青いアネモネ

櫟 真威

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「俺、お前のこと気に入った。
結婚しよう」

「でも私達、まだ学生だよ?」

「学生だからなんだって?
愛はすべてを救うんだぜ」

初めてのキス、初めての抱擁。
歯が浮くような台詞も、なぜか彼には似合った。
永遠の愛は壊れるはずがなかったのだ。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

狭いアパートに人がひしめき合っている。

「とおるさん、これはどうしますか」

「あっ、今箱に詰めます」

鷲尾は引っ越し業者をすぐに手配した。
夫の荷物はほとんど残っていなかったが、置いていくわけにもいかず、すべて箱に詰めた。
段ボール十個くらいしかないことに鷲尾は驚いていた。
引っ越しトラックはすかすかだ。
大家さんは急な引っ越しに怒っていたが、鷲尾が分厚い封筒を渡すと笑顔になっていた。
私は鷲尾が運転する車に乗る。
観音開きのローバーミニだ。
トラックに乗りたかったが仕方がない。

「あの、鷲尾さん」

「どうしました」

「私、家政婦業務は今日からやった方がいいんでしょうか」

家事は得意ではない。
洗濯は洗濯機がしてくれるし、掃除もなんとかなるだろう。
問題は料理だ。
ボルシチとかビーフストロガノフとか難しいのは作れない。

「ボルシチはただの煮込み料理だし、ビーフストロガノフは肉を焼いただけですよ」

「そっそういう意味ではなくて」

「とおるさんて、真面目なんですね」

「真面目というか、お仕事ですし」

鷲尾は運転しながら少し考えている。
私より十くらい上だろうか、落ち着いて見える。
街路樹が風にさやさやと揺れている。
夏には蝉がうるさそうだ。
私の住んでいる町から大分来てしまった。

「それがなんであんな男と結婚したんです」

「え?」

「とおるさんとこの男……なんだかバランスが」

捜索のために預けた写真は学生時代に並んで撮ったもの。
私は弾けるような笑顔をしている。
今のような、くたびれたやせっぽちではなく。

「あの、私、夫が初めてせっ、正式にお付き合いした人なので」

「へえ」

鷲尾はくだけた調子になった。

「自由恋愛の時代に奥ゆかしいこって」

奥手なのは否定しない。
初めての人と結婚するのも、私のこだわりというか、思い込みなところもある。
友人にはよくよく吟味しろと諭された。

「じゃあ、あんたはこの男しか知らないんだ」

「え?
あっ鷲尾さん、あすこの本屋に寄ってくれますか?
料理本買ってきます」

「ほんっと、真面目なこって」

鷲尾はハンドルをくるくると回して車を旋回させた。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ローバーミニは裏の勝手口に当たる門につけた。
今後はここから出入りしていいとのこと。
勝手口の側にグレーのワゴン車と白の軽トラが停まっていた。
ここで働いている人のものだと云う。

「てことはまさか」

「いわゆる家政婦業務を請け負ってる人もいますよ」

鷲尾は面白そうに云う。
私がよほどわかりやすくショックを受けていたのだろう。
あ、でも。

「雑巾がけとか、下働き的なものなら任せてもらえるかもですね。
精進します」

少しでも返済への光明を見い出したい。
余剰人員にも関わらず、住み込みにしてくれた津田山に報いたい。
鷲尾は天を仰ぐと顔に手を当ててローバーミニにもたれかかった。
どうしたのだろうか。

「とおるさん、あんた幾つだ」

「26です」

「その若さと器量を見込まれたとは思わねえのか」

「まさか」

鷲尾は私に抱きついてきた。
私は棒のように立ったままだ。

「なるほど、免疫なさ過ぎだ」

「だって」

離れた鷲尾に私は言い訳する。
自分が美人でないことくらい知っている。

「鷲尾さんからは悪さする意志が感じられませんでした」

入院患者の中には不埒な者もいる。
それらを上手くかわしていかねば看護師としての仕事にならない。 
悪意があるかどうかの判断はできているつもりだ。

「津田山翁はどうするかね」

勝手口に入っていく鷲尾の後を追いかけた。

家政婦業務は還暦近い徳嶋多江、家屋や庭の手入れ等いわゆる男手はその夫の徳嶋健。
そして運転手を勤める鷲尾麟太郎の三人が、主にお屋敷に勤めていた。

徳嶋夫妻は、私を愛人候補だと思っている。
私は慌てて否定した。
津田山に妻子はいなかった。
死別したらしい。
勝手口から入るとすぐに台所があり、脇に小さく急な階段がある。
その上の部屋に私が入ることになった。
徳嶋夫妻は離れを使っているそうだ。
段ボール十個を積み上げても、部屋は余裕の広さだった。

「昔ここには五六人寝起きしてたらしいからな」

もう丁寧な言葉を使わなくなった鷲尾が説明する。
私は奥の押し入れに荷物を入れる。
屋根裏のような天井の形、低くて横に長い窓など、当時を思わせる造りだ。
扉がないのは、呼ばれたらすぐに駆けつけられるように、だろうか。
階段の上がり口から厨房が見えた。
宛がわれた部屋は、ひとりで眠るには広すぎる気がした。
リクルートスーツを脱ぎ、動きやすい格好をしようとした私は、鷲尾の視線に気づいた。

「どどどどうしているんですかっ」

「いきなり脱ぎ出すからびっくりしたわ」

「早く下へ行ってくださいっ」

「もう少し見せてくれても」

「いやっ変態っ」

「自分から脱いだ癖に」

鷲尾は、ぼやきながらも階段を降りていく。
顔だけ覗かせて「せめて新しい下着買えよ」と云った。
私はそこに枕をぶつけた。

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