梅皿

八億児

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梅皿

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 今朝は雨に濡れた庭の梅がとても鮮やかだった。
 久方ぶりに絵筆を取ろうとしたが、梅皿をどこにやったのかすっかり忘れてしまった。最近はどうにも物忘れが酷い。
 義弟の明次なら在り処を知っているだろうと、座敷のふすまを開けて廊下に出る。そうして角を曲がると、明次は私の弟子の市川君と抱き合っている最中だった。
 市川君は背丈のある穏やかな青年で、師の目に触れるような場所で自分からこういったことをする男ではない。明次にそそのかされたのであろうとすぐに分かった。
 背を向けていた市川君は気付かなかったようだが、明次は私という義兄の存在に気付くと目元だけで一瞬笑い、すぐさま市川君に深い接吻をした。
 それから一度もこちらを見ないので、私は市川君に気付かれぬようその場から音を立てずに退散した。
 義弟の明次が私の弟子と関係を持つのはこれが初めてではない。
 前にいた弟子とは半裸で睦み合っている現場を見せられたが、私が何か言う前にその弟子は逃げるようにここを出て行った。
 出て行った弟子を責めるつもりはない。おそらく明次の方から持ちかけたのだ。今回と同じなのだろう。
 わざと目に付くように弟子と睦み合うのも、弟子が出て行くように仕向けるのも、おそらくは私に対するあてつけだろうと推測していた。私には、彼の行動の理由に心当たりがある。
 それは妻が亡くなってから一年が過ぎた頃のことだ。ある晩、明次が縋り付くように私に対する恋情を打ち明けた。
 涙ながらに切々と思いの丈を語る彼の姿は、そういった欲の薄い私でも心揺さぶられる程の可憐さだった。
 だが私にはどうすることもできなかった。明次は私にとって大切な弟であるが、逆に言えばそれ以外の何者にも成り得ないのだ。
 そのことはなるべく傷付けぬよう、それでいてはっきりとした言葉で本人にも伝えた。
 明次の『放蕩』が始まったのは、それからすぐのことである。
 私が座敷に戻ってしばらく経つと、明次が一人でやって来た。
「義兄さん、何か用があったんじゃないの」
 後ろ手にふすまを閉め、常よりも赤く濡れた唇を隠そうともしないで言う。
「……梅皿をどこにやったか知らんかね」
「さあ。探そうか?」
 そう言って出て行きかけたのを、座っていた私は軽く手を振って止めた。もはや絵を描く気はとうに失せている。
「いや、知らんのだったら構わんさ」
「そう」
 明次の返答は極短い。すぐに出て行くのかと思いきや、不意に正面にぺたりと座って私の顔を覗き込んできた。
「それより義兄さん、まだあいつをこの家に置いておくの?」
「あいつとは市川君のことかい」
 私が尋ねると、明次は不思議そうに小首を傾げた。
「市川?」
「内弟子の青年だよ。先刻、お前と一緒にいた」
「ふうん。あの人、そんな名前なんだ」
 気のない返事だった。
 演技をしているようには見えない。おそらく本当に名を知らなかったか、もしくは聞いても忘れていたのだろう。流石に市川君が哀れになった。
「市川君のことなら追い出す気はないよ。彼はなかなか見込みのある青年だ」
 つい庇うような物言いになったが、それが却って明次の機嫌を損ねてしまったようだ。
「見込みがあるとかないとか、そんなこと僕には関係ないもの」
 不満げな表情で口を尖らせる。
「あの弟子もまた追い出すのかと思ったのに。……前の弟子の時みたいにさ」
「彼は別に私が追い出したわけじゃあない」
 私が眉を顰めると、明次は人の悪い笑みを浮かべた。
「ああ、そうか。あの弟子は追い出される前に自分から出て行ったんだったね」
 そう言うと、この話題から興味を失くしたように立ち上がって床の間の掛け軸などを眺め始める。
 私も手持ち無沙汰になり、腕など組んで障子の影を眺める振りをした。
 どこかで鶯が鳴いた。
「……ねえ、義兄さんはどうして僕を追い出さないの」
 その言葉に幾らか驚いて、私は明次を見る。不意に向けられた弱々しい声は、少年に近い幼さすら含むものだった。
 目を伏せた横顔はいつになく覇気がない。滑らかな白い頬は部屋の暗がりで色を失って見える。
 それでも整ったその面差しは、妻にとてもよく似ていた。横顔だけを見ていると、どうにも亡くなった妻に責められているような心持になる。
 けれど、それだけのことだ。彼は勿論妻ではないし、妻の代わりにもできない。
 私は明次から妻の面影を払い落とすようにゆっくりと首を横に振った。
「追い出すわけがないだろう。お前は私の大事な弟じゃないか」
 その言葉に嘘はない。子もなく妻を亡くした私にとって、今や家族と呼べるような人間はこの義弟ただ一人だった。
 しかしそう思っているのは私だけだったらしい。
「義兄さんは優しいね」
 明次が、言葉とは裏腹に冷たい笑みを浮かべる。
「でも僕は、嫌なんだ」
 そう言い放つと、明次はふすまを開け座敷を飛び出して行った。
 義弟の遠ざかる足音を聞きながら、私は小さく息を吐く。
 いっそ追い出せてしまえたら、突き放せてしまえたなら、どんなにか楽になるだろう。幾度もそんなことを思った。
 けれど弱い私にはそれができない。結局のところ、本心では私も彼をいとおしいと思っているのだ。――あくまで、弟として。
 我々の噛み合わぬ歯車は、この先どれだけ今日のような出来事を繰り返すのだろうか。それを思うと気が塞いだ。
 だがきっと物忘れの酷い私は、いつかまた今日と同じように、彼に梅皿の在り処を訊ねることになるのだろう。
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