72 / 73
アンチノック・スターチスの誤算
エピローグ
しおりを挟む
明滅する工事現場のライトのように、定期的に一定のリズムをもって落ちる雫を見ていると、ポタポタと音が直接聞こえているかのような気分になる。
圭吾は、ベッド脇に置かれた丸椅子に座って、白粉を塗ったばかりの雛人形のように顔色の悪い恭介の横顔をじっと見つめていた。
鳴海には詳しく話さなかったが、恭介の怪我は決して軽くはなかった。
診断結果は腹部の外傷。更にカテゴリーに分けるのであれば、鋭的外傷に属するとのことだった。高所からの転落や交通事故での四輪車との接触など、衝撃により臓器に損傷がある場合は鈍的外傷のくくりに入るが、拳銃や鋭利な刃物などで傷を負う場合は前者らしい。まさか霊力で投げつけられた石が凶器だとは説明のしようもなかっただろうが、さながら弾丸のように恭介の皮膚を掠めた石が出血の原因だった。
腹部の大半をしめる、中身がぎっしりと詰まった実質臓器や、消化管などの管状の臓器が無傷で済んだのはただの僥倖だった。万一どれかひとつでも損傷していたら出血源を特定するまでの間より多くの血液を失うことになっただろうし、皮膚を掠めた石がもう少し深く恭介の内蔵を抉っていたら、臓器が作る体液や血液が腹腔内に漏れ、腹膜炎を引き起こした可能性もあった。損傷部位からの体液ないし血液の漏出は、致命傷になり得る大怪我だ。決して衛生的とは言えない雨あがりの山奥で、引き裂かれたばかりの腹をぶら下げてあと数分を過ごしていたら、ここに寝っ転がっていたのは顔色の悪い恭介どころではなかったのかもしれない。
ピクリ、と細い指先が動く。一瞬も目を逸らすことなく見続けていたから、そよ風のような小さな動きさえ見逃さなかった。
ふるり、と健気に震えた睫毛が、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に入る一面の白い天井も、腕に繋がれたたくさんの管も、稼働したばかりの頭には情報過多だったらしい。不思議そうに首を動かして、恭介はゆっくりと視線で、説明してくれそうな誰かを探している。
彷徨う恭介の指が、ぎゅ、と誰かに掴まれた。掌は熱っぽいのに、掴んできたその指先は氷のように冷たかった。
「気が付きましたか?」
一拍置いて、恭介が目を瞬かせる。その瞬間、記憶の糸が一気に脳内に張り巡らされ、自分が携われたのがどこまでだったのかを明確に思い出した。
繋がれた圭吾の手に力が伝わるよう握り返し、恭介は改めて状況報告を促した。
「……あの姉弟は?」
「烏丸さんたちが対応してくれました。少なくとも、二人が離れ離れになることはなさそうですよ。浄化には時間が掛かるかもしれませんが、呪いによって閉じ込められていた犠牲者の方々を弔うことはできそうです」
求められた問いに相応しい解を、すらすらと口にしながら改めて思った。
――今回、圭吾ができたことはろくになかったということを。
すべては恭介の無茶と烏丸の保護とその他大勢のおせっかいや特殊技術が連なって、結果的に目的を果たせただけだ。圭吾はその事実を、すべてが終わったタイミングで、こうやって恭介に伝えることしかできなかった。
それだってきっと、本来は烏丸でも良かったのだろう。
本当はつきっきりで恭介の面倒を見たかっただろうあの面倒くさい大人は、何故だか恭介を頭から爪先まで眺めることのできるベッド脇のパイプ椅子というSS席を圭吾に譲り、治療や検査を安心安全に滞りなく進めるにあたって必要な準備を整えるために邁進し、それら全てに関わる資金を集め、あまつさえ恭介が入院している間は外部の人間を一切入れないという約束を取り付けるために奔走した。
上品な顔立ちの割にやたら口の回るあの男は、持ち前のボキャブラリーとロジックで交渉相手をうまく転がしたようで、結果恭介を二回治療をしてもお釣りがくる程過分に経費をもぎ取り、万全のセキュリティと最先端の医療設備を整えたこの施設で、極上のスプリングを備えたベッドの上に恭介を休めるという譜面を全て網羅して現在に至っている。
「そっか……」
クランケの預かり知らぬところで病院の個室にしては豪華ホテル仕様過ぎるベッドが用意されているとはつゆほども思わず、姉弟やその他の霊の行く末を聞いて恭介は力が抜けたように笑った。
「っ……」
緩んだ表情を拝めたのは一瞬だった。恭介は、脇腹に走る引き攣るような痛みに顔を顰め、背を丸めて体を捻る。
「痛みますか?」
「少し……」
圭吾の声があらゆる後悔を引きずっているのは気がついていたが、下手に痛くないと意地を張る方が彼を傷つける気がした。案の定聡い後輩は、正面からその言葉を受け止め、俯いたまま動かない。
己が恭介にしたことを、改めて思い返しているようだった。
「……すみません。出血が止まらなくて、僕が傷口を焼きました」
圭吾が、震える唇を動かしながら言った。取締室で自供をする犯人のように悔いを宿した声だった。
「火傷……痕に残るそうです」
様々な事情や意図や策略があり、追い詰められた状況下で限られた選択肢の中から、どうにか最小限の被害で収まるような方法を選んだつもりだ。その回答が、ベストアンサーになり得なかったとしても仕方がない。自身の行いをそう擁護したところで意味はなかった。圭吾に限らず、世の中の人間は全員、個人差があれどだいたいがそのような状況下で生きている。
より不都合が多かったという理由で何らかのアドバンテージがつき、その選択の責任が軽くなるなんてことはない。
恭介と想いを通じ合えたのも、その肌に消えぬ痕をつけたのも、全ては圭吾が選び、招いた未来だ。
それらは「結果」として形を変えて、重たくその肩にのし掛かっている。
「……しのが、つけてくれた火傷が、痕に……なるのか……?」
甘やかな声が、不意に病室に落とされた。とれたての蜂蜜を舌の上で転がしているような、とろりと溶けた声だった。
「はい……」
ふ、と口許が綻ぶ。まるでキスをされた直後のように唇を柔らかく開いて、うっとりとしながら恭介が言った。
「……嬉し、」
そこで、彼の意識は途切れてしまった。
とんでもない爆弾を落としてすぐ邪気のない顔ですやすやと眠りにつかれてしまっては、罪深い言葉を口にした舌ごとべろりと食べてしまいたい衝動だとか、そんなことだから僕に付け込まれるんですよと正座でこんこんと説教してやりたい理性だとかが丸ごと放り出されてしまい空中分解するしかなかった。
とりあえず深々とため息をついてから、圭吾は無心で点滴の水滴が落下するさまを見遣る。
とんでもないことを言われた気がするが、丸ごと飲み込んではいけない。恭介の放つ愛の言葉は、妙薬であり毒薬だ。
じわじわと圭吾の内側を侵食し、いつか息の根を止める日がやってくる。
「圭吾」
コンコン、と小さくドアを二回叩いてから、来訪者に名前を呼ばれた。控えめなノックは、恭介のレム睡眠を脅かさずに済む最小限の音を出そうという揺るがない決意の表れであった。
誰が来たのかはその時点で振り向かずとも明確であったが、圭吾は個人的な負い目と僅かな敵対心で体を向け、しっかりと視線を合わせる。
「今、ちょっといいか。話がある」
無表情でそれだけを言い置いて、烏丸は壁を伝い歩く猫のように足音も立てずその部屋を出ていった。
「……何を見た」
正直、いきなり薙刀で胴体を真っ二つにされてもあまり文句は言えない立場にいたので、烏丸の一挙手一投足をいちいち意味を探るような視線で追ってしまう。
けれど烏丸は、予想通り百トンと書かれた大きな金槌で圭吾をぺちゃんこになどはしなかったし、ありとあらゆる呪具を駆使して、恭介の師匠と呼ばれるだけの呪力を振りかざし呪い殺すようなことはしなかった。
あらゆる警戒網を解き、圭吾は改めて聞かれていることの意図を吟味する。
「何の話ですか」
結局、そう聞き返すより他なかった。
「あの女は、一番つらい未来を一瞬、見せる能力があるんだろ。直接対峙したのはお前だけじゃないが、お前のメンタルが一番不安定だ」
ひくり、と乾いた喉が空気を飲む。今回のことで満身創痍の人間は何人かいたのに、烏丸は的確に一番心が滅多打ちにされている人物を言い当てた。
見抜かれていたことへの絶望はなかった。圭吾はいっそ、ひたりと背中にくっついていた冷たい何かを、烏丸に剥がしてもらえたような心地さえした。
「全部話せ。何を見た」
――もしかしたらあの瞬間からずっと、圭吾は気を張り続けていたのかもしれない。
容易く人に話して共有などできないくらいに、惨たらしい未来を見た。そのルートへつながる運命を断つためには、何を選択をするべきか。常に思考を巡らせることでしか、自身を保つことができなかった。
「このままだと」
長椅子に腰を下ろして圭吾が言った。
まるで脱力したその先に、たまたま椅子があったかのような座り方だった。
「土屋先輩と城脇が死にます」
烏丸は、ゆっくりと目を閉じた。受け入れがたいものは、この世にたくさんある。きっとこれもその一部で、誰も彼もが向き合わなければならない現実のひとかけらだ。
緩く、息を吐いた。
いくら探しても、的確な言葉なんかどこにもなかった。
「……確かなのか」
烏丸がポツリと言った。迷いと戸惑いが拭えないままの、シンプルな問いだった。
「信憑性を問われているのであれば、一概には答えられません。ですが、未来の僕から聞いた通りになっている側面もあります。先輩が僕を庇った時についた傷が……痕に残ったこととか」
烏丸が、徐ろに胸ポケットを探り何かを取りだした。少しだけボックスの潰れた、キャメルの煙草。連れてこられるままについてきたが、どうやらこのスペースは喫煙所だったらしい。
パッケージには、英国のカーペットのように上品なデザインが施されていた。副流煙を気にして恭介の前では決して抜かれることのない一本を、形の綺麗な人差し指と中指で挟みながら抜き取る。恭介に言いつけてやろうかと一瞬思ったが、烏丸が唐突にその一本を吸おうとしたそもそもの発端がどこにあるかなんて、考えるまでもなく明白だった。
清潔な壁に頭を預け、圭吾はこれも、共有される秘密の一部にしようと覚悟した。共犯者になってくれた彼への、恩の返し方を他に知らなかった。
「そもそも、どうして鳴海まで死ぬことになってるんだ?」
遠慮なく煙を燻らせながら、烏丸が問い掛ける。わざとらしくパタパタと手を振り、煙を露骨に迷惑がってから圭吾は答えた。
「城脇は、心臓移植によって先輩を助ける方法を模索していました」
烏丸が、アーモンド型の目を僅かに瞠る。奇抜過ぎるアイデアは、烏丸程の大人であっても動揺させるらしい。
医学的な観点や倫理的な思考を一切削ぎ落としたら、鳴海の提案もひとつの解決策と言えるのかもしれない。けれど、それを提起した彼自身に危うい問題をひとつ孕んでいることは、杞憂であったとしても伝えなければならかった。
「城脇は、自身をドナーにする選択肢も視野に入れています」
「……」
烏丸は、部屋の中に侵入した蛾を見つけてしまったような顔をしていた。問題があるのは明白だが、どう対処すべきか迷っているのがありありと伝わってくる表情だった。
「一之進さんは今回、むかさりの一件で本格的に城脇を突き放すような態度を取り続けたようですが……皮肉にもそれが、城脇の独占欲に火をつけた」
ため息に混じった、甘い香りが鼻を掠める。
酩酊を誘う、独特な葉の香りだった。
「あいつの中で今、生と死の価値が揺らいでいます。先輩を助けるために、平気で心臓を差し出してしまいかねない」
「厄介だな」
烏丸が吐き捨てるように言った。
状況は後退も停滞も好転もしていないまま、厄介事だけがどんどん膨らんでいる気がして顔を覆いたくなる。
チンピラのように柄の悪い仕草で加え煙草を口から備え付けの灰皿に移動させながら、烏丸は不意にあることに気づいて思考を巻き戻した。
「……待て。恭介は、お前を庇った傷痕が残ることになった、と言っていたな」
「ええ」
「それが火傷なら普通、火傷の痕って言わないか?」
(――言われてみれば)
大人の圭吾が、胡乱げな瞳で語った恭介の体のことを思い出す。枯れ枝を無理矢理押し込んだみたいな傷跡、と言っていた。くっきりとラインの残った痕であれば、その表現はおそらく正しい。だが、今回圭吾が恭介につけた火傷の痕は広範囲に渡っていた。
血の止まりが悪かった箇所をその都度焼いていたので、一箇所に綺麗な一本を描く筈もなく――まばらに形成されたケロイドは、痕になったとしても「枝」などといった比喩表現は適さない筈だ。
「未来は少し……変わっているんじゃないか」
トントン、と塵ひとつなかった綺麗な灰皿に、遠慮なく灰を落としながら烏丸が言う。
わざとらしい程白く塗り固められた部屋にいたって、明るい希望なんか何も見出だせなかったのに。揺蕩う煙に喉を詰まらせて、圭吾は一瞬泣きそうになった。この男の前でそんな失態、晒したくもないのでぐっと堪えたけれど。
圭吾のしてきた密かな抵抗が、か細いながらも確かなアリアドネの糸を作り、違う未来へと繋がろうとしている。
「……未来の僕は、土屋先輩に想いを告げずにいたことを後悔していました。なので先輩と城脇が死ぬルートを回避するために、告白してその事実を捻じ曲げたんですが……もしかしたら、それがトリガーになったのかも知れません」
「待て」
らしくなくやや弾んだ声で打ち明けてみたが、ぐしゃり、とまだ長かった煙草を粉砕しながら、烏丸がゆらりと笑った。人が本気で怒る直前の、感情の針を「怒」に振り切るための準備運動を済ませたような顔だった。
「お前、やっぱり恭介に惚れていたのか!?」
「ええ……今更……」
そこじゃないんですけど。心からうんざりした声で圭吾が言った。そんなこと自分は勿論承知であるし、恭介を取り巻く環境や人間関係において常に正確に理解し迅速に動くこの男が、当然その事実を知っていない訳がない。
もしかしなくても名古屋って、愛知の首都だったよな? レベルの質問である。首都ですけど。百人が百人そう答えるだろう。圭吾が露骨に、それが今更どうかしましたか顔をしても仕方なかった。
「何となく知ってんのと改めて宣戦布告されるのとは訳が違うんだよ! っつーか! は!? 何つったお前今!? 告白したのか!?」
「しました。その日のうちにオッケーもらいました」
「ハァ!?!?」
烏丸は仰け反った。そしてその勢いで膝を付き、振り下ろした両拳で床を叩く。下の階に病室があれば、菓子折りを持ってお詫びに行くべき騒音であった。
「おっ……前……っ! ってことは両想いになったばかりの恭介とあの日、ひとつ屋根の下で二人きりだったってことか……!?」
「はぁ……まあ」
圭吾は、突然うるさいなこの人などと他人事のように思っていた。最早アクション映画を観ているような感覚に近い。火元も出火原因も明らかに圭吾であるが、そんなことまで烏丸に叱られる謂れはないという自負があった。
「ちなみにですけど、ひとつ屋根の下というか、更に言うなら、ほぼ裸でひとつの毛布の中だったというか」
「おい」
言わなくて良い情報をわざわざ付け足したのは、圭吾なりの意表返しだったのかもしれない。案の定未だかつて聞いたこともない低い声でそう遮り、力の制御が馬鹿になったのかと疑いたくなる握力で圭吾の肩をがしりと掴んだ。
「手……出してないだろうな」
「僕をいくつだと思ってるんですか。まだ中学生ですよ? 詳しいやり方を知らないのに、できることなんかないですよ」
命は惜しいし、そもそも濡れ衣である。
致した事実があればもう少し油を注いでも良かったが、謂れなき罪で咎められる趣味はない。圭吾は淡々と、多少乳首にいたずらを仕掛けたことは伏せ、抱いたか抱いてないかでいえば抱いていないということだけを釈明した。
「……信じて良いんだな?」
烏丸とて、可愛い恭介の純潔が守られた方を信じたい。ジロジロと品定めをしながら詰問を続けた。頷くことだけを期待した割に、どこか懐疑的な声だった。
「僕だって、必死で我慢したんですからね。それでもあの状況下では、せいぜい乳首を」
あ、しまった。
素早く口を抑えたが、当然の如く覆水は盆に帰らなかった。
「……乳首を、何だって……?」
烏丸が美しく笑った。この世から悪を全て殲滅することができそうな、奇々怪々とした笑みだった。
「いえ」
「いえ、じゃないだろ! 言え! 恭介の乳首に何したんだお前!?」
勿論、今更否定したところで引き下がってもらえるなどとは思っていなかったが、さりとて恭介さんの乳首なら爪で引っ掻きはしましたがまだ吸っても舐めてもおらず今後諸々のことが落ち着いたら吸ったり舐めたりさせていただく予定ですと馬鹿正直に答える訳にもいかない。
圭吾は柔らかく微笑んで、瞬く間に取調室になってしまった休憩所で天を仰ぐ。改めて、長い夜になりそうだと覚悟した。
昼と夜とでは、景色の印象がガラリと変わる。太陽がほぼ直角の位置から降り注ぐこの時間帯は、まるで忘れかけていた田園風景を思い起こさせるように、優しい時間が流れていた。
とても残虐な風習が蔓延していたとは思えない程、池の畔には瑞々しい草花が生い茂り、注がれる陽に向かって葉を伸ばしている。
そんな柔らかな緑に包まれた世界で、カラカラと音を立ててその玩具は揺れていた。まるで、ドロップの欠片が入った缶を、振った時のように懐かしい音だった。
智也は、持ってきたいくつかの新たな玩具を刺した。何もないように見えて、そこには風がある。それを教えてくれるささやかな音楽に、ゆったりと耳を寄せて目を閉じた。
「風車」
とても贅沢な時間を過ごしていたというのに、不躾な声が小さなメロディを遮る。
胡乱げに振り向いたら、予想していた忌々しい男がそこにいた。
山に登る気なんて端からない、ダークブラウンのレザー・ストレートチップに、ノッチドラペルのシングル・スーツ。イタリア製のサイドペンツジャケットを、ノーネクタイでも鮮やかに着こなすところが厭味ったらしくて大嫌いだ。
「持ってきたのか」
烏丸が言った。とりあえず視界に入ったものを質問しただけのような、味気のない声だった。
「……あの姉弟だけじゃ、他の子供が可哀想だろ」
色とりどりの風車が、風に回されて踊っている。憐れんでいると思われるのが癪で、智也は言い訳のように付け足した。
烏丸の興味はとっくにそれらからなくなっていたようで。ふーんと短く相槌を打ったきり、持ってきた紙袋をガサガサと漁っている。
「無駄になったみたいだけどな」
「……」
ざあ、と大きく風が吹いた。
狂ったように、風車が回る。
「……あんな、数滴の血液で」
カラカラ、カラカラ。
羽が外れそうだ。過ぎる力は、関わるものに大きく影響を及ぼす。傷つけることも、壊すことも容易いだろう。
それは、こんなおもちゃひとつでわかる事実だ。
「この夥しい程の魂が、すべて浄化されるとはな」
――目に見えて、おそろしい力だ。
智也だって、あんな途方もない数の不成仏霊、恙無く浄霊しようと思ったら一年や二年じゃ足りない。
それら全てが、ドラキュラだって満足しない僅かな血液で、一切合切祓われた。
あんな、成人にもなりきらない子供がやってのけたのだ。
「護摩供養なんかもう、必要ないんじゃないか」
「後処理は必要だろ。全員が全員、綺麗に成仏した訳じゃない。上にあがれない自殺者の魂を鎮めるために、定期的なメンテナンスは必要だ」
紙袋から護摩壇の台を取り出しかけた烏丸が、何を思ったのか、突如それを放り出す。許可もなくべろりと智也の着物を捲り、太腿の付け根まで手を這わせた。
「な……っ、何をするんだ!」
「いや、治ってねーなって思って……切り傷。そんなとこまで切ってんの?」
「抱え込んでた金魚鉢が粉砕したんだ! 全身にあって当然だろ!」
セクハラまがいの箇所まで撫で弄られて、悲鳴のような声をあげながら智也は数歩退いた。
背中にどしんと、大きな幹が当たる。木だって、当たると痛い。樹齢何百年の大層な御神木なら尚更だ。
「後で薬塗るの手伝ってやろうか。今回のことはまあ……半々くらいで俺にも責任があるし」
「全責任を負え! どう考えてもお前しか諸悪の根源はいないだろ!?」
「だから、塗ってやるって。それでチャラな」
「そ……っ、そんなことはしなくていいんだよ! 馬鹿!」
「えー……理不尽」
烏丸本人は親切心で言っているので、撥ね付けるように断られた上に馬鹿呼ばわりされることに納得がいっていないようだったが、智也からしたら恋人になってくれないくせに体のいたるところにクリームなど塗って欲しくはないし、ましてあんなえっちなところまで、掌でまさぐって欲しいなどとはゆめゆめ思わない。
はだけた着物の裾を合わせ、ギロリと金髪の男を睨む。断られたことに執着はないのか、彼は先刻放り投げた板をのんびりと拾っていた。
「……烏丸」
着物の裾をぎゅっと握りながら、智也はぐるぐると言葉を選ぶ。この不安を、悪夢に近い予感を、どうしたらこの男に、伝えることができるだろう。
「恭介は、いずれ大きな脅威になるぞ。あの血の力は、大きくて悍ましい。いつか、本人じゃ手に負えない時がくる」
余計な忠告だ。きっと彼は、他人にこんなことを言われたって痛くも痒くもない。無駄なことをしている。山奥にスーツで来るなと言うことをやめたのだから、これも口にしなきゃよかったのに。
「平気だよ」
何も届かないとわかっていた。
智也の言葉は、いつもそうだ。烏丸を動かすことなんかできない。小首を傾げる仕草ひとつのおねだりで、小指を僅かに動かすだけのことで、彼を思いのままに導き支配することができるのは、この世でただ一人――。
「俺が、一生傍にいるからさ」
(お前だけなんだよ、恭介)
――ああ。今日もあの子供が憎い。今日も明日も、明後日も。生きているだけで、ただ呼吸をするだけで、烏丸に愛してもらえるのだから。
たとえその体に毒薬のような血液が流れていたって、数多の人間を不幸に追いやったって。烏丸はその頬に口づけ、優しく髪を撫で、呪いで腕が溶けても抱きしめ続けるのだろう――その正体が、因果が何であれ。
「……好きにしろ」
カラカラ、カラカラ。
撫でてくれない男の代わりに、幽かな風が耳の後ろを通り過ぎてゆく。
智也が放った負け惜しみは、柔らかい西風に攫われ消えてしまった。
圭吾は、ベッド脇に置かれた丸椅子に座って、白粉を塗ったばかりの雛人形のように顔色の悪い恭介の横顔をじっと見つめていた。
鳴海には詳しく話さなかったが、恭介の怪我は決して軽くはなかった。
診断結果は腹部の外傷。更にカテゴリーに分けるのであれば、鋭的外傷に属するとのことだった。高所からの転落や交通事故での四輪車との接触など、衝撃により臓器に損傷がある場合は鈍的外傷のくくりに入るが、拳銃や鋭利な刃物などで傷を負う場合は前者らしい。まさか霊力で投げつけられた石が凶器だとは説明のしようもなかっただろうが、さながら弾丸のように恭介の皮膚を掠めた石が出血の原因だった。
腹部の大半をしめる、中身がぎっしりと詰まった実質臓器や、消化管などの管状の臓器が無傷で済んだのはただの僥倖だった。万一どれかひとつでも損傷していたら出血源を特定するまでの間より多くの血液を失うことになっただろうし、皮膚を掠めた石がもう少し深く恭介の内蔵を抉っていたら、臓器が作る体液や血液が腹腔内に漏れ、腹膜炎を引き起こした可能性もあった。損傷部位からの体液ないし血液の漏出は、致命傷になり得る大怪我だ。決して衛生的とは言えない雨あがりの山奥で、引き裂かれたばかりの腹をぶら下げてあと数分を過ごしていたら、ここに寝っ転がっていたのは顔色の悪い恭介どころではなかったのかもしれない。
ピクリ、と細い指先が動く。一瞬も目を逸らすことなく見続けていたから、そよ風のような小さな動きさえ見逃さなかった。
ふるり、と健気に震えた睫毛が、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に入る一面の白い天井も、腕に繋がれたたくさんの管も、稼働したばかりの頭には情報過多だったらしい。不思議そうに首を動かして、恭介はゆっくりと視線で、説明してくれそうな誰かを探している。
彷徨う恭介の指が、ぎゅ、と誰かに掴まれた。掌は熱っぽいのに、掴んできたその指先は氷のように冷たかった。
「気が付きましたか?」
一拍置いて、恭介が目を瞬かせる。その瞬間、記憶の糸が一気に脳内に張り巡らされ、自分が携われたのがどこまでだったのかを明確に思い出した。
繋がれた圭吾の手に力が伝わるよう握り返し、恭介は改めて状況報告を促した。
「……あの姉弟は?」
「烏丸さんたちが対応してくれました。少なくとも、二人が離れ離れになることはなさそうですよ。浄化には時間が掛かるかもしれませんが、呪いによって閉じ込められていた犠牲者の方々を弔うことはできそうです」
求められた問いに相応しい解を、すらすらと口にしながら改めて思った。
――今回、圭吾ができたことはろくになかったということを。
すべては恭介の無茶と烏丸の保護とその他大勢のおせっかいや特殊技術が連なって、結果的に目的を果たせただけだ。圭吾はその事実を、すべてが終わったタイミングで、こうやって恭介に伝えることしかできなかった。
それだってきっと、本来は烏丸でも良かったのだろう。
本当はつきっきりで恭介の面倒を見たかっただろうあの面倒くさい大人は、何故だか恭介を頭から爪先まで眺めることのできるベッド脇のパイプ椅子というSS席を圭吾に譲り、治療や検査を安心安全に滞りなく進めるにあたって必要な準備を整えるために邁進し、それら全てに関わる資金を集め、あまつさえ恭介が入院している間は外部の人間を一切入れないという約束を取り付けるために奔走した。
上品な顔立ちの割にやたら口の回るあの男は、持ち前のボキャブラリーとロジックで交渉相手をうまく転がしたようで、結果恭介を二回治療をしてもお釣りがくる程過分に経費をもぎ取り、万全のセキュリティと最先端の医療設備を整えたこの施設で、極上のスプリングを備えたベッドの上に恭介を休めるという譜面を全て網羅して現在に至っている。
「そっか……」
クランケの預かり知らぬところで病院の個室にしては豪華ホテル仕様過ぎるベッドが用意されているとはつゆほども思わず、姉弟やその他の霊の行く末を聞いて恭介は力が抜けたように笑った。
「っ……」
緩んだ表情を拝めたのは一瞬だった。恭介は、脇腹に走る引き攣るような痛みに顔を顰め、背を丸めて体を捻る。
「痛みますか?」
「少し……」
圭吾の声があらゆる後悔を引きずっているのは気がついていたが、下手に痛くないと意地を張る方が彼を傷つける気がした。案の定聡い後輩は、正面からその言葉を受け止め、俯いたまま動かない。
己が恭介にしたことを、改めて思い返しているようだった。
「……すみません。出血が止まらなくて、僕が傷口を焼きました」
圭吾が、震える唇を動かしながら言った。取締室で自供をする犯人のように悔いを宿した声だった。
「火傷……痕に残るそうです」
様々な事情や意図や策略があり、追い詰められた状況下で限られた選択肢の中から、どうにか最小限の被害で収まるような方法を選んだつもりだ。その回答が、ベストアンサーになり得なかったとしても仕方がない。自身の行いをそう擁護したところで意味はなかった。圭吾に限らず、世の中の人間は全員、個人差があれどだいたいがそのような状況下で生きている。
より不都合が多かったという理由で何らかのアドバンテージがつき、その選択の責任が軽くなるなんてことはない。
恭介と想いを通じ合えたのも、その肌に消えぬ痕をつけたのも、全ては圭吾が選び、招いた未来だ。
それらは「結果」として形を変えて、重たくその肩にのし掛かっている。
「……しのが、つけてくれた火傷が、痕に……なるのか……?」
甘やかな声が、不意に病室に落とされた。とれたての蜂蜜を舌の上で転がしているような、とろりと溶けた声だった。
「はい……」
ふ、と口許が綻ぶ。まるでキスをされた直後のように唇を柔らかく開いて、うっとりとしながら恭介が言った。
「……嬉し、」
そこで、彼の意識は途切れてしまった。
とんでもない爆弾を落としてすぐ邪気のない顔ですやすやと眠りにつかれてしまっては、罪深い言葉を口にした舌ごとべろりと食べてしまいたい衝動だとか、そんなことだから僕に付け込まれるんですよと正座でこんこんと説教してやりたい理性だとかが丸ごと放り出されてしまい空中分解するしかなかった。
とりあえず深々とため息をついてから、圭吾は無心で点滴の水滴が落下するさまを見遣る。
とんでもないことを言われた気がするが、丸ごと飲み込んではいけない。恭介の放つ愛の言葉は、妙薬であり毒薬だ。
じわじわと圭吾の内側を侵食し、いつか息の根を止める日がやってくる。
「圭吾」
コンコン、と小さくドアを二回叩いてから、来訪者に名前を呼ばれた。控えめなノックは、恭介のレム睡眠を脅かさずに済む最小限の音を出そうという揺るがない決意の表れであった。
誰が来たのかはその時点で振り向かずとも明確であったが、圭吾は個人的な負い目と僅かな敵対心で体を向け、しっかりと視線を合わせる。
「今、ちょっといいか。話がある」
無表情でそれだけを言い置いて、烏丸は壁を伝い歩く猫のように足音も立てずその部屋を出ていった。
「……何を見た」
正直、いきなり薙刀で胴体を真っ二つにされてもあまり文句は言えない立場にいたので、烏丸の一挙手一投足をいちいち意味を探るような視線で追ってしまう。
けれど烏丸は、予想通り百トンと書かれた大きな金槌で圭吾をぺちゃんこになどはしなかったし、ありとあらゆる呪具を駆使して、恭介の師匠と呼ばれるだけの呪力を振りかざし呪い殺すようなことはしなかった。
あらゆる警戒網を解き、圭吾は改めて聞かれていることの意図を吟味する。
「何の話ですか」
結局、そう聞き返すより他なかった。
「あの女は、一番つらい未来を一瞬、見せる能力があるんだろ。直接対峙したのはお前だけじゃないが、お前のメンタルが一番不安定だ」
ひくり、と乾いた喉が空気を飲む。今回のことで満身創痍の人間は何人かいたのに、烏丸は的確に一番心が滅多打ちにされている人物を言い当てた。
見抜かれていたことへの絶望はなかった。圭吾はいっそ、ひたりと背中にくっついていた冷たい何かを、烏丸に剥がしてもらえたような心地さえした。
「全部話せ。何を見た」
――もしかしたらあの瞬間からずっと、圭吾は気を張り続けていたのかもしれない。
容易く人に話して共有などできないくらいに、惨たらしい未来を見た。そのルートへつながる運命を断つためには、何を選択をするべきか。常に思考を巡らせることでしか、自身を保つことができなかった。
「このままだと」
長椅子に腰を下ろして圭吾が言った。
まるで脱力したその先に、たまたま椅子があったかのような座り方だった。
「土屋先輩と城脇が死にます」
烏丸は、ゆっくりと目を閉じた。受け入れがたいものは、この世にたくさんある。きっとこれもその一部で、誰も彼もが向き合わなければならない現実のひとかけらだ。
緩く、息を吐いた。
いくら探しても、的確な言葉なんかどこにもなかった。
「……確かなのか」
烏丸がポツリと言った。迷いと戸惑いが拭えないままの、シンプルな問いだった。
「信憑性を問われているのであれば、一概には答えられません。ですが、未来の僕から聞いた通りになっている側面もあります。先輩が僕を庇った時についた傷が……痕に残ったこととか」
烏丸が、徐ろに胸ポケットを探り何かを取りだした。少しだけボックスの潰れた、キャメルの煙草。連れてこられるままについてきたが、どうやらこのスペースは喫煙所だったらしい。
パッケージには、英国のカーペットのように上品なデザインが施されていた。副流煙を気にして恭介の前では決して抜かれることのない一本を、形の綺麗な人差し指と中指で挟みながら抜き取る。恭介に言いつけてやろうかと一瞬思ったが、烏丸が唐突にその一本を吸おうとしたそもそもの発端がどこにあるかなんて、考えるまでもなく明白だった。
清潔な壁に頭を預け、圭吾はこれも、共有される秘密の一部にしようと覚悟した。共犯者になってくれた彼への、恩の返し方を他に知らなかった。
「そもそも、どうして鳴海まで死ぬことになってるんだ?」
遠慮なく煙を燻らせながら、烏丸が問い掛ける。わざとらしくパタパタと手を振り、煙を露骨に迷惑がってから圭吾は答えた。
「城脇は、心臓移植によって先輩を助ける方法を模索していました」
烏丸が、アーモンド型の目を僅かに瞠る。奇抜過ぎるアイデアは、烏丸程の大人であっても動揺させるらしい。
医学的な観点や倫理的な思考を一切削ぎ落としたら、鳴海の提案もひとつの解決策と言えるのかもしれない。けれど、それを提起した彼自身に危うい問題をひとつ孕んでいることは、杞憂であったとしても伝えなければならかった。
「城脇は、自身をドナーにする選択肢も視野に入れています」
「……」
烏丸は、部屋の中に侵入した蛾を見つけてしまったような顔をしていた。問題があるのは明白だが、どう対処すべきか迷っているのがありありと伝わってくる表情だった。
「一之進さんは今回、むかさりの一件で本格的に城脇を突き放すような態度を取り続けたようですが……皮肉にもそれが、城脇の独占欲に火をつけた」
ため息に混じった、甘い香りが鼻を掠める。
酩酊を誘う、独特な葉の香りだった。
「あいつの中で今、生と死の価値が揺らいでいます。先輩を助けるために、平気で心臓を差し出してしまいかねない」
「厄介だな」
烏丸が吐き捨てるように言った。
状況は後退も停滞も好転もしていないまま、厄介事だけがどんどん膨らんでいる気がして顔を覆いたくなる。
チンピラのように柄の悪い仕草で加え煙草を口から備え付けの灰皿に移動させながら、烏丸は不意にあることに気づいて思考を巻き戻した。
「……待て。恭介は、お前を庇った傷痕が残ることになった、と言っていたな」
「ええ」
「それが火傷なら普通、火傷の痕って言わないか?」
(――言われてみれば)
大人の圭吾が、胡乱げな瞳で語った恭介の体のことを思い出す。枯れ枝を無理矢理押し込んだみたいな傷跡、と言っていた。くっきりとラインの残った痕であれば、その表現はおそらく正しい。だが、今回圭吾が恭介につけた火傷の痕は広範囲に渡っていた。
血の止まりが悪かった箇所をその都度焼いていたので、一箇所に綺麗な一本を描く筈もなく――まばらに形成されたケロイドは、痕になったとしても「枝」などといった比喩表現は適さない筈だ。
「未来は少し……変わっているんじゃないか」
トントン、と塵ひとつなかった綺麗な灰皿に、遠慮なく灰を落としながら烏丸が言う。
わざとらしい程白く塗り固められた部屋にいたって、明るい希望なんか何も見出だせなかったのに。揺蕩う煙に喉を詰まらせて、圭吾は一瞬泣きそうになった。この男の前でそんな失態、晒したくもないのでぐっと堪えたけれど。
圭吾のしてきた密かな抵抗が、か細いながらも確かなアリアドネの糸を作り、違う未来へと繋がろうとしている。
「……未来の僕は、土屋先輩に想いを告げずにいたことを後悔していました。なので先輩と城脇が死ぬルートを回避するために、告白してその事実を捻じ曲げたんですが……もしかしたら、それがトリガーになったのかも知れません」
「待て」
らしくなくやや弾んだ声で打ち明けてみたが、ぐしゃり、とまだ長かった煙草を粉砕しながら、烏丸がゆらりと笑った。人が本気で怒る直前の、感情の針を「怒」に振り切るための準備運動を済ませたような顔だった。
「お前、やっぱり恭介に惚れていたのか!?」
「ええ……今更……」
そこじゃないんですけど。心からうんざりした声で圭吾が言った。そんなこと自分は勿論承知であるし、恭介を取り巻く環境や人間関係において常に正確に理解し迅速に動くこの男が、当然その事実を知っていない訳がない。
もしかしなくても名古屋って、愛知の首都だったよな? レベルの質問である。首都ですけど。百人が百人そう答えるだろう。圭吾が露骨に、それが今更どうかしましたか顔をしても仕方なかった。
「何となく知ってんのと改めて宣戦布告されるのとは訳が違うんだよ! っつーか! は!? 何つったお前今!? 告白したのか!?」
「しました。その日のうちにオッケーもらいました」
「ハァ!?!?」
烏丸は仰け反った。そしてその勢いで膝を付き、振り下ろした両拳で床を叩く。下の階に病室があれば、菓子折りを持ってお詫びに行くべき騒音であった。
「おっ……前……っ! ってことは両想いになったばかりの恭介とあの日、ひとつ屋根の下で二人きりだったってことか……!?」
「はぁ……まあ」
圭吾は、突然うるさいなこの人などと他人事のように思っていた。最早アクション映画を観ているような感覚に近い。火元も出火原因も明らかに圭吾であるが、そんなことまで烏丸に叱られる謂れはないという自負があった。
「ちなみにですけど、ひとつ屋根の下というか、更に言うなら、ほぼ裸でひとつの毛布の中だったというか」
「おい」
言わなくて良い情報をわざわざ付け足したのは、圭吾なりの意表返しだったのかもしれない。案の定未だかつて聞いたこともない低い声でそう遮り、力の制御が馬鹿になったのかと疑いたくなる握力で圭吾の肩をがしりと掴んだ。
「手……出してないだろうな」
「僕をいくつだと思ってるんですか。まだ中学生ですよ? 詳しいやり方を知らないのに、できることなんかないですよ」
命は惜しいし、そもそも濡れ衣である。
致した事実があればもう少し油を注いでも良かったが、謂れなき罪で咎められる趣味はない。圭吾は淡々と、多少乳首にいたずらを仕掛けたことは伏せ、抱いたか抱いてないかでいえば抱いていないということだけを釈明した。
「……信じて良いんだな?」
烏丸とて、可愛い恭介の純潔が守られた方を信じたい。ジロジロと品定めをしながら詰問を続けた。頷くことだけを期待した割に、どこか懐疑的な声だった。
「僕だって、必死で我慢したんですからね。それでもあの状況下では、せいぜい乳首を」
あ、しまった。
素早く口を抑えたが、当然の如く覆水は盆に帰らなかった。
「……乳首を、何だって……?」
烏丸が美しく笑った。この世から悪を全て殲滅することができそうな、奇々怪々とした笑みだった。
「いえ」
「いえ、じゃないだろ! 言え! 恭介の乳首に何したんだお前!?」
勿論、今更否定したところで引き下がってもらえるなどとは思っていなかったが、さりとて恭介さんの乳首なら爪で引っ掻きはしましたがまだ吸っても舐めてもおらず今後諸々のことが落ち着いたら吸ったり舐めたりさせていただく予定ですと馬鹿正直に答える訳にもいかない。
圭吾は柔らかく微笑んで、瞬く間に取調室になってしまった休憩所で天を仰ぐ。改めて、長い夜になりそうだと覚悟した。
昼と夜とでは、景色の印象がガラリと変わる。太陽がほぼ直角の位置から降り注ぐこの時間帯は、まるで忘れかけていた田園風景を思い起こさせるように、優しい時間が流れていた。
とても残虐な風習が蔓延していたとは思えない程、池の畔には瑞々しい草花が生い茂り、注がれる陽に向かって葉を伸ばしている。
そんな柔らかな緑に包まれた世界で、カラカラと音を立ててその玩具は揺れていた。まるで、ドロップの欠片が入った缶を、振った時のように懐かしい音だった。
智也は、持ってきたいくつかの新たな玩具を刺した。何もないように見えて、そこには風がある。それを教えてくれるささやかな音楽に、ゆったりと耳を寄せて目を閉じた。
「風車」
とても贅沢な時間を過ごしていたというのに、不躾な声が小さなメロディを遮る。
胡乱げに振り向いたら、予想していた忌々しい男がそこにいた。
山に登る気なんて端からない、ダークブラウンのレザー・ストレートチップに、ノッチドラペルのシングル・スーツ。イタリア製のサイドペンツジャケットを、ノーネクタイでも鮮やかに着こなすところが厭味ったらしくて大嫌いだ。
「持ってきたのか」
烏丸が言った。とりあえず視界に入ったものを質問しただけのような、味気のない声だった。
「……あの姉弟だけじゃ、他の子供が可哀想だろ」
色とりどりの風車が、風に回されて踊っている。憐れんでいると思われるのが癪で、智也は言い訳のように付け足した。
烏丸の興味はとっくにそれらからなくなっていたようで。ふーんと短く相槌を打ったきり、持ってきた紙袋をガサガサと漁っている。
「無駄になったみたいだけどな」
「……」
ざあ、と大きく風が吹いた。
狂ったように、風車が回る。
「……あんな、数滴の血液で」
カラカラ、カラカラ。
羽が外れそうだ。過ぎる力は、関わるものに大きく影響を及ぼす。傷つけることも、壊すことも容易いだろう。
それは、こんなおもちゃひとつでわかる事実だ。
「この夥しい程の魂が、すべて浄化されるとはな」
――目に見えて、おそろしい力だ。
智也だって、あんな途方もない数の不成仏霊、恙無く浄霊しようと思ったら一年や二年じゃ足りない。
それら全てが、ドラキュラだって満足しない僅かな血液で、一切合切祓われた。
あんな、成人にもなりきらない子供がやってのけたのだ。
「護摩供養なんかもう、必要ないんじゃないか」
「後処理は必要だろ。全員が全員、綺麗に成仏した訳じゃない。上にあがれない自殺者の魂を鎮めるために、定期的なメンテナンスは必要だ」
紙袋から護摩壇の台を取り出しかけた烏丸が、何を思ったのか、突如それを放り出す。許可もなくべろりと智也の着物を捲り、太腿の付け根まで手を這わせた。
「な……っ、何をするんだ!」
「いや、治ってねーなって思って……切り傷。そんなとこまで切ってんの?」
「抱え込んでた金魚鉢が粉砕したんだ! 全身にあって当然だろ!」
セクハラまがいの箇所まで撫で弄られて、悲鳴のような声をあげながら智也は数歩退いた。
背中にどしんと、大きな幹が当たる。木だって、当たると痛い。樹齢何百年の大層な御神木なら尚更だ。
「後で薬塗るの手伝ってやろうか。今回のことはまあ……半々くらいで俺にも責任があるし」
「全責任を負え! どう考えてもお前しか諸悪の根源はいないだろ!?」
「だから、塗ってやるって。それでチャラな」
「そ……っ、そんなことはしなくていいんだよ! 馬鹿!」
「えー……理不尽」
烏丸本人は親切心で言っているので、撥ね付けるように断られた上に馬鹿呼ばわりされることに納得がいっていないようだったが、智也からしたら恋人になってくれないくせに体のいたるところにクリームなど塗って欲しくはないし、ましてあんなえっちなところまで、掌でまさぐって欲しいなどとはゆめゆめ思わない。
はだけた着物の裾を合わせ、ギロリと金髪の男を睨む。断られたことに執着はないのか、彼は先刻放り投げた板をのんびりと拾っていた。
「……烏丸」
着物の裾をぎゅっと握りながら、智也はぐるぐると言葉を選ぶ。この不安を、悪夢に近い予感を、どうしたらこの男に、伝えることができるだろう。
「恭介は、いずれ大きな脅威になるぞ。あの血の力は、大きくて悍ましい。いつか、本人じゃ手に負えない時がくる」
余計な忠告だ。きっと彼は、他人にこんなことを言われたって痛くも痒くもない。無駄なことをしている。山奥にスーツで来るなと言うことをやめたのだから、これも口にしなきゃよかったのに。
「平気だよ」
何も届かないとわかっていた。
智也の言葉は、いつもそうだ。烏丸を動かすことなんかできない。小首を傾げる仕草ひとつのおねだりで、小指を僅かに動かすだけのことで、彼を思いのままに導き支配することができるのは、この世でただ一人――。
「俺が、一生傍にいるからさ」
(お前だけなんだよ、恭介)
――ああ。今日もあの子供が憎い。今日も明日も、明後日も。生きているだけで、ただ呼吸をするだけで、烏丸に愛してもらえるのだから。
たとえその体に毒薬のような血液が流れていたって、数多の人間を不幸に追いやったって。烏丸はその頬に口づけ、優しく髪を撫で、呪いで腕が溶けても抱きしめ続けるのだろう――その正体が、因果が何であれ。
「……好きにしろ」
カラカラ、カラカラ。
撫でてくれない男の代わりに、幽かな風が耳の後ろを通り過ぎてゆく。
智也が放った負け惜しみは、柔らかい西風に攫われ消えてしまった。
0
お気に入りに追加
182
あなたにおすすめの小説

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

田舎育ちの天然令息、姉様の嫌がった婚約を押し付けられるも同性との婚約に困惑。その上性別は絶対バレちゃいけないのに、即行でバレた!?
下菊みこと
BL
髪色が呪われた黒であったことから両親から疎まれ、隠居した父方の祖父母のいる田舎で育ったアリスティア・ベレニス・カサンドル。カサンドル侯爵家のご令息として恥ずかしくない教養を祖父母の教えの元身につけた…のだが、農作業の手伝いの方が貴族として過ごすより好き。
そんなアリスティア十八歳に急な婚約が持ち上がった。アリスティアの双子の姉、アナイス・セレスト・カサンドル。アリスティアとは違い金の御髪の彼女は侯爵家で大変かわいがられていた。そんなアナイスに、とある同盟国の公爵家の当主との婚約が持ちかけられたのだが、アナイスは婿を取ってカサンドル家を継ぎたいからと男であるアリスティアに婚約を押し付けてしまう。アリスティアとアナイスは髪色以外は見た目がそっくりで、アリスティアは田舎に引っ込んでいたためいけてしまった。
アリスは自分の性別がバレたらどうなるか、また自分の呪われた黒を見て相手はどう思うかと心配になった。そして顔合わせすることになったが、なんと公爵家の執事長に性別が即行でバレた。
公爵家には公爵と歳の離れた腹違いの弟がいる。前公爵の正妻との唯一の子である。公爵は、正当な継承権を持つ正妻の息子があまりにも幼く家を継げないため、妾腹でありながら爵位を継承したのだ。なので公爵の後を継ぐのはこの弟と決まっている。そのため公爵に必要なのは同盟国の有力貴族との縁のみ。嫁が子供を産む必要はない。
アリスティアが男であることがバレたら捨てられると思いきや、公爵の弟に懐かれたアリスティアは公爵に「家同士の婚姻という事実だけがあれば良い」と言われてそのまま公爵家で暮らすことになる。
一方婚約者、二十五歳のクロヴィス・シリル・ドナシアンは嫁に来たのが男で困惑。しかし可愛い弟と仲良くなるのが早かったのと弟について黙って結婚しようとしていた負い目でアリスティアを追い出す気になれず婚約を結ぶことに。
これはそんなクロヴィスとアリスティアが少しずつ近づいていき、本物の夫婦になるまでの記録である。
小説家になろう様でも2023年 03月07日 15時11分から投稿しています。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?


鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
神様の手違いで、俺がアイツに狙われるなんて!?~縁結びの神様、マジで勘弁してください!
中岡 始
BL
「彼女ができますように!」
恋愛成就を願い神社を訪れた高校生・鈴村涼希。
だが、翌日から超絶イケメン同級生・霧島要が異常に構ってくるようになった――。
「お前が俺の運命の人、らしい」
「いやいやいや、違うから!! 俺は女の子と恋愛したいんだ!!」
どうやら、縁結びの神・大国主命の手違いで、涼希と要の「最高の縁」が結ばれてしまったらしい!?
以降、席替え、体育祭――なぜかすべてで要とペアになってしまう涼希。
さらに要の「運命の恋人」ムーブは加速するばかり!
壁ドン、顎クイ、甘やかし…その上、妙に嫉妬深い!?
「お前、本気で俺のこと何とも思わないの?」
必死で否定する涼希だったが、要の隣にいると、なぜか心がざわついて――?
これは、「運命」から始まった恋の物語。
彼らが選ぶ未来は、神に定められたものか、それとも――。
じれったくて、甘くて、時々切ない、縁結びラブコメBL!
涼希と要の恋の行方を、どうか見届けてほしい。
イケメン俳優は万年モブ役者の鬼門です
はねビト
BL
演技力には自信があるけれど、地味な役者の羽月眞也は、2年前に共演して以来、大人気イケメン俳優になった東城湊斗に懐かれていた。
自分にはない『華』のある東城に対するコンプレックスを抱えるものの、どうにも東城からのお願いには弱くて……。
ワンコ系年下イケメン俳優×地味顔モブ俳優の芸能人BL。
外伝完結、続編連載中です。
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる