青いアネモネ

櫟 真威

文字の大きさ
上 下
7 / 12

しおりを挟む
私が仕事から帰ると、鷲尾が部屋にいた。

「お帰り」

「ど、どうしたんですか」

鷲尾に渡されたショップの袋をそっと覗くと、パステルカラーの花柄が見えた。
私が返済している借金は、この三ヶ月で半分になっていた。
どう考えても破格だ。
衣食住、すべてお世話になって、月々の返済はきちんとしているものの、「頼まれ事」の出来高払いが大半を占めている。
お金持ちの気まぐれ、とはいえ縁もゆかりもない他人にここまでするだろうか。

「着てみて」

下着が一揃えと小花プリントのジョーゼットのワンピース。
鷲尾は私に背を向けた。
えー、ここで着替えを待つということですか。
ごねても仕方がないのは経験上わかっている。
手早く着替えを始めた。

「……通勤には着てくれないんだな」

「私が買うには高級すぎますもの」

病院には従来通りの着古した衣類で出掛けている。
同僚に変に勘ぐられるのも嫌だったのだ。
鷲尾の選ぶ服は、気恥ずかしいが似合っていると思う。
姿見を見ながらワンピースに袖を通す。
鏡に映った鷲尾がこちらを見ていた。
いつから見ていたのだろう。

「うん。
似合う」

鷲尾が立ち上がり、私を抱き締めた。
相変わらず、異性を意識させない抱擁だ。

「俺がここまで肥え太らせた。
俺のもんだ」

ここにもヘンゼルとグレーテルに出てくる魔女が。
私はそんなに痩せほそっていたでしょうかね。
それに、食べさせてくれたのは津田山では。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

二人で住んでいた町から、あまり離れていない所に夫はいた。
ファミレスに姿を表した夫は、無精髭もなくこざっぱりした格好をしていた。
……肥ってる。

あれ。
私達、二人で暮らしてる時って、もしかして欠食児童みたいだったのかな。
目だけがぎらぎらして、痩せほそってたのかな。

「とおる」

夫はそれきり絶句した。
そうよね、私も肥ってるもんね。
絶句するよね。

借金云々とか、収入がないとか、そういうものとは別に、精神的に余裕がない、というのは大きいのかもしれない。

鷲尾が私の隣に座り、夫に椅子を勧めた。
夫は私を見つめたまま、ゆっくり腰かけた。
鷲尾がコーヒーを三人分頼んでくれた。
鷲尾が封筒から一枚の紙を取り出した。
それを広げ、二人に見えるようにした。

それは離婚届だった。

私は目を見開いた。
鷲尾を見ると、恐ろしいほど落ち着いた表情で夫だけを見つめている。

「……そっか」

先に口を開いたのは夫だ。

「とおる、きれいになったもんな。
知り合ったばかりの頃に戻ったみたいだ。
そいつが、お前の新しい男、ってことだ」

「えっ、違」

何か誤解されている。
私が不貞を働いたと思われたくない。

「まあいいよ。
借金はなくなったし、俺も今は一人じゃないし」

「黙れ」

「来月には父親になるし」

「黙ってこれに記入しろ。
そして帰れ」

鷲尾がドスの利いた声で夫に詰め寄る。
私はというと、固まっていた。
そういえば、鷲尾は頑なに書類を見せてくれなかった。
夫も鷲尾の剣幕に恐れをなしてか、震える手で書き込むと黙って立ち上がった。
私はもう夫を見ることはできなかった。

夫も、私になにも云わなかった。

間の抜けたタイミングでコーヒーが届いた。
鷲尾は砂糖とミルクを、私の好みに淹れてこちらへ寄越す。
機械的に受け取り、口に運ぶ。
熱かった。

怖くて訊けなかった。

私の六年間は、無駄だったのかと。

私の愛情は、無駄だったのかと。

「わかってたの。
私達、ままごとみたいなことしてた。
愛だの恋だの、夢みたいなこと云って」

夫が少しずつ変わっていくことを止められなかった。
見て見ぬふりをして、なんとか繋ぎ止めようとしていた。
でも、夫はとっくに、新しい生活を見つけていた。

私だけが、同じところで足踏みしていたんだ。

「どこで見つけたんだろ、新しい人」

「……これであいつとは他人だから、借金の返済義務はなくなった」

私は鷲尾を見た。
私が何年かけてもできなかったことを三ヶ月でしてしまった、優秀な男を。

「私の名前も書かないとね」

「……真面目だな」

「この保証人?はどうしたらいいかな。
多江さん、書いてくれるかな」

「俺も書いてやる」

「お願いします」

なんだか気が抜けてしまった。
鷲尾はコーヒーを三つとも私に飲ませようとした。
私をまだ肥え太らせようと云うのか。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

Honey Ginger

なかな悠桃
恋愛
斉藤花菜は平凡な営業事務。唯一の楽しみは乙ゲーアプリをすること。ある日、仕事を押し付けられ残業中ある行動を隣の席の後輩、上坂耀太に見られてしまい・・・・・・。 ※誤字・脱字など見つけ次第修正します。読み難い点などあると思いますが、ご了承ください。

今日も話さない人形エルフと、

湯神和音
恋愛
 優しく微笑むブロンドの長髪の教師は、穏和な性格で、分かりやすく丁寧な授業をする為、生徒からとても人気のある魔法学園の先生だ。  彼には、精神病に罹った妻が居た。彼は妻と昔の様に生活をする為、日々努力するが、妻は事故に遭い、亡くなってしまう。  妻を亡くして茫然自失となった彼は、裏路地で出会ったエルフの女性に目を奪われ、彼女を購入するが、彼女は全く会話をしようとせず、自分から動こうともしない。正に人形の様なエルフだと思っていたが……?  薄幸なイケおじ×エルフの恋愛小説。  2話までに泣いて、3話から笑って下さい。 ※この作品は小説家になろうにも掲載されています。 https://ncode.syosetu.com/n3259ij/

赤ずきんちゃんと狼獣人の甘々な初夜

真木
ファンタジー
純真な赤ずきんちゃんが狼獣人にみつかって、ぱくっと食べられちゃう、そんな甘々な初夜の物語。

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月

絶体絶命!!天敵天才外科医と一夜限りの過ち犯したら猛烈求愛されちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
絶体絶命!!天敵天才外科医と一夜限りの過ち犯したら猛烈求愛されちゃいました

ドSな彼からの溺愛は蜜の味

鳴宮鶉子
恋愛
ドSな彼からの溺愛は蜜の味

なし崩しの夜

春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。 さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。 彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。 信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。 つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。

処理中です...