アデルの子

新子珠子

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第一章 静かな目覚め

6. 誘惑

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 この数日で一生分の涙を流しているような気がする。


 気が済むまでさんざん泣いたので、泣き止む頃には頭がぼーっとしていた。このまま寝てしまいそうだ。僕は兄と手を繋いだまま、何度か身じろぎをして寝心地の良い態勢を探す。兄はそんな僕の様子をただぼうっと見ていた。


 すると僕の嗚咽がやむのを待っていたのだろう。タイミングを見計らった従僕がレモンシャーベットを持って入室した。先ほど兄が頼んでくれたものだ。兄はそこでようやくスイッチが入ったように起き上がり、入眠モードに入ろうとしていた僕を起こした。
 従僕はレモンシャーベットを兄に渡すと、冷えた食事を回収してすぐに退室した。おそらく温めてきてくれるのだろう。

 兄は僕を抱き起こすとシャーベットを手に取り、スプーンですくって僕の口の前に差し出した。
 正直もう眠くて仕方がないので食べたくはないのだが、それを言うのも億劫でゆるゆるとシャーベットを口に含んだ。すると甘酸っぱい優しい味が口の中に広がる。冷たい食感が気持ち良い。

「美味しい…。」
「ふふ、そうか。」

 微笑んだ兄の目元は少しだけ赤いが、先ほどより張り詰めた雰囲気がなくなっていた。
 僕がシャーベットを嚥下すると、兄は間髪入れずにスプーンを差し出した。美味しかったので3口ほどは食べたが、冷たい食べ物を矢継ぎ早に差し出されるのは結構つらい。僕は兄が次の一口を差し出す前に話しかけた。

「兄上。」
「ん?」
「僕、ハリス様に口付けをしました。」
「…ああ、伯爵がお前のキスはとろけるように気持ちよかったと、ハリスがうっとりしていたと言っていたな。」

 兄がぽろっと言った言葉に僕は何とも言えない表情を浮かべた。自分のキスの子細が保護者同士に筒抜けになっているのもすごく微妙だが、兄からそれを言われるのはもっと微妙だ。
 苦虫を嚙み潰したような僕の表情を見て、兄は笑った。

「すごい顔してるぞ。」
「だって兄上が意地悪を言うから…。」


 兄は僕の保護者ではあるが、将来は僕の妻になる予定の人だ。

 この世界では2柱の神の加護によって近親交配のリスクがない。アデルが生まれた貴族の家では兄弟間の結婚がかなり一般的だ。兄は僕の意志を尊重するために、婚約について触れてきたことはないが、母が生きていた頃はずっと将来兄は僕の妻になるのだと言い含められていた。
 それに彼は社交界や保護地区でほとんどアデルと関係を持っておらず、僕の決断を待ってくれているのは明らかだった。



「兄上は僕とキスをしたいと思いますか?」
「……どうかな。お前がしたいのなら。」
「僕は兄上が大好きです。でも口づけをしたい好きかはまだ分かりません。」
「ふふ、そうか。」

 僕が正直にそういうと兄は柔らかく微笑んだ。

「兄上はどうですか。」
「ティトと同じだよ。」

 そうか。それはそうだろう、兄にとっては僕は手のかかる庇護の対象だ。恋愛対象ではないだろう。妙に納得をして僕は頷いた。


「でもお前のことは誰よりも愛しいよ。」


 ぱっと顔を上げると、兄は美しいダークブルーの瞳でこちらを見つめていた。僕は兄の言葉がとんでもなく嬉しくて、心の中だけでは咀嚼しきれず思わず破顔してしまった。




 この人に愛されているということが僕にとってどれほど嬉しくて幸せなことか、この喜びが兄に伝われば良いのにと思う。僕は嬉しくてシャーベットが零れないように注意して兄に抱き着いた。

 すると頭上で兄が笑う気配がして、ふわりと兄の匂いがした。陶然とするようなジュニパーとグレープフルーツの香り。僕は思わずぱっと顔を上げた。

 兄は驚いて顔を強張らせた。

「っすまない。」

 兄は焦った様子ですぐに身を離した。カチャリとトレイが音を立てる。匂いはしなくなった。

「あ…兄上の匂い、初めて嗅ぎました……。」
「すまない、気が抜けていた。……体調は大丈夫か。」

 僕は少しぼうっとしたまま頷いた。
 子を宿すことができるエバは、アデルを誘惑するフェロモンを出すことができる。一般的に魔力と身体の相性が良いほど、その匂いは良い匂いに感じると言われている。
 今嗅いだ兄の匂いはびっくりするほど良い匂いで、とにかくたまらなかった。

「兄上の匂い……すごく良い匂いです。もう一度嗅ぎたい。」

 僕は今の匂いをもう一度嗅ぎたくて、兄の首筋に顔を埋めた。微かにまだ匂いがする。

「なにを言って…っ。」

 兄は身じろいで抵抗をしようとする。

 普通に生活をしているとエバはほのかにフェロモンの香りを放つ。僕は3年前にフェロモンを当てられて恐ろしいことをされた。だからエバのフェロモンに怯える僕のために、兄は常に自分を律してフェロモンを抑えてくれている。それはいつも傍にいてくれたリノも同じだが、兄は特に制御が上手で明確に良い匂いだと分かるほど、今まで嗅いだことがなかった。

「僕、フェロモンをこんなに良い匂いだと思ったの、初めてです…お願い…もう一度嗅がせて。」

 僕と兄の体格差は圧倒的だ。抵抗されれば、あっという間に引きはがされる。僕は必至で懇願した。兄の首筋に唇を這わせる。自分でも信じられないくらい、ものすごく前のめりだ。

「…っだめだ、少し落ち着け!」

 結局、僕は軽々と兄から引きはがされた。トレイがカチャンと音を立てる。トレイは今にも滑り落ちそうだが、もう僕にはそんなことを気にしてる余裕がなかった。僕はすかさず兄の手を掴み、手の甲にキスをした。そのまま少し乱暴にカフスを外し、指でシャツを滑らせながら肘にかけて唇を這わせる。

「兄上、拒絶しないで。」
「ティトっ……お前、っフェロモンに当てられたんだ、少し休憩しよう…。」

 そう、確かに僕はフェロモンに当てられていた、正しい意味で。
 僕は目の間にいるエバを手に入れたいという強い欲求に駆り立てられている。フェロモンに当てられたアデルの正しい姿だ。僕は完全に兄に興奮をしている。

「兄上がすごく欲しい、キスがしたい。」
「だめだ…キスがしたいような好きか分からないって言ってただろ。」
「でも兄上が大好きです、僕のものにしたい。」
「っそれは…フェロモンに、当てられてそう思ってしまっているだけだ。」

「お願い…。」

 僕は再び兄の首筋に吸い付いた。何度かリップ音をたてた後、舌を這わせて首筋をなぞる。

「キスしよう…レヴィル。」
「は、…っ。」

 兄は息を吐き、顔を少し反らしてぶるりと身体を震わせた。明らかに快感を逃す仕草だ。
 この様子でもフェロモンを流さない彼の胆力に感心する。この美しい男の唇を奪い、思う存分フェロモンを嗅ぎたい。そしてその肌に触れて全てを自分のものにしたい。僕はそんな想いに支配されていた。

「レヴィル…大好き…もっと見せて…。」

 僕は首筋に唇を寄せたまま、レヴィルのベストのボタンを外す。そのままベストの中に手を差し入れ、シャツ越しにゆっくりと彼の身体をなぞった。バランスよく筋肉がついた均整のとれた身体が好ましい。

「はぁ……っ。」

 息を吐いてその感覚を逃がそうとする兄の姿はすごく官能的だ。僕は兄の胸元に手を伸ばして愛おしく撫でた後、シャツ越しに緩く乳首を摘んだ。彼はふるりと身体を震わせる。

「ぁ…ティト、頼む…これ以上は、やめてくれっ。」

 兄は耐えきれなくなったように僕を押し退けた。快感を拾った顔を隠す様に顔を背ける。

「怖い…やめてくれ…。」
「…何が怖いのですか。」

 僕は押し退けた彼の手を掴みキスを落とした。本当は形の良い彼の指を口に含み愛撫したいが、なんとか堪えて彼の様子を見る。

「…お前に、拒絶されるのが怖い。」

  こちらを向いた彼はダークブルーの瞳を揺らしていた。いつでも優しく頼もしい兄のこんな姿は初めて見る。

「…拒絶してるのは兄上です。」
「違う。今のお前はフェロモンで酩酊しているだけだろう。お前の意思じゃない。」
「僕の意思だったら受け入れてくださるのですか。」

 兄は答えなかった。僕はどうすれば兄が受け入れてくれるのか必死だ。この状態の僕に答えればまた暴走すると思ったのかもしれない。



「とにかく少し休め。」

 ぐいっと身体を持ち上げられ、完全に兄から引きはがされた。兄はベッドから出て行こうとする。

「いやだ!!一人にしないで!もうしませんから!」

 僕は必死に兄の背中に追いすがった。ガシャンッと音を立ててトレイが床に落ちる。

「お願い…行かないで…。」
「1人にならない様にすぐにアズレトを呼ぼう。」
「いやだ!レヴィルがいい!!」
「ティト、あまり興奮するな。」

 兄は僕の手の上に自分の手を添えてとんっと宥めた。

「急にフェロモンを浴びてびっくりさせたな。ごめんな。」
「うう……。」
「食事を済ませたらまた戻ってくるよ。」
「やだぁ…。」

 言葉とは裏腹に観念したように腕の力を弱めると、兄はするりと腕から抜けそっと立ち上がった。シーツの上に転がる兄のカフスボタンが目に入る。僕はそれを手に取って兄には返さずにぎゅっと胸元で握った。その場に蹲る。

「行かないで…。」
「ティト…今お前は興奮状況になってるのは分かるな?」

 兄は諭すように僕に声をかける。今まではフェロモンを浴びると卒倒していたので、興奮状態になったのは初めての事だった。

「落ち着くには少しエバと距離を取る方がいいんだ。今の状態だとお前の体調も心配だ。」

 兄の言うことは、頭では分かる。
 でも兄に受け入れて貰えなかったことが悲しくて、切なくて、この感情を咀嚼できない。
 兄の事が大好きだと言う元々持っていた感情が、どんな種類の好きだったのか。今の気持ちのどこまでが本当の自分の気持ちだったのか。全く分からなくなっていた。


 兄は蹲って動かなくなった僕の頭にぽんっと手を置いて、小さくごめんなと呟いた。そしてそっと部屋を出て行った。




 僕はあまりにも悲しくて、しばらく蹲ったまま動けなかった。

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