11 / 17
隠れゲイとスプモーニ
3.
しおりを挟む
何か、棚橋の様子がおかしい。
避けられてる。それも、ものすごくスマートに。スマートに、ってどういうことだよって感じなんだけど。一時期俺がやった避けてるの丸出しみたいな避け方じゃなく、俺が棚橋を好きじゃなかったらきっと、気付かなかったくらいの小さな変化だ。でも俺は、棚橋のことが好きだから気付いてしまった。みんなが居る時にだけ愛想よく笑ってりゃ、ばれないとでも思ったか。詰めが甘いんだよ阿呆。甘いのはお前のその、マスクだけで十分だ。
カランとグラスを傾けて、残り少なかったお酒を呷る。溶けかけの氷が唇に直撃したが、あまり冷たいとは感じなかった。まだ高校生だった頃、こんなふうにしてバーに通うのが似合いの大人になりたかった。ちょっとダンディな雰囲気で、マスターと楽しく喋ったりなんかして。ダンディ以外のところは叶ってんのに、手に入れたって実際こんなもんかって思う。勿論マスターは良い人だし好きだ。だけどカウンターでお酒を嗜む俺が、想像したのより良いものではなかった。
――理由が分からない訳じゃない。
酸いも甘いも吸いつくしたとは言わないけれど、恋愛が甘いだけじゃないってのはもう分かってるつもりだ。覚悟していたそれが、来た。ただそれだけのことだと思う。だから俺は、棚橋の手をうまく掴めなかったんだよ。おそらくは甘かっただろう時期に、ただ流れに任せてきゃっきゃウフフみたいな態度にはなれなかった。あの時素直に楽しんでたなら、とは思わない。遅かれ早かれ、こうなるのにきっと変わりはなかった。それなら早い方が良かったんだ。綺麗な思い出なんかいらない。無駄に未練が残るだけだから。
哲と離れることができたのは、棚橋がいたから。その棚橋がいなくなる今、あの時みたいに一発殴ってバイバイなんて出来るとは思えない。俺は強くない。本当は全然強くなんかないのだ。分かってるからこその選択だった。離しがたくなる材料なんか、抱えてたって動けなくなるだけじゃねえか。一度握ったもんをうまく手放す自信がなかったから、掴まなかったんだ。だから許さなかった。それだけのことだ。
「潤也、グラスあいちゃったな。何か飲む?」
「……強いの。ガンダム並に強いのくれ、マスター」
「いや、お前の中でのガンダムってどういう立ち位置なのかわかんねぇから、普通に好きそうなの出すな」
くつくつ笑いながら、マスターが冷蔵庫を開ける。この人のオリジナルって、外れがあんまりなくって好きだ。前に出してくれたペプシみたいなのだって、すげえうまかったし。
「……マスター、慰めて」
「ん? どうした」
「俺、振られるかもしれん」
「……かもしれんじゃ、慰めてやれないなあ」
背中を向けてたって、優しさが伝わってくる。優しい声。優しい空間。どうしてこんなに柔らかく包まれてんのに、責められているような気持ちになるんだろう。
相応しくない。俺みたいな人間に、優しい人なんか。そう思う卑屈さは昔と変わらないのに、居心地が悪いことには変わりないのに。この場所を愛してるだなんて、悍ましいことを思う自分が嫌だ。
「良い子だから、今日はこれにしとけ」
「何なんそれ……色うっす」
「クリーム・チャレンジ」
「ぶはっ」
やめてくれマスター。落ち込みに来たのに笑ってしまうじゃねーか! 何その名前。ミルク入ってるっぽいからクリーム部分はギリわかるけど、チャレンジ成分どのあたりだよ!
「……笑うけどな、うまいんだぞ」
拗ねたように言われたって、フォロー出来ない程笑いが込み上げてくる。ああ、やっぱり最高だよマスター。あんたのお店、あんたの人柄で半世紀は繁盛するに違いない。
「うるっさいわね! ほっとけって言ってんのが聞こえないの!?」
大通りで、聞き慣れた金切り声が聞こえた。なみだと思ったものの、少しだけ不審に思う。俺よりプライドだの外聞だのを気にするタイプだし、雰囲気を壊すものに関しては酷刑を求める程に毛嫌いするような性格だ。よりによってマスターの店の前で、揉め事起こすなんてらしくなさすぎる。
「……今の、なみちゃんか?」
「多分な。ちょお見て来るわ」
「あ、おい、潤也!」
返事も待たずに席を立つ。俺だって、少しはこの店の役に立ちたいんだよ。ましてや顔見知りが騒いでる程度なら、初対面の不良より注意しやすいしな。
カランカランとレトロな喫茶店でよく聞く音を立てながら扉を押したら、案の定なみがいた。ただ、初対面の青年もいてややびびる。いや、口論してる的な感じだったから、相手はいるだろうなと思ってたけど。イケメン過ぎてびびった。
トーン七くらいの暗めの茶髪は、ワックスでふわっと纏めているのにどこかシックだった。うわあJのつく事務所にいそう。某カップスープとかCM出来そう。女装だって似合いそうなくらい中性的な、というより思い切り女顔をしていたが、女装は俺的に萎えるからやめてほしいな。カップスープは大歓迎だけど。
「……何よ。露骨に下心丸出しみたいな顔しないでよ、この面食い尻軽ホモ」
うわーもう、俺を見るなり何だろうこの酷い言葉の暴力。
「そこまで節操ないわけあるか。えーと、彼氏さん?」
人のことを面食い面食いと嘲笑する人物こそ実は面食いである、というのは俺の中の統計学的にいって超高確率で当たる法則なので、このイケメン絶対なみの彼氏だわ今絶対俺痴話喧嘩に頭突っ込んじゃった的な立ち位置だわと静かに悟る。やべえ気まずい。慣れないことにチャレンジするくらいなら、大人しくカウンターでマスター眺めながらクリームにチャレンジすりゃ良かったって心底思う。
「違うわよ、馬鹿じゃないの」
「……へ?」
「男と女が揃えば付き合ってると思うなんて短絡過ぎだわ。あんたのそういうところが一番嫌いよ。ホモに厳しい世間を呪ってるくせに、心ん中じゃ男女が普通ってどっかで思ってんのよ。馬鹿にされたら腹を立てるくせに、結局自分が一番馬鹿にしてるんじゃないの」
「なみ!」
イケメンが吠えた。良いですよ、慣れてますんで。結果的に見ず知らずの貴方に、ホモってカミングアウトされたのにはびびったけど。言われてることは実際、そんな的外れでもないし。
「うるさいわね、あんたなんかに庇われなきゃなんないような男じゃないわよこいつは! 馬鹿にしないでよ!」
もう何に腹を立ててるんだお前は。
突っ込むような気力もなく、溜息をついた。こいつのこういうヒステリックなところ、正直ついていけないけど。何となく俺を守ろうとしてくれたんだなって、それだけは分かって若干嬉しかったし、もういいや。
「あの……すみません。俺、こいつと限りなく友達に近しい位置にいるっちゃあいる、知人と言えそうな関係と明言しても特別困らないような間柄では、ギリあるんで。とりあえず引き取りますから、お話があるならまた改めていただいた方がよろしいかと」
「……貴方は?」
「俺は……こいつと限りなく友達に近しい」
「いいわよ頭から同じこと言わなくても! ばか!」
鞄が吹っ飛んできた。相変わらず容赦ねぇな。
ドッジボールだったら連続二、三人は外野に送れそうな勢いで投げられたそれを、頑張ってキャッチしたけど一瞬で後悔した。ぐええ強すぎ。内臓いくつか持ってかれたわ。その辺の壁に激突するのを見送ってから拾えばよかった。
俺に渾身の一撃をねじ込んだ本人はこっちも見ずにスタスタ歩いてどこかへ行こうとしているので、イケメンへのフォローもそこそこに慌てて追っかけた。付き合いは実際、長い訳じゃない。今見失ったら、こいつが行きそうな場所の心当たりなんて全然ないんだから、見失う訳にはいかないのだ。
「なあ、なあて」
「…………」
「マスターのお店、行かへんのん」
「……気分じゃないわ」
「秋の空過ぎやろ! 自分で望んで入り口まで来ておいてこの急激な心境の変化何事!?」
返事もせずに、なみが振り返る。感情的な瞳は、少しだけ潤んでいた。
「あんたは、戻らなくていいの」
「いいも悪いもないわ。そんな弱さ爆発みたいな顔した女、そのへん一人でうろうろ歩かせられるか」
「……馬鹿ね。ホモなのに、そんなこと気にしないでよ」
お前はホモを何だと思ってるんだ。女には興味ないってだけで、別に目の敵にしてる訳じゃない。ライバルの立ち位置になったら敵と思うかもしれないが、そうでない女にまで滅びろ! とは思わねえよ。ましてや、俺は自分が男であることに違和感はないんだ。目の前に弱そうなハムスターとか女とか転がってたら、守ろうとはするよ最低限。俺だって男だもの。ホモだけど。
「……少し、付き合ってくれない?」
言われなくたって、自宅に帰るのを見届けるまで、嫌がれるだろうから五メートルは間隔をあけてついていくつもりだったけど。ご本人から依頼されたので、五メートルをあける必要はなくなった。ええけど、と答えたら溜息をつかれてイラっとする。何なんだお前はさっきから。
「……そこに座ってて。何か飲み物買ってくるわ」
そう言うなり背を向けたなみの背中は落ち込んでるであろう今でも真っすぐに伸びていて、俺は一瞬見蕩れてしまった。ホモだけど。
「そこに座っててって言われて、何で選択がゾウのオブジェの上なのよ」
「いやお前。他に人おらんねんぞ。予てからこれに座りたかってん俺は。責めんなや」
「ああそう……」
「何やねん。お前が戻って来たらちゃんとベンチに座り直すつもりではいたで! ちゃんと!」
「いいわよ、好きなだけ座ったら。別に座ったところで、誰にも迷惑かけてないでしょ。ちょっとキモいだけだから。はい飲み物」
「キモいとかゆーな……というかお前こそ何で飲み物のセレクトがドデカミンストロングとレッドブル」
「いちいちうるさいわね。文句あるんなら返しなさいよ」
露骨に舌打ちをしながらキレられた。すみませんでした、ありがたく頂きます炭酸飲料大好き!
「……さっきのは、大学の友達よ」
ドデカミンのキャップを捻ってる時に、疲れ切った声が聞こえた。なみはもうレッドブルのプルトップをあけていて、一気にぐいっと呷っている。唐突に俺は、このセレクトを理解した。
こいつにとって、気合のいる話なんだ――今から始まる話題が、多分。
「普段結構仲良くしてるから、家庭の事情を色々知られてて面倒臭いの。私のお兄ちゃんが倒れて入院したって話したら、お見舞いにくらい行けって……おせっかいも良いとこね」
「行けない理由、あんのか」
「……あんたは、行けって言わないの?」
「俺の偏見やけど。兄貴のこと、お兄ちゃんって呼ぶ奴はある程度ブラコンやねん。本当なら頼まれずとも行くやろ」
「…………」
「本当は行きたいのに……事情があって行けへんやつに、行けやなんてひどいこと俺はよう言わん」
ゾウの背中は意外と座り心地が悪かった。何度か位置を変えながらベストスポットを探してる俺の背中で、啜り泣く声が聞こえて息を呑む。
心臓を、掴まれたように動けなかった。
「……私の恋人、女の子なの。私、女の子しか好きになれないの」
か弱い声が、消え入りそうな音量には不釣り合いの熱を孕んで静かに響く。
「ずっと親友だった。だから、諦めていたの。心を隠していれば、少しでも長く傍にいられるって……気持ちを殺して、殺して……だから、叶った時は嬉しかったの」
しゃっくりをあげながら、懸命に話す声。時々咳き込みながら、なみは続けた。
「最初は、気の迷いかと思ったわ。だけどキスも出来て、抱き合えて……一年だって二年だって続いた……浮かれていたの。世界が美しかった。まるで祝福の音を、全身に浴びてるみたいだった。いずれ親に私が、結婚出来ない人間だって話さなきゃならないと思っていたけど……今が、その時だと思ったのよ」
ゆらり。視界が揺れた。勝手なデジャヴだ。なみに責任はない。
「勇気を出して、親に話したの。この人が私の好きな人で、結婚は出来ないって。きっと悲しませてしまうけど、許してくれるって確信はあったわ。だって、私にはお兄ちゃんがいるんだもの。きっといつか素敵な女性を見つけて、幸せな結婚をして、お母さんたちに孫を作ってくれるし、跡だって継いでくれるって……私の読みに間違いはなかった。最初はめちゃくちゃ怒られたけど、お兄ちゃんもいるからって、最終的には諦めてくれたわ。だから、お兄ちゃんは」
ジュースの缶を握る手が、無意識に強張る。続きを待つ俺にというよりは懺悔のように、なみはその一言を口にした。
「自分がゲイだって、一生言えなくなってしまったの」
「なみ!」
思わず声を荒げた。まだ中身の残ってた缶を放り投げ、力の限り抱きしめる。なみは震えていた。いつも生き生きとした唇も、今は人形みたいに無機質な色だった。
「私が追い詰めたのよ! 先に言ったもん勝ちだなんて、そんなつもりなかったけど、結果そうだわ! あの人は、私の踏み散らかした家族を、拾い集める為に何もかもを諦めなきゃならなかったの! 大好きだった人に別れを告げて、心の通わない結婚式を挙げて……私、私ちっとも気付かなかった……っ! お幸せにって冷やかして、皆の前でキスをしなさいって囃し立てたわ……そして、自分の罪悪感が軽くなったことに、自分勝手に喜んでたの……っ」
「めでたい席で、それは普通や。変な邪推する方がおかしいわ」
「だけど……! 私は後悔してないわ! お兄ちゃんが、好きじゃない人との新婚生活に苦しんでた時も、何度も自殺未遂して、挙句離婚した時も、一度も、欠片も後悔なんてしなかった……私は、ひどいの? ひどいことをしてしまったの? 私はあの子を好きだって、誰かに言ってしまってはいけなかったの……!?」
細い指が、肩に縋る。喉を痛めそうな声をあげて、なみが号泣していた。何度も、何度も、俺は不慣れ丸出しの手付きで背中を撫でる。役不足なのはわかっていたけど、今、こいつの傷の一番近くに歩み寄れるのは、多分世界で俺だけしかいないと思った。
「いかんこと、あれへんよ」
「……っ、……」
「いかんことあれへん。俺が彼女やったら嬉しかったこと、全部お前がしてくれたって思うで」
「何よっ……分かったふう、な、口聞かないでよっ……!」
嗚咽の合間に、いつもの憎まれ口を叩けるとはこいつの根性すげーな。女って、やっぱり男より強いかも。俺だったら、この状態じゃ日本語すらまともに喋れないに違いない。
「分かるわ。俺も、親に告白したことあるし」
「……え」
「残念ながら、縁切られたけどな」
なみが、俺の胸から顔をあげる。マスカラが取れて酷い顔してるかと思ったけど、全然普通だった。ちくしょう。結構セレブな化粧品使ってるんだなお前。羨ましい。
「縁……切られたって……本当に……?」
「俺は一人っ子やったから、より許せなかったんやろな……多分二度と会わへんし、もうこれ以上傷つけることもないやろけど」
「どうすんのよ……」
震える声で、なみが呟いた。
「親に縁切られたのに、ノンケに惚れちゃって……何やってんのよ、あんた」
「……うん」
「本当に、ひとりぼっちになっちゃうじゃない……っ」
胸を何発か、力ない腕で叩かれた。俺はもう一回うん、と答えて、なみの頭を静かに撫でた。
避けられてる。それも、ものすごくスマートに。スマートに、ってどういうことだよって感じなんだけど。一時期俺がやった避けてるの丸出しみたいな避け方じゃなく、俺が棚橋を好きじゃなかったらきっと、気付かなかったくらいの小さな変化だ。でも俺は、棚橋のことが好きだから気付いてしまった。みんなが居る時にだけ愛想よく笑ってりゃ、ばれないとでも思ったか。詰めが甘いんだよ阿呆。甘いのはお前のその、マスクだけで十分だ。
カランとグラスを傾けて、残り少なかったお酒を呷る。溶けかけの氷が唇に直撃したが、あまり冷たいとは感じなかった。まだ高校生だった頃、こんなふうにしてバーに通うのが似合いの大人になりたかった。ちょっとダンディな雰囲気で、マスターと楽しく喋ったりなんかして。ダンディ以外のところは叶ってんのに、手に入れたって実際こんなもんかって思う。勿論マスターは良い人だし好きだ。だけどカウンターでお酒を嗜む俺が、想像したのより良いものではなかった。
――理由が分からない訳じゃない。
酸いも甘いも吸いつくしたとは言わないけれど、恋愛が甘いだけじゃないってのはもう分かってるつもりだ。覚悟していたそれが、来た。ただそれだけのことだと思う。だから俺は、棚橋の手をうまく掴めなかったんだよ。おそらくは甘かっただろう時期に、ただ流れに任せてきゃっきゃウフフみたいな態度にはなれなかった。あの時素直に楽しんでたなら、とは思わない。遅かれ早かれ、こうなるのにきっと変わりはなかった。それなら早い方が良かったんだ。綺麗な思い出なんかいらない。無駄に未練が残るだけだから。
哲と離れることができたのは、棚橋がいたから。その棚橋がいなくなる今、あの時みたいに一発殴ってバイバイなんて出来るとは思えない。俺は強くない。本当は全然強くなんかないのだ。分かってるからこその選択だった。離しがたくなる材料なんか、抱えてたって動けなくなるだけじゃねえか。一度握ったもんをうまく手放す自信がなかったから、掴まなかったんだ。だから許さなかった。それだけのことだ。
「潤也、グラスあいちゃったな。何か飲む?」
「……強いの。ガンダム並に強いのくれ、マスター」
「いや、お前の中でのガンダムってどういう立ち位置なのかわかんねぇから、普通に好きそうなの出すな」
くつくつ笑いながら、マスターが冷蔵庫を開ける。この人のオリジナルって、外れがあんまりなくって好きだ。前に出してくれたペプシみたいなのだって、すげえうまかったし。
「……マスター、慰めて」
「ん? どうした」
「俺、振られるかもしれん」
「……かもしれんじゃ、慰めてやれないなあ」
背中を向けてたって、優しさが伝わってくる。優しい声。優しい空間。どうしてこんなに柔らかく包まれてんのに、責められているような気持ちになるんだろう。
相応しくない。俺みたいな人間に、優しい人なんか。そう思う卑屈さは昔と変わらないのに、居心地が悪いことには変わりないのに。この場所を愛してるだなんて、悍ましいことを思う自分が嫌だ。
「良い子だから、今日はこれにしとけ」
「何なんそれ……色うっす」
「クリーム・チャレンジ」
「ぶはっ」
やめてくれマスター。落ち込みに来たのに笑ってしまうじゃねーか! 何その名前。ミルク入ってるっぽいからクリーム部分はギリわかるけど、チャレンジ成分どのあたりだよ!
「……笑うけどな、うまいんだぞ」
拗ねたように言われたって、フォロー出来ない程笑いが込み上げてくる。ああ、やっぱり最高だよマスター。あんたのお店、あんたの人柄で半世紀は繁盛するに違いない。
「うるっさいわね! ほっとけって言ってんのが聞こえないの!?」
大通りで、聞き慣れた金切り声が聞こえた。なみだと思ったものの、少しだけ不審に思う。俺よりプライドだの外聞だのを気にするタイプだし、雰囲気を壊すものに関しては酷刑を求める程に毛嫌いするような性格だ。よりによってマスターの店の前で、揉め事起こすなんてらしくなさすぎる。
「……今の、なみちゃんか?」
「多分な。ちょお見て来るわ」
「あ、おい、潤也!」
返事も待たずに席を立つ。俺だって、少しはこの店の役に立ちたいんだよ。ましてや顔見知りが騒いでる程度なら、初対面の不良より注意しやすいしな。
カランカランとレトロな喫茶店でよく聞く音を立てながら扉を押したら、案の定なみがいた。ただ、初対面の青年もいてややびびる。いや、口論してる的な感じだったから、相手はいるだろうなと思ってたけど。イケメン過ぎてびびった。
トーン七くらいの暗めの茶髪は、ワックスでふわっと纏めているのにどこかシックだった。うわあJのつく事務所にいそう。某カップスープとかCM出来そう。女装だって似合いそうなくらい中性的な、というより思い切り女顔をしていたが、女装は俺的に萎えるからやめてほしいな。カップスープは大歓迎だけど。
「……何よ。露骨に下心丸出しみたいな顔しないでよ、この面食い尻軽ホモ」
うわーもう、俺を見るなり何だろうこの酷い言葉の暴力。
「そこまで節操ないわけあるか。えーと、彼氏さん?」
人のことを面食い面食いと嘲笑する人物こそ実は面食いである、というのは俺の中の統計学的にいって超高確率で当たる法則なので、このイケメン絶対なみの彼氏だわ今絶対俺痴話喧嘩に頭突っ込んじゃった的な立ち位置だわと静かに悟る。やべえ気まずい。慣れないことにチャレンジするくらいなら、大人しくカウンターでマスター眺めながらクリームにチャレンジすりゃ良かったって心底思う。
「違うわよ、馬鹿じゃないの」
「……へ?」
「男と女が揃えば付き合ってると思うなんて短絡過ぎだわ。あんたのそういうところが一番嫌いよ。ホモに厳しい世間を呪ってるくせに、心ん中じゃ男女が普通ってどっかで思ってんのよ。馬鹿にされたら腹を立てるくせに、結局自分が一番馬鹿にしてるんじゃないの」
「なみ!」
イケメンが吠えた。良いですよ、慣れてますんで。結果的に見ず知らずの貴方に、ホモってカミングアウトされたのにはびびったけど。言われてることは実際、そんな的外れでもないし。
「うるさいわね、あんたなんかに庇われなきゃなんないような男じゃないわよこいつは! 馬鹿にしないでよ!」
もう何に腹を立ててるんだお前は。
突っ込むような気力もなく、溜息をついた。こいつのこういうヒステリックなところ、正直ついていけないけど。何となく俺を守ろうとしてくれたんだなって、それだけは分かって若干嬉しかったし、もういいや。
「あの……すみません。俺、こいつと限りなく友達に近しい位置にいるっちゃあいる、知人と言えそうな関係と明言しても特別困らないような間柄では、ギリあるんで。とりあえず引き取りますから、お話があるならまた改めていただいた方がよろしいかと」
「……貴方は?」
「俺は……こいつと限りなく友達に近しい」
「いいわよ頭から同じこと言わなくても! ばか!」
鞄が吹っ飛んできた。相変わらず容赦ねぇな。
ドッジボールだったら連続二、三人は外野に送れそうな勢いで投げられたそれを、頑張ってキャッチしたけど一瞬で後悔した。ぐええ強すぎ。内臓いくつか持ってかれたわ。その辺の壁に激突するのを見送ってから拾えばよかった。
俺に渾身の一撃をねじ込んだ本人はこっちも見ずにスタスタ歩いてどこかへ行こうとしているので、イケメンへのフォローもそこそこに慌てて追っかけた。付き合いは実際、長い訳じゃない。今見失ったら、こいつが行きそうな場所の心当たりなんて全然ないんだから、見失う訳にはいかないのだ。
「なあ、なあて」
「…………」
「マスターのお店、行かへんのん」
「……気分じゃないわ」
「秋の空過ぎやろ! 自分で望んで入り口まで来ておいてこの急激な心境の変化何事!?」
返事もせずに、なみが振り返る。感情的な瞳は、少しだけ潤んでいた。
「あんたは、戻らなくていいの」
「いいも悪いもないわ。そんな弱さ爆発みたいな顔した女、そのへん一人でうろうろ歩かせられるか」
「……馬鹿ね。ホモなのに、そんなこと気にしないでよ」
お前はホモを何だと思ってるんだ。女には興味ないってだけで、別に目の敵にしてる訳じゃない。ライバルの立ち位置になったら敵と思うかもしれないが、そうでない女にまで滅びろ! とは思わねえよ。ましてや、俺は自分が男であることに違和感はないんだ。目の前に弱そうなハムスターとか女とか転がってたら、守ろうとはするよ最低限。俺だって男だもの。ホモだけど。
「……少し、付き合ってくれない?」
言われなくたって、自宅に帰るのを見届けるまで、嫌がれるだろうから五メートルは間隔をあけてついていくつもりだったけど。ご本人から依頼されたので、五メートルをあける必要はなくなった。ええけど、と答えたら溜息をつかれてイラっとする。何なんだお前はさっきから。
「……そこに座ってて。何か飲み物買ってくるわ」
そう言うなり背を向けたなみの背中は落ち込んでるであろう今でも真っすぐに伸びていて、俺は一瞬見蕩れてしまった。ホモだけど。
「そこに座っててって言われて、何で選択がゾウのオブジェの上なのよ」
「いやお前。他に人おらんねんぞ。予てからこれに座りたかってん俺は。責めんなや」
「ああそう……」
「何やねん。お前が戻って来たらちゃんとベンチに座り直すつもりではいたで! ちゃんと!」
「いいわよ、好きなだけ座ったら。別に座ったところで、誰にも迷惑かけてないでしょ。ちょっとキモいだけだから。はい飲み物」
「キモいとかゆーな……というかお前こそ何で飲み物のセレクトがドデカミンストロングとレッドブル」
「いちいちうるさいわね。文句あるんなら返しなさいよ」
露骨に舌打ちをしながらキレられた。すみませんでした、ありがたく頂きます炭酸飲料大好き!
「……さっきのは、大学の友達よ」
ドデカミンのキャップを捻ってる時に、疲れ切った声が聞こえた。なみはもうレッドブルのプルトップをあけていて、一気にぐいっと呷っている。唐突に俺は、このセレクトを理解した。
こいつにとって、気合のいる話なんだ――今から始まる話題が、多分。
「普段結構仲良くしてるから、家庭の事情を色々知られてて面倒臭いの。私のお兄ちゃんが倒れて入院したって話したら、お見舞いにくらい行けって……おせっかいも良いとこね」
「行けない理由、あんのか」
「……あんたは、行けって言わないの?」
「俺の偏見やけど。兄貴のこと、お兄ちゃんって呼ぶ奴はある程度ブラコンやねん。本当なら頼まれずとも行くやろ」
「…………」
「本当は行きたいのに……事情があって行けへんやつに、行けやなんてひどいこと俺はよう言わん」
ゾウの背中は意外と座り心地が悪かった。何度か位置を変えながらベストスポットを探してる俺の背中で、啜り泣く声が聞こえて息を呑む。
心臓を、掴まれたように動けなかった。
「……私の恋人、女の子なの。私、女の子しか好きになれないの」
か弱い声が、消え入りそうな音量には不釣り合いの熱を孕んで静かに響く。
「ずっと親友だった。だから、諦めていたの。心を隠していれば、少しでも長く傍にいられるって……気持ちを殺して、殺して……だから、叶った時は嬉しかったの」
しゃっくりをあげながら、懸命に話す声。時々咳き込みながら、なみは続けた。
「最初は、気の迷いかと思ったわ。だけどキスも出来て、抱き合えて……一年だって二年だって続いた……浮かれていたの。世界が美しかった。まるで祝福の音を、全身に浴びてるみたいだった。いずれ親に私が、結婚出来ない人間だって話さなきゃならないと思っていたけど……今が、その時だと思ったのよ」
ゆらり。視界が揺れた。勝手なデジャヴだ。なみに責任はない。
「勇気を出して、親に話したの。この人が私の好きな人で、結婚は出来ないって。きっと悲しませてしまうけど、許してくれるって確信はあったわ。だって、私にはお兄ちゃんがいるんだもの。きっといつか素敵な女性を見つけて、幸せな結婚をして、お母さんたちに孫を作ってくれるし、跡だって継いでくれるって……私の読みに間違いはなかった。最初はめちゃくちゃ怒られたけど、お兄ちゃんもいるからって、最終的には諦めてくれたわ。だから、お兄ちゃんは」
ジュースの缶を握る手が、無意識に強張る。続きを待つ俺にというよりは懺悔のように、なみはその一言を口にした。
「自分がゲイだって、一生言えなくなってしまったの」
「なみ!」
思わず声を荒げた。まだ中身の残ってた缶を放り投げ、力の限り抱きしめる。なみは震えていた。いつも生き生きとした唇も、今は人形みたいに無機質な色だった。
「私が追い詰めたのよ! 先に言ったもん勝ちだなんて、そんなつもりなかったけど、結果そうだわ! あの人は、私の踏み散らかした家族を、拾い集める為に何もかもを諦めなきゃならなかったの! 大好きだった人に別れを告げて、心の通わない結婚式を挙げて……私、私ちっとも気付かなかった……っ! お幸せにって冷やかして、皆の前でキスをしなさいって囃し立てたわ……そして、自分の罪悪感が軽くなったことに、自分勝手に喜んでたの……っ」
「めでたい席で、それは普通や。変な邪推する方がおかしいわ」
「だけど……! 私は後悔してないわ! お兄ちゃんが、好きじゃない人との新婚生活に苦しんでた時も、何度も自殺未遂して、挙句離婚した時も、一度も、欠片も後悔なんてしなかった……私は、ひどいの? ひどいことをしてしまったの? 私はあの子を好きだって、誰かに言ってしまってはいけなかったの……!?」
細い指が、肩に縋る。喉を痛めそうな声をあげて、なみが号泣していた。何度も、何度も、俺は不慣れ丸出しの手付きで背中を撫でる。役不足なのはわかっていたけど、今、こいつの傷の一番近くに歩み寄れるのは、多分世界で俺だけしかいないと思った。
「いかんこと、あれへんよ」
「……っ、……」
「いかんことあれへん。俺が彼女やったら嬉しかったこと、全部お前がしてくれたって思うで」
「何よっ……分かったふう、な、口聞かないでよっ……!」
嗚咽の合間に、いつもの憎まれ口を叩けるとはこいつの根性すげーな。女って、やっぱり男より強いかも。俺だったら、この状態じゃ日本語すらまともに喋れないに違いない。
「分かるわ。俺も、親に告白したことあるし」
「……え」
「残念ながら、縁切られたけどな」
なみが、俺の胸から顔をあげる。マスカラが取れて酷い顔してるかと思ったけど、全然普通だった。ちくしょう。結構セレブな化粧品使ってるんだなお前。羨ましい。
「縁……切られたって……本当に……?」
「俺は一人っ子やったから、より許せなかったんやろな……多分二度と会わへんし、もうこれ以上傷つけることもないやろけど」
「どうすんのよ……」
震える声で、なみが呟いた。
「親に縁切られたのに、ノンケに惚れちゃって……何やってんのよ、あんた」
「……うん」
「本当に、ひとりぼっちになっちゃうじゃない……っ」
胸を何発か、力ない腕で叩かれた。俺はもう一回うん、と答えて、なみの頭を静かに撫でた。
0
お気に入りに追加
120
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
あなたの隣で初めての恋を知る
ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。
その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。
そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。
一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。
初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。
表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。
23時のプール
貴船きよの
BL
輸入家具会社に勤める市守和哉は、叔父が留守にする間、高級マンションの部屋に住む話を持ちかけられていた。
初めは気が進まない和哉だったが、そのマンションにプールがついていることを知り、叔父の話を承諾する。
叔父の部屋に越してからというもの、毎週のようにプールで泳いでいた和哉は、そこで、蓮見涼介という年下の男と出会う。
彼の泳ぎに惹かれた和哉は、彼自身にも関心を抱く。
二人は、プールで毎週会うようになる。
【完結】悪役令息の従者に転職しました
*
BL
暗殺者なのに無様な失敗で死にそうになった俺をたすけてくれたのは、BLゲームで、どのルートでも殺されて悲惨な最期を迎える悪役令息でした。
依頼人には死んだことにして、悪役令息の従者に転職しました。
皆でしあわせになるために、あるじと一緒にがんばるよ!
本編完結しました!
『もふもふ獣人転生』に遊びにゆく、舞踏会編、はじめましたー!
他のお話を読まなくても大丈夫なようにお書きするので、気軽に楽しんでくださったら、とてもうれしいです。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる