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第二章 ヴィオレット
第十五話
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あれから一度アルシェのお店に行った。
おじさん、おばさん、今でも通っているお客さんたち、みんなが喜んでくれて、私は懐かしくあの頃を思い出す。
もっと早く話をしていればよかった。
そうしたらもっと早くここに戻ってこられた。
ここは、確かに私の居場所だった。
── ─
色のない冬の終わりが見えてきた頃、また彼女が私の前に現れた。
「ヴィオレットさん」
残った冬が彼女にすがりついているのか、その声は震えている。
でも私は、もうマリエルにそれほど強い感情を持たなくなっていた。
「私謝りたくて」
今考えればマリエルがあれほど執拗に私につきまとっていたのは、アルシェを手に入れられなかった腹いせのようなものだったんだろう。
「たくさん嘘ついて」
マリエルが、すでにアルシェに聞かされていた真相をなぞるように繰り返している。
「スズランも本当は『運命の花』なんかじゃないんです」
唯一、そこだけが引っかかった。
「あれはただ、スズランが咲くように作られた種なんです」
マリエルは確実にスズランを咲かせるために、お兄さんに頼んでその種を用意したらしい。
「私じゃなくて、アルシェに謝るべきだと思うけど」
あなたの行いがアルシェの人生を変えた。
でも、本当にそうだろうか。
マリエルが強引なきっかけを作ったのは事実だけど、結局みんな自分で歩いてきた道なんだ。
「アル先輩は、研究生になったことで得られたものもたくさんあったから気にしなくていいって。でも、もうヴィオレットさんには関わらないでほしいって」
それで、私にも律儀に謝りに来てくれたんだろうか。
わからないけど、それだけじゃないような気がする。
「アル先輩とヴィオレットさんの関係をこじらせてしまって本当に申し訳ないと思っています。二人には元に戻ってほしいです。だから」
元に戻る。
アルシェの背中を押していた頃の私。
二人いつも一緒だった。
それがいきなり消えて。
あの暗闇をまだ思い出せる。
それから⋯⋯。
そこで、なぜだか急に気が付いてしまった。
マリエルが今日何を言いに来たのか、わかってしまった。
だから、
それに続く言葉は。
だから、
「ニコラさんのことは諦めてください」
一瞬、意識がどこか遠くにいっていたようにも思える。
そして、現実に戻ってきた。
後悔の中にいると思っていたマリエルが、まだ、同じ目で見ていることを思い知らされる。
「私の家、兄も弟も優秀で、でも私だけいまいちで」
突然、マリエルが語り始めた。
泣き落としでもするんだろうか。
「両親も私には全然期待してなくて、だから私、だれかに構ってほしくて。それに優秀な人に好きになってもらえれば、私の価値も上がるような気がして」
理由があればなんでもしていいわけじゃない。
私にも痛い言葉だけど。
最低限の礼儀を守らないと、結局まわりを傷つけるだけだ。
「でもニコラさんは、その態度をやめたほうがいいって。媚びて手に入れたものに私を慰める力なんてないって。最初は、全然イケてない癖にムカつくって思ったけど。ニコラさんの前ではありのままの自分でいられるんです。だから」
だから。
「ニコラさんは私にください」
マリエルは泣いている。
本気なんだろう。
でも、私にわかるのは私のことだけだ。
「⋯⋯それは彼が決めることでしょ」
それだけを言った。
── ─
「年度末追い込みぃ、がんばるぞぉ」
言ってることとは裏腹にマノンさんの声はへろへろで力がない。
「おー」
私も弱々しくノッて、目の前に積まれた書類をひたすらこなしていく。
まわりを見ればみんな同じ状況だ。
「研究費消化でいろいろ買いまくってからに、このやろうこのやろう」
「でも、もう締め切りは過ぎたからこれ以上は増えない、はずです」
「すみませーん、出してなかった伝票が出てきたんですけど」
呑気な顔で、セオが部屋に入ってくる。
よく見れば、後ろから何人かの研究員がついてきていて、みな一様に手に紙を握っている。
「帰れ。自腹になってしまえ」
マノンさんが小声で呪詛のように呟いた。
「こちらお納めいただければ」
そう言ってセオが、有名パティスリーの焼き菓子の詰め合わせを差し出す。
長蛇の列に並ばないと買えない貴重なものだ。
「こちら、うちの優秀な研究員が、いつも大変お世話になっている皆様のために、プライベートの合間を縫って手に入れたものになっております」
そういえば、イリスがここのお菓子を結婚式で使うつもりだと言っていたのを思い出す。
すると、買わされたのはジルさんか。
セオのやつ、また余計な仕事を押し付けて。
アニエスに言って指導してもらおう。
「ぐ⋯⋯卑怯な⋯⋯」
マノンさんのくぐもった声が聞こえる。
しかし、これまでの研究員たちなら当然のように伝票を置いて帰っていっただろう。
それを考えれば、こちらへの気遣いがだいぶ感じられるようになった。
「追加分は私がやります。事務長受け取ってもいいですか」
私が立ち上がって言うと、事務長は研究員たちに向かって、
「今だけですからね! それ以上の提出は認めませんからね!」
と、強く念を押す。
「「「ありがとうございます!」」」
伝票を受け取って席につくと、マノンさんが手を伸ばして何枚かを引き受けてくれた。
「結局受理しなきゃいけないんだもん。茶番よ茶番。ま、でもお菓子がついてきただけマシかな」
みんなにお菓子を配っていると、事務長が声をかけてくれる。
「ヴィオレットさんが作ってくれた間違いリスト、向こうも相当助かってるみたい。ミスも減ったし、こっちも仕事しやすくなったわ。ありがとう」
その言葉に他の人からもお礼の声が聞こえてきて、私も、「ありがとうございます」と頭を下げた。
── ─
帰り道、同じく学校帰りのアルシェを見つけて一緒に歩く。
切りのいいところまでと思っていたらだいぶ遅くなってしまい、もう真っ暗だ。
見えないけれど、肌に当たる空気の柔らかさが春の訪れを強く感じさせる。
「アルシェも遅かったのね」
「うん、最後の片付けをしてて」
「もう研究は終わったの?」
「うん、発表も終わって、審査も通ったから」
あとは修了式を待つのみか。
「お疲れ様。あ、そういえば今日、研究所で食べたお昼がね」
「うん」
勘が戻ってきたのか、アルシェとの会話も昔と同じくらいにできるようになってきた。
お店の帰りに二人で帰っていた道を思い出す。
あの一本の道を二人で歩いていた。
その頃を思い出す。
「あのさ、ヴィオレット」
「うん」
「修了式の日の夜、会えるかな。それで、そのときヴィオレットの返事が決まってたら教えてほしい」
「⋯⋯わかった」
アルシェが式を終えて帰ってきたら、この前のカフェで待ち合わせようと約束した。
もう、スズランの呪縛は解かれていた。
あの道には、続きがあるんだろうか。
おじさん、おばさん、今でも通っているお客さんたち、みんなが喜んでくれて、私は懐かしくあの頃を思い出す。
もっと早く話をしていればよかった。
そうしたらもっと早くここに戻ってこられた。
ここは、確かに私の居場所だった。
── ─
色のない冬の終わりが見えてきた頃、また彼女が私の前に現れた。
「ヴィオレットさん」
残った冬が彼女にすがりついているのか、その声は震えている。
でも私は、もうマリエルにそれほど強い感情を持たなくなっていた。
「私謝りたくて」
今考えればマリエルがあれほど執拗に私につきまとっていたのは、アルシェを手に入れられなかった腹いせのようなものだったんだろう。
「たくさん嘘ついて」
マリエルが、すでにアルシェに聞かされていた真相をなぞるように繰り返している。
「スズランも本当は『運命の花』なんかじゃないんです」
唯一、そこだけが引っかかった。
「あれはただ、スズランが咲くように作られた種なんです」
マリエルは確実にスズランを咲かせるために、お兄さんに頼んでその種を用意したらしい。
「私じゃなくて、アルシェに謝るべきだと思うけど」
あなたの行いがアルシェの人生を変えた。
でも、本当にそうだろうか。
マリエルが強引なきっかけを作ったのは事実だけど、結局みんな自分で歩いてきた道なんだ。
「アル先輩は、研究生になったことで得られたものもたくさんあったから気にしなくていいって。でも、もうヴィオレットさんには関わらないでほしいって」
それで、私にも律儀に謝りに来てくれたんだろうか。
わからないけど、それだけじゃないような気がする。
「アル先輩とヴィオレットさんの関係をこじらせてしまって本当に申し訳ないと思っています。二人には元に戻ってほしいです。だから」
元に戻る。
アルシェの背中を押していた頃の私。
二人いつも一緒だった。
それがいきなり消えて。
あの暗闇をまだ思い出せる。
それから⋯⋯。
そこで、なぜだか急に気が付いてしまった。
マリエルが今日何を言いに来たのか、わかってしまった。
だから、
それに続く言葉は。
だから、
「ニコラさんのことは諦めてください」
一瞬、意識がどこか遠くにいっていたようにも思える。
そして、現実に戻ってきた。
後悔の中にいると思っていたマリエルが、まだ、同じ目で見ていることを思い知らされる。
「私の家、兄も弟も優秀で、でも私だけいまいちで」
突然、マリエルが語り始めた。
泣き落としでもするんだろうか。
「両親も私には全然期待してなくて、だから私、だれかに構ってほしくて。それに優秀な人に好きになってもらえれば、私の価値も上がるような気がして」
理由があればなんでもしていいわけじゃない。
私にも痛い言葉だけど。
最低限の礼儀を守らないと、結局まわりを傷つけるだけだ。
「でもニコラさんは、その態度をやめたほうがいいって。媚びて手に入れたものに私を慰める力なんてないって。最初は、全然イケてない癖にムカつくって思ったけど。ニコラさんの前ではありのままの自分でいられるんです。だから」
だから。
「ニコラさんは私にください」
マリエルは泣いている。
本気なんだろう。
でも、私にわかるのは私のことだけだ。
「⋯⋯それは彼が決めることでしょ」
それだけを言った。
── ─
「年度末追い込みぃ、がんばるぞぉ」
言ってることとは裏腹にマノンさんの声はへろへろで力がない。
「おー」
私も弱々しくノッて、目の前に積まれた書類をひたすらこなしていく。
まわりを見ればみんな同じ状況だ。
「研究費消化でいろいろ買いまくってからに、このやろうこのやろう」
「でも、もう締め切りは過ぎたからこれ以上は増えない、はずです」
「すみませーん、出してなかった伝票が出てきたんですけど」
呑気な顔で、セオが部屋に入ってくる。
よく見れば、後ろから何人かの研究員がついてきていて、みな一様に手に紙を握っている。
「帰れ。自腹になってしまえ」
マノンさんが小声で呪詛のように呟いた。
「こちらお納めいただければ」
そう言ってセオが、有名パティスリーの焼き菓子の詰め合わせを差し出す。
長蛇の列に並ばないと買えない貴重なものだ。
「こちら、うちの優秀な研究員が、いつも大変お世話になっている皆様のために、プライベートの合間を縫って手に入れたものになっております」
そういえば、イリスがここのお菓子を結婚式で使うつもりだと言っていたのを思い出す。
すると、買わされたのはジルさんか。
セオのやつ、また余計な仕事を押し付けて。
アニエスに言って指導してもらおう。
「ぐ⋯⋯卑怯な⋯⋯」
マノンさんのくぐもった声が聞こえる。
しかし、これまでの研究員たちなら当然のように伝票を置いて帰っていっただろう。
それを考えれば、こちらへの気遣いがだいぶ感じられるようになった。
「追加分は私がやります。事務長受け取ってもいいですか」
私が立ち上がって言うと、事務長は研究員たちに向かって、
「今だけですからね! それ以上の提出は認めませんからね!」
と、強く念を押す。
「「「ありがとうございます!」」」
伝票を受け取って席につくと、マノンさんが手を伸ばして何枚かを引き受けてくれた。
「結局受理しなきゃいけないんだもん。茶番よ茶番。ま、でもお菓子がついてきただけマシかな」
みんなにお菓子を配っていると、事務長が声をかけてくれる。
「ヴィオレットさんが作ってくれた間違いリスト、向こうも相当助かってるみたい。ミスも減ったし、こっちも仕事しやすくなったわ。ありがとう」
その言葉に他の人からもお礼の声が聞こえてきて、私も、「ありがとうございます」と頭を下げた。
── ─
帰り道、同じく学校帰りのアルシェを見つけて一緒に歩く。
切りのいいところまでと思っていたらだいぶ遅くなってしまい、もう真っ暗だ。
見えないけれど、肌に当たる空気の柔らかさが春の訪れを強く感じさせる。
「アルシェも遅かったのね」
「うん、最後の片付けをしてて」
「もう研究は終わったの?」
「うん、発表も終わって、審査も通ったから」
あとは修了式を待つのみか。
「お疲れ様。あ、そういえば今日、研究所で食べたお昼がね」
「うん」
勘が戻ってきたのか、アルシェとの会話も昔と同じくらいにできるようになってきた。
お店の帰りに二人で帰っていた道を思い出す。
あの一本の道を二人で歩いていた。
その頃を思い出す。
「あのさ、ヴィオレット」
「うん」
「修了式の日の夜、会えるかな。それで、そのときヴィオレットの返事が決まってたら教えてほしい」
「⋯⋯わかった」
アルシェが式を終えて帰ってきたら、この前のカフェで待ち合わせようと約束した。
もう、スズランの呪縛は解かれていた。
あの道には、続きがあるんだろうか。
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