恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンチノック・スターチスの誤算

17.

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 別に、はっきりとした確証があった訳じゃない。
 子供の霊を見かけたあのバーに、もう一度立ち寄りたいという圭吾の提案は尤もだし、現時点ではその子供に接触することでしか、手掛かりらしい手掛かりは得られないだろう。けれど恭介には、ずっと気になっていたことがあった。いや、気になっていた場所と言い換える方が正しいかもしれないが。
「二手に分かれよう」
 ぬかるんだ土に、何度か足を取られた。水加減を間違えたパン生地のように、雨上がりの地面は圭吾たちの重心をいたずらに狂わせる。意識をしていないと、真正面だと思っていた方向さえも見失いそうだった。恭介の提案を理解するのに、一拍あいてしまったのはそのせいだ。
「子供の霊が、また現れるんだとしたらあのバーか、儀式の行われた池だ。昨日見たばかりだし、現れる確率が高いのはバーだから視認できるしのが行った方がいい」
「先に池に行って、確かめたいことがあるんですね」
 言外にあるだろう意図を容易く汲んで、圭吾が念を押すように言い含めた。
「たった一人のために」
 走る速度を緩めず、恭介が答える。
「あんな場所を、わざわざ作るとは思えない。もしかしたらあそこは」
「……」
「生贄となった子供が、次々と殺された場所なんじゃないかと思ったんだ」
 恭介の声は澄んでいた。まるで、井戸から汲み上げた地下水のように。
 その史実に関わることのできなかった者の怒りや不快感など何の意味もないし、罵る言葉はどこにも届かない。だから、心を少しだけ下に沈めて、俯瞰的に現状を把握し、今起きていることへの解決策を考えているのがわかる、真摯な声だった。
「だとしたら、そこに呪具がある可能性が高い。先に行って、状況を確かめたいんだ。バーの方が、姉の霊に取り憑かれたあの人と遭遇する確率が高いし、危険な方をしのに託すのは悪いと思ってるけど……」
「僕は貴方の相棒ですから。頼ってもらえて嬉しいですよ」
 申し訳なさそうに唇を噛む恭介のそれを柔らかく撫でて、圭吾はとびきりご機嫌な声でこう言った。
「犬神さんには敵いませんけどね」
 きっと犬神には、こんなふうに悪いと思う前に任せることが多いのだから、これくらいの意表返しは許してほしい。ばつの悪い顔で恭介が、左手の拳を突き出した。右手を柔らかく握り込んで、軽くぶつける。
 それがスイッチだったかのように、二人は同時にそれぞれの進む方角へと踏み出した。


 頼られることが、ただ嬉しかった。
 辺鄙な村。閉鎖的な土地柄。お金なんてなかったけど、わかりやすい大金持ちも周りにいなかったから、貧富の差を感じることもなく幸せだった。いつだって人は、周りに何があるかで手元にあるものの価値がわかる。誰もが貧乏な世界では、私達の家が改めて貧乏だと思い知らされることはなかった。
 貧しい村だったけれど、どうにか皆が食いつなぐことができたのは、年に一度のあの儀式のお陰だった。選ばれた子供は可哀想だけれど、これも皆が無事に、その年を生きていくために必要な手段なのだから仕方がない。お陰で豊作とはいかないまでも、村人全員が腹三分目程度には日々食べることのできる糧は収穫できた。
 十人が餓死するより、一人が死んで、九人が助かる方が良い。
 誰も好き好んで、幼い子を殺したいなんて思っちゃいない。そこにあるのは単純な計算だ。いつだって、数が多い方が正義になる。善悪がどちらかなんて、あまり関係ないのだと思う。頭数は多数決という名目で振りかざされ、数が多い程、その拳は重たく弱者を潰すのだ。

 私には、特別な力があった。占って欲しいと願う人間の未来を、少しだけ覗き見ることができる。
 知ってどうにかなるものではないのだが、村の人間はこぞって私に縋ってきた。その数は枚挙に暇がない程だったけれど、一人一人からお金を巻き上げるだなんて、無粋なことはしない。
 無償の施しはいずれ、その人にとっての大きな借りとなる。感謝の種を、撒いておくのに越したことはないから。お陰で笑っちゃうくらい偉い人たちまで、擦り付けるように頭を垂れてお願いをしてくるのだからたまらなかった。

 気がついたら、貧乏だった筈の私の家は、貢物で埋め尽くされるようになった。
 ざまあみろ。不気味な力を持っているのが恐ろしくて、私と弟までもを捨てたあの女をせせら笑ってやりたい気分だった。いつの間にか私の家は、貧乏ではなくなった。食べるものに困らず、年に一度の生贄には決して選ばれることもなく、安全圏で、ただ楽に生きていた――あの大飢饉が村を襲うまでは。

 コンロで焼き尽くされたみたいに、ひどい日照りが続いていた。土は乾き、川はひび割れ、踏みつけた場所から粉々になった。穀物は枯れ果て、井戸も干上がり、牛も鶏も死んだ。
 人も、動物も、死因は等しく餓死だった。まるで神様が、この世から水分を取り上げたみたいに、世界は急速に砂漠へと近づいていった。
 そして、今年も生贄を捧げる時期がやってきた。
 誰が言い出したのかなんてわからない。今思えば、誰もが追い詰められていたから、誰がそれを言い出しても、おかしくない状況だった。
 こんなひどい大飢饉、並の子供じゃ納まらないだろうと。
 特別な力を持った、神に近い命を捧げるべきだと。

 そうして――弟に白羽の矢が立った。

 私の能力は、畏怖に近い感情を村人たちに与えていたようで、神にほぼ近い私を殺す訳にはいかなかったのだろう。
 だから代わりに、弟が選ばれた。
 そうして、漸く気がついた。未曾有の大災害。誰もが等しく、明日も知れぬ命。とっくに私達は、安全圏になどいなかったのだ。
 弟の首が縄で縛られた。後に回された手首も、頑丈に拘束される。まるでそこに最初からあったお地蔵様みたいに、弟は池だった場所のど真ん中に作られた台の上に、物のように置かれた。
 馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。
 こんな茶番が、何になる。本当に神様がいるのなら、人の命を引き換えに願いを叶えるだなんて、傲慢なことはしない。そうだ、そうだった。今までここで、この場所で。無作為に行われていた子供たちへの残虐な行為。神様が願い、言い出したことじゃない。あんな恐ろしいことを、最初に思いつき、これまで何の疑問も抱かず続けてきたのは、

 私達――人間だ。

 目が覚めた気がした。弟を切っ掛けに、こんな残忍な行為をやめさせなければ。うず高く積み上げられた高価な布の入った箱をひっくり返し、惜しげもなくその一枚を広げ、包丁で引き裂いた。囲炉裏に残っていた炭を砕き、石の塊ぐらいの大きさになったそれを、布の中央に置き、大根を吊るしていた縄を解いて、てるてる坊主を作る。片っ端から軒下に吊るし、指を絡ませて掌を合わせ、天を仰いだ。
 弟の儀式が成功して、雨が降ってしまえば、世界に水が還り、生贄を捧げる行為に信憑性が生まれてしまう。そうして、これまでの子供たちのように、仕上げとばかりにあの池に突き落とされ、今度こそ確実に殺されてしまう。そんなことは、絶対に耐えられない。
 日照りが続いたっていい。明日も明後日も草木が枯れ、食うのに困り、夥しい程の人間が死ぬ運命を辿っても。

 数じゃ、ないのだ。
 そうだ、私達はそれぞれ、皆が対等だった。

 最初はそうだった筈なのに。いつからか、どこからか、取り返しがつかない程に、世界が、私が、狂ってしまった。
「そばに、行かなきゃ……」
 弟を、一人にはしない。一人になんかできない。だからどうか私も、私も一人にしないで欲しい。草履を履いて、引き戸を開ける。通わなければ。今日も、弟のいるあの場所に。

「飲まれるなよ」
 烏丸が言った。酷く無味乾燥な声だった。ぐらりと傾いていた体を、どうにか支えていた両手さえ震えている。過呼吸寸前のように胸が苦しくなって、酸素が思うように体に入ってこない。
「わかってる」
 智也は言った。声は震えていた。烏丸は、追求せずに前を見据える。朧気な映像は、よろよろと件の池に歩く少女の後ろ姿を映していた。
「これ、原理はどうなってるんだ。俺たちは、タイムリープでもしてるのか?」
 絵師が言った。古い映写機から流されるポルノ映画のように、目の前のそれはノイズ混じりで、画質も粗かった。なのに、まるで本当にそこにいるみたいな、言いようのない妙な輪郭があった。
「ホログラムみたいなものだよ。ものに込められた、記憶を辿っているんだ。この場合は山の、だけど」
 烏丸が数珠を握り直し、人差し指と中指を振り下ろす。一瞬、カメラを揺らしたように大きく全体がぶれた後、僅かに景色が鮮明になった。
「当たり前だけど、過去に干渉して歴史を変えるなんてできないよ。俺たちはここに存在してる訳じゃない。直接触れて、回収することができるのは呪具だけだ」
「なら、あの池そのものが呪具なんじゃないのか?」
 早々に飽きてしまったのか、足を投げ出しながら絵師が投げやりに言った。
「決めつけるのは早いよ。多分だけど、別にある気がする」
 智也は、噛み合わない奥歯をガチガチと鳴らした。震えは、最早全身に広がっている。
 とんでもなく大きな怨念が、薄い紙一枚を隔てて目の前にあった。腹が焼ける程に恐ろしかった。けれど、純粋な恐怖とはまた違う。まるで泥まみれの既視感に塗りつぶされるように、智也の手足は体温を失いつつあった。

「――!」
 よれよれの足を引きずりながら、どうにか池だったその場所に辿り着く。力いっぱい弟の名を叫んだが、あの子は胡乱げな目を向けただけだった。返事をする体力なんか残されている訳がない。もう何日も飲まず食わずだった。
 おひつに残っていた米を潰して焼いたものを、こっそり弟に食べさせようとしたこともあったけれど、駄目だった。弟は、掟を破って折檻されることより、自分が根負けしたことで、具体的な死者が出ることを何より恐れていた。
 それは洗脳という名の呪いだった。大人が、何よりこれが正しいことだと、強い言葉で言い含めるから。子供はそのように生きるしかないのだ。そうして、長い時間を掛けて善悪も理も必要不必要も大人の都合のいいように塗り替えられ、私たちが持てた筈の意志も感情も発想も嫌悪も、すり鉢で潰されたみたいに粉々になる。
 最初から、大人と子供は対等じゃないのに怒鳴るから。私たちは、そうして物のように使い捨てられるのだ。
「大丈夫よ!」
 私は、力の限り叫んだ。
「絶対に、雨なんか降らせない! こんなことに、何の意味もないの! みんなもいつか、それがわかるわ! そうして二人で、おうちに帰るの! またお姉ちゃんと、毎日お腹いっぱいご飯を食べて、たくさんのおもちゃで遊んで、新しい布で作った綺麗な浴衣を着て寝るのよ! きっとまた、それができるから……!」
 弟の頭が、ぐらりと傾いた。カラカラに干からびた唇が、もどかしくなるくらい僅かに動く。
「……もう、」
 弟は、絞り出すような声でこう言った。
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 それが、弟の答えだった。
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「どうして……」
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「何か、欲しいものはない……!? 食べ物でも何でも、お姉ちゃんが持ってきてあげる!」
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「かざ、ぐるま」
 動いたら消えてしまう蝋燭の火のような、か細い声だった。
「風車ね、わかった! 貢物でたくさんもらっているから、一番上等で、大きいのを持ってくるわ!」
「おねえちゃんの、」
 弟が、重ねて言った。踵を返しかけた背を戻し、私は続きを待った。
「おねえちゃんの、つくってくれた……風車が、いい」
 カサカサだった声が、まるで泣いてるみたいな湿っぽさを含めてそう言った。
「僕ね……毎日同じ着物でも、明日の、食べるものにさえ、困っても……お姉ちゃんが、僕をおぶって、手作りの風車で、あやしてくれた……あの頃がいちばん、幸せだったよ」
 泥がこびり着いて、あちこちが破れた古着の着物。
 私のそれをしっかりと握って、笑っていた弟の顔を思い出す。村の誰かから獣の肉をもらった時も、キラキラと光る金箔であしらわれた上質な布を広げた時も、ついぞあの顔を見たことがない。最初から、私達は幸せだった。誰かに、何かを与えられなくても。雨露を割れた茶碗に溜めて、啜り飲んでいた頃も。空腹に耐えられず木の根を齧っていた日々さえも。

 幸せだったのだ。

 弾けるようにして、私は走り出していた。前に転びそうな勢いで、ひたすら足を動かす。ポツ、ポツと頬を濡らすのが何かだなんて、思い知りたくもなかった。お願い、まだ降らないで。あの子が唯一、これだけ欲しいと願ったのは、誰から見てもゴミとしか思えない、ささやかなおもちゃひとつなの。それぐらいは許してよ。ただ届けるだけよ。他に何もいらないの。他に何もいらないから、だからどうか――!
 葛籠の奥で潰れていたそれを掴んで、再び家を飛び出した頃には、小雨はとうに本降りになっていた。泥でぬかるんだ足元が、蛇のようにまとわりついてくる。何度も転びながら、風車だけは壊れないように、着物の中に抱きしめて走った。
 遠雷が、山の麓で響いている。朝霧のように真っ白な視界の中、必死で足を動かした。大丈夫。雨が降り出してから、まだいくらも経っていない。みんな、自分のことで精一杯の筈。希望通りに雨が降ったからって、あの場所に駆けつけて、すぐにでも弟を殺そうなんて、誰が思うもんか。風車を渡したら、一緒にここを出よう。今まで一人にしたことを謝って、上等な布やおもちゃを全部売り飛ばすのだ。もう、こんな恐ろしい村にはいられない。大丈夫。私達二人なら、きっと生き直せる。
 ザシュ、と気味の悪い音が、落雷に混じって聞こえた。ひたり、と、心臓が止まったかのように身の毛がよだつ。雨の匂いが、僅かに獣臭を帯びる。違う、これは獣のそれじゃない。生臭くて、錆を舐めてるみたいな、歯に響く独特の異臭。

 これは、人の――血だ。

 訳もわからずがむしゃらに走った。悍ましい予感が、キンキンと鼓膜を揺らしている。何度も転んだが、痛みなんか感じなかった。泥に爪を立て、野生動物のように、地面を引っかきながら走った。
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 不意に吐き気が込み上げて、その場でえづいた。昨日の夜から、いや弟がここに、キリストのようにはりつけにされてからずっとろくに食べていなかったから、喉の奥に指を突っ込んでも、胃液しか出て来なかった。
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 あんなに良くしてやったのに。金も取らずに望まれるまま、その未来を言い当ててやったのに。贄の子供たちを見捨てたのは、何も私だけじゃない。なのに、どうして、どうして――私達が、弟が、最後に望んだ夢を叶える瞬間さえも、待ってくれないの。
 池の傍に渡せなかったそれを突き刺して、この世のあらゆるものを呪った。もう、希望なんかどこにもなかった。善悪も、明暗も幸も不幸も、弟がいないなら、どこにもなかった。

 だったら、だったら――世界も、私さえ、この悪しき風習ごと取り殺されてしまえばいい。

「見つけた」
 烏丸が短く言った。懐から取り出した黄金色の数珠を、黒曜石の数珠の上から更に巻き付けて手を翳す。
「呪具は風車だ。そのまま回収するには怨念が強すぎる。その場で浄霊してから、封印するぞ」
「そうすると、どうなるんだ……?」
 智也が、弱々しい声で聞いた。まるで、何かの二択に迷っているような声だった。
「どうなるもなにも、そのままだよ。風車を社にして、祀り上げる。一度の浄霊でどうにかするには霊体が多すぎるし、呪詛が深い。御神体代わりに風車を使うんだ。永い年月をかけて、浄化していくしかない」
「そんな、ことをしたら」
 智也が遮った。自分でも、何を言おうとしてるのか、わかっていないようなぼんやりとした声だった。
「風車……ずっと、弟の手に渡らないじゃないか」
「何を言ってるんだ?」
 心底意味がわからないといったような声音で、烏丸が訝しげに聞き返す。智也は、改めて眼前に広がる池と蹲る少女を見つめた。二択だった答えは、その時既にひとつになっていた。
「烏丸、俺に使っている護符を外せ」
「おい……! お前、さっきから何を言って……!」
 慌てて烏丸が、智也の肩を掴む。きっとこの男は、自ら友を守る策を捨てたりはしない。だったら、自分から捨てられるしかない。
 智也は結界を作っているだろう自身の札を、鷲掴んで真っ二つに引き裂いた。
「智也……!?」
「おい、女!」
 腹の底がビリビリと震える。力の限り声を張り上げて、智也は記憶の欠片に訴えた。
「俺は、魂や怨念を一時的に預かる術が使える! その風車、俺に預けろ! 絶対に、俺が弟の元へと届けてやる!」
 術式を成り立たせるためには、対象者に金魚を見せ、己の術について説明する必要があった。脇に抱えたままの金魚鉢をしっかりと掴み、智也は絶望の淵に立たされた姉の前へと降り立った。
「無茶だろ!」
「無茶じゃない!」
 大声を出したら、逆に冷静になった。体から先に動いてしまったけれど、智也には智也なりの意図があった。
「恭介のところには、弟の霊がいたんだろ。殺された直後は、生贄の犠牲になった子供たちに引きずり込まれて霊体にさえなれなかったみたいだが、時が経った現世では、その姿を現すことはできるようになってるんだ。だったら、俺がこの風車を預かって、どうにかして現世の山に侵入して、弟に渡してやれば良い」
「それが無茶だって言ってんだろ! 風車ひとつに、どれだけの怨念がこびり付いてると思ってる!? 姉弟だけの無念じゃない! これまで不条理に殺された子供の霊が、何十体もついてるんだぞ!?」
「だったとしても、受け止めるしかないだろ!」
 智也が、振り切るように叫んだ。自分こそ置いていかれた迷子の子供のような、揺れている声だった。
「まだ一人では生きてけないような子供が、必死でどうにか生きてたところに唯一の肉親である弟を取り上げられて、悲しくて泣いてるんだよ! そんな時に、」
 堰を切ったように、智也の口から言葉が溢れる。
「大人が体を張って、守ってやらなくてどうする!」
 烏丸が、止めるのも無理はなかった。護符に守られていた時は感じもしなかったが、破り捨ててから突如、目の前の群像劇には現実味のある匂いや空気が満ち満ちていた。泥に爪を立てる音も、嗚咽さえ飲み込めない程のえづくような泣き声も、雨に交じる血の匂いも、悲しみと憎しみと泥に烟る空気も。吸い込んだだけで気がおかしくなりそうな生々しさだったが、智也は自身を奮い立たせながら、目の前で泣き崩れる少女に訴えた。
「おい、聞こえるか!? 絶対に弟に届ける! 約束する! だから信じろ!」
 安全圏から出ようとしない大人にこんなことを言われたって、きっと自分なら信じられない。だから護符を裂き、泥の中に足をつけ、同じ世界線に立つ必要があった。
 金魚を抱えた手はそのままに、ありったけの力を声に込めて叫ぶ。
「大人を……俺を、頼れ!」
 果たしてこれは、誰への言葉だったのだろうか。おそらく根本は、幼少の頃に自分が欲しかった言葉だ。
 本当に、問題を解決して欲しかった訳じゃない。約束なんて、結局のところ破られたって構わない。ただ、自分より年上の誰かに、頼っていいと言われたかった。この世には、縋って良いと思える大人がいるのだと教えてほしかった。
 泥がへばりついて、足が疲労で動かなくなって、胃袋がぺちゃんこになるくらいからっぽになって。喉がひび割れるくらいに乾いていたあの日。
 楠師匠が目の前に現れて、可哀想な子供の寄る辺になってくれた。ただそれだけで、今にも壊れそうな心が、どうにか形を保つことができた。
 その未来に進めなかった智也のもしもが、目の前で容赦のない雨に潰されるように濡れそぼり、泣き崩れる子供だ。
 すべては、終わってしまったことだ。あの偉大な師匠のように、何もかもを包み込んで悲しみから救い出すなんてことはできない。弟の命は助からないし、少女に大金を渡すこともできなければ、新しい着物やあたたかくておいしいご飯を与えることもできない。ここにある命はもう、何ひとつ救えないのだ。
 けれど。
 けれど。

「お兄ちゃん。本当に……弟に、渡してくれるの……?」

「ああ」
 ひとつの約束で、報われる思いがある。吹いたら消えてしまいそうなくらい小さく、けれど確かな願いがここにあるのだ。それを、届けることだけはできる。
 智也は、利き手を目一杯伸ばした。和紙の切れ端を集めて、つないで作ったらしい不格好な風車。
「約束だ」
 しっかりと受け取って、鉢の中で泳ぐ二匹にその魂を移す。緩やかだった水面が、洗濯機を稼働したようにぐるぐると波打って、バチバチとプラズマが弾けた。その光は徐々に大きくなり、稲光のような激しい熱と光を放つ。
「そらみろ! 金魚二匹で受け止められるような魂の数じゃない! 壊れる前に風車を離せ!」
「嫌だ……!」
 烏丸に怒鳴られなくたって、到底無理なことをしようとしているのはわかってる。ビキビキと、聞いたことがない音が金魚鉢の硝子を震わせていた。はち切れそうなエネルギーをありったけの霊力で抑え込んだが、膨張を繰り返しどんどん肥大化するそれは、ついに金魚鉢に亀裂を走らせる。
「智也!」
 絵師を守っている護符の術を解く訳にもいかない烏丸が、苦しげな声で叫ぶのが聞こえた。
 ああ――このまま、死ぬかもな。
 智也は静かに覚悟した。金魚鉢を胸に抱え込み、ぎゅう、と抱きしめる。ぎちり、と嫌な音がした。眩さに目を細め不意に顔をあげると、視界の隅で池の水が僅かに揺れている。
 それは、目視できるささやかな歪みだった。
 そして、おそらく最初で最後のチャンスだった。
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