アデルの子

新子珠子

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第一章 静かな目覚め

5. 兄

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 ハリスのフェロモンに当てられた僕は案の定、翌日から熱を出した。



 心因性のこういった体調不良と僕はもう3年ほど付き合っている。エバと接触があるとどうしても過去のトラウマがフラッシュバックし、身体が拒絶反応を起こしてしまうのだ。ハリスにお茶菓子と茶葉の土産を持たせて見送ったあと、そのまま倒れこむように寝込んだ。
 ただ以前に比べれば、症状は明らかにマシになったように感じる。今までは状況が分からず様々なことが恐ろしくて仕方がなかったが、理解が及ぶようになって少し精神が安定した。けれど、まだ自分の中の子供の部分に引っ張られる事が多いし、心的外傷が快癒したわけではない。


 僕はアデルなので沢山のエバと交わり、子を成すことが国から義務付けられている。しかし、このままでは、どう考えても役目を果たせるとは思えなかった。

 考えなくてはいけない問題はたくさんある。でも熱に浮かされてどうにも思考がまとまらない。僕はうつらうつらと数日を過ごした。




「ティト様、お薬の時間です。少し食事をしましょう。」

 意識が少し浮上したタイミングでリノに声をかけられた。どうやら夕方の薬の時間のようだ。
 リノはこの数日のほとんどを僕の私室で過ごし、甲斐甲斐しく看病をしてくれている。迷惑をかけっぱなしで申し訳ないが、1人だと不安で仕方がないので本当にありがたい。

「うん…でもお腹空いてない。」
「そうですか。では一口だけ食べましょうか。」
「や。」

 僕はいやいやと力なく首を振る。食べないといけないのは分かっているが、食べたくない。
 リノだってずっと僕の看病をして疲れているだろう。これ以上困らせたくないと思っているのに、なんだか不安が押し寄せて自分でも心のコントロールができない。駄々をこねる僕をどう宥めようかとリノは少し困った様子だ。




「リノ、俺が代わろう。」

 いつの間にか誰かが入室していたようだ。僕は声のする方を向いた。

「ティト。」
「え…兄上?」

 そこにはスタイルの良い長身の美しい栗毛の男性がいた。
 それは王都にいるはずの兄レヴィルだった。僕はびっくりして少し身体を起こす。

「兄上、どうしてここに?」
「お前の様子を見に来た。」

 レヴィルは身を起そうとしている僕を制し、リノが持っている食事のトレイを受け取った。

「リノ、何か口の中がさっぱりするものを追加で持ってくるようにパトリックに伝えてくれ。持ってくるのは急がなくていい。」
「はい。」
「それと、お前は少し休んで来い。」
「え?いえ、大丈夫です。」

 レヴィルはナイトテーブルにトレイを置くと、ベッド近くの椅子に座った。

「お前が疲れているとティトが不安がる。」

 確かにリノはすごく疲れた様子だ。きっとあまり寝ていないのだろう。

「命令だ、寝てこい。今日はもういい。」
「……はい。」

 リノは一礼をする。目が合うと彼は少し申し訳なさそうな顔をして部屋を出ていった。僕のせいなのに申し訳ない。
 レヴィルは少し腰を上げて、僕の額に手のひらを乗せた。ダークブルーの瞳をたたえた端正な顔が僕を覗き込む。触れた手は大きくて骨張っている。少しひんやりとして気持ちが良い。

「熱は大分下がっているな。」
「兄上、ごめんなさい…僕リノにたくさん我侭を言いました…。」
「ふ、そうだろうな。」
「それに兄上もお仕事なのにわざわざこちらに…ご迷惑を…。」

 この時期の兄は議会に召集されていて、会合や審議で忙しいはずだ。忙しい兄を煩わせてしまった。

「元々あのじじいが駄々を捏ねたせいでお前が無理をしたんだ。数日の休日くらい、じじいが何とかしてくれる。」
「えっ。」

 兄の物言いに僕は思わず目を瞬かせた。兄の言うじじいとはカイザーリング伯の事だ。まさかカイザーリング伯に処理を任せてここに来たのだろうか。ただでさえ僕がハリスを泣かせたのに、そんなことをして大丈夫なのだろうか。
 レヴィルは、怪訝そうにしている僕の顔をみてふっと笑った。

「心配するな。もともと明日は休廷日だったんだ。お前が体調不良だと知った伯爵がさらに数日工面してくれただけだ。」
「そう、なのですか。」

 兄に迷惑をかけていることには変わりはないが、伯爵と軋轢が生まれているわけではないようで少しほっとした。

「伯爵から随分と丁重な礼を受けた。くれぐれもお前に感謝を伝えてほしいと言っていたぞ。お前はすごいな、ティト。」
「僕、伯爵にお礼をしていただくようなことは何もしてません。」
「そうでもないさ。」

 レヴィルは椅子から立ち上がり、僕のベッドに腰を掛けた。彼は僕の頬に手を置くと視線を合わせた。微かに兄の香りがする。久しぶりに兄に会えた。安心感とここ数日我慢していた将来への不安が一気にこみ上げてくる。

「兄上、色んなこと……上手にできなくて、申し訳ありません。」
「そんなことはない。お前はよくやってくれている。」

 その声色はびっくりするくらい優しい。

「俺は誇らしいよ。」

 兄がそっと僕の頬を撫でる。もう我慢の限界だった。
 僕は堪えきれずに火が付いたように泣き出した。

 怖い。
 怖い。
 怖い。

 兄が傍にいない事も
 何人ものエバと交わらなければならない運命も、
 その運命に応えることができない自分の弱さも、

 何もかもが不安で怖くて仕方がなかった。



 怖いと言ってひたすらに泣く僕を兄は宥めたりせずにただ見つめていた。そして彼は何も言わずにそっと僕の横に横たわった。彼の美しい栗毛が白いシーツに触れる。

「俺が不甲斐ないせいでお前に負担をかけている。」

 彼の骨ばった手が僕の頬を撫でた。

「ごめんな、ティト。」

 僕は涙を流しながら、ふるふると首を振った。

「お前の不安が少しでも軽くなるように力を尽くすよ。だから怖いことは何でも言ってくれ。」

 そういって彼はそっと僕の髪に口づけを落とした。僕は我慢できずに彼に抱き着いた。

「本当は、兄上がっ、……っいな、くて、寂しい、です。」
「うん。」
「兄上をっ……お助け、したいのに、何も、できないっ。」
「そんなことはない。お前がいることが俺の救いだよ。」

 兄は僕たちが家族2人きりになってから、ずっと心を砕いて僕を守ってくれている。そんな兄にもっと傍にいて欲しいと願うのは、あまりにも自分勝手だ。それでも兄は僕の寂しさを受けとめてくれて、ごめんな。と額にキスを落としてくれる。こんなにも優しい兄の支えになれない自分が本当に情けない。

「他には?」

 兄は僕をまっすぐ見つめていた。本当は僕が何を一番恐れているのか彼は分かっているんだろう。僕は少し言葉を詰まらせた。でも一番恐怖している傷をこの場で言わないで、腫れ物ようにしてしまえば取返しがつかない気がした。


「……ごめんなさいっ……ぼく、アデルの…っ、役目、を、果たすのが…恐ろしいんです。」

 僕の恐怖は兄が一番悔やんでいる事を責めることになる。僕は申し訳なくて涙が止まらない。

「頭では、大丈夫だって思っても……どうしても、身体が…言うことを聞か、なくて。」

 見上げると彼のダークブルーの瞳は少しだけ揺れていた。

「……ごめんな。お前の心を癒したいのに…どうすればいいのか分からないんだ。」
「……ごめんなさい。」
「謝るな、お前が悪いところは一つもない。」

 兄は僕の涙を指で拭う。僕はその手を取って頬を寄せた。

「兄上も、……一人で、苦しまないで、僕のことで兄上が苦しむのは、僕も苦しい。」
「…すまない。」
「謝るのも、だめです。苦しい時は僕も一緒に、お願い、します。」
「……っ。」

 兄は言葉を詰まらせて、苦しそうに俯いた。僕のせいで兄を苦しませてしまっていることが悲しい。




 僕は3年前に誘拐された。
 母が亡くなり相続に慌ただしい兄と一緒に王都に滞在した際に起きた事件だった。

 犯人は領地運営が難しくなった貴族だった。
 資金が底をつき、養子を得る事も、確かな血筋のアデルの春を買うことも難しくなったその貴族家は、後継がおらず取り潰しを恐れた。貴族のプライドから教会に通うことを嫌がったその家は、まだ抵抗することのできない幼いアデルを攫ってくることで解決をしようとした。

 それが僕だった。
 僕は兄に助けられるまで、恐ろしいほど強烈にフェロモンを浴びせられ手淫や口淫を受けた。それがトラウマとなり、今でもエバのフェロモンを浴びると失神してしまいそうになる。


 たしかに僕は深く傷ついた。しかし兄もまた、地盤が固まっていなかった自分のせいで弟が傷つけられたと、今でも自分自身を責めているのだ。当時、兄は20歳になったばかりだった。



「兄上。」



「兄上が……僕の心を、癒したいと思ってるように、僕も、兄上の心を癒したい、です。」

 僕はそっと頬から兄の手を離し、そのまま握った。

「だから、一人で背負わないで……僕にも背負わせて…。」

 兄はその言葉に表情を動かさないまま、つっと片目から涙を流した。そして、堪えきれなくなったように僕から顔を背け小さく嗚咽を漏らした。



 僕は彼の震える手を強く握り、また沢山泣いた。


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