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第一章 静かな目覚め
1. アデルとエバ
しおりを挟む時々見る優しい夢が、前世の記憶だと気づいたのは13歳の時だった。
すっかり重くなった5歳くらいの女の子を腕に抱いて、寒い夜道を歩く。遊び疲れてしまった女の子は俺の胸元をぎゅっと掴んで安心した様に眠っていた。
今日は本当に楽しかったね。と隣に歩く誰かに声をかけられる。
俺は声をかけられた方を振り返る。ああ、そうだ。彼女は俺の妻だ。腕の中で眠る女の子は俺の娘で、遊び疲れた彼女はすっかり寝入って俺の胸元に顔を寄せている。なぜか彼女たちの顔は曖昧で、はっきりとは分からない。それでも俺は妻の問いに笑顔で頷いて、そっと娘を抱きなおす。
腕の重みも、温かさも、頬を撫でる夜風の冷たさもあまりにも幸せだった。
「ティト様、いかがされましたか。」
誰かの問いかける声で僕の意識は浮上した。まだ重い瞼をゆっくりと開く。
覗き込む人影が目に入った。従者のリノだ。つっと頬を流れる温かい感触で自分が泣いていることに気付く。何度か瞬きをして、段々と意識が覚醒していく。
「ご気分がすぐれませんか。」
「あ・・・」
今のは夢で、あの時の俺は、もう僕ではない。
もう過ぎてしまった前世の記憶だ。戻りたいと思ってもあの幸せな時間にはもう戻れない。
そう分かると急に悲しみがこみ上げて、さらに涙が溢れてくる。リノは心配そうな様子で、そっと胸元から取り出したハンカチで僕の頬を拭う。
「怖い夢をご覧になりましたか。」
「違う、よ。」
僕は首を振った。この状況を説明することも、自分の気持ちを落ち着かせることもできない。
彼は少し困った顔をしてから、優しく微笑んで僕をそっと抱き起こした。小さい頃から僕の側にいてくれる彼は慣れた様子で、そのまま僕を抱いて背中をさする。
「もっとたくさん泣いても大丈夫ですよ。」
あまりにも優しい声色に、僕は堪えきれずに声を上げて泣き出してしまった。リノは何も言わず、背中をとんとんと一定のリズムでさすってくれる。彼が涙で濡れてしまうのにも構えずに、僕は小さい子供の様にくっついて泣いた。
この世界には前世で言うところの男性しか存在しない。
女性である妻子とは恐らく生きている世界が違うだろう。もう絶対に会えることはないという事実は僕を悲しくさせた。しかし、それだけではない。朧気ながら前世の記憶を思い出したことで、今この世界で置かれた自分の状況を明確に理解をして、怖くなってしまった。リノは丸くなった僕をあやすようにしながら、独り言のように僕に話しかける。
「今日はお支度の前にお茶を用意しましょうか。」
リノの声はどこまでも優しい。僕は少し考えてこくんと頷いた。彼は少しだけ身を引いて僕の顔を覗き込んだ。きっとひどい顔をしているのだろう。彼は少しだけ笑ってそっと僕の頬をハンカチで拭った。
「ティト様のお気に入りのお茶とミルクティー、どちらがよろしいですか。」
「ミルクティー、がいい。」
「はい、承知しました。」
リノは微笑んで身を起そうとする。僕は慌てて彼にくっついた。今リノが居なくなってしまったら、僕は本当に悲しくて途方もなくなってしまう。大人であった記憶を思い出しても、やっぱり13歳の子供であることには変わりはないらしい。まだこの身に降りかかる寂しさも不安感も、うまく処理することができないようだった。
「リノは行かないで。」
「はい、ここにいますよ。ベルを取るだけです。」
彼は少しだけ身じろぎをしてナイトテーブルの上の呼び鈴を鳴らした。すぐに従僕が入室し、リノの指示を受けてお茶の支度をしてくれる。ようやく嗚咽が治まった様子を見て、リノが甲斐甲斐しく顔を清める。鼻が通るとほろ苦いビターオレンジの香りをほのかに感じた。これはリノの香りだ。小さい頃から嗅ぎ慣れた香りに安心して僕はまたリノに抱きついた。
従僕は丁寧にお茶を入れ、カップの乗った銀のトレイをそっと僕の取りやすい高さに差し出す。グズグズに泣いた様子の僕を見て従僕は少し心配そうだ。幼子の様に甘えている自分がだんだんと恥ずかしくなってくる。僕は小さな声でありがとうと言って、おずおずとカップを受け取る。
この屋敷にいるのは僕が生まれる前から仕えてくれているベテランの使用人たちばかりだ。皆僕の好みを熟知している。起き抜けのベッド・ティーは目が覚めるように紅茶を濃いめに入れるのが一般的だが、僕はミルクがたっぷり入った優しいミルクティーが好きだ。従僕が入れてくれたミルクティーももちろんミルクがたっぷりで優しい色をしている。
僕はカップを手に取ってそっと口に含んだ。紅茶の香りとミルクのほのかな甘みが口に広がる。美味しい。ふうふうと冷ましながら、何口か飲むと身体がぽかぽかとしてきて、ようやく落ち着きを取り戻してきた。僕はほうと息を吐いた。
僕が紅茶の味に注文を付けないのを確認すると従僕が退室し、入れ違いに身支度の設えを持ったもう1人の従僕が入室した。リノは僕が落ち着いた様子なのをみて、身支度を初めて良いか確認した。僕が頷くと早速身支度に取り掛かる。顔や身体を清めて、ツイードのスラックスとベストの上下に袖を通す。襟元を整えると、リノがロングケープを肩にかけた。上質なウールで誂えたそれは肌触りが良くて温かい。今節の朝方はぐっと冷え込むので必需品だ。
リノは従僕が退室する際にアイコンタクトをした。きっと今日の僕の様子を家令のアズレトに報告するのだろう。
「アズレトに報告するの。」
「そうですね。ティト様のご体調は家令に報告させていただきます。」
「僕、夢を見たらちょっと寂しくなっちゃったけど、元気だよ。」
ただでさえ領地の管理に忙しい家令に僕のことまで手を焼かせてしまうのは申し訳ない。慌てて弁明をする。
「奥様の夢をご覧になられていたのですか。」
僕は少し悩んで曖昧に頷いた。
リノが言う奥様は今の世界の僕の生みの親のことだ。彼は僕が10歳の時に亡くなってしまった。きっとリノは母を思い出して寂しくなったと思ったのだろう。
本当は前世の妻子を思い出したからなのだが、それをリノに伝えても仕方がない。それでも嘘をついてしまうのが何となく申し訳なくて、僕はそれ以上は何も言えず、黙々と身支度を終えた。
身支度を終えるとリノの先導で寝室を出る。赤い絨毯の敷かれた廊下は底冷えこそしないが、やはり寒い。足早に廊下を抜けて大階段を降りた。目的地は北廊下の一番奥だ。素晴らしい彫刻を施された木製の両開き戸が見えてくる。
重厚な扉の先には、この屋敷の小礼拝堂がある。アーチ状の美しい柱梁と技巧の凝らされたステンドグラスがはめ込まれている美しい礼拝堂だ。
リノが扉を開けて、礼拝堂に入る。朝方の薄明かりに浮かぶ礼拝堂は神秘的で清浄な雰囲気が漂う。僕は静かに礼拝堂の奥へ進み、2柱の聖像の前に膝跨いだ。
この小礼拝堂に毎朝誰よりも早く来て、領地と領民の為に祈りを捧げる。それが今の僕に課されている唯一の仕事だ。
僕は祈りの姿勢をとり聖句の一節を唱えた。この世界の神であるアデレイスとエディーバに無事に今日も1日を迎えたことに感謝を捧げ、領地の安寧と領民の幸せを祈る。そのあとは僕の家族と仕えてくれている使用人たちの幸せを祈った。祈りを終えるとリノが礼拝堂の隅に置かれた椅子を持ってくる。祈りの後、毎日ここで聖典を読み上げる事が僕の日課だ。
「お寒くはありませんか。」
「うん、大丈夫。リノも暖かくしてね。」
「はい、ありがとうございます。」
リノはにこっと笑い、僕にひざ掛けを掛けてくれた。そして僕に聖典を渡すと後ろに並ぶ長椅子に腰を掛けた。僕がしつこくお願いをし続けて、最近ようやく彼もひざ掛けを使うようになった。リノが着席したのを確認して僕は栞紐を持ち、続きのページを開く。
聖典にはこの世界の創生が書かれている。
この世界は2柱の男神アデレイスとエディーバによって生み出された。
2柱の男神は出会うとお互いを愛し合うようになり、2柱の身体と魔力を交えることにした。するとエディーバに魔力の塊が宿り、双子を産み落とした。
2柱はとても喜び、双子の為に大地を作り、緑を生み、空を架け、海を満たした。そして彼らは双子にアデルとエバという名を付け、それぞれの加護を与えた。
いつか自分たちの様に2人が愛し合った時に、2人の愛の形を残せる様に。
聖句を口ずさみながら、僕は心の中で苦笑した。昨日までの僕はあまり状況を理解できず、ただこの聖典を事務的に読み上げるだけだった。けれど情勢を理解してこの聖典を読むと、この世界の民が信仰するには余りにも酷な内容だと思った。
この聖典は愛するものと出会い、愛し合う幸せを語っている。
この世界に生まれる人間は、前世で言うならば男性の身体を持つ人間しか生まれない。しかし、アデレイスの加護を受けたものは子種を作る力を持ち、エディーバの加護を受けたものは妊娠ができる力を持っている。
加護者は双子の名前からなぞらえて、子種を作る力を持つものはアデル。妊娠ができる力を持つものはエバと呼ばれていた。
僕はアデレイスの加護を受けたアデルだ。子を成す力を持っている。
この状況だけをいうならば、皆が男性の身体を持っているというだけで、ほとんど前世の世界と変わらない。僕はいつかエディーバの加護を受けたエバと恋に落ち、子供を成すかもしれない。
しかし、この世界には前世とは圧倒的に違う情勢がある。
この世界では今、アデルは200人に一人の割合でしか生まれない。
アデルとエバが自然に出会い、愛し合うということはほとんど起きえない奇跡になっている。
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