テムと夢見の森

Sirocos(シロコス)

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8.なごりおしむ月の光

眠れる森の主(2)

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  『わたしの名は、ヒュプノス。夢うつしの力をもつもの』


彼女が、はじめて自分の名を明かした。

ヒュプノス?

なんて覚えにくい名前なんだ。それに、夢うつしの力ってなんだろう?

またわけの分からないことが、泡のようにふえてしまった。


「あなたが、ぼくを森に呼んだんですね?」


  『そう』


ヒュプノスは答えた。


  『わたしは、この森の主。と同時に、主とは言えないもの……』


主とは言えない?  彼女もこんがらがるようなことを言う。


  『わたしは、遠い昔、この森に移り住みました。元の住みかだった島が、

     災害によってしずんでしまったのです。

     かつてこの森は、誰のものでもありませんでした。もちろん、今でも……』


ヒュプノスは、つつしむようにそう言った。

ということは、もとは海で暮らしていたということか。

海をわたり、川を越え、居心地のよい新しいこの場所を見つけた……。


『ヒュプノスのことはね、ぼくたちや、ビビしか知らないよ』


と、五人の子どもたちのうちのひとりが言った。


『だから、ほとんどだれも、ヒュプノスが森の主なんだってこと、知らないんだよね』

『ぼくたちが、勝手にそう言っているだけでさ』

『ヒュプノスはね、見た目こそ、とってもきれいだけど、

中身はキミと同じくらいの若さなんじゃないかなあ?』


ほかの三人がそう続けて、おたがいの顔を見ながら楽しそうにうなずいていた。


  『わたしの身に流れる、夢うつしの力。

     それは、この森の見る夢と、あなたの夢をつうじて、明日の希望を見せる力』


「明日の希望、ですか?」

テムは、さっぱり意味が分からず、首をかしげた。


  『わたしが、夢うつし力を流すことで、この森は、みずからの夢をつうじて、

     美しい夜の世界での体験を、あなたにもたらすことができます。

     だから、その体験の多くが、森の夢が見せる幻なのです。

     しかし、そのなかには、現実のあなたに訪れる未来の物事をも、しめすものがあるのです』


「ど、どういうこと?」


『この森の本当の名前はね、予知夢の森というの。

わたしたちが、勝手にそう決めているだけなんだけどね』

と、五人のひとりの女の子が言った。


予知夢。たしか、未来を先読みする夢のことだ。

この森が、ぼくに未来までも見せてくれるというのだろうか。

ううん、そんな細かい話、今はどうでもいい。


「どうしてぼくを、この森に呼んだんですか?」


  『すべては、家族が壊れかけ、悲しい日々のなかで苦しむあなたに、道をしめすため。

     あなたは、この森のそばでずっと暮らしています。

     だから、あなたの悲痛な思いが、わたしに届いたのです』


ヒュプノスの、霧のようにやわらかな声が、心を洗うようだった。


  『テム。あなたにたずねたいことがあります。

     あなたは、この夢から覚めたいですか』


  テムは、胸がしめつけられるような気持ちで、こう答えた。


「……覚めたい、というより、覚めなくちゃいけないって思う。

だって、ぼくが来たせいで、森に朝が来なくなっちゃったんだから。

森の動物たちは、本物なんでしょう?」


  『ええ。すべて本物です。

     森が見る夢によって、姿や暮らしが変わっているだけ。


     あなたには強い気持ちがある。それは分かりました。

     では、もうひとつたずねます。

     目覚めたあとで、あなたは、家族とふたたび幸福に暮らしてゆく望みがありますか?』


それだけは、聞かれたくなかった。

テムは、人が変わってしまったお父さんとお母さんに、笑顔が戻ることを強く望んでいる。

でも、そんなこと、いったいどのように工夫して、行動すれば、見事に叶うと言うのだろうか。


何も答えられず、言葉がよどんだ。

また涙がこぼれそうだった。男に泣き虫なんて、絶対に似合わないのに。


  『……ごめんなさい。あなたを困らせるつもりは、ありませんでした』


ヒュプノスが、目をとじながら、申しわけなさそうに言った。


  『答えてくれなくてもよいです。

     ただ、あなたには分かってほしい。あなたは、けっして非力ではないことを。

     あなたの口から、大切な人たちへ思いの丈を伝えれば、きっと、願いは叶うはずだから』


「……ぼく、ぜんぜん自信がないです」


それが素直な答えだった。

ぼくの気持ちを家族に精いっぱい伝えれば、くずれかけた日常がもとにもどる?

それほど簡単にすむ話なのだろうか。


  『……テム。いずれにせよ、あなたは、この眠りから覚めなくてはなりません』


そう断言されて、テムはさみしかった。

こっちは招かれた客人なのに、

ここまできて、夢から出て行けと冷たく言われたようなものだ。


  『あなたの夢が生み出した彼女……ねむり姫を、起こすことができれば、

     あなたは確実に夢から覚めるでしょう。

     ねむり姫のなかには、わたしがこめた、目覚めの光があるのです』


「あなたがこめた?  ねむり姫に?  それってもしかして……」


  『そう。これは、わたしからあなたに贈った、試練のようなもの。

     無用の気づかいかもしれませんが、この試練を越えた先で、

     あなたに、幸福な未来がおとずれるでしょう……』


テムは、今こそすべてをさとった。

このヒュプノスという美しい生き物に、自分は助けられようとしているのだ。

ようやくこの事実にたどり着いたというのに、胸の奥では怒りが燃えていた。


「でも、でもぼく……ここに来るまで、死にかけたことがありました!」


テムは、強くうったえるように叫んだ。

それを見たヒュプノスは、落ちつきはらったまま、テムをいつくしむような笑顔でこう言った。


  『だから、あなたが命を落とさぬよう、ビビにたのんだのです』


ビビは、深くうなずいた。


「さよう。

ほかならぬヒュプノス様にたのまれて、わしは宝物庫までおぬしを迎えに来たのじゃ。

かの陛下からの命令や、他もろもろは、一種のカムフラージュだったのじゃ」



ビビは秘密が多すぎる。

多すぎて、ちょっぴり、切ないくらいだ。



「すまぬのう……本当は早く打ち明けたかったのじゃが、

いっぺんに話して、おぬしを混乱させるわけにいかんかった。

ヒュプノス様に会わせるまで、だまっておきたかったのじゃ」


なんだか、ビビはかなりの秘密主義みたいだ。

テムはそう思うことにした。すると、肩の力がすっとぬけてしまった。


「……もういいよ。ぼく、もう何も怒らない」


こうも面とむかってあやまられたら、こちらのほうがはずかしい。

今さらビビを嫌ったりするものか。

それよりも、早くやり遂げなくてはならないことがあるのだ。


「家に帰ることだって、もうためらわない。

パパとママに、精いっぱい思いを伝えれば、願いは叶うんだよね。

ヒュプノス様の言葉を信じるよ」


テムはもう一度、ヒュプノスの顔をあおいで、こう言った。


「ヒュプノス様!  ぼくをねむり姫に会わせてください!」


ヒュプノスは、安心しきったようにうなずきながら、こう答えた。


  『ええ、もちろんです』

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