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アンチノック・スターチスの誤算
紫野岡圭吾の提言
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「師匠と何かあったのか?」
その一言は、圭吾に僅かな動揺と混乱を与えるのに充分な威力を持って恭介の口から放たれた。
大物政治家が極秘に入院する際に用意されるクラスのだだっ広い個室で、これまた由緒ある家柄かどこかの王族の寝室にでもありそうなキングサイズのベッドの上で、それらすべてを瞬く間に用意した金髪男の寵愛を一身に受けるその入院患者は、ことりと首を傾げてそう宣ったのだった。
息を殺したのは一瞬。
その刹那で圭吾は、投げられた問い掛けに対しありとあらゆる角度から、さまざまな分析を繰り返し、己のこれまでの言動を振り返りつつ、どう答えるかを瞬時に判断するための思考を巡らせていた。
ヘマをしたつもりはない。昨夜連絡をした時も、やりとりをしたのは明日お見舞いに行く旨と、着替えや日用品で足りないものがないかの確認ぐらいだったと記憶している。最後におやすみなさいの一言を送ろうかスタンプにしようか悩んだ挙げ句、両想いになったからといって恋人面をするのはこのタイミングじゃないなどというよくわからない彼氏としての矜持が働き既読スルーで完結するに留めた筈だ。
己の落ち度は見当たらない。ならば、問い掛けには言葉以上の意味はないだろう。
痛い腹の表面を撫でられているだけだ。
率先して墓穴を掘りに行くこともない。
真皮にまでおよんだⅡ度の火傷を負っているとは思えないほど淀みなく行っていた林檎の皮むきを再開させ、それらすべての考察を四秒足らずで終わらせたその男は、恭介の顔をちらりと見てからこう返すに留める。
「何かって?」
我ながら、無難で何の変哲もない返答だと思った。
「いや……こないだ師匠がお見舞いに来てくれた時に、しのもよく来てくれるよって言ったんだけど」
そこで一度口を噤んでから、改めて顔を圭吾の方に向けて先を続ける。
「いつ来たんだとか何話したんだとか、根掘り葉掘り聞かれてさァ……」
――なるほど、ヘマをしたのはどうやら金髪下まつ毛野郎の方だった。
隠蔽工作や事実の改竄、煙に巻くなどといったことはのらりくらりとうまくやる悪徳商人のようなイメージを勝手に持っていたが、存外恭介の関わることになると途端にポンコツになるらしい。
普段から何の理由もなく腰やら背中やらに腕を巻き付けて抱き上げる程可愛がっている恭介が、命を落とす未来へつながる可能性がこの先に一筋でもあるなどと聞かされて、正気を保っていろというのはさすがに酷だったのかもしれない。
自分だって、まるで動揺しなかった訳でもないから、一概には責められないだろう。それにしたってもっとスマートでいてほしかったとは圭吾の願望であったが、秘密を共有する相手がそれこそ恭介ならまだしも、愛してやまない愛弟子の彼氏になったばかりの憎き圭吾なのだから、秘密保持に関するやる気やら徹底さやらが根こそぎ失われていたとしても仕方ないのかもしれない。
「だからしのに、何か用事でもあるのかなって」
続けられた憶測は当たらずとも遠からずだった。
用事があるかないかで言えばあるのだろうが、なるべく本筋に触れるような会話はしたくない。
「それは多分、ヤキモチを焼いてるだけですよ」
圭吾は柔らかい声で、わざと軸から外れたような憶測を返した。恭介は、それで合点がいったという顔はしなかったが、気づかないふりをしてつらつらと先を続ける。
「本当は全部自分一人だけで先輩のお世話をしたいのに、その殆どを僕に取られてるから拗ねてるんでしょう」
「うーん……? 別にそんな感じはしなかったけど……」
我ながら、烏丸の挙動不審に関するフォローにしては雑すぎる仮説を立ててしまったと思うのだから、恭介がここで首を捻るのも無理はない。
タイミング良く、いじっていた林檎の皮と種を処理し終えたので、圭吾はその大皿を恭介の方に寄せながら言った。
「林檎、むけましたよ。どうぞ」
圭吾は晴れやかに笑った。
詐欺師がターゲットに向けるかのような、空々しい笑顔だった。
「いや下手くそ過ぎるでしょ」
凡そそれなりにお世話になっている大人に開口一番放たれる言葉としては不適切極まりなかったが、それはそれ、これはこれである。
烏丸は恭介を主軸に置いた場合結局のところこいつは助けといた方がいいかなと思った者をついでに助ける程度の良心しか持たない男であったが、そのついでの恩恵でそれなりに命と心を救われた自覚はあるので、ある程度の感謝の気持ちや敬意がない訳ではない。だが恭介がいないのを良いことに縁側でゴロゴロと煙草を吸いながら呑気に欠伸をしつつ猫のように顎の下をかいている姿を目にした途端、それなりに肝の冷えたやりとりを恭介と交わさなければならなかった鬱憤が爆発しそうになったのである。
「……人の顔を見るなり何だその態度は」
案の定、しらけた顔で振り向き、金髪男は忌々しそうに吐き捨てた。
並の中学生なら、尻尾を巻いて逃げ出すくらいには輩じみた顔つきだったが、圭吾は圧倒的に社会的立場の違う大人相手でも減らず口を叩ける大いなる度胸を持ち合わせた子供であった。
「あなた、普段は先輩と二人きりの時に、他の男の話なんて掘り下げたりしないんですから。露骨に僕の名前に動揺しないでくださいよ。あれじゃあ如何にも、僕と烏丸さんで隠し事をしてますって言ってるようなもんじゃないですか」
正論に正論を被せたパンチでど真ん中を殴られた。
烏丸は不甲斐なくも二の句が告げず、しかめっ面のまま唇を噛む。
恭介に何かしらの不審を抱かせてしまったのなら、今回ばかりは全面的に根本から烏丸に非があった。改めて振り返っても、うまく立ち回れたという自覚はないのだから仕方がない。愛弟子に話せないもしもの未来は、ポケットに隠してニコニコと笑っていられるような代物ではなかった。圭吾の名前が出ただけで慌てふためいてしまい、正直どんなリアクションを取ったのかも明確に覚えていない。
とはいえ、大人としての矜持を捨て去り、素直に正座で説教を受けられる程烏丸は健やかな男ではなかった。
逆に、これから講釈を垂れる担任教師のようにふんぞり返った顔で、わざわざ確認しなくても良いようなことを掘り返す。
「恭介に余計なこと言ってないだろうな」
「それ、本気で釘刺してます?」
案の定、そこはさすがに疑われたりしてないだろうという自負のある圭吾に、呆れたように言い返された。
自分だけが叱られるのが嫌だから、チクチクと舅のようなことを言ってしまった自覚はあるので、烏丸は本日二度目の臍を噛んだ。それぐらいは、信頼している。
圭吾の人となりという意味でも――あの子を守るために動ける同志としても。
僅かな沈黙があった。
圭吾は何かを思案しているようだった。
行先を迷っているというよりは、進む方向は定まっているけれど、伝達手段に悩んでいるといった雰囲気だ。烏丸は、灰がつづらのようになってしまった煙草を人差し指と中指で挟む。携帯灰皿の上でトン、トン、と二回打ち、シルエットのすっきりしたその一本を、甘い香りと共に口に運んだ。
「良い機会なので、烏丸さんには言っておきますけど」
生意気にも襖に背を預け腕を組んだまま見下ろすように話していた圭吾が、突然片足ずつ膝をついて正座のスタイルを取った。
武道を志すもののようにピンと伸びた背筋を保ちながら、烏丸を見据えながら口にする。
「僕、高校に入ったら、恭介さんとこの神社で暮らすつもりです」
――その刹那。頭に昇ったのは、果たして血だったのだろうか。
そんなことを遅れて思う程に、烏丸の挙動は素早かった。
気がついたら体が動き、子供の胸ぐらを掴んで柱に叩きつけていた。我に返っても手を緩めることはできず、下手をしたら首を絞めかねない程にギチギチと喉を圧迫する。
「何言ってんだ」
瞳孔は開いたままだった。殺し屋と遜色のない鋭い眼力で、眼の前の許せぬ提案を口走った子供をギロリと睨めつける。
この神社は、烏丸が可愛い恭介を閉じ込めるために用意した箱庭だった。
言葉を選ばずに言ってしまえば、ときどきその中を覗いて、気まぐれに立ち寄る自分だけを大人しく待つ恭介を愛でるためだけのドールハウスだ。寂しい思いをさせてしまうが、この世のあらゆる悪意や外敵、土屋一族の柵からはある程度守ることができる。
もう二度と、その細い首に自ら刃を向かわせるだなんて、恐ろしい選択をさせたりはしない。
大事に仕舞っておいたのに。
烏丸と恭介だけの世界を創ったのに。
そこに異物を入れるなんて、腸が煮えくり返るくらい嫌だった。
「そんなこと許す訳ないだろ」
掠れた声が、僅かな殺意をも孕みながら古びた畳の上に落とされる。
静寂は、鉛を含んでいるかのように重たかった。
「……今後のことを、自分なりにきちんと考えてみたんです」
獰猛な烏丸の眼球から少しも視線を逸らさずに圭吾が言った。
許しを請わぬ、媚もない、強かな声だった。
「城脇の思惑や、僕があの日見たことは、恭介さんに知られる訳にはいかない。これが烏丸さんと僕の間にある共通見解ですよね」
「……」
改めて言われなくても、烏丸はそのことをわかっていた。何より隠したかったのは、恭介に悲しい未来があるかもしれないという予言じみた仮定の未来ではなく――鳴海が、いざという時は誰かや自分の心臓を、差し出してでも恭介を助ける覚悟を決めてしまっている――ということ。
それを知ってしまったらあの子は、どれだけ深い絶望に苦しむのだろうか。恭介の性格上、誰かを犠牲にしてまで二十歳以降も生きたくはないと言い出しかねない。それだけは一番避けたい未来だった。
鳴海を説得し別の道を示しつつ、本当にいざという時がきたら、どこかの臓器提供者から譲り受けた心臓で恭介を救うことが可能なのかというのは、水面下で調べることになるだろう。それらのどれも、表には出せない事情だ。盟約を解除する方法を探し実行する、というのが一番の正攻法でベターなのはわかっている。それでもこの悍ましい案を、保険として手段の一つに残しておきたいというずる賢さが烏丸にはあった。
「ひとつ隠し事をすると、必然的に嘘が多くなる。今後は、恭介さんに対して、流せる情報と流せない情報が混在すると思われます」
冷静な声が、事実を端的に述べる。
「烏丸さんは、あの神社に常駐できる立場にありません。お忙しさはもとより、土屋家への体面もありますから。ですが僕なら……必要な時に、あの人の耳を塞ぐことができる」
改めて、圭吾が言った。
役割を自覚している明瞭な声だった。
「情報を選り分けて、恭介さんに渡せます」
――ここから先はおそらく、鳴海は鳴海、圭吾は圭吾でそれぞれの道を進むのだろう。
好きな人の傍にいるために。言ってしまえば、行動理由はそれだけだ。信念も、発端も。最初は純真無垢で綺麗な感情からだった。手段を選ばなければいけないその時になって、抱えていたそれが綺麗なままではないことを思い知る。
きっともう、誰の何も奪わずに願いを叶えられるという未来を、ぼんやりと信じていたあの頃には戻れない。
不意に圭吾は、その手でむいた林檎を、大人しく食べていた無邪気な恭介の横顔を思い出していた。
これからだって、いくらでも食べさせてやりたい。恭介にとっては不必要な部分を取り除いて、あの小さな口にも入るように形を整えて。その手を汚すことなく齧ることができるように、フォークを添えて皿に盛り付ける役は、自分以外に奪われたくないのだ。
あの人の心と体を健やかなまま守るためになら、圭吾は何度だって果物ナイフを握ることができるのだから。
烏丸は、大いなる葛藤と向き合っていた。箱庭を箱庭のまま守りたいという本心もあったし、齢十四だか十五だかの少年に、自身が目指す場所へ行く道中の、片棒を担がせるのは流石に気が引けた。
今更良識のある大人ぶるつもりはないが、子供には子供用のリュックが普及している理由を考える――同じ重さのものは、持てないからだ。
本来なら大人である烏丸が、自分が使っているものより小さいそれを、圭吾に与えなければならない。
対する圭吾は、すっかり腹が決まったというような顔をしていた。既に、自身がやるべきことを理解しているし、その上で必要になる最善の手を見極めている。
――ふと脳裏に、犬神と交わした会話が蘇る。
彼は、圭吾に武器を持たせてしまったことを案じていた。いつか、それを使って誰かを傷つけることにならなければ良いと。圭吾の持つ刃が守るための武器であり続けるためには、彼の提言にやすやすと頷く訳にはいかなかった。
包帯と絆創膏が巻かれた、圭吾の指が視界に入る。包みきれなかったのだろう焼け爛れた皮膚が、その隙間から傷の深さを物語っている。
それは、烏丸の罪が具現化したものだ。
相手も自分をも傷をつけるものなんか、これ以上圭吾に握らせてはいけない。
「……というかお前は、誰の許可を得て下の名前で呼ぶようになったんだ?」
「ええ……面倒くさいな」
即答はせず、さっきから引っかかっていたことについて言及したら、心の底からうんざりした声でそう呻かれた。
こいつ、さり気なく敬語も曖昧になってないか? 一応俺、お前より年上なんだけど。
喉まで出かかった文句を飲み込んで、わしわしと小綺麗な少年の頭を撫でた。ふてぶてしいその子供は、欠片も躊躇することなくその手を押しのけて、涼しい顔で皺だらけになった胸元を整えている。
「っつーかそんな提案に即決で回答きる訳がないだろ。保留だ保留!」
「あ、そうだ。今日の晩御飯にピザ頼んで良いですか?」
「聞けよ人の話!」
その一言は、圭吾に僅かな動揺と混乱を与えるのに充分な威力を持って恭介の口から放たれた。
大物政治家が極秘に入院する際に用意されるクラスのだだっ広い個室で、これまた由緒ある家柄かどこかの王族の寝室にでもありそうなキングサイズのベッドの上で、それらすべてを瞬く間に用意した金髪男の寵愛を一身に受けるその入院患者は、ことりと首を傾げてそう宣ったのだった。
息を殺したのは一瞬。
その刹那で圭吾は、投げられた問い掛けに対しありとあらゆる角度から、さまざまな分析を繰り返し、己のこれまでの言動を振り返りつつ、どう答えるかを瞬時に判断するための思考を巡らせていた。
ヘマをしたつもりはない。昨夜連絡をした時も、やりとりをしたのは明日お見舞いに行く旨と、着替えや日用品で足りないものがないかの確認ぐらいだったと記憶している。最後におやすみなさいの一言を送ろうかスタンプにしようか悩んだ挙げ句、両想いになったからといって恋人面をするのはこのタイミングじゃないなどというよくわからない彼氏としての矜持が働き既読スルーで完結するに留めた筈だ。
己の落ち度は見当たらない。ならば、問い掛けには言葉以上の意味はないだろう。
痛い腹の表面を撫でられているだけだ。
率先して墓穴を掘りに行くこともない。
真皮にまでおよんだⅡ度の火傷を負っているとは思えないほど淀みなく行っていた林檎の皮むきを再開させ、それらすべての考察を四秒足らずで終わらせたその男は、恭介の顔をちらりと見てからこう返すに留める。
「何かって?」
我ながら、無難で何の変哲もない返答だと思った。
「いや……こないだ師匠がお見舞いに来てくれた時に、しのもよく来てくれるよって言ったんだけど」
そこで一度口を噤んでから、改めて顔を圭吾の方に向けて先を続ける。
「いつ来たんだとか何話したんだとか、根掘り葉掘り聞かれてさァ……」
――なるほど、ヘマをしたのはどうやら金髪下まつ毛野郎の方だった。
隠蔽工作や事実の改竄、煙に巻くなどといったことはのらりくらりとうまくやる悪徳商人のようなイメージを勝手に持っていたが、存外恭介の関わることになると途端にポンコツになるらしい。
普段から何の理由もなく腰やら背中やらに腕を巻き付けて抱き上げる程可愛がっている恭介が、命を落とす未来へつながる可能性がこの先に一筋でもあるなどと聞かされて、正気を保っていろというのはさすがに酷だったのかもしれない。
自分だって、まるで動揺しなかった訳でもないから、一概には責められないだろう。それにしたってもっとスマートでいてほしかったとは圭吾の願望であったが、秘密を共有する相手がそれこそ恭介ならまだしも、愛してやまない愛弟子の彼氏になったばかりの憎き圭吾なのだから、秘密保持に関するやる気やら徹底さやらが根こそぎ失われていたとしても仕方ないのかもしれない。
「だからしのに、何か用事でもあるのかなって」
続けられた憶測は当たらずとも遠からずだった。
用事があるかないかで言えばあるのだろうが、なるべく本筋に触れるような会話はしたくない。
「それは多分、ヤキモチを焼いてるだけですよ」
圭吾は柔らかい声で、わざと軸から外れたような憶測を返した。恭介は、それで合点がいったという顔はしなかったが、気づかないふりをしてつらつらと先を続ける。
「本当は全部自分一人だけで先輩のお世話をしたいのに、その殆どを僕に取られてるから拗ねてるんでしょう」
「うーん……? 別にそんな感じはしなかったけど……」
我ながら、烏丸の挙動不審に関するフォローにしては雑すぎる仮説を立ててしまったと思うのだから、恭介がここで首を捻るのも無理はない。
タイミング良く、いじっていた林檎の皮と種を処理し終えたので、圭吾はその大皿を恭介の方に寄せながら言った。
「林檎、むけましたよ。どうぞ」
圭吾は晴れやかに笑った。
詐欺師がターゲットに向けるかのような、空々しい笑顔だった。
「いや下手くそ過ぎるでしょ」
凡そそれなりにお世話になっている大人に開口一番放たれる言葉としては不適切極まりなかったが、それはそれ、これはこれである。
烏丸は恭介を主軸に置いた場合結局のところこいつは助けといた方がいいかなと思った者をついでに助ける程度の良心しか持たない男であったが、そのついでの恩恵でそれなりに命と心を救われた自覚はあるので、ある程度の感謝の気持ちや敬意がない訳ではない。だが恭介がいないのを良いことに縁側でゴロゴロと煙草を吸いながら呑気に欠伸をしつつ猫のように顎の下をかいている姿を目にした途端、それなりに肝の冷えたやりとりを恭介と交わさなければならなかった鬱憤が爆発しそうになったのである。
「……人の顔を見るなり何だその態度は」
案の定、しらけた顔で振り向き、金髪男は忌々しそうに吐き捨てた。
並の中学生なら、尻尾を巻いて逃げ出すくらいには輩じみた顔つきだったが、圭吾は圧倒的に社会的立場の違う大人相手でも減らず口を叩ける大いなる度胸を持ち合わせた子供であった。
「あなた、普段は先輩と二人きりの時に、他の男の話なんて掘り下げたりしないんですから。露骨に僕の名前に動揺しないでくださいよ。あれじゃあ如何にも、僕と烏丸さんで隠し事をしてますって言ってるようなもんじゃないですか」
正論に正論を被せたパンチでど真ん中を殴られた。
烏丸は不甲斐なくも二の句が告げず、しかめっ面のまま唇を噛む。
恭介に何かしらの不審を抱かせてしまったのなら、今回ばかりは全面的に根本から烏丸に非があった。改めて振り返っても、うまく立ち回れたという自覚はないのだから仕方がない。愛弟子に話せないもしもの未来は、ポケットに隠してニコニコと笑っていられるような代物ではなかった。圭吾の名前が出ただけで慌てふためいてしまい、正直どんなリアクションを取ったのかも明確に覚えていない。
とはいえ、大人としての矜持を捨て去り、素直に正座で説教を受けられる程烏丸は健やかな男ではなかった。
逆に、これから講釈を垂れる担任教師のようにふんぞり返った顔で、わざわざ確認しなくても良いようなことを掘り返す。
「恭介に余計なこと言ってないだろうな」
「それ、本気で釘刺してます?」
案の定、そこはさすがに疑われたりしてないだろうという自負のある圭吾に、呆れたように言い返された。
自分だけが叱られるのが嫌だから、チクチクと舅のようなことを言ってしまった自覚はあるので、烏丸は本日二度目の臍を噛んだ。それぐらいは、信頼している。
圭吾の人となりという意味でも――あの子を守るために動ける同志としても。
僅かな沈黙があった。
圭吾は何かを思案しているようだった。
行先を迷っているというよりは、進む方向は定まっているけれど、伝達手段に悩んでいるといった雰囲気だ。烏丸は、灰がつづらのようになってしまった煙草を人差し指と中指で挟む。携帯灰皿の上でトン、トン、と二回打ち、シルエットのすっきりしたその一本を、甘い香りと共に口に運んだ。
「良い機会なので、烏丸さんには言っておきますけど」
生意気にも襖に背を預け腕を組んだまま見下ろすように話していた圭吾が、突然片足ずつ膝をついて正座のスタイルを取った。
武道を志すもののようにピンと伸びた背筋を保ちながら、烏丸を見据えながら口にする。
「僕、高校に入ったら、恭介さんとこの神社で暮らすつもりです」
――その刹那。頭に昇ったのは、果たして血だったのだろうか。
そんなことを遅れて思う程に、烏丸の挙動は素早かった。
気がついたら体が動き、子供の胸ぐらを掴んで柱に叩きつけていた。我に返っても手を緩めることはできず、下手をしたら首を絞めかねない程にギチギチと喉を圧迫する。
「何言ってんだ」
瞳孔は開いたままだった。殺し屋と遜色のない鋭い眼力で、眼の前の許せぬ提案を口走った子供をギロリと睨めつける。
この神社は、烏丸が可愛い恭介を閉じ込めるために用意した箱庭だった。
言葉を選ばずに言ってしまえば、ときどきその中を覗いて、気まぐれに立ち寄る自分だけを大人しく待つ恭介を愛でるためだけのドールハウスだ。寂しい思いをさせてしまうが、この世のあらゆる悪意や外敵、土屋一族の柵からはある程度守ることができる。
もう二度と、その細い首に自ら刃を向かわせるだなんて、恐ろしい選択をさせたりはしない。
大事に仕舞っておいたのに。
烏丸と恭介だけの世界を創ったのに。
そこに異物を入れるなんて、腸が煮えくり返るくらい嫌だった。
「そんなこと許す訳ないだろ」
掠れた声が、僅かな殺意をも孕みながら古びた畳の上に落とされる。
静寂は、鉛を含んでいるかのように重たかった。
「……今後のことを、自分なりにきちんと考えてみたんです」
獰猛な烏丸の眼球から少しも視線を逸らさずに圭吾が言った。
許しを請わぬ、媚もない、強かな声だった。
「城脇の思惑や、僕があの日見たことは、恭介さんに知られる訳にはいかない。これが烏丸さんと僕の間にある共通見解ですよね」
「……」
改めて言われなくても、烏丸はそのことをわかっていた。何より隠したかったのは、恭介に悲しい未来があるかもしれないという予言じみた仮定の未来ではなく――鳴海が、いざという時は誰かや自分の心臓を、差し出してでも恭介を助ける覚悟を決めてしまっている――ということ。
それを知ってしまったらあの子は、どれだけ深い絶望に苦しむのだろうか。恭介の性格上、誰かを犠牲にしてまで二十歳以降も生きたくはないと言い出しかねない。それだけは一番避けたい未来だった。
鳴海を説得し別の道を示しつつ、本当にいざという時がきたら、どこかの臓器提供者から譲り受けた心臓で恭介を救うことが可能なのかというのは、水面下で調べることになるだろう。それらのどれも、表には出せない事情だ。盟約を解除する方法を探し実行する、というのが一番の正攻法でベターなのはわかっている。それでもこの悍ましい案を、保険として手段の一つに残しておきたいというずる賢さが烏丸にはあった。
「ひとつ隠し事をすると、必然的に嘘が多くなる。今後は、恭介さんに対して、流せる情報と流せない情報が混在すると思われます」
冷静な声が、事実を端的に述べる。
「烏丸さんは、あの神社に常駐できる立場にありません。お忙しさはもとより、土屋家への体面もありますから。ですが僕なら……必要な時に、あの人の耳を塞ぐことができる」
改めて、圭吾が言った。
役割を自覚している明瞭な声だった。
「情報を選り分けて、恭介さんに渡せます」
――ここから先はおそらく、鳴海は鳴海、圭吾は圭吾でそれぞれの道を進むのだろう。
好きな人の傍にいるために。言ってしまえば、行動理由はそれだけだ。信念も、発端も。最初は純真無垢で綺麗な感情からだった。手段を選ばなければいけないその時になって、抱えていたそれが綺麗なままではないことを思い知る。
きっともう、誰の何も奪わずに願いを叶えられるという未来を、ぼんやりと信じていたあの頃には戻れない。
不意に圭吾は、その手でむいた林檎を、大人しく食べていた無邪気な恭介の横顔を思い出していた。
これからだって、いくらでも食べさせてやりたい。恭介にとっては不必要な部分を取り除いて、あの小さな口にも入るように形を整えて。その手を汚すことなく齧ることができるように、フォークを添えて皿に盛り付ける役は、自分以外に奪われたくないのだ。
あの人の心と体を健やかなまま守るためになら、圭吾は何度だって果物ナイフを握ることができるのだから。
烏丸は、大いなる葛藤と向き合っていた。箱庭を箱庭のまま守りたいという本心もあったし、齢十四だか十五だかの少年に、自身が目指す場所へ行く道中の、片棒を担がせるのは流石に気が引けた。
今更良識のある大人ぶるつもりはないが、子供には子供用のリュックが普及している理由を考える――同じ重さのものは、持てないからだ。
本来なら大人である烏丸が、自分が使っているものより小さいそれを、圭吾に与えなければならない。
対する圭吾は、すっかり腹が決まったというような顔をしていた。既に、自身がやるべきことを理解しているし、その上で必要になる最善の手を見極めている。
――ふと脳裏に、犬神と交わした会話が蘇る。
彼は、圭吾に武器を持たせてしまったことを案じていた。いつか、それを使って誰かを傷つけることにならなければ良いと。圭吾の持つ刃が守るための武器であり続けるためには、彼の提言にやすやすと頷く訳にはいかなかった。
包帯と絆創膏が巻かれた、圭吾の指が視界に入る。包みきれなかったのだろう焼け爛れた皮膚が、その隙間から傷の深さを物語っている。
それは、烏丸の罪が具現化したものだ。
相手も自分をも傷をつけるものなんか、これ以上圭吾に握らせてはいけない。
「……というかお前は、誰の許可を得て下の名前で呼ぶようになったんだ?」
「ええ……面倒くさいな」
即答はせず、さっきから引っかかっていたことについて言及したら、心の底からうんざりした声でそう呻かれた。
こいつ、さり気なく敬語も曖昧になってないか? 一応俺、お前より年上なんだけど。
喉まで出かかった文句を飲み込んで、わしわしと小綺麗な少年の頭を撫でた。ふてぶてしいその子供は、欠片も躊躇することなくその手を押しのけて、涼しい顔で皺だらけになった胸元を整えている。
「っつーかそんな提案に即決で回答きる訳がないだろ。保留だ保留!」
「あ、そうだ。今日の晩御飯にピザ頼んで良いですか?」
「聞けよ人の話!」
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(いえいえ、私の意識がそっちに取られ過ぎててすみません)
情報過多過ぎて、咲さんって誰?って思ったのは内緒です。
やり方調べてなかったことのほうが衝撃で。いやでも調べたらブレーキ効かなくでしょうから、賢明というべきか。
情報多かったとのご意見ありがとうございます。わかりにくくて、ごめんなさい。もっと伝わりやすい話が書けるように精進します。
中学生で自覚したのは最近ですし、本来は言うつもりがなかったので調べてなかったのだと思います。
仲間内にバレてる!?(笑)
いやしかし、これほど『陵辱』の文字が似合う中学生がいるでしょうか(反語)
早速読んでくださりありがとうございます! 圭吾は周りに隠さなそうですしバレバレでしょうねww
私もこれほどその言葉が似あう中学生もなかなかいないと思います!笑