてきてくれていた。
クローデル領は緑豊かな領地で観光の地としても農業・酪農の地としても有名だ。特に現国王から信頼を得ているのは馬の飼育で、毎年この領地で生まれた素晴らしい血統のサラブレッドが王室へ献上される。初夏に開催される王室主催の競馬の祭典では、その馬たちが活躍するのだ。
僕たちが乗る馬は、そういった競走馬としての成績は残せずに引退した穏やかで優しい馬たちだ。兄の愛馬である黒鹿毛のフィーリアは、立派な体躯をしているがとても優しい瞳をしている。
僕はフィーリアに挨拶をしようと近づいて、違和感に気づいた。従者はなぜか僕の愛馬のリドルを連れてきていなかった。
「あの…リドルはどうしたんですか?」
「連れてこさせなかった。今日は俺とフィーリアに2人乗りだ。」
たしかにフィーリアは2人乗りの鞍を背負っていた。僕は驚いて兄を見る。
「僕、馬には一人で乗れます。」
「もちろん、お前が乗馬が上手なのは知っているよ。でも今日は2人乗りじゃないとアズレトとリノの許しが出なかったんだ。」
レヴィルは肩をすくめてそういった。
あの2人は僕の体調に関する事にはレヴィルより厳しい。僕は過去に一度だけ体調不良を黙って馬に乗り、落馬しかけたことがある。おそらくその事が要因で今日は僕の一人乗りを許さなかったのだろう。僕は少し沈んだ気持ちで渋々と頷いた。
「そんなに落ち込んだ顔をするな。せっかくだから楽しもう。手綱はティトが握ってくれ。」
「はい。」
レヴィルは苦笑しながら僕を愛馬の前まで連れていく。フィーリアに挨拶をして僕が前の鞍に乗り、後ろの鞍にレヴィルが乗った。レヴィルは僕の腹に手を添える。しっかりと掴まったことを確認して僕はフィーリアに合図を送った。
「ティトの手綱で乗るのは初めてだな。」
「そうですね。小さい頃はよく同じように乗せてくれましたけど、その時は貴方の手綱でした。」
「ああ、そうだな。」
見送る従者に挨拶をして、僕たちは丘に弧を描くように続く一本道を下る。屋敷とこの丘周辺のランドスケープは、馬上から見た景色が一番美しく見えるようにデザインされた場所だ。僕たちはこの屋敷の美しい時期を堪能するようにゆっくりと進んだ。
「ちょうど見頃だ…これなら来週のガーデンパーティーの招待客にも楽しんでもらえるだろう。」
「そうですね。この美しい庭を愛でる人が僕たちだけなんて、もったいないと思っていたから嬉しいです。」
「ああ、きっと母上も同じような気持ちだったんだろうな。」
僕は頷いた。刈られたばかりの若草の甘い香りと、そよ風になびくレバノン杉の木立が心地よい。
この季節になると母は幼い僕を連れて頻繁に庭でお茶や散策をしていた。彼と庭を楽しみながら聞く領地の話は、夢物語のようにキラキラしていて、今でもその思い出は僕の中に大切にしまわれている。
母はこの屋敷も、領地も、領民も、僕たちにも、たくさんの愛を注いでくれる人だった。彼とは10年という短い期間しか一緒に過ごせなかったが、僕を形作っている確かなものは、きっと彼の愛でできているように思う。
「…お母様とまたこの季節を過ごしたかったですね。」
「……そうだな。」
レヴィルは静かにそう答えた。穏やかな沈黙の中、彼はしばらく僕を後ろから抱き込むような体勢のままじっとしていた。僕は何も言わずに手綱を握る。
レヴィルは母の死を悲しむ暇もなく20歳でこの領地の主となり、僕の庇護者にならなくてはいけなかった。この数年、ずっと己を律してこの領地と僕を守ってくれていた。彼の温かみを背中に感じながら、僕はいつか彼が安らげるような存在になりたいと心から思った。彼に甘えてしまうばかりの僕には、まだまだ難しい目標だ。
丘を下りきると村へと続く道を逸れて小道に入る。湖へと続く遊歩道だ。この先には広大な牧草地が広がっていて、そこを通り過ぎると湖に出る。
小道を踏みしめながらフィーリアはゆったりと進んでいった。フィーリアはとても賢くて、なるべく馬体を揺らさずに歩いてくれる。馬上はとても心地が良かった。
僕は牧草地で草を食むひつじの群れを遠くに眺める。穏やかな時間だ。僕の心は久しぶりに凪いでいた。
穏やかな時間の中で僕はようやく今朝の出来事に折り合いをつける事ができてきていた。
僕は覚悟を決めて口を開く。
「…レヴィル、今朝は取り乱してしまってすみませんでした。」
「いや…。」
「僕…多分、すごく焦っていました。自分の事しか考えてなかった。」
レヴィルは何も答えなかった。僕はフィーリアの歩調に合わせるようにゆっくりと話をする。
「ごめんなさい。…僕、昨晩の事は後悔していません。リノの気持ちにちゃんと応えたかったから。だからその結果で貴方が僕の事を失望してしまっても…それは僕が受け入れなくてはいけない事だと思います。」
「失望なんか…していない。」
「ふふ、気にしていないって言われる方がもっと辛いです。…でも、受け入れなきゃいけないですね。」
僕は静かに息を吐いた。ちゃんと彼に伝えなくてはいけないと思った。彼を1人にしてしまう事だけは絶対にしたくなかった。
「僕は貴方が好きです。……これから先、全ての妻を平等に愛する事は難しいんじゃないかと思うくらいに、貴方がすごく好きです。」
「…。」
「本当は貴方にアデルとして愛されたい。…でももし貴方が僕を愛してくれなくても、僕はずっと味方です。貴方を支えることができる人になるために、これからもっともっとお稽古も勉強も頑張ります。」
それは嘘偽りない言葉だった。たとえアデルとして愛されなくても、彼を支えたいと思う気持ちは変わらなかった。
「子種を残すアデルとしての役目だけじゃなくて…僕は人として貴方の支えになりたい。そう思えるくらい貴方が大好きです。…だから、今すぐには無理でも、いつかは…1人で抱え込みすぎないで僕に頼って欲しい。」
レヴィルは僕の言葉に返事はしなかった。
それでも僕の腹に回された手がきゅっと強くなったのを僕は感じていた。
今はそれだけで充分だった。
僕たちは静かにフィーリアに揺られながら、ゆっくりと湖を目指した。
不意に誰かの手が僕の額に触れた。骨張っていて大きい。
「…少し熱っぽいな。」
「…すみません、昨日無理をさせてしまいました。」
「いや、…それはお互い様だ。」
レヴィルとリノが話している声がする。
僕はうとうとした意識の中、なんとかもう一度瞳を開けた。2人の姿がぼんやりと視界に入る。
「ん…。」
「…起きたか。」
「ティト…体調はいかがですか?」
そうだ。僕は昨日意識を失ったんだ。急に思考が働き始めた。身体を起こそうとするとリノが支えてくれる。
「…大丈夫。」
昨日の事もあり、僕はレヴィルの顔を見るのが怖かった。自分の足元に視線を落として、リノの言葉に頷いた。なんだか頭がくらくらした。2人が顔を見合わせる気配がする。
「…ティト。」
レヴィルが背中に手を置き、僕の顔を覗き込んだ。僕は視線を合わせられず、少し顔を逸らす。
「ティト、湖水は延期だ。また今度にしよう。」
「え…なんで…?」
僕は思わず彼の方に顔を向けた。背筋を悪寒が走る。
「お前の体調が良くなさそうだからだ。」
「…僕は大丈夫です…。」
「俺が無理をさせたくないんだ。湖水までは随分と時間がかかる。」
「いやだ!!」
僕はほとんど悲鳴のような叫び声を上げた。湖水に行けないと言う事実と昨夜の出来事が頭でごちゃ混ぜになって絶望に打ちひしがれる。僕は歯の隙間から漏れる嗚咽を我慢できず、ぼろぼろと泣き始める。
「っ…僕がっ…ダメだから…!!僕と一緒に行くのが嫌なんだ…っ!」
「そうじゃない。」
「…っ嫌だ!レヴィルと行く!!!」
「ティト。」
「あぁああっ、あ!!は、…いやだ!!はぁっ…はっ…。」
またひゅっと呼吸が漏れる。起きていられなくなりそうになる所をレヴィルが支えた。そしてそのまま抱きしめられる。呼吸がうまく出来ず、涙が溢れて溺れそうになる。
「ティト、落ち着け。お前のせいじゃない。」
「は、っ…は…ぁは…っ。」
「ティト…大丈夫ですよ。私の呼吸にあわせて。…大丈夫、ティトのせいじゃありませんよ。」
リノが僕をさすりながら大袈裟にすーはーっと息を吐いて見せてくれる。僕は必死に彼の呼吸を真似をした。いつも僕が過呼吸になった時にリノがやってくれる方法だ。僕はレヴィルとリノにさすられながら、何とか呼吸をする。僕が落ち着くまで、2人はじっと見守ってくれた。
頭が動き始めると、レヴィルと湖水へ行けない悲しみがどっと押し寄せてきた。何かの栓が壊れてしまったかのように涙が止まらない。僕はレヴィルにしがみ付いたまま、ぼろぼろと泣いた。
「……リノ、すまないが少しティトと2人で話をしてもいいか。」
「ええ…もちろんです。私はアズレトに伝えてきます。」
「ああ、すまない。…ありがとう。」
リノは僕の頭を一撫でして部屋を出て行った。ベッドには僕とレヴィルだけになる。
僕は涙が止められず体を震わせて泣きつづけた。レヴィルは僕を赤子のように抱えて静かに宥める。
「ティト…どうしたら泣き止んでくれる?」
レヴィルは僕の顔をそっと上に向かせ、指の腹で涙を拭う。ダークブルーの瞳が心配そうに僕を見つめていた。
「………ぃっ…。」
「…ん?」
「…僕の事っ、…嫌いに…ならないで…。」
僕は涙をいっぱい流しながら必死に懇願した。湖水に行けない事よりも、なによりそれが一番怖かった。
カタカタと震えながら彼のガウンの袖を掴む。レヴィルは困ったように笑って僕を抱きしめた。
「嫌いになる訳ないだろう…、昨日の事で心配になったのか?」
僕はこくりと頷いた。服越しに伝わる彼の体温は温かくて、僕はますます涙が止まらなくなる。
「ごめんな、さいっ、僕…昨日………っ、貴方が、っいたのに…不誠実な…こと…っ。」
「…お前はリノの想いに応えただけだろう?不誠実ではないよ。お前の事を嫌ったりしない。」
レヴィルは先ほどと変わらない穏やかな調子でそう答えた。ぽんぽんと僕の背中を撫でる。彼はそれ以上何も言わず、僕が落ち着くまでそうして過ごすつもりらしかった。
僕を宥めるレヴィルの様子はいつもと同じ様に思える。彼にとって昨晩の出来事は些末な事なのだろうか。彼に何も気にされていないのはあまりにも悲しくて、胸がチクリと痛んだ。
「…ティト、午後にお前の体調が良かったら俺と散歩に行こうか。」
「……散歩?」
「ああ、ミルフォード湖に行こう。馬に乗ればすぐだ。」
「ミルフォード…。」
ぼうっと言葉を繰り返すと、彼は笑って僕の額にキスを落とす。ミルフォード湖は屋敷から少し離れた場所にある小さな湖だ。
「僕…湖を見たくて泣いてるわけじゃありません…。」
「ふふ、それは分かってる。俺がお前と行きたいんだよ、だめか?」
彼は優しい表情で僕の頬を撫でる。あまりにも変わらない彼の態度に戸惑いつつも、僕は頷いた。
午後になると僕の体調はすっかり回復していた。この調子であれば湖水に行けたかもしれないと思うと少し残念だが、旅先で僕が体調を崩すと、レヴィルだけではなく使用人たちにも迷惑がかかる。仕方がなかったと自分に言い聞かせて、何とか気持ちを切り替えた。
今日は馬に乗るので心地よいリネンシャツにベージュのベストとパンツを着た。乗馬ブーツを履けば気軽な乗馬スタイルだ。
着替え終わってホールへ向かうと、すでにグレーのベストを着たレヴィルがいた。同じような服装をしているはずなのに、スタイルが良い彼は、とても様になっていてカッコいい。
それを少し悔しく思いながらも2人でエントランスを出る。すると様子を見計らったレヴィルの従者が彼の愛馬を連れてきてくれていた。
クローデル領は緑豊かな領地で観光の地としても農業・酪農の地としても有名だ。特に現国王から信頼を得ているのは馬の飼育で、毎年この領地で生まれた素晴らしい血統のサラブレッドが王室へ献上される。初夏に開催される王室主催の競馬の祭典では、その馬たちが活躍するのだ。
僕たちが乗る馬は、そういった競走馬としての成績は残せずに引退した穏やかで優しい馬たちだ。兄の愛馬である黒鹿毛のフィーリアは、立派な体躯をしているがとても優しい瞳をしている。
僕はフィーリアに挨拶をしようと近づいて、違和感に気づいた。従者はなぜか僕の愛馬のリドルを連れてきていなかった。
「あの…リドルはどうしたんですか?」
「連れてこさせなかった。今日は俺とフィーリアに2人乗りだ。」
たしかにフィーリアは2人乗りの鞍を背負っていた。僕は驚いて兄を見る。
「僕、馬には一人で乗れます。」
「もちろん、お前が乗馬が上手なのは知っているよ。でも今日は2人乗りじゃないとアズレトとリノの許しが出なかったんだ。」
レヴィルは肩をすくめてそういった。
あの2人は僕の体調に関する事にはレヴィルより厳しい。僕は過去に一度だけ体調不良を黙って馬に乗り、落馬しかけたことがある。おそらくその事が要因で今日は僕の一人乗りを許さなかったのだろう。僕は少し沈んだ気持ちで渋々と頷いた。
「そんなに落ち込んだ顔をするな。せっかくだから楽しもう。手綱はティトが握ってくれ。」
「はい。」
レヴィルは苦笑しながら僕を愛馬の前まで連れていく。フィーリアに挨拶をして僕が前の鞍に乗り、後ろの鞍にレヴィルが乗った。レヴィルは僕の腹に手を添える。しっかりと掴まったことを確認して僕はフィーリアに合図を送った。
「ティトの手綱で乗るのは初めてだな。」
「そうですね。小さい頃はよく同じように乗せてくれましたけど、その時は貴方の手綱でした。」
「ああ、そうだな。」
見送る従者に挨拶をして、僕たちは丘に弧を描くように続く一本道を下る。屋敷とこの丘周辺のランドスケープは、馬上から見た景色が一番美しく見えるようにデザインされた場所だ。僕たちはこの屋敷の美しい時期を堪能するようにゆっくりと進んだ。
「ちょうど見頃だ…これなら来週のガーデンパーティーの招待客にも楽しんでもらえるだろう。」
「そうですね。この美しい庭を愛でる人が僕たちだけなんて、もったいないと思っていたから嬉しいです。」
「ああ、きっと母上も同じような気持ちだったんだろうな。」
僕は頷いた。刈られたばかりの若草の甘い香りと、そよ風になびくレバノン杉の木立が心地よい。
この季節になると母は幼い僕を連れて頻繁に庭でお茶や散策をしていた。彼と庭を楽しみながら聞く領地の話は、夢物語のようにキラキラしていて、今でもその思い出は僕の中に大切にしまわれている。
母はこの屋敷も、領地も、領民も、僕たちにも、たくさんの愛を注いでくれる人だった。彼とは10年という短い期間しか一緒に過ごせなかったが、僕を形作っている確かなものは、きっと彼の愛でできているように思う。
「…お母様とまたこの季節を過ごしたかったですね。」
「……そうだな。」
レヴィルは静かにそう答えた。穏やかな沈黙の中、彼はしばらく僕を後ろから抱き込むような体勢のままじっとしていた。僕は何も言わずに手綱を握る。
レヴィルは母の死を悲しむ暇もなく20歳でこの領地の主となり、僕の庇護者にならなくてはいけなかった。この数年、ずっと己を律してこの領地と僕を守ってくれていた。彼の温かみを背中に感じながら、僕はいつか彼が安らげるような存在になりたいと心から思った。彼に甘えてしまうばかりの僕には、まだまだ難しい目標だ。
丘を下りきると村へと続く道を逸れて小道に入る。湖へと続く遊歩道だ。この先には広大な牧草地が広がっていて、そこを通り過ぎると湖に出る。
小道を踏みしめながらフィーリアはゆったりと進んでいった。フィーリアはとても賢くて、なるべく馬体を揺らさずに歩いてくれる。馬上はとても心地が良かった。
僕は牧草地で草を食むひつじの群れを遠くに眺める。穏やかな時間だ。僕の心は久しぶりに凪いでいた。
穏やかな時間の中で僕はようやく今朝の出来事に折り合いをつける事ができてきていた。
僕は覚悟を決めて口を開く。
「…レヴィル、今朝は取り乱してしまってすみませんでした。」
「いや…。」
「僕…多分、すごく焦っていました。自分の事しか考えてなかった。」
レヴィルは何も答えなかった。僕はフィーリアの歩調に合わせるようにゆっくりと話をする。
「ごめんなさい。…僕、昨晩の事は後悔していません。リノの気持ちにちゃんと応えたかったから。だからその結果で貴方が僕の事を失望してしまっても…それは僕が受け入れなくてはいけない事だと思います。」
「失望なんか…していない。」
「ふふ、気にしていないって言われる方がもっと辛いです。…でも、受け入れなきゃいけないですね。」
僕は静かに息を吐いた。ちゃんと彼に伝えなくてはいけないと思った。彼を1人にしてしまう事だけは絶対にしたくなかった。
「僕は貴方が好きです。……これから先、全ての妻を平等に愛する事は難しいんじゃないかと思うくらいに、貴方がすごく好きです。」
「…。」
「本当は貴方にアデルとして愛されたい。…でももし貴方が僕を愛してくれなくても、僕はずっと味方です。貴方を支えることができる人になるために、これからもっともっとお稽古も勉強も頑張ります。」
それは嘘偽りない言葉だった。たとえアデルとして愛されなくても、彼を支えたいと思う気持ちは変わらなかった。
「子種を残すアデルとしての役目だけじゃなくて…僕は人として貴方の支えになりたい。そう思えるくらい貴方が大好きです。…だから、今すぐには無理でも、いつかは…1人で抱え込みすぎないで僕に頼って欲しい。」
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