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第1章

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 この物語は、世界でいちばん美しい魔法使いと臆病な騎士さまのおはなしです。



 昔々あるところに――

 おはなしはいつもそこから始まります。

 昔々あるところに、深い森がありました。
 森は絶えず濃い霧に包まれており、迷い込んだ人たちの多くは行方知れずになってしまうというおそろしい森です。
 そんな森の奥に、古い小さな塔がありました。
 ある人が言いました。あの塔には怖ろしい魔法使いが住んでいて、人々を惑わせて食べてしまうのだと。
 ある人が言いました。あの塔にはあわれな年老いた男が一人いるだけで、迷い込んだ人々は霧に惑わされてしまうだけなのだと。
 ある人が言いました。迷い込んだ人々が帰って来ないのは当然だ。何故ならあの塔にはこの世のものとは思えない美しい姫君が囚われていて、人々を虜にしてしまうのだと。
 そうして長い長い時間の間に、たくさんの噂はいつしか形を変えてひとつの噂になりました。

 あの森にはその昔から、迷い込んだ人を食べてしまう「この世でいちばん美しい魔法使い」が住んでいるのだと――。

***

 やはり森を迂回するべきだった。
 旅人フォルカーはすでに半日以上森を彷徨い、己の選択を深く後悔していた。
 彼はかつて忠実な騎士だった。騎士とは規律を守るべき真面目なものだが、仕えていた王子に心からの忠誠を誓い日々鍛錬に励むフォルカーは、主人である王子からも信頼されていた。
 だがその王子を数年前に病で失ったことで、彼は突然この世の全てのことが無為に思えてしまった。殉死も考えたが城にそういった習慣はなく、周囲の心優しい人々はこぞって彼を慰め、労った。
 しかし彼は優しい人々に首を振り、王子の思い出の残る城には居られないと騎士を辞めた。それからこうして今まで、あてのない旅を続けている。
 今は一人旅の途中で、急ぐ道でもない。町では森に入るなと忠告され、迂回する道まで教わったのだから、素直にそちらを選べばよかったのだ。
 それはこんな忠告だった。

 ――あの森には、迷い込んだ旅人を襲う《この世でいちばん美しい魔法使い》が住んでいる。

 町の宿屋兼酒場でその話を聞いたのは、王都から離れた小さな町にしてはやけに質のいい装備の兵士を見かけたことが切っ掛けだった。
「親父さん、今この町では何かあるのか。王都からの兵士が来ているようだが」
 土埃に汚れた旅装のフォルカーが、そう言って飲食代と宿代を少し弾んだ額で出すと、頭髪の白くなった店主の愛想が明らかに良くなる。
「こりゃあどうも! お客さん、あれを見ただけでどこの兵士か分かるんですかい」
 大柄で剣を下げた旅人は小さな町や村では警戒されやすいが、金払いさえ良ければそれなりの待遇は受けられる。それはフォルカーが旅の中で得た経験によるものだった。
「あの兵士達の紋章なら、以前に見たことがある。失礼な言い方かも知れんが、よほどの事件でもない限りこの町に来るような者たちではないだろう」
「なら、よほどの事件らしいね。王の命令で、高名な術師を連れた討伐対が森の魔法使いを捕まえに来るそうですよ」
「この辺りに、そんなに危険な魔法使いがいるのか?」
 尋ねながら、店主が用意した酒と杯を受け取った。手近な木製の卓に着くと、布に包まれた剣を邪魔にならないように長椅子へ置く。
 魔法使いと呼ばれる者達のことは、彼も幾ばくか知っていた。かつて城に出入りしていた頃、何度か姿を見たこともある。そのため変わり者が多いということも、知識としてあった。
「いますとも。この町の人間は、子供の頃から寝物語に聞かされてるよ。森には世界で一番美しい魔法使いがいるんだそうで。そいつが人を惑わすので、絶対に行っちゃならんと教えられるんです」
「世界で一番とは、随分と大きく出たものだな!」
 フォルカーは思わず笑い、酒を呷る。酒精は旅人の空腹に染みて熱を生む。
「本当にそんなものがいたら、かえって一目見ようと人が集まって来るだろう」
「今も時々はいますよ。そのまま帰ってこないか、帰って来ても何かおそろしいものを見て気が変になってしまうか、どちらかさ。ただ私が覚えている限りでは、大抵は帰って来ないほうが多いね」
 ふざけたところのない店主の様子に、フォルカーも笑みを消す。
「本当に危険な森なのか……」
「あの森は悪夢みたいな霧が出るんで、地元の人間でもろくに近付かないよ。私が子供の頃から、調子に乗った悪ガキなんかも度々遭難してるんです。森に魔法使いだか誰だかが住んでいるのも事実だが、どっちにしろ行かない方がいいね」
 店主は嫌な話をしたというように首を振ると、卓へ肉とパンを運んで来た。味に期待ができるような物でもないが、フォルカーにとって久しぶりの携帯食以外の食事だ。ありがたく口に運ぶ。
「……だがわざわざ兵士が来るくらいなら、そいつが犯人なんだろう。どうしてこれまで捕まえなかったんだ」
「さて、そりゃあこっちが訊きたいですね。うちだって、森に入る高名な術師様とお供のために宿を用意しろとか言われただけで、詳しい事情なんか知りゃあしませんよ」
 店主は肩をすくめる。
「まあ面倒だが金払いの悪くない客だから、こっちはありがたいですがね。……お客さんもですよ」
「俺もか」
「あんたも気前のいい客だから、こっちも死なれちゃあ気分が悪い。南に向かうつもりなら、あの森は迂回して行きな。霧も魔法使いもおそろしいが、鉢合わせた討伐隊に間違って討たれたくもないでしょう」
 店主の人並みの親切心に対し、フォルカーは感謝の念で頷いた。
「ありがとう。覚えておこう」

 そう、覚えていたのだ。だから、森に入った。
 噂とは言え、森に何者かがいるというのも、迷い込んだ人間がいなくなるというのも、それなりに事実であるようだった。
 それにも関わらずわざわざおそろしい噂のある森に入ったのは、フォルカーが幾らかやけを起こしていたからにほかならない。
 酒というものは時に魔法使いよりもおそろしいものだ。酔いが回ってくるうちに、彼はその魔法使いを討伐隊より先に退治してやろうなどと考え始めた。
 もはや騎士ではないとは言え、剣の腕は完全に錆びついたわけでもない。簡素な旅装の下にも分かるほど、その身体は鍛えられている。
 つまり、彼にはそれなりに戦うことへの自信もあったのだ。
 そして、彼が森の魔法使いを怖れなかったのにはほかにも理由があった。
 ――《この世で一番美しい魔法使い》。
 その言葉を聞いた時に、フォルカーは思わず笑った。何と大袈裟な通り名だろう。少なくとも、彼にとってその名前は嘘でしかない。
 フォルカーがこの世で最も美しいと思える存在は、かつて仕えたあの王子のことだった。たとえどんな女神や美姫や妖精や仙人が現れようとも、惑わされるつもりなどない。
 しかし、もしその美しさに王子よりも心惹かれることが出来たのなら、この重く石のような心も少しは楽になるだろう。彼は半ば皮肉な気持ちでそう考えた。
 それらが、彼にこの森を迂回させなかった理由だ。
 しかし魔法使いどころか、鹿一匹に会う前にも森に迷ってしまうとは我ながら情けない。
「またさっきの場所か……」
 フォルカーは先程目印に折ったばかりの木の枝を見つけ、悔しげに唸った。
 気付けば、いつの間にか同じ所ばかりぐるぐると歩いてしまう。それならばと直線を歩いてみても、今度はその前の目印に戻る。
 霧が出るとは聞いていたが、ただ進もうとするだけでこれほど迷わされるのはどうにもおかしい。
 そのうちに段々と日も暮れてきた。一度森を出て戻ろうにも、どちらから来たのかすらも分からない。
 森そのものに弄ばれているような気分になりながら大きな石に腰を下ろすと、今度は少しずつ霧が出てきた。
「まずいな……」
 フォルカーは持っていた干し肉を囓る。唾液と塩分は少しだけ気分を落ち着かせたが、このままでは森で夜を明かさねばならない。
 せめてもう少し野宿に良い場所はないかと立ち上がり、灯りを手におそるおそる霧の中を再び歩き出した。



 ほとんど手探りの状態で先に進んで行くうち、突如として霧が薄れ、森がひらけた。
 急に堂々巡りから解放されたフォルカーは目を疑う。すぐ近くを散々歩き回っていたはずだ。霧が出ていたとは言え、こんな場所があることにまるで気付かずにいたのはおかしい。
 これも魔法使いの仕業ではないかと辺りを窺ったが、相変わらず獣以上の大きさの生き物の気配はない。
 周囲の様子を窺うと、この場所もあくまで森の中の空間であるということが分かった。目を凝らすと霧の向こうに明かりが見えた。小さいが石造りの塔があるようだ。
 あそこで一晩の宿を借りられるかも知れないと胸をなで下ろしかけたが、これがもしや魔法使いの住処ではという考えがフォルカーに過ぎる。
 しかし徐々に日は落ち、薄ら寒さも増している。温かい明かりがあることに気付きながら、霧の中で野宿をするのもばからしい。もし野盗であったのならそれこそ退治をしてしまってもよいだろう。
 そもそも、魔法使いなど退治してもかまわないと思って森へ入ったのではなかったか。
 フォルカーはしばらく考えたが、諦めて頭を振った。
 ――ええい、ままよ。
 そうして、彼は塔へと足を向けた。



 近付いてみると、塔は古めかしい割に扉の周囲は案外手入れがされており、大して朽ちてもいなかった。日頃から人が生活をしているのだろう。
 どうやら野盗の集団や怖ろしいものが住んでいる塔のようには思えず、フォルカーは少しだけ肩の力を抜く。
「失礼する! 一夜の宿をお借り出来ないだろうか!」
 扉のノッカーを叩いて、声を張った。
「森に迷い、霧が出てきて往生している! さぞご迷惑だろうが――」
「……旅の人かい?」
 扉越しに声がした。それは噂されていた女や老人のものではなく、落ち着いた青年の澄んだ声だ。
「あ、ああ、そうだ。日が暮れてしまって……」
 何故か声に聞き覚えがあるようで気を取られていると、扉がゆっくりと開いた。塔の中から、フォルカーより少し小柄な体つきの人影が姿を現す。
 相手の顔を見てフォルカーは息を飲んだ。
「どうしたんだい、旅の人」
 青年が、フォルカーを見上げて尋ねる。細身の身体には、質のよさそうな衣服を身につけている。こんな森の中で暮らしているにしてはやや奇妙なことだが、フォルカーが驚いたのはそのせいではなかった。

 その顔が、数年前に病に倒れた王子とうり二つだったからだ。

「あ……いや、そんなはずは……」
「旅の人、さては私が誰かに見えておいでだね。気にすることはないよ。皆『そう』さ」
 フォルカーのよく知る王子の顔と声で、青年が目を細めて笑う。混乱でフォルカーの鼓動は急速に早まる。
 だが王子なはずはない。彼は数年前に儚くなっているし、今この目の前にいる青年は亡くなった時の王子と同じ年格好だ。むしろ王子本人だったとしたら、外見にもう少し変化があるだろう。
 どうにか冷静にそこまで考え、フォルカーは深呼吸をした。
「し、失礼。知り合いによく似ていたもので」
「声も姿形もだろう?」
 青年の言う通りだった。
 服装こそ王子のものではないが、背格好、髪の色、目の色、まるでそのままだ。似ている、という言葉では足りない。
 フォルカーはおそるおそる青年の耳を見た。
 外耳の形状は人によって異なるという。そこにあったのは、かつて見慣れた王子の耳の形をしていた。
 彼が王子のはずはない。だがこれは、ここにいるのは、誰だ?
 ぐらりと世界が歪む。フォルカーは血の気が下がるのを感じた。
 足下をふらつかせてよろめくと、王子そのものに見える青年がフォルカーの腕を掴んで支えた。
「気分が悪そうだね」
「あなたは……彼は……亡くなったはずだ……」
「ああ、君に見えておいでなのは死んだ人間か。さぞ驚いたことだろうが、心配しなくていい。私は死人ではないよ」
 確かに青年の言う通りなのだろう。フォルカーを支えるその手には、生きた人らしい温かさと確かな力がある。
「だが、どうして、その……」
「ひとまず中へお入り。外は冷えてきたろう」
 青年が腕を引いた。つられるようにフォルカーの歩は進み、塔の中へ入る。
「ここに住む人は私一人だが、食べ物とベッドくらいは用意出来るさ」
 人。
 彼はそう言うが、本当に人なのだろうか。
 見た目だけなら確かに人に見える。夭折した王子は美しい人だった。その王子と同じ外見のこの青年も、無論美しい。
「ああ、運が悪かったね旅の人。どうやらタチの悪い霧が出ている」
 青年は外の様子を見て言うと、扉を閉めた。
「霧が晴れるまではここにいても構わない。ただしここの霧は気まぐれだから、いつになるか分からないけどね」
 人を惑わす魔法使いにしては、先程から彼の言っていることは(時折理解出来ないことはあるが)、会話の成立するようなものばかりだ。
 それすらも策の一つなのかも知れないが、フォルカーはその不釣り合いさを奇妙に感じていた。
「……お前が、この森の魔法使いなのか」
 森の魔法使いは人を惑わせるという話だった。噂や予想とは少し違っていたが、少なくともフォルカーは青年の容姿のせいで大いに心惑わされている。
「今はどういう噂になっているかは知らないけど、おそらく私のことだね」
 青年――魔法使いが苦笑した。その笑い方まで王子に似ていて、フォルカーは言いようもない懐かしさを感じる。
「ではその外見も、俺を惑わすためにやっているのか。だとしたら大したものだ。どうやって俺のことを知ったかは分からないが、本当に、頭がどうにかなりそうだ」
 フォルカーは半ば無意識に、持っていた剣の束に助けを求めるように手をかけた。
 王子と同じ顔の相手を切れるかどうか、自信はない。だが騎士になって王子から授かったこの剣は、今のフォルカーにとって数少ない拠り所となる物だった。
「おいおい、その物騒なものを使うのは止めて欲しいね」
 魔法使いが呆れたように首を振る。
「別に私は、君に悪さをするつもりはないさ。たとえ君が何を見ても、それは私の意志ではないんだ旅の人」
 そう言って、王子の顔で微笑む。王子ではないと分かっていても、フォルカーの胸は苦しくなる。
「だがこうやって、お前は今までも人を惑わせてきたのだろう」
「……いいや。人が勝手に惑わされるんだ」
 王子と同じ色の魔法使いの瞳に、一瞬翳りが宿る。
「私は――私を目にする人は、そこにこの世でいちばん愛する人の姿を見るんだ。そういう存在なんだよ、私は」
 その言葉に、ようやくフォルカーは噂の意味を知った。
 そして自分にとって、失った王子こそがこの世で最も美しいと思う存在だったということも。
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