隠匿の碧

こまどり

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隠匿の碧

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 コバルトブルーに染められた絵には、知られてはいけない秘密が隠されている。

 彼女は人を魅了する技術に長けていた。

 彼女は世間からレディー・ノーブルと呼ばれていた。本人がそう名乗ったわけではなく、誰かがそう呼び始めてそれがいつの間にか広まっていった。見た目がいつまでも年を取らずに綺麗だったため、彼女の事を魔女と呼ぶ者もいた。彼女を手に入れたいという人は大勢いたが、ようやく手に入れたと思った時には誰もが皆、既に失っていたことに気づく。見た目だけではなく、時には国を反映させることや、国を奪う力さえも持っていた。幅広い知識に男性だけでなく、女性さえも魅了し自身の味方として取り込んでしまう話術を使って、思いのままに事を動かしていた。何より凄いのが、彼女の持つその情報量だった。身分の違いや、敵味方と関係なく方々に紛れ込んだ彼女に魅入られた者たちによって直ぐに知りたい情報を得る事ができた。最重要機密さえ、国王よりも先に知っている彼女に知り得ない情報などないのでは無いかというくらいだった。先駆者たちは、彼女を味方につければ成し得ない大業などないと言い、レディー・ノーブルが近くにいるという情報を得ると、すぐさま美しい女性たちは捕まえられて国王の元に届けられた。しかし、彼女は捕まらなかった。正確に言えば一度は自ら捕まえられたが、直ぐに開放された。捕まった先でしばらくその内情を探ると、その国に紛れ込んでいる内通者の手によって直ちに開放された。そして、その国の敵国に入り込むと、彼女を捕まえる命令を下した国王を滅ぼしたのだ。彼女は捕まっていた間に、魔女狩りとして捕まった女性たちを味方につけ、国王に不満を抱いていた者たちを反乱軍として奮い立たせて国王討伐の手段を伝えると皆に成功を約束していった。両国ともに有利な条件を提示し、殆ど死者を出すこことなく事を成し得た。国の内情を理解したその条件は両国の人々の心を掴み、どちらの国からも評価されて報酬を得た。その事があってからは、彼女の力を恐れて、彼女を捕まえようとする者は現れなくなった。国を滅ぼしたとしても彼女を恨むような人など誰もいなかった。彼女は人に愛され、尊敬されるようなそんな存在だった。こうしてレディー・ノーブルの味方は増えていくのであった。
 しかし、彼女が一箇所に留まることはなく、事を成し得て報酬を得れば次へと渡り歩いていく。彼女は様々な女性に名前や見た目を変えることができた。突然現れては忽然と姿を消すその美しい女性たちは皆、同一人物なのではないかと考える者もいた。しかし、彼女が側にいる時には、それを彼女に伝える者は誰もいなかった。言ってしまえば彼女がここから立ち去ってしまうのではないかと恐れた為である。彼女を詐欺師などという低俗な言葉で表す事は到底できない。才能や見た目に魅了された者たちから、相応の価値のある物を譲り受けるのだ。それはお金だったり宝石だったり、値段も付けられない程の高価な品である事もあった。いずれ失うとわかっていても高価な物を贈りたくなる、それ程までに価値のある女性だった。贈られた報酬は物だけではない。信用され、権力を譲り受けた事さえあった。ただ、その場を去る彼女にとって権力とは事を成し得るための手段でしかなく、いくら力を得たとしてもそれがそこに留まる理由にはならなかった。それは、彼女にとっては、何の魅力も持さないのであった。
 彼女は有り余る富を得ていた。報酬を得るために努力は惜しまなかったため、様々な女性に成り切るための流行のドレスやアクセサリーなどを取り揃えるのにもお金が必要であった。そして、様々な情報を得るためにも資金は必要であったが、それらを除いても既に使い切れない程の財産を手にしていた。それでもこの生き方を辞められないのには理由があった。

 彼女は生まれた時から父親の顔を知らなかった。そして、彼女の母親こそが本当の詐欺師であった。それも『Black owl』と呼ばれ多額の懸賞金までかけられた凄腕の詐欺師だった。母は男性や年寄りにも姿を変えて、あらゆる人から金を奪い取った。羽音もたてずに周囲に気づかれることなく近づき、獲物を仕留める様が梟に似ていると言われてそう呼ばれていた。しかし、本当は一度そう言われた事に気を良くした母が、その名を気に入って自らそう呼ばせるように仕組んだのだ。その証拠に母は詐欺が成功すると、黒い梟の印が押されたカードをその家に置いてから立ち去るのだった。Black owlを名乗るようになってから、その罪を本物に擦り付けようと手口を模倣する偽物も現れ始めた。それを母は挑戦状がきたと言ってゲームのように楽しんでいた。母は偽物が現れるたびにその者たちを無一文にして、社会から消し去り制裁を下していった。母にとっては他人は信じるに値せず、お金こそが自分を満たしてくれる唯一の存在だと思っていた。ある時、その偽物をあえて名乗り詐欺師である母を騙して牢屋に捕まえた者がいた。彼女は母が捕まえられたその時、そばで見ていたがその光景を見ても悲しくはなかった。寧ろこの生活からやっと開放されるのかと安堵したのだ。だから母が捕まった場所にも行かなかった。助ける術は教えられていたが、娘として母を助けに行くことはしなかったのだ。まだ子供だったが一人でも十分生きていけると思った。ようやく自由を手に入れたと思った矢先、母は自力で直ぐに脱獄してしまった。そして彼女を見つけ出し「あんたはやっぱり私の娘ね。それじゃ、次に行きましょう。」と恐ろしく綺麗な顔で笑った。母は最初から、娘の事も信用などしていなかったのだ。 

 母の詐欺は貴族から貧しい村人までも見境なく行われた。自分の体や子供さえも詐欺の道具として利用した。そして、貴族たちの家から金を全て奪い取り、住む家さえも奪い取ることもあった。その結果、その後の人生を廃人のように路頭で生きる者や、人生に絶望して死を選ぶ者もいた。しかし、母はそれに対して罪悪感を抱くことはなかった。その様子を見て、人を陥れた事を成功として喜んでいるようだった。彼女は世の中を生き抜く術として詐欺の方法や変装の仕方、世の動向、そして人や物を見極める力などあらゆる事を教え込まれた。その頃はまだ子供だったから、この世界で女が生きていく為には必要なことなのだと必死に学んだ。ただ、詐欺を行い金を得るために人々を生きていけない程までに陥れる事だけは、どうしても受け入れることはできなかった。 
 
 詐欺師である母は変装を得意とし、用意周到な手口で捕まる心配はなかったが、獲物を探してあちこちを旅するように渡り歩いていた。Black owlは単独犯と言われていたため子供がいるというのは、人々の目を欺くためにも役立った。
 旅をする中で、あるとても綺麗な町に立ち寄った。その町では、マグノリアの花が咲く頃にその花が綺麗に咲いたことを祝して開かれるお祭りが行われていた。立ち寄った時は、ちょうどお祭りの最中だった。この町は、昔他国から侵略者が来た時に人々を守るために立ち上がった英雄マグナスが、戦いで勝利を収めた際に譲り受けた地だった。マグナスはこの地に平和が続くように願いを込めてマグノリアの木を町の中心地に道に沿って植えた。そしてその花が咲き、町に良い香りが立ち込める頃に『マグナスの栄光』と呼ばれる祭りが開かれるのだ。それはマグナスの死後も、平和を願う人々の思いからその地の伝統として毎年祭りは行われた。祭には誰もが平等に参加する事ができ、中心地に露店を出すことができた。食べ物や飲み物、洋服、アクセサリーなど1日中見ていても飽きないほど長く続くマグノリアの並木道には、沢山の店が立ち並んでいた。その花の美しさと店に見とれていると、母は「今日は私一人でやるから休みをあげる。これで一日遊んでくるといいわ。」といって子供が持つには大金の入った袋を渡してそのままどこかへ行ってしまった。今日は、随分機嫌が良い様子だった。前回詐欺を働いた地から随分と離れた所まで来たので、一人でも問題ないと判断したのだろう。または、子供がいないほうが都合が良いと思ったのか。それでも詐欺について考えることもなく、自由な時間がもらえたことは心より嬉しかった。あちこち見て回っていると、店を出せないような貧しい子供たちもマグノリアの花で花飾りを作り、それを売っていることに気がついた。不思議なことにどの店よりも、貧しい子どもたちが売っている花飾りが一番売れているように見えた。どう見ても書いてある値段よりも安そうな品なのに、誰も文句を言うこともなく皆が子どもたちから花飾りを買っていた。大人たちはその子供から買った花飾りを女性は髪に飾り、男性は胸に身につけていた。そんなに売れるものなら、大人が自分の店で売ろうとするはずなのに何故かしら・・・?と思い花飾り売りの幼い子供に聞いてみた。「こんにちはお嬢さん。」その子は自分とあまり年端も変わらない彼女に、礼儀正しくお嬢さんなどと言われて少し驚いているようだった。「あっ、こんにちは。マグノリアの髪飾りを一つ買いませんか?」その花を売る女の子の手は、日々の労働を感じさせる程酷く傷つき荒れていた。「えぇ、一ついただくわ。お金はこのくらいでいいかしら。」と女の子の手に金貨を3枚握らせた。すると女の子は驚き「こんなにもらえません!」と慌てていた。彼女は微笑むと「その代わり、一つだけ教えて欲しい事があるの。この花飾りは何故こんなに売れているのかしら?」「それは、英雄マグナスが言ったんです!お祭りの日に子どもたちからマグノリアの花飾りを買って身につけると幸せが訪れるって。マグナス様は働き口もなく、お金を稼ぐことができない孤児にも幸せを下さった素晴らしい人なんです。マグナス様自身もお祭りの日には花飾りを買って身につけていたんですって。それにマグナス様が奥様になられる人にマグノリアの髪飾りを贈ったこともあって、大事な相手に幸せを贈るという意味で花をプレゼントする人も増えているんです。それを皆が真似するようになって・・・。この話しは、ここに住む人は皆が知ってることなんです。やっぱり金貨3枚なんてもらえません。」彼女は、お金を返そうとする女の子の手を握るとまた綺麗な顔で微笑んだ。「私には、とても価値のある話だったわ。ここの皆は英雄マグナスを心から尊敬しているのね。そして、マグナスがとても素晴らしい人だったということがわかるわ。心の綺麗なあなたがその証拠ね。やっぱりこのお金はもらっておいて下さる?そしてもし次に私に会うことがあったら、また私とお話してくれると嬉しいわ。そう言えば、私も花をプレゼントしたい人がいるのだけれどもう一つ頂いてもいいかしら?」「もちろんです!」彼女は、女の子からマグノリアの花を受け取ると女の子の髪に飾ってあげた。そして、周囲の人に気づかれないように追加で金貨3枚を女の子のポケットに忍ばせた。「そんな!私、なんてお礼したら良いのか・・・!」泣きそうになっている女の子に、彼女は静かにというように自分の口元にそっと手をあてると「あなたの名前を聞いてもいいかしら?」「エミリアと言います。」「エミリア、覚えておいて。私は目立つことはあまり好きではないの。次に会う時には立派なレディーになっていてね。」「…はい。いつかこの御恩を返せるように、必ずあなたのお役に立ってみせます!あの、お名前を聞いてもいいですか?」彼女は少し困った顔をして「それは、次に会った時も私の事がわかったら教えるわ。今日はエミリアに会えて楽しかったわ。あなたに幸運が訪れることを。」そう言って丁寧にお辞儀をすると、彼女は去っていった。エミリアは彼女の姿が見えなくなるまで静かに見送っていたが、彼女の事も金貨を持っている事も誰にも話してはいけない事なのだと思った。そうして、いつか大人になったら立派なレディーになって彼女の役にたてるように、時が来たら自分の力で得た金貨を代えそうと心に決めるのだった。

 普段は母と店に入って豪華な食事ばかりしていたため、屋台に並ぶ食べ物は珍しいものが多かった。お腹が空いてきたため、屋台でいくつか食べ物を買い、マグノリアの木の下に座って食べていた。すると、道を挟んだ向かいの画家の姿が目に入ってきた。その画家は、見習いの男の子と2人で仕事をしていた。お金を貰うと、その場でその人のデッサンを行い書いた絵を売り物にしていた。見習いの男の子は画家の食事を買ってきたり、画材を準備したり、客引きに行ったりと忙しくしていたが、役たたずと怒鳴られ頭を小突かれて画家の男にひどい扱いを受けていた。売れない画家なのか、客は皆通り過ぎていった。男の子のやせ細った姿を見ると、画家の見習いをしているよりもまだ花飾りを売った方が良いのではないかと思えた。屋台の食べ物を食べ終えると、彼女はその画家の元へ行った。その画家が露店を出している所には、いくつかの絵が立てかけてあった。絵の価値を見極める事も母から教わっていたため、売れない画家には才能がないという事は直ぐにわかった。「こんにちは。私の肖像画を1枚お願いします。」そう言って何も知らない子供のフリをして「お金はこれで足りますか?」と手持ちの一番安い紙幣を画家の男に渡した。男は「お嬢ちゃん、いくら何でもこれっぽっちの代金じゃ話にならないよ。」と迷惑そうに鼻で笑った。追い返そうとしたが、身なりからして金持ちの貴族に見えたので良い金づるになると思い、辺りを見回して女の子の両親を探した。その様子に気づくと「勿論、一人で来たのではないわ。向こうに見えるのが私のお父様とお母様よ。」そう言って彼女は堂々とした話し方で、道の反対側のアクセサリー店で買い物をしている仲の良さそうなお金持ちそうな夫婦を指差した。「二人にはこちらに来ることは伝えているわ。お金は貰ってきたのだけれど、これでは足りませんでした?では、これでいいかしら。」そう言って次は、金貨を1枚見せた。大金を見せると売れない画家の目の色が変わり、態度は一変した。当然そのデッサンの値段は金貨1枚に筆頭する品ではなかったが、売れない画家はいそいそと値札を隠して話しを続けた。「はい、お嬢様。そのお金があればお受けすることができますよ。では、こちらに先にお金を頂けますか?」と言ってボロボロの帽子に入っていたデッサン1枚分の値段のコインを急いで隠して、空になった帽子を彼女の前に差し出した。その様子を男の子は心配そうに見ていたが、彼女は男の子の方に目配せをすると微笑んだ。そして彼女は「あの、お願いがあるのですが・・・。私、この男の子に絵を描いてもらいたいのだけどいいかしら?」と言った。それを聞いて売れない画家は、首を横に振りながら「こいつは見習いで肖像画なんて描けませんよ。」と馬鹿にしたような顔で男の子の顔を見た。「そう、それなら諦めるしかないわね。」そう言ってお金を仕舞おうとすると、売れない画家は慌てて「いやいや、駄目だとは言ってませんよ!」「それなら良かったわ。」そう言って帽子の中に金貨を1枚入れると「あっちに綺麗に咲いたマグノリアの木を見つけたの。あの木の下で絵を描いてもらいたいのだけど、あちらに連れていってもいいかしら?」「勿論ですよ。お代は頂いたので、こんな使えない奴で良ければ好きに連れてって下さい。」と売れない画家は急いで金貨をしまうと、金の価値がわからない子供が大金を落としていったと上機嫌だった。彼女は「ありがとう。では、ごきげんよう。」と丁寧にお辞儀をしてみせた。

 大通りから少し離れた静かな場所にあるマグノリアの木の下で、「この木の下でお願いするわ。」とそのまま彼女は黙って姿勢良く座った。男の子もその木の前に座り「では、描き始めますね。」と言ってそんな彼女を見ながら、黙って絵を描き続けた。静かに流れる時間に気まずさはなく、デッサンの音だけが心地よく響いていた。そして、絵が後少しで描き終えるという頃に「少し話してもよろしいでしょうか?」とデッサンを続けながら男の子は彼女に話しかけた。「えぇ、何かしら?」彼女は目線を変えずに答えた。男の子は客であるお金持ちそうな女の子に対して丁寧な話し方になるように、必死に言葉を選んで話しているようだった。「えっと・・・私はまだ子供で見習いの身です。何故私なんかに肖像画を書いて欲しいと言ったのですか?あなたのような家柄の方は、その、もっと名の知れた画家に相応の絵を注文するのではないかと思って・・・失礼でなければ教えていただけますか?」彼女は少し目線を下にすると「あなたは痩せていて体は小柄だけれど、恐らく私と年はそう変わらないのではないかしら。私たちは子供だけれど、世間が思っているような子供ではないはずよ。私たちは、子供ではいさせてもらえない日々を過ごしてきたのだから...。あの、雨露に濡れた薔薇の絵はあなたが書いたのでしょう?あれを見てあなたに描いて欲しいと思ったの。」その絵はあの画家が書いた絵の下に重なるように置かれており、半分くらいしか見えていない色のないデッサンだった。それもようやく一枚だけ置いてもらえた絵だった。顔料を買うお金もなく、ケチな画家にも使わせてもらえるはずもなく、自分で1から作った木炭を削ったものを使用して描いたものだった。画板は貴重で普段から絵を描く場所も与えられなかったため、平らな地面や岩を見つけては石などで絵を描いた。雨がふって絵が洗い流されれば、またそこに新しい絵を描くことができた。そうやって見習いとして日々働きながら、空いた少しばかりの自由な時間に絵を描いてきた。毎日、絵を描くことの出きる場所と絵を描くための材料を探して。あの薔薇の絵は初めて画板に描いた、自分にとっては大切な絵だった。あの短時間で彼女がそこまで見ていた事を知り、男の子は驚いていた。「違ったかしら?」「いいえ、その通りです。」「あなたはきっとマグノリアの花飾りを売ってお金を得るよりも、見習いとしてこき使われてでも好きな絵を描いていたいのね。」優しく微笑む彼女の表情を見ていると、何もかもを見透かされているような不思議な気持ちになった。
 しばらくして絵が描き終わると「これで画材や顔料を買うといいわ。」と言って残りの金貨を全て男の子に渡した。男の子は驚いたような困ったような顔で「お金は先程貰ったので頂けません。それに、露店の絵一つで金貨1枚分だって本当はしないんです!」と必死に答える男の子に彼女はまた少し微笑むと、とても先程の子供とは思えない表情で話し始めた。「勿論わかっているわ。それでも、あなたになら払ってもいいと思った。私はいつか大人になるわ。その時までに、必ず絵描きとして成功して、私に会いに来て。次に会ったときに、また私の肖像画を書いてくれると嬉しいわ。」男の子は困惑しながらも「...わかりました。このご恩はいつか必ずお返しします。」と言って、その目からは強く前向きな意思が感じられた。「そうね、一つ忠告をするわ。あの男の元にいては、あなたが絵を描き続ける事はできない。このまま戻っては駄目よ。次にあなたがあの男に会うのは、あなたが大人になってから。ここから北に向かって6マイル程離れた川の近くに使われていない山小屋があるから、そこをあなたのアトリエにするといいわ。子供では家を契約することはできないから。そこで好きなだけ絵を描くといいわ。そうして、できた絵を首都クリエタに住むミノスというワイン醸造を営む男に売りに行って。表向きはワイン好きな経営者だけど、彼には秘密があるの。そこでΛ(ラムダ)の紹介だと言えば、その男に取り次いでもらえるわ。これからの事は、あなたが決めることよ。私があなたに言えるのはここまで。あの薔薇の絵に色が灯る日を楽しみにしているわ。いつか大人になった時に、このマグノリアの木の下でまた。」そう言って彼女は、丁寧なお辞儀をすると完成した絵を大事そうに持って去っていった。
 
 夕方になり指定されていた時刻に指定されていた場所でしばらく待ち、母と合流した。母は詐欺に成功したようで、上機嫌に「夕食にしましょう。」と言い、他人から奪ったそのお金を持って町一番の高級飲食店へと向かった。夕食の途中で母は「久しぶりのお祭りは楽しめた?アクセサリー類は増えていないみたいだけど、あげたお金は全部使ったのかしら?」と真っ直ぐ私の瞳を伺うように見ながら聞いた。私は「お母様がお休みを下さったお陰で、とても楽しめました。あのお祭りで、そんなに高価な物は売っていませんでした。」と言いながら、母から貰った金貨から1枚少ない金貨を入れた袋を差し出した。「使い道もないのでこれはお返しします。そんなにお金もかからずに、珍しい食べ物が食べられました。」と彼女は微笑んで見せた。その回答に母は満足している様子だった。彼女は自分ではお金を持っていない、反逆の意思はないと常に示し続ける必用があった。母にとっての脅威は、自分の持つ全てを教え込み、Black owlの正体を知っている娘であると知っていたから。味方につければ強い協力者となるが、敵になれば自分を破滅に追い込む脅威と成り得るため、娘を試すような事はしばしばあった。お金さえあれば人が動くとおもっている母には、お金の使い道がないという言葉は安心するようで効き目があった。母に渡した金貨は、彼女が密かに見つからないように持ち歩いていたものと、見えるところ以外に身に付けていた装飾品をいくつか売って金貨に交換したものだった。
彼女は母親よりも目利きが優れていた。旅をしていたため色々な珍しい品を目にする事が多く、その地では高価ではない物が別の地では高価な物になるという事を見極める力を持っていた。そして、その品物を誰が一番欲しがるかということもよくわかっていた。そして、母親の手伝いをしていると様々な情報を知ることがきたが、その情報もお金に変わるという事も知っていた。ただ、彼女が売る情報は戦争を有利にするような情報ではなく、戦争による被害を防ぐ為のものであった。攻める方は、勝てると分かっている戦でなければ始めることはないと知っていたため、いち早く出鼻を挫く対策を伝えた。品物や情報のやり取りは旅をする中では困難であり、彼女の協力者がいるギルドを介して行われていた。そうやって彼女は、母に見つからないようにお金を得ていた。今日使った分の金貨は、時間さえあれば保管場所より取り寄せる方法はあったが、今日中に準備しなければ疑いの目を向けられてしまうため急遽用意した物であった。彼女は、母親のやり方は嫌いでも敵対する気など微塵もなかった。母と過ごす日々は、嫌なことばかりではなかったから。母は私が生まれる以前のことは話したがらないが、お金が全てとして詐欺師としてしか生きられない母には事情があったのだろうと察するに余りある。一緒に過ごしてきた日々を思えば、母を憎みきれない自分には勝ち目はないため、母に切り捨てられた時のために常に備えておく必用があったのだ。
 
 あんなに世間を騒がせた母は、彼女が14歳の時に病気であっけなく死んでしまった。母が唯一信用していたお金でさえも、母の病気は治せなかった。男か女かもわからない残忍な正体不明のBlack owlは生死不明のまま永久に闇の中へと消えたのだ。その後も偽物が何度か世間を騒がせたが、彼女だけがBlack owlはもういないのだという事実を知っていた。あまり好きではなかった母からは、多くのものを残してもらっていた。母より受け継がれた美しい容姿に財産、多様な知識や技術、そして様々な詐欺の手口など。少女が一人で生き抜く為には十分すぎるものを14歳で既に手にしていた。彼女は年を取らなかったわけではない。彼女がレディー・ノーブルとして世間を騒がせ始めたのは翌年の僅か15歳の時だった。15歳には到底見えない気品溢れる佇まいや口調、大人びた容姿は彼女をレディーと呼ばせるのに相応しかった。
 母親から解放されると漠然と思った。母のようには生きたくないと。母は世間から詐欺師として厄介者扱いだったため、捕まらないように逃げるように生きてきた。自分は母とは真逆の人生を送りたい、そう思った。隠れるように生きるのではなく、いつも堂々としていたい。人々に好かれ、愛されるような人になりたいと願った。母の元で生きてきた彼女は、他者から奪うのではなく価値のあるものを与えられた時こそが、この世で生きてもいいと自分の存在価値を証明することができる唯一の方法だった。

 彼女がレディー・ノーブルと呼ばれ始める頃、絵描きの男の子も立派な青年になっていた。彼は売れない画家の元には戻らず、山小屋に行くとそこで毎日絵を描き続けていた。小さな山小屋を見つけるのは大変だったが、たどり着いてみればアトリエにするには十分過ぎるほど素晴らしい場所であった。自然に囲まれた静かな環境で、山を降りれば賑やかな町がありそこには港から届く珍しい品々が運ばれてきていた。その中には見たこともないような画材もあり、絵を描き続けるのに困ることはなかった。そしてその町には彼を知る人も、虐げる人もいなかった。そうして何年も経ちようやく満足のいく絵がかけたので、彼は書き上げた絵を持って船で首都クリエタへ向かった。

 首都クリエタでワイン醸造を営むミノスという男を探すのは、そう難しいことではなかった。何しろ首都でそのワインを知らない人はいないという程有名で、これ以上のワインは作れないと言われる程美味しいと評判のワイン醸造の経営者だったのだから。ただ、それほど大規模な経営者ともなれば忙しいようで、会う約束を取り付けるのは困難であった。絵描きだという不振な男はワイン醸造では警戒され、随分待ったが会うこともできずに作業員に追い出されそうになった。しかし、彼女との約束を守るためこのまま帰るわけにはいかなかった。「お願いです!ミノスさんにΛの紹介だと伝えて下さい!それだけ伝えてもらえばきっとわかるはずです!お願いします。どうか・・・会わせてもらえるまで何度でも来ます。今日は帰りますが、明日もまた来ます。」そう言って深々と頭をさげその場を立ち去った。翌日またワイン醸造を訪れると、そこには立派な服装のがたいの良い中年の男に出迎えられた。「この忙しい時に随分待たされたもんだ。私がこのワイン醸造経営者のミノスだ。Λの紹介だと言ったのはお前だな?」と不機嫌そうに言った。「はい。イアンと言います。」「昨日はこちらが失礼な態度をとったみたいで、悪かったな。まぁ、とりあえず場所を変えて話を聞かせてくれ。」と全然悪いとは思ってはなさそうな言い方で、早くしろというような態度で別室に案内された。 

 ミノスについていくと、大きなソファーが2つ置かれた応接室のような場所に案内された。飲み物を持ってきた秘書のような人を、大事な話があるからとすぐに部屋から外に追い出した。秘書が部屋を出てソファーに腰かけるとすぐに、「お前はΛの正体を知っているのか?会ったことがあるんだろ?」と真剣な顔で、探りをいれるようにミノスが聴いてきた。彼女の事は、本人が隠している以上言ってはいけないことなのだろうと思い、しばらく黙っていると「いや、やっぱり言わなくて良い。正体を知ったら危険なことに巻き込まれるかもしれないしな。Λの事を口にしないということが、お前が信用できる人物だって言う証拠なんだろう。イアンと言ったな。お前はここに何をしに来たんだ?」「あの、私が描いた絵を売りに来ました。」そう答え、包んできた絵の包装をといてミノスに見せた。それは、金持ちの男たちが言い争い奪い合う側で、貧しい子供たちが路上で少しの食べ物を分け合う絵だった。それは、実際に目の前でその光景が起きているかのように切り取られた美しくも優しい絵だった。ミノスは何も言わずその絵をしばらく眺めていた。そして、ようやく「師は誰だ?絵の描き方はどこで学んできた?」と尋ねてきた。「師と呼べるような人はいません。絵は独学で描きたいと思ったものや、目で見たものをそのまま描いてきました。絵を描くことが好きなので、時間さえあれば一日中絵を描いていました。私を諌める人はもういませんから...。恩師を挙げるとすれば、私に絵を描くことを続けさせてくれたΛさんがそうなのかもしれません。」ミノスはソファーにふんぞり返ると頭を抱えながら「師がいないだと?全く、こんなお宝をいつもどこで見つけてくるのか。Λには恐れ入ったよ。Λはお前に何て言ってここに来させたんだ?」とため息混じりに言った。「首都クリエタに住むミノスというワイン醸造を営む男に、絵を売りに行くようにと言っていました。」「絵を送るようにじゃなく、売りに行くように言ったんだな?Λの意図がようやくわかってきたな。」とミノスは鼻で笑い顎に手をやると、「正直、絵の上手さは言いようもないくらい十分だ。この色使いが素晴らしい。今まで見てきた絵の中でも飛び抜けてる。Λが目をつけただけはある。だが、Λは本当にイカれてる!今度は物じゃなく人を送りつけてくるなんて...。まて、まだ何も言うな、少し考えさせろ。」そう言うとミノスは黙って何かを考えているようだった。絵を認められた事は嬉しかったが、この様子ではあまりいい答えは返ってこないのだろうと重い空気を感じていた。そしてミノスは、何かを諦めたように重い口を開いた。「俺は相当信用されてるみたいだな。そして、お前も信用するに値する人物だってことだ。・・・Λが知ってる俺のもう一つの顔を教えてやる。聞けば後戻りはできないぞ。覚悟はできてるか?」「はい。それがΛさんの意思であるなら、どんなことも後悔はしません。」ミノスは呆れた顔で「まるで信者だな。」と笑うと、今度は真剣な顔で話し始めた。「俺はワイン醸造の経営者をする裏で、闇オークションのオーナーをしている。この事は他言無用だ。世間に知られればワイン醸造も終わりだし、お互い命にも関わる。まぁ、闇オークションは言ってしまえば趣味みたいなものだ。賭博や贅沢がしたいわけじゃないし、知っての通りワイン醸造も結構儲かってる。オークションで儲けた金は気が向けば寄付もするし、働き手に余分に金を出してやることもできる自由な金になるってわけだ。貴族の奴等は無駄に金を持て余してるから、そういう奴等に大金を出させるのが痛快なんだ。何より売れるものかどうかの目利きには自信がある。提供者と配分はイーブンだがそれでも十分なくらい金が入る。落札値が言い値より安ければ、交渉も受け付けている。言っとくが、危ない薬何かは絶対に出品したりしない。ただ、入手ルートに問題があったり世間では取引が禁止されている高価な物など、普通には手に入らないような物を出品しているから闇オークションと言っているが結構善良なやり方だろ?イアンと言ったな。俺の秘密を知ったからには闇オークションの手伝いをしてもらう。」「えっ?」思ってもみなかった話になり驚きを隠せず思わず大きな声が出た。「あっ、すいません。あまりの事に頭がついていかなくて・・・。絵を売りに来たのに急に闇オークションの手伝いだなんて、どういう事か聞いてもいいですか?」「ふん、お前はΛとは違って頭は良くないみたいだな。良いことを教えてやる。俺のもとに持ってきたこの絵は、お前が有名になった頃には価値がつくだろうがそれまではただのゴミと何ら変わりない。知っておいた方がいい。金持ちには金持ちが好む絵というものがある。無名の画家が描いた貧しい子供の絵を、高い金を出して家に飾りたいと思うか?稼げるようになりたいのなら売れる絵を描くんだな。まずはそれからだ。このオークションの品物の中には売れる絵が商品として出ている。お前はここで暫くオークションを手伝いながら、好きなだけ絵を描くといいい。イアン、俺がお前を一人前の売れる画家に育ててやる。お前は画家として稼げるようになり、俺はオークションで売れる絵が手に入るようになるってわけだ。恐らくそれがΛの狙いだろう。まったく、何年先まで見越してるんだか・・・恐ろしい奴だよ。」確かにこの話しを持ちかけられた時は、彼女はまだ10歳前後の子どもだった。そんな少女が売れない画家の付き人の男の子が描いた、たった一枚のデッサンからここまでの未来を描いていたという事実は驚くべき事であった。そして、あのデッサンを見つけて自分をここまで導いてくれた事に感謝した。「まあ、この絵は俺が買って預かっといてやる。その金で画材を買ってきて絵を描いてみろ。それが売れる絵になるまで俺が評価してやる。」そう言って金を置いてミノスは部屋を出た。
 
 ワイン醸造の経営者ミノスという男の裏の顔は、闇オークションの支配人だった。そのオークション会場には、金持ちで招待状を受け取った特別な人物しか参加できないようになっていた。そして、その会場には一人ずつに仕切りがあり参加者同士が顔を合わせないようになっており、皆が正体がわからないように仮面をつけて参加していた。支配人であるミノスも同様に、黒い羽のような飾りのついたピエロの仮面で顔を隠し服装も声も変えていたため誰にも正体を見破られることはなかった。Λを除いては。
 購入者の会員はNo.001から始まり、提供者もギリシャ数字でα(アルファ)から順に番号付けて管理していた。提供者も信用できる者を選び、ここでの情報は規律違反に伴う契約書と共に外部にはもれないように厳しく管理されていた。特にお互いの正体を明かすことや知ろうとする事は禁忌とされていた。だが、Λは突然現れた。新しい提供者を探している段階で、自らΛだと名乗ってきた。裏の世界でミノスは仲間を作らないようにしていたし、そもそもワイン醸造の経営者が闇オークションの支配人だと気づかれないように細心の注意を払ってきた。それなのに、Λはあえてワイン醸造の仕事中に直接依頼を渡してきた。全て分かっていると見せつけるかのように。恐らく同じ場所に居合わせたが、気づいた時にはカードと品物が視察に行っていたブドウ畑に置かれていた。仕事仲間何人かと視察に来ていたが、広いブドウ畑の中のその場所にまるで誘導されたかのかのように自分だけがそこにたどり着いた。驚いて辺りを見渡したけど、人影すら見えなかった。そのカードにはとある2人の人物の名前が書かれていて、必ずこの品を出品する際にはその二人を招待することと書かれていた。そして落札額の配分と、残りは指定の人物に匿名で寄付をして欲しいと書かれていた。その頃、ミノスはワイン醸造の仕事で詐欺被害にあい、大損していたためその配分額は魅力的に見えた。言われるままにその2人を招待客の中に入れて、品物をオークションに出した。そうしたら、予想を遥かに越える程のとんでもない額がついた。招待した2人の人物にとってよほど大切な物だったのかどちらも譲らず、今までの落札額とは比べ物にならない程の高額な値段に、額が跳ね上がるたびにさすがに震えた。しかし、驚くのはそれだけではなかった。恐らく買値の予想もついていたのだろう。指示通りに自分の取り分以外を匿名である人物に寄付をしたら、すぐさま子供のための学校が建った。その学校は、慈善事業も兼ねていてお金のない子供たちも奨学金制度を使って教育を受けるができると、今では知らない人はいない程有名な学校になっている。幾つ目と耳があるのかと思うくらい、情報を得る力も先を見越す力も相当なものだと、それ以来Λの依頼は断らないと決めていた。それからは、毎回送り先は違うが時々Λからお金の送り先が書かれたカードと品物が贈られてきていた。情報と引き換えに品物を送ってくることはあったが、まさか今度は人が贈られてくるとは思ってもみなかった・・・。  

 山小屋に混もって絵を描き続けてきたイアンにとって、闇オークションはいい刺激になった。品物には他国の技術者が作ったドレス、敵国が所有している筈の宝石、希少価値の高い酒、宝剣、国法書、兵書、珍しい動物、毛皮、見たこともないような食べ物や貴重な香辛料の独占権など。さまざまな物が出品されていた。そしてその中には有名な画家の、まだ世間には公表されていない絵という物もあった。有名な画家の絵を間近で観る機会などなかったため、売れる絵というものを学ぶのに役立った。一度Λの名で送られてきた本のような物があった。中を見ることは許されなかったが、それが他の品とは比べ物にならないくらい信じられない額で落札されているのを見て、やはり彼女は手の届かないような凄い人だったのだと実感した。そして、今もどこかで元気に過ごしているのだと思いを馳せ、彼女にまた会えるような人になれるようにと自分を奮い立たせた。
 ある有名な画家の絵を模写した時ミノスが凄い剣幕で怒った時があった。その絵はあまりにも完璧だったのだ。「何でこんな絵を描いた?お前が絵が上手いという事は十分わかった。だからこそ他人の絵を模写してはだめだ。その絵は完璧すぎて、お前が描いた絵が本物になっちまう。わかるか?その偽物の絵が本物同様に高値で取引されたり、お前自身が捕まって利用されることもある。絵が上手い奴は他人を真似することは決して許されない事なんだ。それを忘れるな。」そう言ってイアンの目の前でその絵を破り捨てた。それは、こんな絵を書いてみたいという軽い気持ちで描いていた物だったが、思いもよらぬミノスの反応にそれからは2度と他の画家の絵を模写することはなかった。オークションに出展される絵を見る中でわかってきたことがあった。金持ちたちは自分が好む絵というよりも、周りの人に自慢できるような自身の評価を高めるような絵を飾りたがるという事。そして女性の参加者はパーティーに招待する時の事を考えて絵を見て、どこの風景だとかどんな心情なのかなど会話を楽しむような絵を好む人が多い事。また、宗教画なども好まれているという事。そして有名になってしまえば、もはやどんな絵だったとしても構わず金を出すのだという事。イアンは思いたったかのように、「しばらくここを離れます。準備ができたらまたここを使わせて下さい。」と言ってミノスの元を離れた。デッサンのための材料と日持ちする食べ物を持ち、描きたい場所へと次から次へ点々としながらひたすらデッサンをし続けた。ミノスの元に戻ってきてからは、アトリエに籠るとなにかに取り付かれたかのように、食事も寝ることも忘れてしまうほどに絵を描き続けた。そうして完成した絵は、言うまでもなく素晴らしい作品だった。元々画家としての腕は確かだったが、美しい風景やストーリー性のある人物たち、そして見方を変えると宗教的な要素も隠されているような、いつまでも眺めていたくなる人を引き付ける魅力がある絵だった。多くの有名画家の絵を見てきたミノスが時間を忘れて立ち尽くし思わず「美しい・・・。」と漏らすようなそんな絵だった。そして他の画家がやっていないようなイアン独特の色使いや表現方法が、よりその絵を引き立てていた。イアンはその絵を完成させると事切れたかのように眠った。  

 次に開かれたオークションで、ローウェル・ブランと名を変えてサインされたイアンの絵が出展された。正直なところ、一度ミノスはイアンに「いくらでも出すからこの絵を自分に売ってくれないか?」と頼んでいた。この素晴らしい絵を自分の物にして売りたくはなかったのだ。イアンはミノスに絵を認められたことが心から嬉しかったので、ミノスに訪ねた。「それは、絵描きとして成功する事に繋がりますか?約束したんです。絵描きとして成功して会いに行くと。」それを聞いてミノスは呆れた顔で笑った。イアンは絵を描くのが好きで才能に溢れているが、金や名誉に対する欲が全く感じられなかった。ただ純粋に、もう一度Λにあって恩を返す事だけを目標として生きているようだった。「Λには俺の性格まで見抜かれてる気分だ。画家として成功するには世間に認めてもらうしかない。闇オークションのオーナーである俺がミノスとしてこの絵を世間に広めるにはリスクが高すぎる。かといって、この絵を自分だけの物にするような非情な人間じゃない。惜しいが、この絵はオークションに出すしかないな・・・。ただ、有名になってΛに会いたいのであれば、お前にも裏の顔が必要だ。画家としての名前を変える。例え名前を変えたとしてもΛにはお前の絵だとわかる筈だ。闇オークションでしか手に入らない正体不明の素晴らしい画家の絵は、必ず高値で売れる。俺が保証するよ。ただ、闇オークションで売られていた品だから直ぐには世に出てこない。どういう奴が描いたのかわからない分買い手もしばらく様子を見る筈だ。そうだな・・・1年であと3枚は絵を完成させろ。その3枚に買い手がついた頃には皆が一斉にその絵を公表し出すだろう。そうしたらΛに会いに行くといい。」 
 オークションの最後に出された絵はミノスの紹介という信用もあり、処女作であったにもかかわらず有名な画家の作品と同じくらい高額な値がついた。 
 
 イアンは1年で5枚もの絵を完成させた。絵を出す毎に値段は上がっていったが、イアンは食事も住む所も提供してもらっているしお金は絵が描ける分だけあればいいからと言って、落札額を殆ど受け取らずミノスに渡した。そのためミノスはたった1年で、数年分にも匹敵する程の利益を得ていた。ミノスは初めてイアンが持ってきた絵だけは売らなかった。イアンの原点であり、その絵だけは特別な気がして手元に置いておきたかったのだ。イアンは5枚目の絵に美しく咲くバラの絵を描き、その絵が落札されたのを見てミノスに別れを告げると故郷へと帰った。ミノスの予想通り3枚目の絵からローウェル・ブランの名が世間を賑わせ始め、それと同時期に突然現れたレディー・ノーブルという女性が世間を騒がせ始めた。レディー・ノーブルの噂を聞き付けるとミノスは「そういうことか。Λは女だったのか。イアンはとんでもない奴に会いにいっちまったんだな。」と今までの事を思い出しながらも妙に納得したのだった。 

 イアンが故郷についたのはちょうどマグノリアの花が咲き始める頃であった。まるで、それさえも彼女には全てわかっていたかのようだった。宿屋に泊まると体を清潔にして、身なりを整えた。元々貧しい暮らしをしていて自分の身なりに無頓着であったが、帰る時にミノスにそんなボロ服でΛに会いに行くつもりかと怒られ、「俺の信用にもかかわるから、成功した一流の画家としてきちんとした身なりで会いに行くように。」と言って立派な服をいくつかプレゼントされていた。その高そうな服に着替えると、ようやく自分は成功した人間なのだと実感がわき、彼女に会うための自信が持てた気がした。
 マグノリアの花が満開になる頃、何年ぶりになるのか、あの日を思い出しながらお祭りへと向かった。並木道に出店される店が開かれるより先に、イアンは待ちきれず彼女の肖像画を描き、約束したあのマグノリアの木の下に向かった。マグノリアの木の下に着くとそこには一人の女性が立っていた。しかし、美しい女性であったが記憶の中の彼女とは髪の色も瞳の色も違っていた。情報に疎いイアンはレディー・ノーブルの事など知らなかったが、何故だか記憶の中の名前も知らない彼女と全く見た目の違うこの女性が同じ女性であるという確信があった。「あの日から随分時が経ってしまいましたが、あの時の恩をお返ししたくて来ました。」そう伝えると、偽りではなく本当に嬉しそうな顔で笑い「アトリエに行きましょう。また、私の絵を描いてもらえるかしら?」と聞く彼女に盲目的な信者のような瞳でイアンは「光栄です。」と答えた。

 アトリエに着くと、そこにはイアンが描いた5枚目の絵が飾られていた。5枚目の絵が落札されたのをこの目で見届けてからこちらに向かったハズなのに、会場に彼女が来ていて、自分の絵を落札していたのだと知り驚きを隠せずにいると、「驚かせてしまったようね。あなたを推薦したのは私だもの。あなたがローウェル・ブランであることは勿論知っていたわ。どれも素敵な絵だったけれど、5枚目の薔薇の花の絵があの日に見た雨露に濡れた薔薇の絵を思い出させて、どうしても欲しくなってしまったのよ。今まで自分から欲しいと思うことなどなかったのに、あなたの描く絵だけはいつも…不思議ね。」そう恥ずかしそうに言う彼女は、いつもの大人びた姿よりも随分幼く見えた。厳重な管理の元に行われた闇オークションでは、参加者はお互いわからないようになっているが、出席者から落札者まで開催側のオーナーとイアンには情報が全てわかっていた筈なのに全く気がつくことができなかった。それどころか闇オークションでしか見ることが出来なかった絵をどれも素敵な絵だったと言っており、彼女は毎回イアンの絵を出展する時には会場にいたことになる。「…あの薔薇の絵は、あなたの事を思って描いたんです。あの雨露に濡れた薔薇に色を入れたところを見て頂きたくて…。驚きましたが、今は嬉しさが勝っています。気に入っていただけて何よりです。」そう話しながらマグノリアの花で入れた温かいお茶を彼女に渡した。

 彼女の肖像画を描くため準備を始めると、少しだけ待っていて欲しいと彼女は別の部屋に行って支度をした。絵を描く準備を整えてしばらく待っていると、戻ってきた彼女はまた別の美しい女性になっていた。そのまま凛とした様子で椅子に腰掛けると「では、イアン、お願いするわ。」と言って出てきた女性は先程とは別人の違った美しい女性だった。

 彼女は自身の肖像画を描いてもらうことが好きだった。色んな人物になりきる彼女が、唯一絵の中では自分自身として存在できるから。本当の自分を見せられる人がいる事も、彼女にとっては貴重で価値のあるものだった。そして、彼女は背景をイアンに指定し、とある場所の絵を描かせた。そして絵が完成するとイアンに告げた。「この場所にはレディー・ノーブルとした得た報酬が隠されている。この絵をどうするかはあなたに任せるわ。世間に私の顔を公表するなり、宝を自分の物にするなり好きにするといいわ。」こんなに簡単に正体を明かしてしまい、それは彼女自身も驚くべき事だった。そして、彼もまた驚いた顔をしていたが直ぐに「まさか!そんな事をするはずがありません!あなたのお陰で今も好きなだけ絵を描く事ができるというのに。…そんな悲しい事を仰らないで下さい。」と答えた。「ごめんなさい、イアン。あなたを試したつもりはなかったのだけど。」と少し困ったような彼女の顔を見て「あなたの本当の名前、、、いえ、愛称を教えてもらえますか?Λでもノーブルでもないのですよね?」そう聞くと彼女は少し躊躇いながらも微笑むと「リズよ。」と正直に答えた。そして、「また、あなたに会いに来たいのだけれどいいかしら?」「もちろんです。私はあなたが下さったアトリエでずっと絵を描いてお待ちしています。」

 彼女はレディーノーブルとして成し遂げた後に、幾度となくアトリエを訪れた。そしていつも絵が完成するまでイアンと共に過ごした。
ただ、絵が完成し彼女がアトリエから立ち去るといつもイアンはその絵を記憶に留めてから肖像画をコバルトブルーに塗りつぶしていた。
そのコバルトブルーの絵は火山のように沸き立つような絵であったり、穏やかな波のようであったり、一面に様々な碧で表現されて塗りつぶされていた。それは、到底売ることを考えて書いているとは思えないような絵ばかりだった。宝の在処を打ち明けられてもその宝の在処を絵に残し掘り起こされることもなく残っている事から、彼はお金の為に彼女といたのではなく、その画家としての生活にも満足していたのだろう。何より世間に出ることを拒み名前を変えてはいたが、彼が絵描きとして成功していた事は後の調査で確認されていた。そして彼女の肖像画と宝の在処をコバルトブルーに塗りつぶしたのは、彼女を自分だけのものにしたかったのか、彼女を世間から守りたかったのか。愛するリズへと毎回綴られる彼の絵からは、彼女に対する深い愛情が感じられるが、絵をコバルトブルーに塗りつぶした真相は今となってはわからない。その絵を覆いかぶすコバルトブルーだけが、彼女を唯一手に入れた男の、その時の心情を表したものなのだろう。

透視技術が進み、一枚のコバルトブルーに染められた絵を調べた所、絵の下に隠されたレディーノーブルの素顔と財宝の在り処が発見された。その絵には10代半ばくらいの美しい女性の絵が描かれていた。そしてその発見された財宝は、現代での価値はさらに跳ね上がり値段もつけられない程のものであった。その後も何枚かの絵が統一性のない世界中の所々から発見されたのだ。発見されるたびに絵の中のレディーノーブルは少しずつ成長していっているようだった。その事がきっかけで物語の登場人物のように語り継がれて来た女性が実在の人物であったことが明らかになっていった。
 そして、最近になってレディー・ノーブルの秘密と題されたコバルトブルーに染められた贋作があちこちに出回るようになった。それは偽物と分かっていても、もしかしたらとその絵を大金を払ってでも購入する金持ちが多かったからだ。中には酷いものには、表面のコバルトブルーの絵だけが書かれただけの偽物まで出回っていた。専門家から見れば、絵が書かれた時代もコバルトブルーの顔料として使われた材料もその筆使いも違うため全くの偽物だとわかるが、それでも誰もが夢を見てコバルトブルーの絵の下に書かれた財宝の在処を示す場所に行き、宝物を捜索するのであった。

 そんな最中、テレビでは、魔女と呼ばれた彼女が現世に復活して残した最後の絵などと言ってその審議を得るべく特番が組まれ視聴者を惹きつけていた。
その絵は贋作が出回らないように、専門家以外には秘密にされていたコバルトブルーの独特な顔料の成分や配合が本物と全く同じであった。それだけなら、情報が漏れ出た可能性が考えられるが、絵のタッチや表現力も似ているように思えた。しかし、不可解だったのはコバルトブルーの絵の下に書かれた彼女の肖像画と宝物の在処を示す絵だった。肖像画はレディー・ノーブルに似ているが、全く別の美しい女性の絵だった。そして服装も、現代のお嬢様というような気品溢れる雰囲気の格好をしていた。レディー・ノーブルの顔を真似する事なく、あえて別人を現代に置き換えた絵を書く理由はなんなのだろうか?宝の在処も現在の場所を示すものであり、直ぐに偽物だとわかるようなこんなにわかりやすい事を本物と同じ顔料を使ってまでするだろうか?もし偽物を本物に見立てて書くのであればコバルトブルーの絵の下には、レディー・ノーブルが描かれていなけれは不自然だった。疑問は膨らむ一方であり真相はわからなかったが、レディーノーブルは現代でも一部で崇拝する人がいる歴史上の人物だったため模倣者が現れたのだと言うことで決着がついた。
ただその絵が書かれた年代が極最近の物であるため専門家が話し合った結果、彼女が本物の魔女ではない限りこの絵は偽物だと断定された。そして、その絵に書かれた地は他国の地であり、撮影の許可も捜索許可もおりず宝が本当にあるのかどうかも確認することができなかった。
番組の最後で専門家は現段階では判断材料が十分ではなく正確な判断ができかねるので、偽物とせざるをえなかったが、今後解析技術が進み画像診断が鮮明化され他の専門家の力も借りればもっと正確な結果がだせるだろう。この絵に関しては、時間をかけてもう少し調べる必要があると残した。

それから数年がたち、画像診断の最新技術が生まれたと再びレディー・ノーブルについて番組が組まれた。番組の中でその絵の再鑑定が行われると、その絵には今まで確認できなかった小さな文字が書かれている事が判明した。そして、詳しく解析して見ると驚くべき物が見つかった。『エリザベスを敬愛する その血を受け継ぐ者たちより』と書かれていたのだ。このことが公表されると、レディー・ノーブルの全ては、子孫へと受け継がれていたいたのだと世間は騒然となった。絵描きの夫が書いたのではないため愛称のリズへではなくエリザベスと書き記されていた。そして、その血を受け継ぐ者たちと書き記されていること、それを証明するコバルトブルーに染められた絵もまた血縁者の中で受け継がれているのではないかと推測されたが事実は明らかではない。その絵が近年描かれたものであることから、レディー・ノーブルの子孫はこの世に生きているとされた。この事実には流石に宝の捜索を拒否していた国も動き出し、もし発見されたら宝を得る権限は自国にあると主張した上で撮影や宝を掘り起こす事を了承した。
 そこは強い風が吹く地で、数日前に久しぶりに降ったスコールのせいもあって時間が経過した今ではレディー・ノーブルの子孫の痕跡は何一つ見つけることはできなかった。透視画像の最新技術も彼女の手の内なのか、恐らくどのぐらいで宝が発見されるのか、全ては計算され自分を捕まえる事はできないとわかっていたのだろう。立ち入り禁止区域となっているその地からは、どうやって隠したのか検討もつかないが法外な金額の財宝が発見された。その財宝から送り主の出処は掴むことができた。しかし、政治に関わる内容であるため細かいやり取りは語られることはなかった。彼女は美しく素晴らしい女性だった。彼女がレディー・ノーブルの子孫だとは夢にも思わなかったが、言われてみれば納得せざるをえないと話した。そして不思議なことに監視カメラや写真など撮影されているハズの記録物には彼女の痕跡だけがどこにも見当たらなかったのだと言う。

 魔女と呼ばれた彼女が現世に復活して残した最後の絵というのは、報道側の間違いであった。彼女の信念は受け継がれ消えることなく、この世を手にとるように今も生き続けている。この絵はこれで終わりじゃない。始まりの絵だ。
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