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①〈フラップ編〉
5『風船は、心の友達です』③(リニューアルエピソード)
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だれも見ていないように見えても、どこでだれが目を光らせているか分かりません。
歩道には、親子の他にも何人か歩いていましたし、車道には車も走っていました。
それなのに、レンの言いつけを破ってでも、フラップは飛び立ったのです。
(ああ、いっちゃう!)
赤い風船は、すぐに低層マンションの陰に見えなくなりました。
分かっていたことですが、今日は強い高気圧で、風が強いのです。
スカイランドでは、堂々とそこいらを飛んでいても、問題ありませんでした。
しかし、人間界では違います。
凶暴な捕食者と同じくらい厄介なのが、人間たちなのです。
それくらいのこと、フラップは承知の上でした。
だとしても、何より優しいドラギィの血が、否応なしに彼を突き動かすのです。
(ゼッタイに捕まえてやるぞ!)
狩猟本能でしょうか? フラップは、奇妙なほどハートをギラギラさせて、
両翼を力いっぱい動かしました。
ぐんぐんと矢のようにスピードをまして飛んでいくと、
マンションのむこうに飛んでいったはずの風船が、すぐに見つかりました。
(ああ、もうあんなに高く!)
だれかに見つかる前に、素早く風船を捕まえなくてはなりません。
フラップはさらに強く羽ばたいて、ぐんぐんと上昇しました。
揺れながら空へ運ばれていく風船と、それを追いかける一匹のドラギィ。
青空にむかって、ぐんぐん、ぐんぐん、ぐんぐん……!
こんな時、稲妻のようなスピードでどんなものでも素早くキャッチできる、
あの子がいてくれれば、どんなに楽だろうか。
「も、もう少し……!」
あの子だったら、もっと早く捕まえられるだろうな――
スカイランドのなつかしい友達の顔を思い浮かべながら、
風船のヒモにむかって必死に右腕をのばしました。
がしっ!
(よぉし、取ったぞ!)
赤い風船は、ついに見捨てられることなく、フラップに捕まえられました!
……ずいぶんと高くまで舞い上がってしまったようです。
ネズミサイズのフラップの眼下には、すでに、
ミニチュア模型のような人間の町の姿が、雄大に広がっていました。
「……うーんと、ここからどうしようかな」
風船が流されないようにヒモにしがみついたまま、フラップは後悔しました。
後先考えずに飛びだしてしまったせいで、どうやってこの風船を、
あの女の子に渡したらよいか、今さらになって分からなくなったのです。
「とにかく、どこか目立ちにくそうなところに着地しないと」
フラップは、しばらくの間、下の方をキョロキョロと見回しました。
それから、少しだけ身体を大きくして、仔犬サイズになりました。
すると、フラップの重みで風船は少しずつ高度を下げていき、
真下にある、緑の密集した小さな敷地へと降りていったのです。
*
フラップが着地したのは、すっかり老朽化した一軒の廃屋の、
うっそうと雑草が生い茂った庭でした。
人の気配はありません。家主たちは、いったいどうしてしまったのか。
(人間界にも、こんなに寂しい色をした家が建っているものなんだ)
とりあえず、捕まえた風船を、庭に生えていた木の枝にくくりつけます。
(よく見ると、この赤いの……ぼくの肉球みたいなマークがついてる)
それは、丸い白地に肉球のシルエットが浮かんだ、
『ワンワントイズ』という大きなおもちゃ量販店のエンブレムでした。
それはともかくフラップは、
廃屋の壁によりかかり、レンが来てくれるのを待つことにしました。
家のまわりは、古くなったとはいえ石塀が取り囲んでいたので、
外からは簡単に発見されそうになかったのです……
一か所だけ、塀が崩れて庭が丸見えな部分がありましたけれど。
(……あの球体に閉じこめられながら落ちてくる時も思ったけど、
やっぱり、人間界は広いなあ。スカイランドの何百倍の広さなんだろう?)
――ところで、ドラギィの半分は、犬です。
犬の鼻は、言うまでもなくとっても優れています。
ここでは、スカイランドでも嗅いだことのない、さまざまなニオイがありました。
あの商店街でも、おびただしい種類のニオイがありましたが――
人間の家々が放つ、独特のニオイ。道路のコンクリートの、何とも言えないニオイ。
車からもれる、ガソリンのニオイ。なんだか分からない、動物のフンのニオイ。
その中でも、スカイランドと変わらないニオイもありました。
木々や草のニオイが、それです。スカイランドの植物のように、青っぽくて、
豊かな土の香りをふくんだニオイ。
どんなに鼻がムズムズしていても、これだけははっきりと分かる――。
「あ、なんだかいいニオイ。どこからするんだろう?」
フラップは、塀のむこうから、また新しいニオイをかすかに嗅ぎつけました。
これは――なんて魅力的なのでしょう。お肉を焼くような、香ばしいニオイ。
でも、もっとちゃんとこの鼻で感じとりたい。
「ああ、小さい格好だと、はっきり嗅ぎ分けられない!」
フラップは、自分でも制御がつかなくなって、
ライオンと同じくらいにズンズン大きくなると、
崩れた塀の間から丸い鼻を突き出し、静かに瞳を閉じながら、
例のお肉のニオイを探し当てました。
ああ、そうです。これぞまさしく、人間界の台所で焼く、お肉のニオイ!
きっとどこかの家で、だれかの誕生パーティーのために、
夕方前から大きな大きなステーキを焼いているに違いありません!
(あ~、カレーもたしかによかったけど、レンくんもどうせなら、
肉厚でジューシーなお肉を焼いてくれたらなあ)
――なんて思っていたところで、フラップが両目を開けてみると……
目の前に、ひとりの幼い女の子の姿がありました。
よく見たら、先ほどあの赤い風船を手放してしまった、
あのツインテールの女の子本人ではありませんか。
女の子は、フラップの赤い体毛と、大きな鼻を見つめながら、
ただただ、きょとんとしています。
なんという偶然! なんというできすぎた展開!
フラップの努力が実ったとはいえ、これでは世の中甘すぎます。
ところが、フラップときたら、ステーキのかぐわしいニオイのせいで、
頭の思考が若干、マヒしていました。
それで、どうすればいいのか分からないまま、結局、
「ワン、ワンワン。へへへっ!」
と、三文芝居もいいくらいに、犬の鳴きマネをしてしまったのです。
およそ、そこいらの犬とは思えない、絵に描いたようなニッコリ顔で。
その光景に、女の子はひどく驚かされたのか、
次の瞬間、両目を皿のように真ん丸にして、
「マぁーーマぁーー~~~!!」
絶叫しながら、脇目もふらずに走り去ってしまいました。
(しまった、マズイ!)
フラップは焦り一色になって、頭を抱えます!
どうすればよいのでしょう? たった一匹、危険をかえりみずに飛びだした挙句、
人間の女の子に見つかってしまうとは。
こんな時にどうすればよいか、スクールで習っているわけがありません。
下界落としなんて制度を設けているぐらいなら、
人間と仲よくする方法や、逆に見つかりたくない時の対処法を、
少しでも、ほんの少しでも教えてくれれば、どんなによかったか――。
「ああ、いた!!」
つと、近くの曲がり角の陰から、青いバッグを持った少年が走ってきました。
レンです! やっぱり、ちゃんと追いかけてきてくれたのです。
「あ、レンくん……」
フラップは、安心感と罪悪感が入り乱れて、涙が出そうでした。
「もう、そんなとこで何やってんのさ、まったく!
いきなりバッグから飛びだすとか……
キミまだ、この世界に慣れてないんでしょ? だれかに見られたかも!」
レンは、まるで保護者気どりのように顔をしかめていました。
まわりに聞こえないように声は落としていましたけれど。
「そ、そのことなんですけど、レンくん……あのう、その――」
「風船、捕まえたんでしょ? どこにあるの!?」
「こ、ここに!」
フラップは、庭の木にくくりつけていた風船のヒモを解いて、
レンに手渡しました。
「それで、ぼく……じつは――」
「細かいことはいいから、とにかく入って!」
フラップは素早くネズミサイズになって、レンのバッグに身をひそめます。
とそこへ、道路のむこうの曲がり角の陰から、
先ほどの女の子が死にもの狂いでお母さんの両手で引っぱって、戻ってきました。
突然、興奮したわが子に連れてこられたために、困惑しているお母さん。
しかし、女の子がお母さんに見てほしかった生き物は、
廃屋の庭からこつ然と消え失せ、
代わりに、十歳の小学生が道路に立っていたのです。
「いない……」
女の子は、石塀のすき間からキョロキョロ見回しました。
しかし、あの赤い竜のような、犬のような生き物は、もうどこにもいません。
(やっぱり、フラップのやつ、この子に?)
考えこまなくても、女の子の雰囲気で、レンは直感しました。
先ほどのこの子の叫び声を頼りに、ここに駆けつけたのですから。
「どこー!?」
むすっとした女の子は、コンクリートを踏み鳴らしながら、レンに聞きました。
こういう時、幼い子どもの思考力には、度肝をぬかされます。
まるで、レンがフラップを隠したことに、気づいているかのようなにらみ方!
「ど、どこって、何聞きたいのかな……?」
「ごめんね、この子ったら――」女の子のお母さんが、苦笑いして言いました。
「ここで変な赤い犬を見たって騒ぐから。ふふふ、おかしいでしょ。
ここで、何か見なかった?」
「な、なんにも……」レンはとっさに誤魔化しました。
「ぼくも、この子の叫び声を聞いて、何かなあって見に来たんですけど、
ここには何もいませんでしたよ。あ、でも、その代わりに――はい」
レンは、手に持っていた風船を見せます。女の子にも、すぐ分かりました。
その赤い風船は、先ほど自分が手放した、肉球マークつきの風船であると!
「この庭の木の枝に、引っかかってたのを見つけたんだ」レンは言いました。
「この風船のマーク、ワンワントイズのでしょ? いいよね、ワンワントイズ。
たくさんおもちゃ売ってるし、楽しい乗り物もいっぱいあるし。
今日は第三土曜日だから、わんぱっくんが風船くばりに来てくれたんだね」
わんぱっくんとは、ワンワントイズの公式マスコットキャラクターです。
「ぼくの名前は、レン。キミは?」
「リリ……」
「リリちゃん、この赤い風船はきっと、リリちゃんのことが大好きなんだね。
だから、赤い不思議な犬になって、リリちゃんのところに帰ってきたんだよ」
そう言って、レンは女の子の右手首に、風船のヒモをむすんであげました。
「もう失くさないように、お家に着くまで大切にしてあげようね」
すると、女の子の表情が、急にぽわあっと明るくなったのです。
まるで、保育園で素敵な保育士のお兄さんと、めぐり合った時のように!
「あーん、優しいのね。ありがと!」お母さんもときめいているようです。
「どっかに飛んでっちゃったはずなのに、不思議なこともあるのね。
ほら、リリちゃん。お兄さんにありがとうって」
「レンー、アリガトー!」リリちゃんは、ぷるぷると左手を振りました。
そうして、お母さんと手をつないで帰っていくリリちゃんの横顔は、
なんだか魔法にでもかけられたみたいに、キラキラとしていました。
きっとあの子は、フラップの顔を忘れられないことでしょう。
たった一度の不思議体験として、大人になるまで胸に秘めて――。
「……ふう、なんとか乗り切ったかあ」
レンは、そっと胸をなで下ろしました。フラップの尻ぬぐいも大変です。
「本当に助かりましたよ、レンくん」
フラップが、バッグの口からにょきっと顔を出しました。
「これにこりたら、もう二度と、軽はずみなマネはしないこと。いいね?」
「はい、肝に銘じておきます。ところでレンくんは、言葉の達人ですか?」
「へ?」レンはポカンとしました。
「だって、あの状況であんなことを言えるなんて、ただ者じゃないでしょう?」
「た、たまたまだし! なんとなーく、頭に浮かんだっていうか。
とりあえず、帰ったらみっちり対策会議しなきゃ。同じこと起きないようにね」
「はぁい、対策会議します……」フラップはしょんぼり。
「まあ、でも」レンは、にこっとして言いました。
「キミのこと、少し分かった気がするよ。とっても優しいんだってことがね」
「ぼくこそ、レンくんのこと、よく分かりましたよ。
ぼくだけでなく、他のヒトにも親切なんですね。抱きしめたいくらいです!」
*
ふっふっふ……。
レンのバッグの中、
フラップとは反対側のスペースにうずまった白ネズミが、怪しく笑いました。
(やはり、わしの目に狂いはなかった!)
この奇妙なネズミが次に起こす行動とは?
――それは、この後すぐに分かることでした。
歩道には、親子の他にも何人か歩いていましたし、車道には車も走っていました。
それなのに、レンの言いつけを破ってでも、フラップは飛び立ったのです。
(ああ、いっちゃう!)
赤い風船は、すぐに低層マンションの陰に見えなくなりました。
分かっていたことですが、今日は強い高気圧で、風が強いのです。
スカイランドでは、堂々とそこいらを飛んでいても、問題ありませんでした。
しかし、人間界では違います。
凶暴な捕食者と同じくらい厄介なのが、人間たちなのです。
それくらいのこと、フラップは承知の上でした。
だとしても、何より優しいドラギィの血が、否応なしに彼を突き動かすのです。
(ゼッタイに捕まえてやるぞ!)
狩猟本能でしょうか? フラップは、奇妙なほどハートをギラギラさせて、
両翼を力いっぱい動かしました。
ぐんぐんと矢のようにスピードをまして飛んでいくと、
マンションのむこうに飛んでいったはずの風船が、すぐに見つかりました。
(ああ、もうあんなに高く!)
だれかに見つかる前に、素早く風船を捕まえなくてはなりません。
フラップはさらに強く羽ばたいて、ぐんぐんと上昇しました。
揺れながら空へ運ばれていく風船と、それを追いかける一匹のドラギィ。
青空にむかって、ぐんぐん、ぐんぐん、ぐんぐん……!
こんな時、稲妻のようなスピードでどんなものでも素早くキャッチできる、
あの子がいてくれれば、どんなに楽だろうか。
「も、もう少し……!」
あの子だったら、もっと早く捕まえられるだろうな――
スカイランドのなつかしい友達の顔を思い浮かべながら、
風船のヒモにむかって必死に右腕をのばしました。
がしっ!
(よぉし、取ったぞ!)
赤い風船は、ついに見捨てられることなく、フラップに捕まえられました!
……ずいぶんと高くまで舞い上がってしまったようです。
ネズミサイズのフラップの眼下には、すでに、
ミニチュア模型のような人間の町の姿が、雄大に広がっていました。
「……うーんと、ここからどうしようかな」
風船が流されないようにヒモにしがみついたまま、フラップは後悔しました。
後先考えずに飛びだしてしまったせいで、どうやってこの風船を、
あの女の子に渡したらよいか、今さらになって分からなくなったのです。
「とにかく、どこか目立ちにくそうなところに着地しないと」
フラップは、しばらくの間、下の方をキョロキョロと見回しました。
それから、少しだけ身体を大きくして、仔犬サイズになりました。
すると、フラップの重みで風船は少しずつ高度を下げていき、
真下にある、緑の密集した小さな敷地へと降りていったのです。
*
フラップが着地したのは、すっかり老朽化した一軒の廃屋の、
うっそうと雑草が生い茂った庭でした。
人の気配はありません。家主たちは、いったいどうしてしまったのか。
(人間界にも、こんなに寂しい色をした家が建っているものなんだ)
とりあえず、捕まえた風船を、庭に生えていた木の枝にくくりつけます。
(よく見ると、この赤いの……ぼくの肉球みたいなマークがついてる)
それは、丸い白地に肉球のシルエットが浮かんだ、
『ワンワントイズ』という大きなおもちゃ量販店のエンブレムでした。
それはともかくフラップは、
廃屋の壁によりかかり、レンが来てくれるのを待つことにしました。
家のまわりは、古くなったとはいえ石塀が取り囲んでいたので、
外からは簡単に発見されそうになかったのです……
一か所だけ、塀が崩れて庭が丸見えな部分がありましたけれど。
(……あの球体に閉じこめられながら落ちてくる時も思ったけど、
やっぱり、人間界は広いなあ。スカイランドの何百倍の広さなんだろう?)
――ところで、ドラギィの半分は、犬です。
犬の鼻は、言うまでもなくとっても優れています。
ここでは、スカイランドでも嗅いだことのない、さまざまなニオイがありました。
あの商店街でも、おびただしい種類のニオイがありましたが――
人間の家々が放つ、独特のニオイ。道路のコンクリートの、何とも言えないニオイ。
車からもれる、ガソリンのニオイ。なんだか分からない、動物のフンのニオイ。
その中でも、スカイランドと変わらないニオイもありました。
木々や草のニオイが、それです。スカイランドの植物のように、青っぽくて、
豊かな土の香りをふくんだニオイ。
どんなに鼻がムズムズしていても、これだけははっきりと分かる――。
「あ、なんだかいいニオイ。どこからするんだろう?」
フラップは、塀のむこうから、また新しいニオイをかすかに嗅ぎつけました。
これは――なんて魅力的なのでしょう。お肉を焼くような、香ばしいニオイ。
でも、もっとちゃんとこの鼻で感じとりたい。
「ああ、小さい格好だと、はっきり嗅ぎ分けられない!」
フラップは、自分でも制御がつかなくなって、
ライオンと同じくらいにズンズン大きくなると、
崩れた塀の間から丸い鼻を突き出し、静かに瞳を閉じながら、
例のお肉のニオイを探し当てました。
ああ、そうです。これぞまさしく、人間界の台所で焼く、お肉のニオイ!
きっとどこかの家で、だれかの誕生パーティーのために、
夕方前から大きな大きなステーキを焼いているに違いありません!
(あ~、カレーもたしかによかったけど、レンくんもどうせなら、
肉厚でジューシーなお肉を焼いてくれたらなあ)
――なんて思っていたところで、フラップが両目を開けてみると……
目の前に、ひとりの幼い女の子の姿がありました。
よく見たら、先ほどあの赤い風船を手放してしまった、
あのツインテールの女の子本人ではありませんか。
女の子は、フラップの赤い体毛と、大きな鼻を見つめながら、
ただただ、きょとんとしています。
なんという偶然! なんというできすぎた展開!
フラップの努力が実ったとはいえ、これでは世の中甘すぎます。
ところが、フラップときたら、ステーキのかぐわしいニオイのせいで、
頭の思考が若干、マヒしていました。
それで、どうすればいいのか分からないまま、結局、
「ワン、ワンワン。へへへっ!」
と、三文芝居もいいくらいに、犬の鳴きマネをしてしまったのです。
およそ、そこいらの犬とは思えない、絵に描いたようなニッコリ顔で。
その光景に、女の子はひどく驚かされたのか、
次の瞬間、両目を皿のように真ん丸にして、
「マぁーーマぁーー~~~!!」
絶叫しながら、脇目もふらずに走り去ってしまいました。
(しまった、マズイ!)
フラップは焦り一色になって、頭を抱えます!
どうすればよいのでしょう? たった一匹、危険をかえりみずに飛びだした挙句、
人間の女の子に見つかってしまうとは。
こんな時にどうすればよいか、スクールで習っているわけがありません。
下界落としなんて制度を設けているぐらいなら、
人間と仲よくする方法や、逆に見つかりたくない時の対処法を、
少しでも、ほんの少しでも教えてくれれば、どんなによかったか――。
「ああ、いた!!」
つと、近くの曲がり角の陰から、青いバッグを持った少年が走ってきました。
レンです! やっぱり、ちゃんと追いかけてきてくれたのです。
「あ、レンくん……」
フラップは、安心感と罪悪感が入り乱れて、涙が出そうでした。
「もう、そんなとこで何やってんのさ、まったく!
いきなりバッグから飛びだすとか……
キミまだ、この世界に慣れてないんでしょ? だれかに見られたかも!」
レンは、まるで保護者気どりのように顔をしかめていました。
まわりに聞こえないように声は落としていましたけれど。
「そ、そのことなんですけど、レンくん……あのう、その――」
「風船、捕まえたんでしょ? どこにあるの!?」
「こ、ここに!」
フラップは、庭の木にくくりつけていた風船のヒモを解いて、
レンに手渡しました。
「それで、ぼく……じつは――」
「細かいことはいいから、とにかく入って!」
フラップは素早くネズミサイズになって、レンのバッグに身をひそめます。
とそこへ、道路のむこうの曲がり角の陰から、
先ほどの女の子が死にもの狂いでお母さんの両手で引っぱって、戻ってきました。
突然、興奮したわが子に連れてこられたために、困惑しているお母さん。
しかし、女の子がお母さんに見てほしかった生き物は、
廃屋の庭からこつ然と消え失せ、
代わりに、十歳の小学生が道路に立っていたのです。
「いない……」
女の子は、石塀のすき間からキョロキョロ見回しました。
しかし、あの赤い竜のような、犬のような生き物は、もうどこにもいません。
(やっぱり、フラップのやつ、この子に?)
考えこまなくても、女の子の雰囲気で、レンは直感しました。
先ほどのこの子の叫び声を頼りに、ここに駆けつけたのですから。
「どこー!?」
むすっとした女の子は、コンクリートを踏み鳴らしながら、レンに聞きました。
こういう時、幼い子どもの思考力には、度肝をぬかされます。
まるで、レンがフラップを隠したことに、気づいているかのようなにらみ方!
「ど、どこって、何聞きたいのかな……?」
「ごめんね、この子ったら――」女の子のお母さんが、苦笑いして言いました。
「ここで変な赤い犬を見たって騒ぐから。ふふふ、おかしいでしょ。
ここで、何か見なかった?」
「な、なんにも……」レンはとっさに誤魔化しました。
「ぼくも、この子の叫び声を聞いて、何かなあって見に来たんですけど、
ここには何もいませんでしたよ。あ、でも、その代わりに――はい」
レンは、手に持っていた風船を見せます。女の子にも、すぐ分かりました。
その赤い風船は、先ほど自分が手放した、肉球マークつきの風船であると!
「この庭の木の枝に、引っかかってたのを見つけたんだ」レンは言いました。
「この風船のマーク、ワンワントイズのでしょ? いいよね、ワンワントイズ。
たくさんおもちゃ売ってるし、楽しい乗り物もいっぱいあるし。
今日は第三土曜日だから、わんぱっくんが風船くばりに来てくれたんだね」
わんぱっくんとは、ワンワントイズの公式マスコットキャラクターです。
「ぼくの名前は、レン。キミは?」
「リリ……」
「リリちゃん、この赤い風船はきっと、リリちゃんのことが大好きなんだね。
だから、赤い不思議な犬になって、リリちゃんのところに帰ってきたんだよ」
そう言って、レンは女の子の右手首に、風船のヒモをむすんであげました。
「もう失くさないように、お家に着くまで大切にしてあげようね」
すると、女の子の表情が、急にぽわあっと明るくなったのです。
まるで、保育園で素敵な保育士のお兄さんと、めぐり合った時のように!
「あーん、優しいのね。ありがと!」お母さんもときめいているようです。
「どっかに飛んでっちゃったはずなのに、不思議なこともあるのね。
ほら、リリちゃん。お兄さんにありがとうって」
「レンー、アリガトー!」リリちゃんは、ぷるぷると左手を振りました。
そうして、お母さんと手をつないで帰っていくリリちゃんの横顔は、
なんだか魔法にでもかけられたみたいに、キラキラとしていました。
きっとあの子は、フラップの顔を忘れられないことでしょう。
たった一度の不思議体験として、大人になるまで胸に秘めて――。
「……ふう、なんとか乗り切ったかあ」
レンは、そっと胸をなで下ろしました。フラップの尻ぬぐいも大変です。
「本当に助かりましたよ、レンくん」
フラップが、バッグの口からにょきっと顔を出しました。
「これにこりたら、もう二度と、軽はずみなマネはしないこと。いいね?」
「はい、肝に銘じておきます。ところでレンくんは、言葉の達人ですか?」
「へ?」レンはポカンとしました。
「だって、あの状況であんなことを言えるなんて、ただ者じゃないでしょう?」
「た、たまたまだし! なんとなーく、頭に浮かんだっていうか。
とりあえず、帰ったらみっちり対策会議しなきゃ。同じこと起きないようにね」
「はぁい、対策会議します……」フラップはしょんぼり。
「まあ、でも」レンは、にこっとして言いました。
「キミのこと、少し分かった気がするよ。とっても優しいんだってことがね」
「ぼくこそ、レンくんのこと、よく分かりましたよ。
ぼくだけでなく、他のヒトにも親切なんですね。抱きしめたいくらいです!」
*
ふっふっふ……。
レンのバッグの中、
フラップとは反対側のスペースにうずまった白ネズミが、怪しく笑いました。
(やはり、わしの目に狂いはなかった!)
この奇妙なネズミが次に起こす行動とは?
――それは、この後すぐに分かることでした。
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