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93.諦めないジェロームはご武運をお祈りされた

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 唯一完全な形で伝わるローマ時代のラテン語小説『黄金の驢馬』は帝政ローマの弁論作家アプレイウスの作品で、原題の意味は『変身物語』と言い全11巻の超大作。挿話「クピドとプシュケの物語」はとりわけ名高く神話の研究上貴重なものとなっている。

 テッサリアの魔術師の家に客として滞在した時に、薬を塗って魔術師の妻が梟に変身するのを見た主人公ルキウス。
侍女にねだってその薬を貰うことはできたが、違う薬の入った壺を貰ってしまったために驢馬に変身してしまった。薔薇の花を食べれば元の姿に戻れると聞き安心したが、その夜自分の馬と一緒に休んでいる時に盗賊の手に落ちてしまい、その後は荷物運びとして使われたり様々な人の手に渡り酷使されたりしながら種々な事件に遭遇する物語。

「読んでみたいと思いながらそのままになってたの」

 手のひらに乗るくらいの大きさの像の横には昔見たのと同じ皮の装丁の本が積み上げられていた。幼いころラルフに貰ったその本は読む前にテレーザに取り上げられてしまい、見事な皮の装丁だったせいか取り返す前に公爵に売り飛ばされてしまった。

(高値で売れたって笑う公爵の顔を思い出してしまって、学園の図書室で見かけても読む気になれなかったんだった。そんなことまでお祖父様に知られていたなんて、やっぱり魔法使いかしら)


「ルキウスはイシス神の計らいで人間の姿に戻るのよね。背中にトンビの翼があるしカドュセウスを持ってるから、この女神像は豊穣の神イシスね⋯⋯だからカーテンの模様がアイリスだったんだわ」

 イシスの聖花はアイリスで、司る神性は豊穣だが後の神話では玉座の守護神や魔術の女神の性格を持つようになっていく。
 ギリシア・ローマ時代には守護女神や航海の守護女神としての性格を持つようになり、「天上の聖母」「星の母」「海の母」などの二つ名を得た。

「確かイシスは永遠の処女で処女のまま神ホルスを身ごもったんだ。それはちょっと困るなぁ」

(まさかと思うが『今のままだとそうなるぞ』とか『そうなってしまえ』とか⋯⋯そういうメッセージだったり?)


「え? 何か言った?」

 ジェロームの小さなつぶやきにシャーロットが反応したが作り笑いで胡麻化した。

「いや、何でもない! 全く、何も言ってないから気にしないでくれ。それよりもエジプト神話のなかでイシスは『夫を思う献身的な妻』とか『息子を守る強き母』として描かれてるんだよね」

「強大な魔力をもつ『魔術の女神』っていうのもあるわよ?」

「あー、えっと。シャーロットとしてはどっちがいい?」

「⋯⋯突然どうしたの? 意味が分からないんだけど」


「息子⋯⋯子供が欲しいと思ったことはない? 俺はシャーロットに似た子供が見てみたいといつも思ってる」


 婚姻届けを出してからジェロームがいつか言い出すのではないかと思っていた。

(でも、こんな自分が真面な母親になれるのかしら)

 シャーロットの中にある母親のイメージはエカテリーナや銀の仔馬亭のミリア。母としてだけでなく全ての意味で完璧なエカテリーナのようになれるとは思えないし、包み込むような温かさのミリアのようになる自信もない。

(公爵夫人のようにはならないと思うけど、そのくらい低レベルな予測しかできないもの)


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯ 魔女よりはね。それに子供ができるかどうかなんてわからないでしょう?」

 不安そうな顔になったシャーロットが背中を向けた。

「結婚して五年以上経つけどマリアンヌが妊娠したという噂も聞かないから、神様は気まぐれな方のようだわ。だから、考えても仕方ないんじゃないかしら」

(神様⋯⋯やっぱり、そう言うよなぁ。そこのところの知識をどうやってシャーロットに身に着けてもらえるかが最大の問題なんだよな。
この本みたいにそれ用の教本をプレゼントするか、ロージーとかに頼むか。いっそのこと実地で⋯⋯だめだ、致命的な攻撃が来る未来しか思い浮かばん)

 がっくりと肩を落としたジェロームの悩みは深い、さりとて諦めるつもりはさらさらないが。



「さっきは薪ストーブを試すタイミングを失敗したから、夕食をここでとってもう一度火を入れてみるのはどうかな?」

「そうね、今から厨房に連絡すれば間に合うかも」

「ちょっと行って聞いてくるから、ここで待っててくれるかな」

 シャーロットの返事も聞かずバスケットをわしづかみにしたジェロームが飛び出していった。

 足の遅い自分が一緒に行くよりジェローム一人のほうが早いだろうと、走り去る後姿を玄関から見送ったシャーロットは竈に火をおこした。お茶の準備をする傍ら簡単にテーブルを掃除して『黄金の驢馬』の一巻を手に取った。



 全速力で屋敷に戻ったジェロームが汗だくのまま厨房に駆け込むとアンドリュー執事と料理長のボリスが話していた。

「ボリス、急で申し訳ないんだが夕食を昼のようにバスケットに詰めてもらえることはできないかな?」

「ちょうどその件をアンドリュー殿と相談しておりました。普段よりシンプルなものになってしまいますがそれでよろしければご準備いたします」

「ああ、そんなに手間のかかるものでなくて構わないから、メニューは任せる」

「もしよろしければワインなどのお飲み物とカトラリーなどを先にお持ちいただく事は可能でしょうか? 料理だけであればバスケット2つ位に纏められるかと」

「準備してくれたら持っていこう。料理は18時くらいに取りに来るのでいいかな」

 準備ができるまでにと言ってアンドリューが手渡してきた手紙を改めているとあっという間にバスケットが運ばれてきた。


「随分早かったな、もしかして準備済みだったとか?」

「はい、午前中にお戻りになられた際薪ストーブの事を話しておられたのを小耳にはさみまして。それであれば夜を離れでお過ごしになるのではないかと愚考いたしました」

「ありがとう。シャーロットが離れで一人だから早くて助かったよ。この手紙は明日の朝一番で処理するから執務室の机に置いておいてくれ」

「はい、ご武運をお祈りいたしております。午後のお茶のお支度も中に入っておりますので、宜しければお召し上がりください。今日はシャーロット様お手製のチェリーパイと温かいスコーンをご準備いたしました。イチゴのジャムもシャーロット様の手作りでございます」

「そうか、それはいいね」

(アンドリューは日に日にジェファーソンに似てくるよな。確かジェファーソンの義妹の兄で血は繋がってなかったはずだが)



 バスケットを抱えたジェロームが離れに戻るとシャーロットはドアを開けた音にも気づかず本を読みふけっていた。わざと大きな音を立てて歩くと驚いたように顔を上げたシャーロットが大きなバスケットを見て申し訳なさそうに顔をしかめた。

「お手伝いもせずに一人で寛いでいてごめんなさい。戻って来たのにも気付かなかったし」

「面白い?」

 テーブルの上にパイやスコーンを並べながらジェロームが顎で本を指した。

「ええ、すごく。止まらなくなりそう」

「休憩してお茶にしないか? スコーンが冷めたらシャーロットが作ったジャムが泣くよ」

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